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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第二章「ルオマ」
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三十五、鷹の目のジョバンニ-2

 陣所は臭気で満ちていた。それは体を清める暇もなく連日の激戦を生きたまま切り抜けてきた兵たちの体臭であり、不幸にも命を落としてしまった彼らの戦友たちの骸が発する死臭であり、また、人間の都合で荷運びに従事させられる軍馬たちの、(いたずら)に溜まり続ける糞便の臭いでもある。その全てが複合し、決して薄まることなく凝縮して醸成される、正しく戦場の臭いであった。


 慣れない者なら一里の先から嗅いだだけで顔をしかめたくなる悪臭だったが、当事者たるノラヴド公軍の将兵たちにとってはすでに日常となっていた。馬糞の山に腰掛けて野菜の煮物をかっ食らうことも、戦友の亡骸の横で昔抱いた女の話に花を咲かせることも、この対陣が三日目となれば当然の光景と言えた。


 三日。


 ラ・ピュセル侯領の東端をひそかに抜け、南東公領ルオマ東部の大都市、モンツィアの傭兵隊が守護するこの関所での戦闘が始まって、すでに三日の時が経とうとしていた。さしたる成果も得られないまま、逆に損害は増やし続けての三日である。指揮官でなくとも胃の痛くなる日々であったことは想像に難くない。


「えい、クソッ!」


 伝令の報告を聞いて、ノラヴド貴族ワシリー・サーヴィッチ・クラーキン伯爵は床几を蹴り飛ばした。転がる床几が骨組みに当たり、天幕が大きく揺れる。青い顔をした伝令兵は自身の責でもないのに思わず顔を伏せた。


「恥知らずの強欲者め、よくもぬけぬけと……!」

「閣下、お怒りはごもっともです」


 進み出たのはクラーキンの側近、デニス・ルキーチ・ボドロフ子爵である。


「即刻抗議に参りましょう。お供いたします」

「無論だ!」クラーキンは鼻息荒く肯いて天幕を出た。続いてボドロフも後を追った。


 東都関から二里あまり離れたこの山間の小さな盆地には、四個旅団一万五千もの軍勢がひしめき合って陣を張っていた。敵の拠点に対していささか遠い布陣となっているのは地形に理由があった。


 関は東都と同じく狭隘な山間部に設けられていた。「ルオマの壁」は言うに及ばず、付近の河川から水を引いた幅十間弱の濠に関前面の出丸と、ただでさえ狭い土地は堅固な防備によってさらに面積を狭めており、攻めるに難い要衝となっている。当然一万五千の大軍を機能的に動かせる広さはなく、攻城戦に参加できるのは精々が三千人程度。集結した全兵力の実に四分の三以上が予備兵力として、戦場からはやや離れたこの多少開けた盆地に留め置かれているのである。


 事の始めからこのような布陣だったわけではない。


 空位二十一年初夏の九日、戦端を開いたのは最も早く戦場に到着したセルゲイ・イワノヴィッチ・バーレン伯爵麾下の軍勢であった。敵を小勢と侮ったバーレン旅団四千は功を焦るあまり隊列も作らずに各兵員の判断で東都関へと群がったが、これが苛烈な反撃を前に思わぬ大打撃を受ける。後続の各旅団が到着したのは、バーレン伯が四散した兵員を何とかまとめ上げ、再び攻撃を仕掛けようかと意気込んでいる最中であった。


 集結した旅団長たちは堅固な関の様相に「流石“鷹の目”」と、全く気の早かった戦勝気分を強く戒め、各隊による無軌道な力押しから連携をとっての波状攻撃に方針を切り替えた。戦闘を行う部隊を逐次入れ替えながら休みなく攻撃を続けることで、自軍の損害を可能な限り分散させ敵の体力を消耗させる戦術である。


 戦闘の指揮権は話し合いの末当番制で持ち回ることに決まった。戦場への着順に一日目はバーレン旅団、二日目はデミドフ旅団と、日ごとに指揮官と戦闘部隊を入れ替える形である。各旅団の定員を決めて三千の混成部隊を作る案もあったが、下手な連携は指揮系統の混乱を招く恐れもあり十分な戦果を期待できそうになかったため却下された。


 若干の不公平感はあった(初日の戦闘で大打撃を被ったバーレン伯は特に否を唱えた)が、結局は揉める時間が惜しいと言う現実的な問題が話し合いを終わらせた。ごねている間に敵の態勢が整うのはもちろん避ける必要があったし、後方から彼らより上位の指揮官がやって来るのはもっと避けたかった。

 集結した指揮官はいずれもこの時世には珍しくない野心家であった。東都モンツィアの支配と言う大目標を前にして利害を一致させたのだった。


 作戦が奏功したのか、ノラヴド公軍の損害は徐々に減り、対して敵の攻撃も日を追うごとに勢いをなくしていった。


 開戦初日には雨霰と射ち込まれてきた矢の数が、二日目にはまばらに、そして三日目の今日に至ってはほんの数本ほどしか飛んでこなかった。


 いよいよ陥落は目前。そんな三日目の夜になって問題は浮上した。


 本日戦闘指揮を担っていたユスチン・ニコラエヴィッチ・リヴィンスキィ伯爵の部隊が戦闘の終わった今になっても一向に後退してこないのである。


 部隊の入れ替えは夜の内に行われる手筈となっていた。そして順番ではクラーキン旅団が四日目の指揮を担当するはずだった。


 宵の口を回って、不審に思ったクラーキンはすぐに伝令を出した。


「何ぞ仔細ありや?」


 クラーキンの問いに対するリヴィンスキィの答えはこうだった。


「兵員負傷大につき撤収の遅滞止む無し」


 昼間の戦況については非番の指揮官も把握している。あまりにお粗末な言い訳だった。


 馬を飛ばして四半刻もしない内に、クラーキンはリヴィンスキィ旅団の陣へ到着した。


 衛兵の制止を無視して陣内を駆け抜けたクラーキンは、本営と思われる天幕を見つけて鞍上から飛び降りた。


「困ります、閣下」若い衛兵は身を盾にしてクラーキンを遮った。「リヴィンスキィ卿は、すでにお休みになって」

「黙れ! 下郎の出る幕ではない」


 クラーキンは衛兵を突き飛ばして天幕に押し入った。薄暗がりに浮かび上がるその光景に歯を軋らせる。


 天幕には人っ子一人いなかった。蝋燭の明かりが、慌しい闖入者(ちんにゅうしゃ)の登場を抗議するように大きく揺れている。クラーキンは振り返って周囲を見渡した。三千を超える人の気配など、どこにも無かった。


「リヴィンスキィの奴はどこに行った」


 衛兵は微かに総身を震わせながら目を逸らした。クラーキンは腰に提げた長剣に手をかける。


「答えろ」


 長剣の剣先が衛兵の首元に据えられる。


 と、そこへ馬蹄を響かせてボドロフらが追いついてきた。


「閣下、法術士からのご報告です」ボドロフは下馬する間も惜しんで声を上げた。「敵拠点から、敵兵の気配が消失しているようです。それを追うようにして、リヴィンスキィ卿の手勢は大部分が敵の拠点へ向けて移動を行っているものと」

「リヴィンスキィめ! やはり抜け駆けするつもりか!」


 クラーキンの怒声が、人もまばらな旅団陣地にこだました。日中の敵方の様子に手応えを感じていたのだろう。彼の予想では明日の昼過ぎには東都陥落の未来が見えていた。手柄を欲するなら最前線を譲る道理は無い。


「ボドロフ、全軍突撃だ! 奴に手柄を渡すな!」


 突撃の下知はすぐさまクラーキン旅団の陣中を駆け回った。


 不意の突撃命令にクラーキン隊は状況も分からぬまま陣を飛び出る。具足を担ぎながら鉄壁を誇っていた出丸を通り過ぎ、矢の一本も飛んでこない城壁を無視してすでに開放されている関所の門を突破。無傷のまま都市へとなだれ込んだ。


 クラーキン、ボドロフら、将校も肌着に外套だけを羽織って馬を駆り、先行するリヴィンスキィ隊を追いかけた。


 何万にも聞こえる雄叫びが彼らの背中を圧した。敵陣の様子に気づいたのだろう。バーレン旅団、デミドフ旅団の兵たちが後から後から陣を出てきたのだ。


 彼らを散々に悩ませてきた出丸も門も「ルオマの壁」すらも、最早何の脅威にもならない。一万を超える大軍勢は、瞬く間に無人の市街に浸透する。その動きに統制はなかった。各々が本能の赴くままに木戸を打ち破り、家具を引っ掻き回して街中から金目の物を探した。


 果たしてそこかしこから歓声が上がった。よほど慌てていたのか、敵はろくに金品の回収もしないでこの街を放棄したらしい。少し探せば金銀宝石の散りばめられた宝飾品の類が至る所で見つかる。


 やがて自然に乱闘が始まった。クラーキンをはじめ旅団長はそれを止めなかった。乱取りは雑兵の特権である。逐一規制などして士気を下げる必要もない。


 故に、夜の街は一転地獄のような狂騒に包まれる。クラーキンはとうとう足を止めた。狂乱した兵どもで溢れかえるこの騒ぎの中で、リヴィンスキィを見つけ出すのも不可能だろう。悔しさに表情を歪めながら、クラーキンは抜け駆けを許した自身の失態を強く恥じた。


「閣下!」


 背後からの声に振り返る。ボドロフだった。


「追わずともよろしいのですか!?」

「よろしいわけがあるか!」非難するような声にクラーキンは怒鳴り返した。怒鳴った後で、冷静な思考が言葉を継ぐ。「……遺憾だが、これだけ離されればどれだけ馬を急かしたところで到底追いつけん。リヴィンスキィめ、商人上がりだけあって人を出し抜くことには長けておるわ。全く忌々しい」


 ボドロフが悔しそうな顔で何事か答えた。そこら中から上がる歓声と怒号のせいで聞き取れなかった。


 ボドロフは馬首を寄せてクラーキンに耳打ちした。「そろそろ収拾させるべきでしょうか。同士討ちで死者など出しては益々面白くありません」

「ああ、そうだな」


 再びの、耳をつんざくような喚声。


 その時、クラーキンは妙な違和感に気づいた。歓喜の雄叫びのほとんどが、いつの間にか怒号と悲鳴に変わっているのだ。それに、異様に夜空が、視界が明るい。思えば突撃を命じた時から不自然だった。夜襲の仕度など誰もしていなかったはずなのに、市内までの道に不自由はしなかった。大通は角灯に照らされ、なだれ込んだノラヴド公軍はまるで何かに導かれるようにしてその明かりの下を駆け続けた。先行したリヴィンスキィの部隊が道中の角灯に火をつけて回ったのか。そんなはずはない。


 クラーキンは嫌なものを感じて首を巡らせた。満天の星空の中に、一点だけ陰りが見える。陰は西南からの風に流され北東の空へと伸びていくようだ。目蓋の上を滑る汗が目に痛い。鼻腔に感じる焦げた臭いに、クラーキンはようやく理解した。


 空が燃えている。


 正確には、東都モンツィアを取り巻く山々が、燃え盛る真っ赤な炎で覆われているのだ。山火事は彼らがやって来た北方を除いた東西南、全ての夜空を茜色に染め上げていた。舞い上がる炎が気流に煽られ、都市部の家屋に延焼を起こしたらしい。黒煙を伴う南風で、視界は瞬く間に悪化した。地獄を思わせる景色に、クラーキンは叫ぶ。


「撤退、撤退だ! 各員直ちに、ここから離れろ!」


 クラーキンは馬首を返した。後続の友軍でごった返す通を無我夢中で駆け抜ける。


 混乱は徐々に、全軍へと伝播した。


 道々で兵たちが転げまわる。立ち込める煙に宝探しなどしている場合でないと気づいたのだった。


 対して、たった今都市へとたどり着いたばかりの後続旅団の兵員には前線の混乱は伝わらなかった。彼らはまだ何の戦利品も得ていない。突然踵を返し行く手を塞ぐ友軍に殺意すら抱いて衝突する。


 得物を片手に通せ、通せの押し問答。火の手は弱まる気配なく街中を包み込む。味方同士が入り乱れて、東都モンツィアは正しく地獄と化していた。





 橙色の塊が闇の中に浮かび上がっていた。喧騒は三里も離れたこの街道にも微かに届いている。あの炎の中心にあるのは、南東公領ルオマが誇る東の大都市モンツィアだった。宵闇の中に燃え盛っているのは、五万人もの人々が日々の暮らしを営んできた安住の土地であるはずだった。


 フェデーレはしきりに振り返った。火の山と、それを一顧だにする気もない隊列とを交互に見やり、結局は隊列の方を追いかける。


「何なんだ、あれは」先頭集団の後方にいたフェデーレはすぐに最前の先導役に追いついた。

「東都が、モンツィアが燃えてるぞ! どういうことなんだ!?」

「どうもこうも」先導役を担っていたパスカルは眉根を寄せて微笑んだ。


「言ったろ、歓迎会だって」背後からの声がパスカルの言葉を継ぐ。

「盛り上がってるようで何よりだな。こちらも手をかけた甲斐がある」


 鷹の目は軽く背後を流し見て微かに口角を上げた。巻雲のような鬣をなびかせて、彼の乗る白馬がパスカルに並ぶ。


「お疲れ様で御座いました、団長殿」パスカルは馬上で頭を下げた。

「ご苦労」鷹の目は袖なし外套に被った煤を払いながら尋ねた。「欠員は無いな」

「はい。万事抜かりなく」


 副官の返事に満足して、鷹の目は肯く。


「一刻後に小休止をとる。速度は落とすな」

「はッ、心得ました」


 鷹の目は馬速を下げた。先頭から徐々に離れ、道の脇を歩くように手綱を操る。


 フェデーレはすぐにその後を追った。


「あんたの、仕業なのか」


 鷹の目はフェデーレを一瞥した。「何が?」とは問わずに、煤まみれの外套を脱いだ。


「だとしたら何だ」

「何だじゃねえだろ! あんな大火事起こして、一体どれだけ死人が出ると思ってんだ!?」

「お優しいな秘書官殿は。それも聖天主様の教えってやつか?」鷹の目はばさばさと音を立てて脱いだ外套を払った。くっくと口から漏れるのは、どうやら笑い声のようだった。

「街の様子を見て気づかなかったか? 市民なんざ一人も残っちゃいないさ。前領主の後を追ってノラヴドに亡命してる」


 フェデーレは人気の無い東都の街並みを思い出した。言われてみれば五万もの人々が暮らす都市にしては、ずいぶんと物静かな雰囲気だった。市門は無防備に開きっ放しで、通はおろか路地裏や民家の陰にも、人の気配は皆無。すでに出払った後だと言うなら、それも納得の行く話だった。


「つまりあそこで痛い目にあってるのは、皆敵方のやつらというわけだ。それでも可哀相だとのたまうなら、あんたも余程のお人好しだな」

「それは」フェデーレは言葉を詰まらせた。「けど、街を、焼くなんて」

「法王猊下に自治を認められた、俺の領地だ。どうしようが俺の勝手だろう」鷹の目は悪びれる様子も無く応えた。「敵四個旅団に損害と足止め、対してこっちは二個連隊無傷。それほど悪くない取り引きだったと思うが」


 フェデーレは不意に胸が締め付けられるのを感じた。怒りでも恐怖でもない。ただ何故か、手先が小刻みに震えている。舌が、思うように動かない。


「あんたは」


 名状し難い感情が、彼の全身を駆け巡った。しかし、続けるべき言葉が分からずに、フェデーレは鷹の目を凝視した。


「遅れるぞ」


 鷹の目は粛々と進む隊列を示して馬腹を蹴った。


 外套をはためかせて遠ざかるその後姿を、フェデーレは中々追いかけることができなかった。


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