四十二、ルオマ公姫の騎士
空位二十一年初夏の十六日の夜が明けていた。翌十七日の早朝は爽やかな風の吹く気持ちの良い朝と言えた。
傭兵隊「エッセンベルクの白狼」は、当初の目標としていた公都リティッツィより、北西に三十里あまり離れた畑地に陣を張っていた。本隊を率いていたディルク・クニツィアはもちろん遅参の叱責を覚悟していたが、合流を果たした彼らの隊長殿から叱りの言葉はなかった。遠路の指揮を労い、布陣を命令して、後は休んでいて良いと、それっきりだった。
「リティッツィのことは大丈夫なんですか?」
不安を覚えたディルクが尋ねると、傭兵隊長ヴァルター・ベレ・フォン・エッセンベルクは雑に手を払い、
「その件はもういい」
答えて煩わしそうに甲冑を脱いだ。説明は全く不足していたが、隊長殿にはそれ以上語る意思がないようだった。
彼らの隊長殿が全軍の方針をあっさりと転換することになったその理由については、程なくその場にいた全ての将兵が知ることとなった。口の軽い小隊長がさらに口の軽い会計役の耳に、事の顛末を面白おかしく聞かせてしまったからだった。
「さあ、張った、張った! さあ、張った!」
エンリコ・カヴァラドッシは声も嗄らさんばかりに叫びながら人垣を縫っていた。両手に担っているのは逆さにひっくり返した鉄兜。鍋のような形は歩兵が用いる安物である。まがりなりにも準騎士に叙されている彼の所有物ではないだろうから、恐らくは得意の口八丁で適当な所から借りてきたものだった。
その鉄兜には銅貨が山と詰め込まれていた。よく見れば背中に負った籠の中にも山のような銅貨が満載されている。
そんな彼の存在に気づいて近寄ってきた男たちに、エンリコはここぞとばかりに舌を回した。
「さあ、さあ、一口銅貨五枚からだ。上限はないぜ。今なら銅貨一枚が銀貨十枚にだって化けるかも知れねえ。張るなら今だ。賭けてねえやつはもういねえか」
「何してんだよ、リコ」
呼び止められてエンリコは止まった。新たな客の存在になお頬を緩ませる。
「おう、クラウス」
クラウス・クラマーは胡散臭げに会計役のいでたちを眺めていた。肌着に汗が滲んでいるのはまじめに陣所の設営に取り組んでいた証左だろう。
エンリコは悪びれる様子もなく両手の兜を掲げた。
「見りゃ分かんだろ、賭けだよ、賭け。数え読みで、十数えるまであいつがもつかどうか」
人垣は円陣を形作るようにして屯していた。中心に生まれた広い空間にはおよそ傭兵の陣所には相応しくない風采の少年たちが肩を寄せ合っている。檻に捕らわれた小鳥のように、所在無く佇んでいるのが賭けの対象だった。題目は無謀にも隊長殿との一騎打ち、決闘だと言う。
「一口銅貨五枚からだぜ。お前、まだだったろ? どっちに張る?」
両手の鉄兜の他に、エンリコは首から皮袋をぶら下げていた。「挑戦者」と殴り書きされた皮袋に銅貨の重みは感じられない。なるほど、この比率なら一口賭ければ千倍の高配当も納得だ。が、この相場ではそもそも賭けが成り立たない。相手が隊長殿では時間制限などあってないようなものだった。
クラウスは眉根を寄せて尋ねた。
「賭けったってお前、配当がなけりゃ意味ねえだろそんなの。誰かが一口大穴に賭けたとして、順当に隊長殿が勝ったら、その銅貨五枚を百人なりで分けるわけだろ? だとしたら、一人頭鉄貨五枚か? いや、胴元に手数料が入るからもっと少ねえな。ガキの小遣いだってもっともらえるだろうに、儲けになんのかそれ?」
「もちろん、今のままじゃさっぱり話にならねえな」当然とエンリコは肯いた。そして両手の指を器用に立てて胸元の皮袋を指差す。
「だからよ、クラウス。一丁張ってみねえか、大穴に」
クラウスは呆れ顔で頭を振った。胴元にとっては配当の多寡はこの際関係ないし、どっちが勝っても構わないのだろう。とにかく参加者が増えれば増えるほど手数料と言う名の見返りが多くなる、せこい商売だった。
と、横を見れば腕を組んで何やら悩ましげに唸っている男がいる。ディルクだ。
「で、お前はさっきから何やってんだ」
問われたディルクはいたって真剣なまなざしでエンリコを見ながら答えた。
「いや、どっちに賭けようかと思って」
「悩む必要あんのか? 素直に隊長殿に賭けりゃあいいだろ。配当が高くても条件が悪過ぎらあ。どぶに捨てるようなもんだぜ。賭けにならねえよ」
クラウスの助言にもディルクは即断しかねるようだった。傾げる首は益々角度を大きくし、仕舞いには上体までもが大きく傾いた。
「う~んでも、十数える間だったら俺でも凌げるかも知れないし、隊長殿のことだから、遊ぶかも知れないだろ」
「なるほど、前半はともかく後半は納得だな」クラウスは顎に手を当てて思案した。「それも含めての賭けってわけだ。そう考えると」
「逆張りもありってか」
言ってエンリコの首から皮袋を取り上げたのはライナーだった。ライナーは皆の見ている前で右手に鷲掴んだ銀貨銅貨を袋の中に落とし入れた。しゃりしゃりと小気味のよい音が鳴る。投じているのは五枚十枚の量ではなかった。
「ライナー、お前」絶句するクラウスに、
「正気かよ」エンリコまでが目を疑う。
いくら最近羽振りが良いと言っても一月分の給金を優に超える額を(クラウス曰く)どぶに捨てておきながら、ライナーは余裕の笑みで皮袋を振って見せた。
「そりゃあお前、大穴に賭けてなんぼだろ、こうゆうのは」と、ディルクの顔を見て思い出したように手を止める。「それよりディルク、隊長殿が呼んでたぜ」
「え、何で?」
「立会人やれって。エティエンヌがいないから、代わりだろ」
隊付きの導師エティエンヌ・ロウは職責上の都合からブリアソーレ逗留を申し出て隊長殿に許されていた。噂に違わぬルオマ女の美貌に鼻の下を伸ばしながら、聖職者としての救済活動も怪しいものだが、主導権が攻囲側にある攻城戦となれば『法術』がなくともそれほどの不都合はない。超過勤務で疲労困憊のヤン・ヴェンツェルらと一緒に今頃は西都で自由を満喫していることだろう。
ライナーは人垣に囲まれた中心をあごで示して続けた。
「急いだほうがいいぜ。何かぴりぴりしてたし」
不意に歓声が上がる。見れば決闘相手の少年たちのもとに彼らの隊長殿が歩み寄るところだった。ライナーの言葉通り、心なしか機嫌の悪そうな隊長殿の表情に、ディルクは思わず駆け出した。
そこへすかさずエンリコが待ったをかける。
「ディルク、賭け賭け、どっちに賭けるんだよ」
「え、ちょ、待て、えっと」
ディルクは慌てて懐に手を突っ込んだ。肌着の内側、下服の物入れ、方々まさぐってみるものの銭入れ巾着が見つからない。出てきたのは銀貨が一枚、それだけだった。
「ディルク、どこだ!」
「はい、隊長殿、ここに」
明らかな怒声が反射的にディルクの背筋を伸ばさせる。ディルクは銀貨を放り投げて踵を返した。
放物線を描いた銀貨が導かれるようにして落着した先を、ディルクは確認しなかった。ディルク・クニツィアは幸運の神の恩寵を受けていたのかもしれない。
結局のところ今回も、彼は選択を過たなかった。
立会人の到着で全ての役者が揃った。
畑を軽く均しただけの急ごしらえの決闘場、その中央に立会人ディルクが立つ。そして彼を挟むように向かい合うのは二人の決闘者だった。
立会人から向かって右側に立つのがエスパラムの正騎士にして傭兵隊「エッセンベルクの白狼」隊長、ヴァルター・ベレ・フォン・エッセンベルク。軽装鎧に身を包み、いつになく真剣な面構えで真っ直ぐに相手を見据えている。
対するは黒髪黒瞳の少年、内藤英二。身の丈一間と四寸ほどの貧乏くさい平服の腰帯に、長短一対の剣を括り付けて、俯いた目は自信なさげに下方を見ている。
そんな調子だから両者の視線が合うことはなかった。ディルクは息の詰まりそうな気まずさに思わず咳を払い、無駄と分かっていながらも形式通りに最後の和解を勧める。
「あー、方々、今一度剣を納めて、手を取り合う心は御座いませんか」
ディルクの問いにヴァルターは「ない」と首を振り、対する英二も一度背後を顧みて「ありません」と答えた。
両者の返答を受けると、ディルクは手を差し伸べて促した。まず向かって右側のヴァルターが跪き、慌てて追うように英二も倣う。
ヴァルターは片膝立ちになって両手を組み、天に向かって声を張った。
「小生、ヴァルター・ベレ・フォン・エッセンベルクは天地神明と聖ジョルジュの名にかけて己が正しきを宣言し、敵なるやつばらの不正虚偽悪行を糾弾する者也!」
歓声が上がる中、ヴァルターは膝立ちのまま剣を抜き、その刃に親指の腹を押し付けて正面の中空に赤い三角を描いた。
ディルクは肯くと、同じように跪く英二に向き直った。作法を心得ていないのだろう。英二は見よう見真似で手を組んで、ヴァルターと同じように宣誓をした。
「小生は内藤、いや、英二、内藤です。神が、もしいるとして、真実を述べている者をお救い下さるというなら、殿下が救われない道理はないはずだと、思います。ど、どうか宜しく、お願いします」
しどろもどろの宣誓は観衆の失笑を誘った。あくまでも厳粛な場である。何とか堪えた傭兵達は噴出さないように口元を押さえてエイジなる少年の挙動を見守った。
と、例に倣って抜刀したその少年は、やはり見よう見真似で指の腹を切り、明後日の方向を向けて必死に三角を切り出した。マナの残滓が輝くこともなく、ただ傷口を振り回して、挙句「どうやってやるんですか、これ?」と立会人に尋ねる様に、とうとう観衆から爆笑が沸き起こる。
決闘を前にした緊張感など皆無だった。隊長殿が自ら興じる見世物に、酒すら呷って見物する者もいる。立会人のディルクにしても笑いを堪えるのに必死だった。
そんな弛み切った空気を良しとしなかったのは、当の隊長殿だった。
「うるせぇぞ!」
取り巻く傭兵達はその一喝で口をつぐんだ。
ヴァルターは眉間に皺を寄せて立ち上がり、なお念を押すように周囲をねめつけた。
「静かにしやがれ。誰の決闘だと思ってんだ」
男達は一転して静まり返った。中には隊長殿の激昂を初めて目の当たりにする者も少なくない。さしもの傭兵達も陽気な気持ちを改めざるを得なかった。
ヴァルターは自身の描いたマナの残滓が消えかけていることに気づいた。対戦相手の少年は満足にマナを放出することも出来ないらしい。未だ血の滴る親指を振り回して立会人のディルクを困惑させている。
此度の決闘はダオステでのものとは違い、神明裁判の意味合いを持っていた。誇りと名誉を懸け、自身の正しさを主張する。勝利は神によりその正当性を認められた何よりの証拠であり、それだけに、神への宣誓が正しく行われないのであれば決闘そのものの正当性が認められないのだった。
古式だが書面に記して済ますか、そう提案しかけたところ、小柄な金髪の二人組みが英二の下へと息せき切って駆けて来た。ルオマ公姫を自称する少女達だ。
「立会人の方、よろしいですか」姉を名乗るアンジェリカは乱れる息を整えながら言った。「その者は私達姉妹の代理として決闘に臨む、私達姉妹の騎士です。ならばその宣誓は、私達が代理を引き受けても別段支障はないはず、ですね」
「ええ、まあ、そうですな」
「ならば剣を、エイジ」
言われるがままに、英二は片刃の長剣を手渡した。受け取ったアンジェリカはそれを両手で捧げ持って告げた。
「叙任を遣わします。跪きなさい」
英二は俯いたままその指示に従った。頑なに顔を上げないのは、何も恐れ多さのためだけではないことに、アンジェリカは気づいていた。気づいて少しだけ、腹を立てていた。
「お互い、酷い格好ね、エイジ」震える唇を精一杯に笑ませて、アンジェリカは言った。
「髪を切られて、ぼろを着させられて、顔に泥を塗って、何だか分からないものを食べさせられて。あちこち歩かされたおかげで、手も足も傷だらけ。湯浴みだって、もう何日もしていないわ。これじゃあいくら私達がルオマ公の娘だと言っても、到底信じてもらえないわね。だって本当に酷い格好ですもの」
英二は依然顔を伏せたまま、膝頭に乗せた手を強く握り締めていた。責められるとでも思っているのかしら。心の内で意地悪く微笑みながら、アンジェリカは続けた。
「あなた達と出会ってからは、本当に、過酷な日々を強いられました。今まで生きてきた中で、これより辛い経験はありません。出来ることなら、これを最後にしてもらいたいと、そのように思っています。だから」
アンジェリカは、そのか細い腕にとっては大変に重量のある長剣を持ち上げた。不安定に揺れる剣の柄を、傍らから妹のガブリエッラが支える。二人の少女はお互いに手を添え合って、その片刃剣の鎬地をゆっくりと英二の右肩に乗せた。
「エイジ・ナイトー、ルオマ公姫の騎士。私達に勝利を約束なさい。ルオマ公姫の名を騙っているなどと言って私達を侮辱するあの無礼者を、懲らしめておやりなさい」
その言葉を耳にして、英二はようやく顔を上げた。彼の目に映るのは慈愛すらも含んだ少女達の微笑だった。
責めるはずがない。責められるはずがない。出自が何だと言うの。酷い目に遭ったからどうだと言うの。泣かされたことは少しだけ、ほんの少しだけ根に持ってもいるけれど、でも、彼らが救い出してくれなければ、今頃はきっと生きてすらいなかったのに、そんな瑣末なことを責めるわけがないじゃない。
アンジェリカの目に滲むのは、鈍感な少年が勝手に抱いた自責の念に対する抗議だった。
その気持ちの程がどれだけ理解できたのか定かではないが、少なくともこれから決闘に臨もうと言う英二の迷いを一つ払ったことは確かだった。
英二はどもりながらも、
「努力します」
と答えて頭を垂れた。
必ずやと明言しないところがいかにもエイジらしい。姉妹は顔を見合わせて苦笑し、長剣の鎬地で左肩を叩いて叙任の儀を終えた。
アンジェリカは大きく息を吸い、ゆっくり吐き出すと長剣の刃に親指の腹を押し付けた。滲む痛みを堪えながら、決闘者たるヴァルターを見据えて宣言した。
「私、アンジェリカ・ディ・ルオマと、妹、ガブリエッラ・ディ・ルオマは、嘘も偽りもなく真実ルオマ公家の血を引き継ぐ者です。聖六芒星と、そして、聖アルテュールの名にかけて、エスパラム正騎士ヴァルター・ベレ・フォン・エッセンベルクの不正を糾弾いたします!」
アンジェリカは力強い身振りで中空に大きな逆三角形を描いた。赤い軌跡が輝きを放って、ヴァルターの眼前に突きつけられる。
「上等だ」
ヴァルターは改めて血の滲んだ親指を突き出すとその上に重なるようにして大きな赤い三角形を描いた。そうして描かれた六芒星は一瞬の閃光と共に弾けて消えた。
聖六芒星の神は、この決闘を承認したのだ。




