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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第二章「ルオマ」
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四十四、武術の精髄

 騒々しいざわめきが、今は遥か遠くに聞こえる。視界は急速に色を失い、わずか二間ほどの距離にいた相手が、ひどく遠く、離れたところから何かを語りかけている。


 どちらも英二には聞き取れなかった。極度の緊張に高鳴る鼓動だけが、英二に理解できる音だった。


 ――勝てない。


 英二は再び思った。頭の中で、どんな攻撃を組み立ててみても、あの騎士を降す方法が思いつかなかった。受けに回れば終始圧倒され、可能な限り完璧な精度で攻めに転じてみても人間離れしたあの身体能力を前にすれば児戯と同じ。わずかながらに培ってきた自信が一瞬で無に帰すほど、歴然たる力の差がそこにはあった。


 内藤流に限らず、概して武術とは人間を仮想敵に設定し形作られた技術である。音速を超える斬撃や、一、二間の距離を一足の踏み込みで詰めてしまうような超人の相手は想定していない。


 何が間違っていたかと言えば、そもそもそんな武術の範疇(はんちゅう)に無理やり当てはめて相手の行動を予測していたこと自体が英二の間違いだった。奇抜な構えと初めて対する場合なら意表をつくことも可能だったが、彼の言葉通りヴァルターはすでに一度その構えを見ていたのである。過去の成功に(おご)って攻めの工夫を忘れたことが、英二にとっては何よりの失敗と言えた。


 ――何が武術だ。


 どうしようもない現実に直面した英二は、怒りの矛先を内へ向けた。彼自身を勝ち目のない戦いに臨ませた、自己の能力を過大なものと錯覚させた、その原因に向けた。


 何が内藤流だ。そんなものいくら鍛錬を重ねたって、鍛えに鍛えた膂力の差を埋めることはできないじゃないか。目に留まらないくらいの速さの斬撃には、結局手も足も出ないじゃないか。


 絶望は英二に後ろ向きな思考を止めさせなかった。


 こんなのが相手じゃ、じいちゃんだって、兄ちゃんだって、絶対に敵うはずがない。武術なんて、所詮実戦では何の役にも立たない、無形文化遺産でしかないんだ。


 ――俺は一体、何のために今まで。


 その時、英二はふと脳内に既視感、いや、既思感とでも呼ぶべきものを感じた。


 以前、似たような思いを抱いた記憶が、あった気がする。思っただけではない。英二はその憤懣(ふんまん)を、祖父に直接ぶつけていた。武術なんて身に着けて、いったい何の意味があるのかと、面と向かって尋ねていたのだ。


 ――あれは確か、俺が十歳の年だった。





 運動全般を苦手としていた英二少年が、殊に不得手としていたのは徒競走だった。折りしも武術的な訓練にようやく慣れてきた頃で、武術における正しい体の使い方と、いわゆる運動競技におけるそれとで、大変なギャップを感じていた英二には、腕を振り腿を高く上げて強く速く地面を蹴る、と言うスポーツ的に正しい走り方がどうにも上手く飲み込めなかった。


「足で蹴ったら駄目だよ」

「体を揺らしちゃ駄目だよ」


 稽古の際、祖父にも兄にも幾度となく注意されてきた事柄と矛盾する、武術的には間違った動きで走る学友たちはとても速く見えたし、事実英二よりも遥かに良い記録を出して、あまつさえ女子にモテていた。


 一方で英二は、「女子を含めてクラスで一番足の遅い奴」と言う不名誉な称号を持たされて、少々、もとい、かなり落ち込んでいたのだろう。学校から帰るなり祖父英斎に向かって苛立ちも露わに尋ねた。


「武術なんてやってて、何かの役に立つの?」


 英斎は不意の質問に腕を組み、首を傾げて答えた。


「立たないかも知れないねえ」


 その態度にむっとした英二は重ねて尋ねた。


「じゃあ何でじいちゃんはそんな意味の無いこと続けてるわけよ? むけーぶんかざいだから? 人間こくほーでお金もらえるから?」


 英斎はからからと笑って肯いた。


「それも理由の一つではあるね。人間、食べていくにはお金が必要だし、おじいちゃんのおじいちゃんのそのまたおじいちゃんから受け継いだ、大事な技だからね」


 でもね、と区切って英斎は相変わらず優しい目で孫を見下ろした。


「役に立つかどうかと、意味があるかどうかは、全く別の話だよ、英二。確かに武術はこのご時勢、役に立たないかもしれない。でもおじいちゃんはこれを学ぶことに意味がないとは思ってない」

「意味って何? どこの国の軍隊だって、今時剣や槍振り回して戦うことなんてないのに、その使い方を練習して何の意味があるの?」


 矢継ぎ早の質問に、英斎はうんと肯いて、尋ね返した。


「英二は、五十メートル何秒で走れる?」


 英二はしかめ面を背け、小さな声で答えた。


「……十、三、四秒」

「一番速い友達は?」

「八、九秒、とか?」

「差は五、六秒か。オリンピックでメダルを競うなら、まあ勝負にならないレベルだね」英斎は道場の壁に掛けてある摸造刀を二振り手に取った。「でも自転車に乗れば多分五秒は切るし、バイクや自動車だったらもっと速く走れるだろう。それなのに鍛えて走って百メートル十秒以下のタイムを目指すことは、意味のないことかな?」


「それ、全然違う話だよ、じいちゃん」

「違わないよ」英斎は一振りを腰に差して頭を振った。


「陸上選手は記録と言う自身の定めた意味のために体を鍛える。ある地点からある地点へ、ただ速く移動したいから走っているわけじゃない。僕たち武術家にも同じことが言えるんだ。ただ人を殺めたいなら銃なり爆弾なり使えばいい。少なくとも、おじいちゃんが毎日稽古に励んでいるのは人を斬る練習のためじゃあないよ。もちろん、仕事だからと言う理由だけじゃないことはさっき言ったね」


「じゃあ、何のために?」英二はなおも不満げな顔で尋ねた。


 英斎はもう一振りの模造刀を半ばほどまで抜いて答えた。


「僕はね、武術の意味はソフトウェアの更新にあると思ってるんだ。身体と言うハードウェアをどれだけ高めたところで、人間の能力には限界がある。きっとどれだけ鍛えても、人はチーターより速くは走れないだろうし、レスリングで象や熊に勝つことだってできないだろう。でも、武術における速さ、強さと言うのは、そうした身体性、ハードの性能の良し悪しとは趣を異にしたところにある。身体ではなく、その使い方。脳と言うソフトウェアの質こそが肝要なんだ。武術は、そのソフトウェアの質を向上させることが出来る、唯一無二の方便だと僕は思う」


「武術をやれば、頭が良くなる?」


 英二は首を捻った。祖父の言葉を理解しようと努めていたら、いつの間にか当初の不満は鳴りを潜めていた。


 英斎は模造刀を鞘に納め、にこやかに微笑んで肯いた。


「速く強い身体の動かし方を理解すると言う、その一点においてはね。そして、ソフトを極限までアップデートした先にあるのがハードの強化増強では決して辿り着くことが叶わない領域、古人先達が伝え残そうと研鑽(けんさん)を重ねてきた神速の世界だ。そこに至れば、人は地球上のどんな生物よりも速く、強く、動くことが出来る。もちろん、比喩ではなく」


 一振りの模造刀を手にした英斎は、真っ直ぐ自分を見つめる孫と正対して続けた。


「おじいちゃんはね、そんな古の達人たちが見てきた世界をこの目で見たいがために、日がな一日稽古に励んでいるんだよ。命ある限りいつまでも、極みの見えないアップデート作業を続けていたいから武術をやるんだ。チーターより速く走りたいなら車に乗ればいいし、象や熊を倒したいなら銃を取ればいい。でも、僕が求めているものは、そうした手段の先には無いんだ」


 英二は唇を尖らせて眉根を寄せた。武術の意義はなんとなく分かった。少なくとも祖父には、それを続けるだけの目的があるのだ。そこを否定する気は、英二には無かった。


 しかしそれは祖父の理屈だ。少年は即物的な効果を求めていた。今彼にとって重要なのは如何に上手く剣を扱うかではなく、如何にして五十メートルの距離を速く走り抜けるかなのだった。


 なんとなれば、足の速い男子は注目される。同性には敬われ女子には羨望され、教師からだって一目を置かれる。対していくら剣が速く振れたところで家族以外の誰も褒めてはくれないし見向きされることもないのだ(披露する機会がないのだから当然だが)。それが少年の理屈だった。


「納得いかない? じゃあ少し、実例を見せよう」


 英斎は模造刀を英二に手渡した。腰を落とし、英二の眼前で座構えに取ると、表情を消して告げた。


「抜いてごらん。上段に構えて」


 虚空を眺めるように虚ろな目は、眼前の英二を見上げることも無く中庸(ちゅうよう)に据えられている。


「少し早いけど、もう稽古を始めて五年だ。今日からは武術の精髄、その修行に入ろうか」





 英二は目を見開いた。眼前二間の距離には騎士ヴァルター。周囲の喧騒も次第に聞こえるようになってきた。


「降参、するんだな?」


 ヴァルターの問いに、英二は知らず頭を振っていた。少しずつ鮮明さを取り戻す意識の中で、その言葉の意味を反芻する。


 降参。負けを認めて勝負を辞める。


 いや、いやと、今度こそはっきり首を振る。降参、しないぞ。まだ、終わったわけじゃない。まだ全てを、出し切っていないじゃないか。


「まだ続けるつもりか?」


 ヴァルターは眉根を寄せて再び尋ねた。


「はい。申し訳ないけど、もう少し付き合ってください」


 英二は立ち上がり、衣服に付いた土を払った。浅はかだったと思う。自分程度の未熟な剣が通用しなかったからと言って、武術そのものを否定しようだなんて。こともあろうに祖父や兄の力までをも疑うなんて。二人が聞いていればまたいつもの調子で駄目だよとたしなめていたに違いない。全く自身の狭量(きょうりょう)さには改めて恥じ入る思いだった。


「おい、おい、待てよ」


 声に顔を上げる。騎士ヴァルターは構えもせず、耳を疑うといった表情で英二を見ていた。


「もうけりは着いたろ。テメェの動きには慣れちまった。これ以上やったって万に一つも勝ち目はねえよ。あのお姫さんたちのことなら、心配しなくても」

「ヴァルターさん」英二は流れるような所作で剣を払い、そのままゆっくり鞘に納めた。


「お心遣い、ありがとうございます。ですがまだ、勝負を終えるわけにはいきません。こちらは未だ、全てを見せたわけではないので」


 一瞬で張り詰める空気に、英二は思わず身震いした。険のある声で、ヴァルターは尋ねた。


「本気じゃなかったって?」

「本気でした」


 英二は頭を振った。深い呼吸の間にわずかばかりの躊躇が過ぎるが、結局は思うままに口を滑らせた。


「しかし、あれが全てと思われたら、俺が師に叱られます。ですから恥を忍んで、今一度お付き合い願います」

「上等だよ」


 ヴァルターは肩に乗せていた長剣を下ろした。腰を低く落として、いつもの正眼に構える。

 その間に英二は腰を下ろし、胡坐(あぐら)をかくように座り込んだ。畳んだ左足は尻の下に、前に出した右の膝も軽く曲げて、足裏の外側を地に着けるようにして斜めに立てる。左手は鯉口へ添え、右手を右の膝頭に乗せたところで、不意に口を開いた。


「一つ、謝っておきたいことがありました」

「あ?」

「以前、内籐流目録を名乗りましたが、あれ、自称なんです」


 十四歳の時点で、英二は未だ剣術の目録状を授かっていなかった。剣以外は一応認められていたが、師である祖父が「目録は全て出来る者が初めて称すべき」と頑なに譲らなかったため、公に名乗りを許されていたのは、ただの内藤流のみであった。


 習得に手こずる(多分に部活動の存在が影響している)英二を見かねた兄が「十年も学んでいる宗家の嫡孫がそれでは格好がつかない」と説得にあたり、居合の免許が認められたら大体剣術も目録程度と言う特例が祖父に許されたものの、結局免許の認定試験を受けることなく現在に至っているため、確かに目録を名乗る資格は無いのだった。


「何が言いてえのかよくわからねえが、要するに偽名だったってことか」ヴァルターは興味なさそうに唾を吐いた。「で、それがどうした? 土下座でもしてくれんのか?」


 英二は目を閉じたまま頭を振った。


「いいえ。ただ、急に思い出したので」


 ゆっくりと目蓋を上げる。二間の距離で、低めの正眼に構えるヴァルターの剣先は、ほとんど英二の目の前に突きつけられていたが、それでも英二は表情を変えない。


「ノリで目録を名乗るのは、師に対してもあなたに対しても、礼を失する行為でした。だから今日の勝利を以って、謝罪に代えたいと思います。今日これからあなたに勝って、堂々と内藤流目録を名乗りたいと思います」


 目録も免許も授かる見込みがない今となっては、自己採点だけが自身の技量を測る基準であった。


 あれから二年。稽古もそれなりに重ねてきた。手こずっていた応用型も難なくこなせる。この上必要なものは一つだけだった。これを抜くことが出来たなら、きっと祖父とて英二の目録を認めてくれることだろう。


 ――二年越しの認定試験か。


 それも実戦で、相手は英二のような常人の理解を超えた存在。化け物じみた身体能力を誇る、正に超人だ。


 しかし、今の英二に不安はなかった。化け物だろうが超人だろうが、怖じける必要は何一つ無いのだった。


 なんとなれば、英二は知っているのだ。古の達人たちが持てる技術の全てを費やして実現した消える剣、この世のどんな生き物よりも速い、神速の剣を。


 すぐ目の前に白刃を突きつけられながら、英二は不意に微笑んだ。存在そのものは否定しておきながら、形容詞としては神と言う語を好意的に用いようとする自分が、なんだか可笑しかった。


 ひょっとしたら俺は、自分が思うほど神を憎んではいないのかもしれない。神を憎むことは彼の心の師であるアントニオを憎むことに等しいし、彼のために祈ってくれるルオマ公姫姉妹の気持ちを否定するのと同じである。ただでさえ追い込まれている状況で、これ以上敵を作りたくないと言う気持ちもあった。


 故に英二は心の内で祈った。拍手を打ち、念仏を唱え、十字を切って、ついでに六芒星も切った。どうか、神様、助けてくれとは言わないから、せめて邪魔だけはしないで下さい。


 効果の程は定かではないが、全能の神と言うなら、聞き入れてくれてもいいはずだと英二は思った。


「突然何を言い出すかと思えば、随分でかい口叩くじゃねえか」ヴァルターは剣を軽く振って促した。「とっとと構えろよ。瞬きの間に終わらせてやる」


 苛立ちが全身に表れていた。痙攣する口角に強張る両腕。静かに大地を踏み締める足先は今か今かと駆け出す瞬間を待っている。すぐにでも斬りかかってしまわないのは騎士としての理性故だった。


 対して座構えの英二は、ヴァルターに視線を合わせず、彼我の間にあるたった数歩の中空を見据えて答えた。


「もう構えてます」


 束の間、ヴァルターの緊張が解けた。相手の言葉を理解するのに、しばしの時を要したためだった。


「は?」


 思わず尋ねたヴァルターに、英二は相も変わらず座ったまま、剣の柄に手もかけないまま、無表情で再度答えた。


「構えてますよ。いつでもどうぞ」


 再び奇妙な間が空いた。ややあって、決闘を見守る傭兵達が思わず後ずさってしまうほどの殺気が、じわじわとヴァルターの全身から沸き上がってきた。


「ああ、そうか、そうかい」


 ヴァルターは改めて剣を構え直した。小指から順に、音が聞こえるほどしっかりと柄を握り込む。正しく構えた剣先はおあつらえ向きに座す英二の眉間を指していた。


 英二はその剣先に目も向けず、眉ひとつ動かす気配もない。


 やがて英二の目蓋が、反射的に瞬く。その刹那にヴァルターは疾風となった。


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