四十三、今度こそ
決闘の場には立会人を除いて二人だけが佇んでいた。騎馬を要する試合ではないため、従騎士の立ち入りも許されない。
ヴァルターはディルクから装備の検査を受けながら相手の得物に視線をやっていた。幅の狭い片刃の長剣。それは俗に騎士刀、あるいは単に刀と呼称される刀剣の一種だった。
両刃の剣より軽く安価な反面、耐久性に乏しく実用には向かない。裏刃がないことから忠誠の証(裏切らないの意)として、騎士と知恵の守護聖人たる聖アルテュールが愛用していたと言い伝えられているため、今でも典礼などにおける祭具等で見かける機会は多いが、実戦で、分けても騎士の武器として使用されることは滅多になかった。
聖アルテュール。
その名に引っかかるものを感じて、ヴァルターは人垣の最前で両手を組む少女を流し見た。
――験を担いでるんだとしたら、食えない嬢ちゃんだ。
ヴァルターの危惧は一つの逸話を根拠にしていた。
戦と忠節の守護聖人、聖ジョルジュことジョルジュ・ドゥ・ラ・リヴィエールには生涯でただ一度だけ決闘に敗北した記録が残っている。その聖ジョルジュを敗北させた男こそ、後に彼と同じく六聖人に列せられるアルテュール・ナタン、つまりは聖アルテュールその人なのだ。
――原初の騎士、聖アルテュールの加護を受けた男が、古式ゆかしい騎士刀片手にお姫様の名誉を守る決闘に臨むわけか。
騎士物語なら俺は悪役だな。ヴァルターはつい浮かびそうになる苦笑を隠して長剣の柄頭を撫でた。
元より信心深い種類の人間ではなかったが、験を担ぐと言う意味ではルオマ公姫の策は効果を持たなかった。なんとなれば、ヴァルターはすでに一度負けている。聖ジョルジュとて、二度もの敗北を喫したわけではないのだ。
やがて、両者の武器を検め終えると、立会人は観衆の手前まで退いた。朝焼けに目をすがめながら、大きく息を吸い込んで、声高らかに告げる。
「刻限は日が沈むまで。両者、始め!」
ヴァルターはまた緩みそうになる気を引き締めた。思わぬ僥倖で再戦が叶ったのだ。この上油断などという言い訳は問題の外だった。
――そうだ。今度こそ。
相手と同時に剣を抜き、順当に正眼、彼の流派で言う“農夫”に構える。相手も似たような構えだ。
認めるやヴァルターは音速をも超える突きを放った。
――あ、これは駄目だ。
始めの一瞬で、英二はそう思った。
低めの正眼に構えた。そこまでは確かに見えていた。だが、英二が半歩下がって様子を見ようと考えた刹那、騎士ヴァルターは残像も無しに一瞬で英二の眼前に突きをくれたのだ。後退のために膝を抜いていなければその剣先は英二の眼窩を貫いていたことだろう。
まずいと思って英二はさらに下がる。迅速、かつ冷静に、後ろに送った足に全身の動きを追随させて、二歩、三歩と距離を空ける。
が、ヴァルターはそれを許さなかった。突きからの払い、そして切り上げ。音を切り裂く斬撃が逃げる英二の後を追う。目になど留まらない速さだった。一瞬の間に、三つの動作を繰り出し、さらに間合いを詰めてくる。
少しでも牽制をかけなければ止まってくれそうもない。だが、あの剣に払われれば英二の得物など飴細工と同じように切り落とされてしまうだろう。
幸いなのはいくら速くても次の読みやすい攻撃だと言う点だった。斬撃自体は見えなかったが、攻撃を終えた後の姿勢でその内容は想像出来る。突いて払って斬り上げたと言うことは、次は上げた剣を斬り下ろして腰だめからの突き。
英二は相手の右側に体を滑らせて予想通りの斬り下ろしから辛くも逃れ、次に来るであろう突きをいなすために長剣の柄を押し出した。直線的な突きの力を横からの押し込みで逸らし、相手の体勢を崩そうと言う算段だ。崩れればその隙に剣を打てる。家伝の術理に則った動きだった。
英二の目論見は成功した。ヴァルターは英二の読み通り軽い腰だめから渾身の突きを繰り出していた。伸展し切った両の手の終点に、ほんの少し遅れて英二の突き押しが重なる。ヴァルターの剣先は、横からの抵抗を受けて確かに揺らぎ、続く払いに移る間が、一瞬だけ遅れた。
予定外の結果は英二自身に現れた。突きをいなしたはずの英二は、ヴァルターによる渾身の突きの重みに弾き飛ばされて四間も後方の地面を転がっていたのである。予想だにしない出来事に受身も間に合わず、軽い失神に見舞われた英二に生じた隙はヴァルターの比ではなかった。
英二は咳き込みながらも即座に体を起こした。すぐに追い討ちをかければ勝負は決していたのに、ヴァルターは間合いを詰めていなかった。騎士道と言うやつだろうか。何にせよ英二にとっては命拾いだった。
動き出したら止めようがない。先の先を取らなきゃ駄目なんだった。思い出した英二は期せずして離れた間合いを幸いに、ゆっくりと構えを変えた。
左足を前にして右足を下げる。剣は右肩に乗せるように倒して相手の視界から全身を使って隠す。以前の戦いでは完璧に不意を打てていた。苦手意識だって芽生えているはずだ。
――応用型、叢雲なら。
英二には自信があった。不安があるとすればあの時のように躊躇してしまわないかと言うことだけだった。
英二は深く、静かに、呼吸した。アティファの言葉を思い出す。確かに、今の俺の命は軽くはない。ペペとボリスと、両殿下の命、それから、アティファの思い。全てが乗っているのだとしたら、確かに軽くはないはずだ。
――相手の命よりも?
浮かぶ疑問はひとまず無視する。良心や善性がいつだって自分を助けるわけではないのだ。時に悪事に手を染めようと、生きたい思いを止めなかったから、今の英二は生きているのだ。
生命はすべからく利己のために。
肯定はしかねていたアティファの言葉が、今はとても心強かった。改めて直接、お礼を言いたい。そのために生きなければならない。だから死ねない。今度こそ、斬る。
覚悟を決めて、英二は歩を進めた。
対するヴァルターはさすがに二度目とあってか居着きもせず、剣をやや低めの正眼に構えた。
互いに一歩ずつ距離を詰め、両者の間合いは一間と少し。後半歩で英二にとっては頃合いの間だった。半歩詰めて華風に転じ、揺さぶりをかけ、そこから崩す。稽古の折何度も見てきた祖父の動きをしくじりさえしなければ、勝利は揺るがない。確信に近い思いだった。
英二は左肩を前に入れた。傾く重心を支えるように足裏が大地を滑る。右足が先行し、同時に正中線を基点とした体軸の転換。無防備に晒されていた左半身が右足の踏み込みと共に右半身の後ろへ隠れる。右肩の上に寝ていた剣は右半身を追って斜めの正眼に立ち、左の半身に狙いをつけていたはずの相手は突然消えたこちらと、そして突然現れた太刀に対処できないはずだ。
一つの動作で二つの働き。祖父が見ていれば太鼓判を捺したであろう、叢雲から華風への見事な連係であったが、それでもなお、英二の勝利は決まらなかった。
英二の前進とほとんど時を同じくして、いや、それよりもわずかに早く、仕掛けていたのはヴァルターだった。手を伸ばしたところでとても剣など届かない間合いであったが、ヴァルターは一息に踏み込むと、強引に間合いを詰めて構えを変える途中の英二に肉薄していた。
英二が気づいた時にはもう遅かった。華風が本来迎えるべき相手の間合いより一歩も近く、入り込んだヴァルターは篭手に守られた左手で英二の刃を制し、右の長剣を英二の腋下に押し付けて止めた。
「その技はもう見た」
言うや、ヴァルターは逆手に剣を返して殴りつけるように英二を押しやった。
英二は二、三歩よろめいた後、脱力して尻餅をついた。腰を抜かした、と言っていい。傭兵達が歓呼の、あるいは嘆きの声を上げている。十とか九とかしきりに数字を口にして言い争っているが英二の耳には入らなかった。一瞬だが、布地越しに感じたひやりとした刃触りが、英二に敗北を悟らせていた。
――次元が違う。
英二は思った。勝てるはずがない、と。
「頑張れ! 頑張れ、エイジ!」
必死に叫ぶぺぺの声を、ボリスは眉根を寄せて聞いていた。馬鹿野郎、見て分からねえのか。負け、負け、負けだよ。もう、終わりなんだよ。
絶望する目は、決闘の場に呆ける英二の姿を見ていた。一瞬の攻防の間に何が起きていたのか、ボリスは理解していなかったが、英二の様子だけ見れば結果は予想できた。
「立って、エイジ! 負けないで!」
喉を嗄らして、少女たちも叫んでいた。何を馬鹿なとボリスは思う。あの様を見れば分かるだろうに。立てるわけがねえじゃねえか。
少女たちの訴えは傭兵達の煽りにかき消されて英二の元には届かない。だと言うのにアンジェリカもガブリエッラもペペも、誰も英二への声援を止めない。
止せよ、見苦しい。諦めが悪いぜ。所詮無駄な足掻きだったんだ。どれだけ否定したって俺たち奴隷は、貴族に、騎士に、勝てやしないんだ。
ボリスは胸の奥にちくちくと痛むものを感じていた。我知らず胸を押さえ、収まらない痛みに歯を噛み締める。痛みはボリスが仲間たちを否定するたび大きくなった。圧倒的な騎士の眼前でへたり込む英二を見るたび激しくなった。
勝て。知らず口が動いていた。否定的な心の内とは裏腹に、彼の口は英二に勝利を願っていた。
勝てよ。言葉が小さな音となって口を出る。まだ、終わっちゃいないだろ。
次第にはっきりとした声へと変わって、気づけばボリスも叫んでいた。
「勝てよ、エイジ! 勝って見せろよ!」
胸の痛みは消えなかった。声を限りに叫んでも、ただ激しさを増すばかりだった。
ボリスを苦しめるのは胸中に存在する矛盾だった。英二の勝利を強く願っていながら、同じくらいの強い気持ちで、ボリスは彼の敗北を期待していた。夢なんか見させないでくれ。不幸な奴隷のまま、運命を呪わせてくれ。お前が希望を見せたら、悪いのは理不尽な運命じゃなく、何もできなかった俺自身になっちまう。
相反する二つの感情が、ボリスをいつまでも責め苛んだ。ために、彼の苦痛が消えることは、無いのだった。
ボリスらの位置から決闘の当事者を挟んでちょうど対面に、狂ったような喚声を上げるディノ・ディアスの姿があった。
「やれ! やっちまえ、隊長殿!」
声にも表情にも、催しを楽しもうと言う様子は一切ない。愉快な傭兵達の中にあって、彼だけが一人異質な罵声を発し続けていた。
「殺せ! とっととそいつを、ぶっ殺してくれ!」
彼が声を張り上げるのは全くの私怨からだった。ディノは知っていた。覚えていた。その少年が、少年たちが、南西公領エスパラムはベルガ村で、奴隷として生きていた過去を。
そしてその事実は、とりも直さず彼に教えていた。
奴らこそが、旧主ギョーム・デ・ベルガ様の仇だ。
そうと知れば隊長殿をたきつけない理由はなかった。明らかに二度は殺せる機会があったのに、隊長殿は相手を仕留めなかったのだ。
「どうして止めるんだ! そんな奴、斬っちまってくれよ、隊長殿!」
すぐにでも、今すぐにでも。
飛び出したい思いに身を焦がしながら、隊長殿の勝利を信じて、ディノはその奴隷の死を強く思った。




