五、魔人-1
聖教会経典、列王記の第二章にはこうある。
『南の地より災禍来る。髪も目も肌も日の昇らぬ天に似て、その様いと面妖なり。人語を解さず、名を持たず、大鎌を振るいて人を襲う。姿形は人なれど、情けも慈悲も神も知らぬ。首を断ちても命を断てず、人にあらざるその名を魔人とす』
前触れもなく人里に現れ、殺戮を繰り返して消えていく。それは、殊に南部において頻発する自然災害の一種だった。全身を灰色一色で装い、怖じず、猛らず、ただ淡々と手にした鎌を振るって人間の首を刎ねる彼ら異形の集団を、人々は古の昔から魔人と呼び恐れた。
いまだかつて魔人の出現に法則性を見出せたものはいなかった。五十年現れなかったと思えば、七日おきにやって来ることもある。いつだって彼らは突然現れ、人間は一方的に命を奪われた。最後に現れたのは十五年前。導師アントニオがこの村に来て間もなくのことだった。
十五年という間隔が幸であるか不幸であるかは個々人の価値観によるだろう。在任三年足らずの領主ギョームとその実弟ジョエル・ドゥ・パテーにとって、それは明らかに不幸な数字だった。
分けても不幸なのは、たまたま女の家で一夜を過ごし、堅固な屋敷に逃げ遅れたジョエルである。
救助を懇願するために屋敷を囲む群衆を蹴散らし、幅五間はある水掘りを挟んでようやっと帰宅を告げるジョエルの言葉を、上がりっぱなしの跳ね橋は頑として聞き入れなかった。
当然といえば当然の対応である。贅を凝らした大邸宅も、逃げ遅れ群がる村人全てを受け入れられるほど大きくはない。狂騒する群衆の前に一度跳ね橋を下ろしてしまえば、ジョエルだけを選んで保護することなどできないのだ。そのまま事態の収拾に手間取れば、せっかく拵えた水掘りも石塁も無用の長物と化してしまう。
返事の代わりに邸内から投げ出されたのは数本の剣と槍と具足の一式だった。ご丁寧にジョエル愛用の大斧と家紋入りの陣羽織まで添えられ、羽織に縫い付けられた羊皮紙にはなにやら一筆が書き付けられている。公用語ではないためジョエルには解読できなかったが、貴族ならば、それの意味するところは明白だった。
似たような書状を戦場で幾度となく目にした事があった。おそらくこれは、中隊以上を指揮する者への委任状だった。公用語ではないため内容は判別できなかったが名前だけならジョエルにも読み解くことができる。末尾に付されたのはジョエル・ドゥ・パテーの名に相違ない。
「兄貴め、俺を――!」
守るべき民も領地も持ったことのない次男坊だが、ジョエルとて貴族の端くれである。だからこそ兄の言わんとしている事も理解できた。
しかし、理解はできても感情は追いつかなかった。ジョエルは兄の態度に激しく憤った。
初陣から十余年。片時も離れることなく、常に苦楽をともにしてきた。謀反を企てた咎で父祖伝来の土地を追われ、家名を失い女房にも家来にも見捨てられ、それでも兄弟二人、支え合って手柄を立てた。流浪の末の新天地で拝領したこの村は、旧領に比べれば赤子の爪にも等しいド田舎だが、ようやく手にした俺たち二人の領地だ。兄にとって弟は、弟にとって兄は、決して欠けることのない唯一つの至宝ではないのか。兄貴は――
「俺を見捨てるのか! 血を分けたこの弟を!」
ジョエルの叫びが響き渡る。跳ね橋はやはり下りてこなかった。
怒りに任せた戦斧が地面をえぐる。穿たれた大地に亀裂が走り、続くジョエルの咆哮は群衆の混乱を一時的に収めた。
その瞬間、中央通で悲鳴が上がる。死を運ぶ風が、とうとうベルガ村を駆け抜けようとしていた。再び巻き起こる狂騒を一喝し、ジョエルは大斧の柄を地面に突き刺した。
「うろたえるな! 女子供は今すぐ村を出て北に逃げろ。丸一日も歩けばリポルに着く。それまで決して足を止めるなよ。子供が泣いても置いていくか抱えるかして逃げ続けるんだ。命が惜しければな」
片手で大斧を振り回し、次いでジョエルは怒らせた目で男たちを見た。
「野郎どもと奴隷はそこの武器を持って俺に続け。魔人を迎え撃つぞ!」
こうなれば最早戦うよりほかに道はない。ジョエルは怒りを闘志に変えて得物を天へと掲げた。
いささかも臆さないジョエルの姿に、逃げ遅れた人々は不思議と落ち着きを取り戻していた。平時暴虐な領主弟も、こんな時ばかりは頼りになるものだ。領主兄弟が戦場で名を上げたことは周知の事実である。この筋骨隆々の偉丈夫なら、魔人くらい軽く片付けてくれるかもしれない。「おう」と応える鬨の声は、いずれも若い貴族たちから発せられるものだった。安堵に笑みをこぼすのは、いずれも十五年前は居合わせた馬車に飛び乗って難を逃れた者たちである。
鎧に身を包んだジョエルを先頭にして、男たちは未だ悲鳴の絶えない辻へ駆けた。
すぐ目の前で人が死んでいく様を見たのは初めてだった。
名前も知らない農民の家族だ。両親に手を引かれ、足をもつれさせた幼子が、背後から一振りで命を落とした。錯乱した母親が、危うい足取りで道を転がるわが子の頭を追いかけ、抱き上げる前に自身の首を飛ばされた。何もかもを失った父親は、愛する家族の亡骸に背を向けて駆け出したところを横合いからの一閃で命までをも失った。
現実のものとは思えない光景だった。叫ぶ間もなく殺されるのだから、辺りは奇妙なほど静かだ。喧騒は、通りを一つ二つ隔てた遠くから聞こえる。そんなところがまた、現実感を遠ざけた。
「固まって逃げるなー! 魔人は人が多いところに集まるぞー!」
導師の怒声が飛びかけた英二の意識を何とかつなぎとめる。夢ではない。今そこで、いとも容易く三人の命が奪われたのだ。
「しっかりしろ、エイジ! もう、ここらに人はいないか?」
アントニオに強く肩を揺すぶられて、英二は何とか現実に戻った。
「はい。もう、いません」
英二の指す先に三つの亡骸を見て、アントニオは素早く六芒星を切る。
「エイジ、もう十分だ。君は先に逃げなさい」
「アントニオは、どうするんです? 一人で置いて行くなんて」
その時、不意に上がった悲鳴に緊張が走った。見ると若い娘が二体の魔人に追いかけられて、今にも首を刈られようとしている。短い髪に袖のない衣服は奴隷のチキータに相違ない。つまずいたチキータの頭上には灰色の鎌が高々と掲げられた。
瞬間、二人は駆け出した。まずは英二が下手投げからの石つぶてで相手の注意をこちらへ向ける。頭部を直撃した石に効果はなかったが、続けて投げたもう一つが振りかぶる鎌の刀身に当たり、わずかに隙を作った。
すかさずアントニオが呪文を唱え、念じる。
「大地のマナよ、わが怒りに応えてその身を裂き給え!」
途端、石敷きの路地に亀裂が走り、二体の魔人は大地の裂け目に下半身を飲み込まれた。
チキータの手をとり、三人は止まらず走り抜ける。この程度ではそう長く時間は稼げない。手ごろな家屋に飛び込んで木戸を閉め、卓やら椅子やらで出入り口を塞いだところで、ようやく息をついた。
「何してんの、チキータ。早く逃げろって、言っただろ」
息も絶え絶えの問いに、チキータも短髪を左右に振ってなんとか意思を表示する。搾り出した返事は導師に向けられた。
「お坊様、お願いです。母さん、あたしの母さんを、助けてください」
突然の訴えに、導師と英二は顔を見合わせた。潤んだ瞳で、チキータの必死の懇願はなおも止まらない。
「母さん、目が悪いから、リポルまでなんてとても歩けないって、……まだ長屋にいるんです。他にも、足の悪い人や、年寄りもみんな、どこへも行けずに、今も長屋に」
「長屋には、他にも人が?」
「十人、くらい」
アントニオは目を閉じ、眉間に皺を寄せて大きく息を吐いた。とうとうチキータの瞳から大粒の涙がこぼれる。自分の足で逃げられない者が十人、それも外れにある奴隷長屋まで魔人がはびこる村の中を突破していかなければならない。
これは試練だった。彼らを見捨てれば、自分を含めて今いる三人は魔人から逃れることができるだろう。しかしそれは六芒星の教義に反する行為だ。分け隔てることなく生命を敬うことこそ、最も尊い聖職者としてのあり方なのだと、経典は教えているのだから。
運命は彼らを待ってはくれなかった。死神の鎌が木戸を突き破って二本、三本とその刃を覗かせる。表には魔人が四体、彼らの立て篭もる家に押し寄せていた。
アントニオは選択を迫られた。人として生きるか、聖職者として生きるか。悩む間に、みしみしと軋む音を立てて、魔人の鎌がついに木戸に大きな穴を開ける。
「アントニオ、俺はあなたを信じます」英二は吊り棚から調理用の短剣を拝借し、腰布に差した。迷いのないまっすぐな眼差しでアントニオを見つめる。
英二の言葉が背中を押した。答えはすでに出ていた。ただ、決断を下せなかっただけなのだ。
「私に付き合わなくてもいいんだぞ、エイジ」
「人を助くる者を助けよ、でしょ」
英二が言うのは経典に記された聖句の一つだ。
『汝善也と欲せば能く人を助けよ。人を助くる者を助ける事甚だ善也』
これは相互扶助を勧める意味の言葉だが、無論英二は善意だけでアントニオを助けようとしているわけではない。一人で逃げようにも、英二は村の中心から北の区画にはほとんど立ち入ったことがなかった。数多魔人が闊歩する村の中を潜り抜けるのと、魔人に対抗できる導師に伴って村を脱出するのとでは、どちらのほうがより安全かを考えた末、英二は後者を選んだのだ。
決して冷静な判断ではなく、感情によるところも大きいが、英二は己の決断を疑わなかった。
アントニオは一つうなずき、土壁に手を当てた。英二の姿勢に勇気が湧く。恐れることはない。神の意思に従おう。人が正しいことを為す時、神はきっと、それを助けてくれるはずなのだから。
「土のマナよ、わが願いに応えてその身を砂へと変じ給え」
淡い輝きが室内を包んだ。アントニオの手が、触れた土壁の粘度を下げる。さらさらと音を立てて、崩れ落ちる壁は見る見るうちに砂へと変わっていた。
直後、木戸に開いた穴から体を捻じ込み、魔人たちが飛び込んでくる。狭い室内、振りかぶった大鎌がまだ硬い土の状態を保っている壁に当たって勢いを削がれた。
「二人とも、ここから外へ!」
英二とチキータが砂の壁を突き破って脱出する。続いてアントニオが飛び出し、その背中を追いかけるように鎌が一振り空を切る。アントニオはすかさず地面に手をついて念じた。
「大地のマナよ、わが願いに応えて堅牢なる壁を築き給え!」
発光する掌の直下、土色の壁がせり上がり、山となって家に開いた穴を塞いだ。
魔人たちの振るう鎌が、壁の向こうで虚しい音を響かせる。この分厚い壁を彼らの鎌で掘削するのは骨だろう。非効率に気づいた魔人たちが家から飛び出し、通りを迂回して迫ってくる足音が聞こえる。
滴る汗を手の甲でぬぐい、アントニオは立ち上がった。
「一度分かれて長屋で落ち合おう。もし途中で魔人に襲われてたどり着けそうもなかったら、その時は残った人たちのことは諦めて逃げなさい。君のお母さんだって、そう望むはずだ」
涙をこらえてうなずくと、同時にチキータは駆け出した。なんとしても母の元へ、最短の道を通って長屋を目指す。諦める気など毛頭ない。母は彼女に残された唯一の家族なのだから。
荒く息を吐くアントニオの背中を見やり、英二も遅れて走り出した。共に行くべきだったろうか。しかし、自分がいることでかえってアントニオの足を引っ張ってしまうかもしれない。
胸中の不安をかき消すように、英二は路地を駆け抜けた。
十五年の歳月は、人を増長させるのに十分な時間だった。
まずは年若く血気盛んな貴族たちが、魔人の振るう大鎌を受けようとして得物もろとも首を飛ばされた。その様子を後から見ていた即席の民兵は恐怖に足をもつれさせ、砕けた腰で地を這う最中に軽く一振りで首を落とされる。全員で、稼いだ時間は百を数えるほどもなかった。
死の軍団は止まることなく進み続ける。挙げた首級にも、そして首のない骸にも興味はないのか、折り重なって道をふさぐ死体を踏みならしながら。
孤軍奮闘のジョエルは、三人目の魔人を薙ぎ倒したところで自身の認識の甘さを痛感した。
腰と胴とが分断された灰色の人形は、涙も悲鳴も血も臓物も漏らさず、通りの路地に倒れ伏す。
唯の人ならそれで終わっていた。しかし、魔人が人と同じなのは、その見た目だけだった。
しばしの間動きを止めたかと思うと、やがて彼らは再び動き始めた。分たれた胴が、切り離された下半身を捜すように身をよじり、腰から下もそれに呼応して足をばたつかせる。二つは互いに引かれ合い、切断面を合わせて、一呼吸もすれば何事もなかったように立ち上がった。変わらぬ無表情。虚空を見つめる双眸に苦痛の色はない。先ほど自身を両断したジョエルに対して、ほんのわずかも臆することなく向かってくる。
頬をかすめる大鎌に冷や汗し、堪らずジョエルは後退した。傷は負ったが視界を広く保つために兜をつけなかったのは正解だったらしい。気づけば回りは魔人で溢れかえっている。彼がたきつけた即席の部隊は一考の余地もなく全滅だった。
窓に足をかけ屋根の上へと飛び上がる。見下ろせば魔人は逃げるジョエルには目もくれず辻のあちこちへ分かれていく。その先には蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う奴隷たちがいた。
元より戦意の低い奴隷たちは魔人と貴族との最初の接触を見た瞬間、撤退の意志を固めていた。囮となる民兵たちが存外早く全滅してしまったので逃げ遅れたのである。
ぎり、と歯をかみ締め、ジョエルは怒りに総身を震わせた。卑しき奴隷に分かろうはずもないが、敵と刃を交えることもなく命惜しさに戦場を脱しようなど、武人ジョエルにとって許されざる悪である。殊に此度は奴隷たちが逃げる間に多くの貴族が命を落としている。彼ら若き貴族の命が、奴隷ごときを生きながらえさせるために消えていったのだ。
ジョエルの怒りは貴族の尊厳に泥を塗られた怒りだった。ジョエルは自分が死なせてしまった全ての貴族のために怒号を発した。
「待て! 逃げるな奴隷ども!」
屋根の上を駆け魔人の群れを追い越し、逃げる奴隷たちの、中でも一番数が多い集団の前に着地して道を塞ぐ。
「戦え! 逃亡はこの俺が許さん!」
薙いだ戦斧が鼻先をかすめ、奴隷たちはすぐさま下がった。そうする間にも背後からは死の足音が迫っている。先頭にいたフェデリコは、珍しく余裕のない表情で訴えた。
「勘弁してくれ若大将。さっきの見たろ? どう頑張ったって俺たちに勝ち目なんかねぇぜ。あんなのに挑んで無駄に命を落としたとあっちゃあ、そいつは領主様にとっての損失だ。俺たち奴隷の命は俺たちが勝手にどうこうしていいものじゃない。領主ギョーム・デ・ベルガ様のために使われるべきだ。え、そうだろ、ジョエルの大将?」
「黙れ!」
振り下ろした戦斧が路地を砕く。怪力に大地が揺れ、フェデリコは思わず尻餅をついた。
「奴隷風情が、馴れ馴れしく俺の名を呼ぶんじゃねぇ。テメェらごときの価値のない命でも、せめて人様の役に立ってみせろ。主のために殉じるくらい犬畜生にもできることだ」
「だ、だから、ここで死んだら領主様のためにならないって」
フェデリコの言い訳をかき消すように、背後で悲鳴が上がった。ジョエルは目を怒らせたまま得物を肩に担ぎ上げる。端から交渉の余地はなかった。感情のジョエルにフェデリコの理屈は届かない。まして、それが奴隷の言葉ならなおのことだ。
フェデリコのすぐ後ろで鈍い音がした。暖かい何かが手に当たる。振り返ってみればそれは共に逃げようと声をかけた友人だった。死の恐怖に怯え、引きつった顔だけが、開いた瞳孔でフェデリコを見つめている。
不意に陽を遮られ、見上げるとそこに立っていたのは友人と同じく光のない二つの眼だった。瞬きをしない灰色の瞳の中に、フェデリコは自身の死を見た。
「うわああぁあぁぁー!」
絶叫するフェデリコは地面を泳ぐように突進した。直後背中に一閃、焼けるような痛みが走る。魔人の初撃は彼の首を落とすことに失敗したようだ。
しかし、後門の狼から逃げたところで前門には虎がいる。がむしゃらに突っ込んでくるフェデリコを、その背後の魔人もろとも切り倒さんとジョエルが大斧を振りかぶった。
大木をも薙ぎ倒すジョエルの一撃。渾身の力でそれを振りぬこうとする刹那、横合いから投げ込まれた大樽がジョエルの眼前に迫った。
反射的に斧の軌道を変える。肘を畳んで、ジョエルは素早く樽を叩き落した。
ばらばらになった木片が周囲に飛び散ると、同時に襲ってきたのは違和感だった。一瞬遅れて激痛。鎖骨の内側に突き立てられた短剣から血が噴き出す。
「へッ、そんなに死にたきゃ一人で死ねよ」
「なん……だッ!」
覆いかぶさるように剣を突き刺す狼藉者を、体を捻って振り払う。不埒な奴隷は土壁にしたたか体を打ちつけながらも口角を上げた。
「ッ、上出来だ、ペペ。ずらかるぞ」
「お、のれ……奴隷の、分際でぇッ!」
痛みに耐えかねて片膝を着くジョエルの脇を、恐慌したフェデリコが駆け抜ける。迫る大鎌をすんでのところでかわし、すぐさまボリスも駆け出す。
「あばよ、貴族様。お大事に」
「ま、待ってくれよ兄貴~」
通りの反対側から大樽を投げつけたペペも一足遅れて後に続いた。
一人残されたジョエルは、痛みでゆがむ視界に死神の葬列を見た。灰色の羽織に灰色の鎌。光のない死者のような瞳が見つめるのは、死に瀕しているジョエルではなく、もっと多くの死だ。今この瞬間ジョエルは、誰よりも命を惜しみ、死を恐れた。恐怖に駆られ、死を恐れて震える不様を、誰にも見られることなく死ねるのは、ジョエルにとっては幸いだったかもしれない。
走るボリスとぺぺの後方で、鉄の鳴る音がした。巨大な戦斧が土ぼこりをあげて地に転がったのだ。振り返る間も惜しんで、ボリスはくねくねと脇道を逃げ続ける。
「待ってくれぇ、置いて行かないでくれよぉ、兄貴ぃー!」
不安にあえぎながらペペは必死にボリスを追った。いつの間にかフェデリコを見失っている。この上、ボリスともはぐれてしまったらと、ペペは死に物狂いだった。
一方ボリスは対照的だった。誰が忘れたのか道に転がる革靴を蹴飛ばし、軒先にあったトカゲの干物を引っつかんで口に放り込み、糞溜の木桶をぶちまけての強烈な便臭に、なお笑みを絶やさない。
「ちんたらするな。もうすぐだぜ!」
ボリスの目には、小汚い隘路に自由が見えていた。ここを抜け、村を出て、そうすれば俺たちは自由なのだ。平民が何だ。貴族がどうした。魔人の前には誰もが平等じゃないか。
ボリスは魔人に感謝していた。明るい未来も、救いの希望も、一度として信じたことのない人生だったが、ボリスは今、強烈に神の存在を感じていた。
脇道を抜け、市場を横切り、再び狭い裏道を通って職人町へ。なめし屋の表で見つけた荷車を拝借し、途中三度ほど魔人を見かけたが、なんとか捕捉されることなくやり過ごして、英二は奴隷区に到着した。
長屋では一番乗りのチキータが残留者を一箇所に集めて事情を説明しているところだった。十人くらいという話だったが、乳児も含めればざっと倍の二十人はいる。
「チキータ、導師は」
「まだ来てない」
英二は引いてきた荷車の把手を下ろして嘆息した。
「何かあったのか、アントニオ」
寄り道をした分、自分が一番遅くなると踏んでいた英二の脳裏には嫌な仮説しか浮かんでこなかった。静まり返った村が英二の不安をさらに掻き立てる。あるいは導師も、あの農民一家のように叫ぶことすらできずに殺されているのかもしれない。中央通りの辺りで盛んに上がっていた気勢も、今やぱったりと絶えて久しい。
探しに行こうか。でも、もし入れ違いになったら。
焦燥に駆られた英二が進退を決めあぐねていると、ちょうどアントニオがやって来た。
「すまない。遅れてしまった」
その足取りはふらふらとしていて、長屋の柱に身を預けながらなんとか体を支えている様は見るからに頼りない。
「アントニオ、魔人ですか? どこか怪我を」倒れこみそうなアントニオに駆け寄って、英二はすぐさま肩を貸す。
「ああ、なんとか撒いたよ。怪我はない。その荷車は君が」
「はい。これなら体の不自由な人も運べるんじゃないかと思って」
「素晴らしい機転だ。知恵の神イデアに感謝の祈りを捧げなければな」
額といわずうなじといわず、体中から滝のように汗を噴出し、荒く息を吐いて微笑む顔は、やはり疲労を隠せない。年齢のことも当然あるが、それ以上に慣れない『魔法』の乱発がアントニオを蝕んでいた。
自然の力に干渉する『魔法』は、アントニオら導師が得意としている生命に干渉する力、『法術』とは理を異にする技術である。剣と弓とが違うように、共にマナを媒体とする力であっても、この二つの力は扱う上での方法や訓練が大きく異なる。アントニオのように『法術』しか扱えない人間が無理をして『魔法』による奇跡を起こそうと思えば、非効率なマナの消費は免れ得ない。
マナ、即ち生命力の消費は、起こす奇跡の大きさに比例して大きくなる。大地に亀裂をいれ、土を砂に変え、壁に変えたアントニオの疲労は徹夜の疲れも相まって甚大なものとなっていた。
にもかかわらずアントニオは、息を整える間も惜しんで長老ルシオに向き直った。
「ルシオ翁、しばらく」
「坊さま、わざわざ足を運んでいただいて申し訳ない」
「すぐに、逃げましょう。そこまで魔人が来ている。ここに留まっていては危険だ」
「支度はもう済んでるよ。身重と子連れの女を頼む。孤児も、できれば。なんとか無事に逃がしてやってくれ」
ルシオに促され妊婦が二人と赤子を抱いた女が三人、導師に頭を下げた。年のころ十もいかない子供四人もそれに倣う。他の者たちは慌てる風もなく地べたに座って空を見上げている。組んだ手を額に押し付け必死に祈りを捧げている老婆も、長屋の柱に背を預けて呆けた様子の不具者も、皆一様に立ち上がる気配はなかった。
「翁、あなた方も逃げるのです、共に」
「老い先短い命だ。惜しむ気はないさ。それに」
「この体じゃあ、ついてったって足手まといだからね」
ルシオの言葉を継いだのはチキータの母、チャロだ。傷跡の残る閉じた目蓋を導師に向けると、微笑して頭を下げた。
「娘をよろしくお願いします、坊さま。チキータ、皆を頼むよ」
「そんな、母さんも、一緒に」
「わがまま言うんじゃないよ」チャロはすがりつく娘の手を解き、強く抱きしめた。
「あんたみたいな娘を持って、あたしは幸せさ。母さんの分まで精一杯生きるんだよ」
「いやだ、……母さん」
くぐもった嗚咽に、アントニオは顔を伏せた。可能な限り一人でも多くを救いたい。しかし、具体的に何人までが可能な範囲か、アントニオには判断できなかった。体調は最悪で疲労は優に限界を超えている。最早己の足で立つことすらも難儀しているというのに、ここにいる全ての人を連れて逃げるなど不可能というもの。未来ある者だけを優先するのは差別に他ならないが、ルシオとチャロの提案は現実を見ている。
無力を嘆いている暇はない。できることをするしかないのだ。
アントニオは長老に目礼し、六芒星を切った。
「皆に祝福のあらんことを」
疲れきったアントニオを気づかって、移乗作業は英二が請け負った。少しでも座り心地がましになるようにと荷車に藁を敷き、妊婦と赤子を先に乗せる。詰めて座ればあと一人か二人は乗れるだろう。母親三人は交代で歩いてもらうことになるか、と導師が渋面に汗を滲ませていると、英二は未だ別れを惜しむチャロ母子に言った。
「さあ、チャロ、乗ってください。時間が惜しい」
「クチナシ、あんた人の話を聞いてなかったのかい。あたしは」
「あなたこそ。ルシオがさっき言ったじゃないですか。身重と子連れの女を頼むって。あなたは子連れだ」
母の胸に顔をうずめていたチキータが面を上げた。涙の滲む瞳がぱっちりと開かれ、呆けた顔で英二を見る。
同意を求めるように、英二はアントニオとルシオをうかがった。ルシオに視線で問われ、アントニオが首肯した。
「クチナシの言うとおりだな、チャロ。お前さんも逃げなさい。子供を悲しませてやるな」
「……ルシオ」
異議を挟むものはいなかった。導師はそれを母子の愛に感化された奴隷たちの美しい絆だと思っていたが、実際彼らを支配しているのは諦念だった。ここから逃げたところで、魔人から逃げられたところで、彼らの人生に希望はない。なればこそこの唐突な死も詮無きことと受け入れられるのだ。せめて死後の世界では救われたいと、彼らはただ祈り続けた。
聖六芒星の経典は生ある限り生きよと説いた。また、死は万物に与えられた平等であるとも。生きるために足掻くことが神の示す道ならば、死を受け入れ座して待つことも神の説く教えである。アントニオは彼らの生き様を美しいと思った。例え器に貴賎があっても魂に貴賎はない。神が彼らを救わぬことはないのだと、アントニオは思った。
区界から響く足音に、一同はいよいよ身構えた。六、七人ほどの歩調に乱れはなく、まっすぐこの長屋に近づいてきているのがわかる。
「皆、早くチャロを乗せて! チキータはこっちで手伝ってくれ!」
英二の指示でチャロと孤児四人が荷車に乗る。チキータと二人、把手を持って英二は荷車を押し出した。
「っく、そ……!」
全員合わせて五十貫は軽く超える、かなりの重量だ。それでも、導師と荷車に乗れない女三人が後ろから押すことで、なんとか車は進みだした。
「達者でな」
ルシオの声が英二の後ろ髪を引いた。何かと世話を焼いてくれる老人だった。言葉をしゃべれなかった英二に身振り手振りで仕事を教えてくれたのも彼だった。朝課の説法で遅れた英二のために食べ物を取り置いてくれることも度々だった。近過ぎず、しかし突き放したりはしない。ルシオは道場以外で会う時の祖父に似ていた。仕方ないからと別れるには、割り切れない思いが荷車を余計に重くした。
「走れ、エイジ!」
英二は夢中で走った。足を、体を、動かしていなければ、泣き崩れてしまいそうだった。徐々に離れていく長屋からは悲鳴の一つも聞こえない。静かに祈りをささげる奴隷たちの命の気配は一つ、また一つと消えていく。達者でと、ルシオは言った。英二はせめて泣くまいと歯を食いしばって地面を蹴った。
木柵を体当たりで突破し、勢いそのまま城壁建設予定地に出る。やや開けた空間を直進し、危うく空堀に落下するところだったがなんとか踏みとどまって、堀沿いに右折。目指すは北の通用橋だ。荷車を引いて空堀を越えられるのは村の南北にあるその橋だけである。距離で考えれば断然南のほうが近いが、災禍のやって来たのと同じ方角に足を進める勇気は、その場にいる誰にもなかった。
作品内単位
一間=1m
一貫=3kg