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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第二章「ルオマ」
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三十六、契約

 何か嬉しくない状況に陥った時、親指の爪を噛むのはグリエルモの癖だった。


 宮殿内に設けられた執務室にて、グリエルモは今も爪を噛んでいた。左手で帳面を繰りながら、余る右手の爪を血が滲むまで、噛まずにはいられなかった。


 彼のいる公都リティッツィに北都陥落の報せが届いたのはつい昨日、神暦元年初夏の十二日のことだった。突然の凶報には彼をはじめとした大臣達の混乱も動揺も当然であったが、ジャコモの激怒もまた当然であった。


 怒り狂った法王猊下をなだめるのに丸一日を要し、ようやく向き合うことになった現実にグリエルモはその悪癖を止められなくなった。


 時勢は彼の予想するよりずっと早く動いている。舞い込む情報は彼の処理能力を超える勢いで次々に彼の眼前へと突きつけられる。


 動くはずがないと思っていたラ・ピュセル侯軍が、来るはずがないと思っていたエスパラム軍を味方につけて、落ちるはずではなかった北都ダオステを陥落させてしまった。保護を、善後策の提示を求める中小都市の訴えが後を絶たない。それに対して字を読むことすらままならない他の閣僚たちまでグリエルモの元へと後から後から助けを求めに来る始末。すでにして財務卿の領分ではなかった。


 グリエルモはここに至って初めて反乱への加担を後悔しだしていた。一介の商人でいればこんな苦悩を味わうこともなかった。貧しい家ではなかったし、商売だって下手を打つようなことはなかったのだ。


 結局、彼の労苦は身の丈に合わないものを求めた報いなのかもしれない(彼自身にとって認めがたいことではあるが)。冷静になって考えれば解決できそうな問題ではあったが、現実はその暇を与えなかった。


「何だ!?」扉を叩く音に、グリエルモは思わず怒鳴り返していた。

「財務卿閣下」扉の隙間から、小姓の少年が恐る恐る窺いをたてる。「あの、法王猊下がお呼びになられています。至急謁見の間まで来るようにと」


 グリエルモはつい口を出そうになる悪態を堪えた。法王猊下の呼び出しで良い報せを受け取ったためしなどない。


 椅子を蹴って立ち上がったグリエルモは早足で謁見の間を目指した。表情を繕う余裕もなく、皺の寄った眉間で訪いを告げる。


「財務大臣グリエルモ、参上いたしました」


 軽く頭を下げるだけで玉座の前まで歩み出る。


 と、その時初めて、グリエルモは先客の存在に気づいた。


「これは、秘書官殿。もうお戻りに」

「……ええ、まあ」


 先客の一人、法王付き筆頭秘書官フェデーレ・ベリーニは歯切れも悪く答えた。疑念を抱きながらも、グリエルモは残る人物に目を向ける。軽鎧に袖なし外套。腰に剣を帯びているが、かしこまった風はなく堂々としている。どうも傭兵のようだ。


 何者か尋ねる前に、玉座の法王が答えをくれた。


「その者は東都モンツィアを守護する傭兵隊の長だ」

「では、恭順の意をお示しに参られたので」


 玉座を見上げるグリエルモの質問に、答えたのはその傭兵隊長だった。


「俺たちは傭兵で、あんたは財務官、だろ? なら用件は一つ、お互いの仕事の話さ」


 男はあごをしゃくってグリエルモに玉階を勧めた。グリエルモが玉座の側に着くと表情を変えないまま続ける。


「聞くところによれば、大事な防御線を突破されて大層困ってるそうだな。幸い俺たちも前の雇い主と縁が切れて仕事を探してたところだ。この都市の防衛、引き受けてやってもいい」


 グリエルモは傍らのジャコモを見た。法王は何も答えず、不機嫌そうな表情で傭兵隊長を見下ろしている。


 傭兵隊長はその威圧的な視線を一顧だにせず続けた。


「報酬は一日につき一人当たり銅貨十枚。戦があれば特別手当でさらに十。勝ったら追加で銀貨一枚と、まあ、そんなところでどうだ」

「どうなのだ、財務卿」


 即座に尋ねられ、グリエルモは慌てて考えを巡らす。


「法外、と言うほどのものではありません」


 むしろ良心的ですらある、とグリエルモは思った。傭兵とは命に値段をつける生業だ。それがたったの銅貨十枚で良いと言うのだから安いと評する他ない。性質の悪い傭兵に財産の大半を奪われた挙句、食料の蓄えまでも持ち逃げされて崩壊した中小都市の噂話を知っているだけに、グリエルモは拍子抜けする思いで肯きかけた。


 が、はたと思い当たって首を横に振る。


「いや、貴殿の隊は、どれだけの数なのですか?」


 グリエルモの質問は予測の範疇だったらしい。傭兵隊長は間髪を入れずに答えた。


「騎兵が二百、歩兵と弓兵が六百ずつで、合わせて千二百に、輜重等の雑務を担う兵の二百を足して一個連隊を組んでいる。計二個連隊三千二百名だ。もちろん、いずれも一等級の腕前を保証しよう」


 グリエルモはすぐに頭を回転させた。一人当たり銅貨十枚。仮に一ヶ月分の三十日雇えば銅貨三百枚、銀貨なら三枚分と言うことになる。一般的な騎士の給金が一ヶ月で銀貨五枚であることを考えると、やはりかなりの割安であると言える。もちろん三千二百人全てに騎士相当の働きを期待するのは無理のある話だが、音に聞く東都の傭兵隊が相手なら決して悪い取引ではないはずだ。


 グリエルモはジャコモの耳元に囁いた。


「国民感情を無視して良いなら、悪くないお話かと」

 ジャコモは肯いて答えた。「では傭兵隊長、神聖天主王国法王の名において、ここに貴殿らと雇用契約を」


「待て」


 鋭い一声がジャコモの言葉を遮る。傭兵隊長は法王の不興など気にも留めずに続けた。


「その前に一つ、絶対飲んでおいてもらわなければならない条件がある」


 切れ長の目が真っ直ぐ玉座を見上げる。感情の消された面差しの中にあって、その瞳だけが確固たる意志を主張しているようだった。冷静な声が続けた。


「下らない口出しで邪魔などされたら勝てる戦も勝てなくなるからな、防衛の指揮は俺に全権を委ねてもらおう。徴募した兵員に対しても同様に。これが飲めないならこの話は無しだ」


 しばしの間が空いた。グリエルモは全身に冷や汗を感じながら法王猊下の返答を待った。


 やがてジャコモは、傭兵隊長と同じくらいの冷めた声で答えた。


「良いだろう」立ち上がり、権杖を掲げる。「その代わり、必ず勝つと誓え。神聖なる天主様の御名の前に」


 傭兵隊長は目を閉じ、頭を振った。


「生憎と、神も奇跡も信じない性質だ」


 再び目を開きわずかに口端を歪めると、恭しく跪いて騎士の礼で応える。


「だが、金の前での約束は裏切らない。いくらでも誓ってやるさ。あんたが俺の雇い主である間はな」


 十字に輝くマナの残滓が、頭をたれる騎士の頭上に降り注ぐ。法王による騎士の叙任。絵画の題材にもなりそうな、神聖な光景のはずだった。


 グリエルモは心中に矛盾を抱えてその様子を眺めていた。問題の解決を予感する安堵と、言い知れぬ不安な胸騒ぎ。この時、この矛盾について深く追求しなかったことが、彼の人生における最大の過ちとなった。


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