三十三、神は争いを止めない
自称元帥軍はわらわらと東門に殺到した。口々に全能の神の加護を求めては、慈悲なき弩が雨あられと放つ矢に体を貫かれて倒れていく。いずれも痛々しい傷だが、上がる悲鳴は意外なほど少ない。半分は悲鳴を上げる余裕もなく絶命し、もう半分は神の御名によって与えられた異常なまでの興奮と歓喜で痛みという存在を忘れていたからだった。
自身の行いを疑うことなく、仲間の死にも恐怖を感じない、神の万能感に酔った幸せ者たちの行進は、しかし永遠には続かなかった。
何と言っても命は有限だった。果敢に挑み倒れていく男たちは時を経るにしたがってその数を増し、自称元帥軍も気づけば数百を数えるばかりとなった。自称元帥様がいつまで経っても中止の下知を出さないばかりに、忠実なる神の僕たちは尊いはずの命を失っていったのである。
ここに至って、ついに神の魔法が解け始めていた。赤く染まる同志たちの亡骸を、光を失ったその暗い瞳を見て、男たちは死というものの痛みと恐怖を思い出していた。
一人、二人と、戦列を離れる。ロレンツォはそんな部下たちを見て、未だに憤っていた。
「逃げるんじゃねえ、臆病者ども! 天主様の教えを忘れやがったのか!」
ロレンツォの言葉は誰の耳にも届かなかった。彼に率いられてこの西都までやって来た、ある意味で幸せな男たちは、不意に取り戻した自我の求めるまま、北へ南へ逃げ出していく。
「畜生め! お前ら全員地獄に落ちるぞ!」
ロレンツォはそれでも諦めない。弩に頬を抉られ、仲間の臓物に足を滑らせて転倒しても、魔法の解けない自称元帥様は闇雲に長剣を振り回して立ち上がる。
ロレンツォは何気なしに自身の足を滑らせた臓物の持ち主を見た。でっぷりと丸い禿げ頭には見覚えがあった。何か困りごとがあるたび頭をかくその癖が、お前の額を広くしたんだと、よくからかったものだっけ。立派な口髭を生やし、酒の飲みすぎで恰幅も良い。笑い上戸が刻んだ皺のせいもあって同い年だというのに十も上に見える。
ロレンツォは目を見開く。そうだ。お前は。血溜まりにうつ伏せているこの男は、幼馴染のマルチェロ・ビアンキじゃないか。ついこの間まで、酒を酌み交わしていた、同郷の友人じゃないか。
神にささげた鋼のような忠誠心が、どくんと音を立てて一つ剥がれ落ちた。
ロレンツォはもの言わぬ友人に手を伸ばして、気づく。
カルロ、チリーノ、ダンテ、ロドルフォまで。
そこら一帯に倒れているのはいずれも彼がペルーノ村以来行動を共にしてきた友人ばかりだ。彼の命令に、真実の神の言葉に従って、勝ち目も見えない大敵に挑んでいった無垢なる者たちばかりなのだ。
極め付けは元帥軍の内でもなかんずく勇敢にして忠実な神の使徒、ファビオ・マルティーニの存在だった。側頭部を、人の腕ほどもある太矢に破壊されたファビオは、恐らく本人も気づかぬまま死出の旅へと向かったのだろう。一つだけ残された瞳孔がこれ以上ないほどに開き、愉快そうに上がったままの口角からは今にも歓喜の声が聞こえてきそうだ。
自身が、神の使徒が敗北する未来など微塵も想像していない、若者らしい、無垢な笑顔。
彼らの顛末は、ロレンツォの、頑なに神を信じた無垢な男の心にかかった「妄信」と言う名の魔法を解くのに、十分な効果を持っていた。
エイメン。
ロレンツォは唱えてみた。彼の祈りに答えるものは、なかった。
エイメン、エイメン。
十字を切って、三度唱える。逃げ惑う彼の軍勢の悲鳴と足音だけが、彼の鼓膜を震わせた。
エイメン、エイメン、エイメン!
ロレンツォは何度も、何度も何度も何度も唱えた。神様、神様。答えてくれ。俺は、俺たちは、あんたの忠実な僕だったじゃねえか。あんたのために祈った。あんたを冒涜するやつらをたくさん殺してきた。なのにどうして、救いの手を差し伸べてくれねえ。あんたは俺たちのことを気にかけてくれるはずじゃあねえのか。正しい神の国へ、導いてくれるはずじゃあ――。
何かの気配を感じて、ロレンツォは顔を上げる。見れば遠く、五十間の距離で堅牢な西都の門が、突然開き始めた。
エイメン、ああ、エイメン。
ロレンツォは涙ながらに唱えた。とうとう、祈りが通じたのだと、その一瞬は本気で信じた。
しかし、背後から轟く喊声が、ロレンツォを現実に引き戻した。逃げ惑う彼の部下たちの声ではない。響き渡るのは勇ましい鬨の声と、けたたましく馬の蹄が駆ける音だ。
ロレンツォは振り返り、驚愕する。屈強な馬に跨った騎兵の集団が、彼の部下をこともなく蹴散らしながらこちらへ向かって来ていた。
ロレンツォはしばし呆然とそれを見つめていた。エイメンとしきりに唱えてみる。騎兵集団の進路は変わらない。
恐怖を顔に貼り付けて、ロレンツォは後ずさる。仲間たちの亡骸につまずいて尻餅をつく。のろのろと地を這い、必死にその悪魔のような一団から逃げようとする。
エイメン、エイメン、エイメン、エイメェン!
呪文はすでにして号泣に変わっていた。泣きじゃくる赤子のように、ひたすらそれを繰り返して、ロレンツォ・アレオッティは血溜まりの上を転げまわった。
馬上で面頬を下ろしたヴァルターの不自由な視界にも、当然その無様な後ろ姿は映っているはずだった。しかしヴァルターの脳はそれを知覚しなかった。何がしたかったのか、泣き喚いて逃げ惑うその集団などは路傍の石と同じ。山のように転がる死体も、ちょっとした段差でしかない。軽く愛馬に鞭を打って華麗に飛び越えてみせる。
ヴァルターの視界には都合よく開いた門しか映っていない。罠の可能性もあるが、ライナーの仕事と信じて先頭を突っ走る。
矢の一本すら撃たない東門守備第三中隊は迫る騎兵を見ていなかった。突然現れた血みどろの一団に門の開閉機を占拠され、目下その対応のために全兵力を注いでいる。軍馬のいななきに気づくも者もいたが、ほんのひと時眼下に注意を逸らした刹那、血潮に塗れた敵の長剣が喉笛をかき切る。一瞬の判断が生死を分ける戦場に、そんな油断の許されるはずもない。
今一人切り倒したライナーには余所見をする余裕があった。見覚えのある具足に口角を上げ、大音声で叫ぶ。
「白狼だ! 『エッセンベルクの白狼』が来たぞ!」ライナーは都市の方を向いて、なおも大きく声を張り上げる。「逃げろ、逃げろ! 目ん玉抉られるぞ! 舌を切られるぞ! 女子供の区別なく、目に付いた奴から皆殺しにされるぞ!」
止まることなく城門を駆け抜け、面頬の下でヴァルターは苦笑する。ライナーめ、人を鬼か悪魔みたいに言いやがって。ざわめき出す街を尻目に、ヴァルターは止まらない。どれ、面白そうだから乗ってやるか。騎馬槍を高く掲げて、通で右往左往している群衆に告げる。
「オラオラ、俺が『エッセンベルクの白狼』だァ! 命が惜しけりゃ道を開けろォ! 食っちまうぞオラァ!」
恐れおののく市民が我先にと脇道へなだれ込む。ヴァルター率いる白狼隊重騎兵百は不意に開けた大通を真っ直ぐ西へ突き進む。後ろが一層騒がしい。後続の歩兵千も門を越えたようだ。千の荒くれ者が鬨をつくる。
聖ジョルジュ、エスパラム!
野太い雄叫びがブリアソーレを揺らす。悲鳴と怒号が混ざり合い、家並みに反響して人馬よりも早く都市中を駆け巡る。
誰よりも早く、アマデオはその声に気づく。部下の制止も聞かず窓から身を乗り出す。「ヴィンチ、東からも!」
ヴィンチェンツォは舌打ちする。すぐに新たな難敵を認め兵たちに迎撃の指示を出す。
ばらばらと放たれた矢は、一人としてその騎兵群を減らさない。白銀の甲冑にことごとくを弾かれ、馬蹄に踏まれて折れ砕ける。恐怖に駆られた稲妻隊は、無意味な連射を繰り返す。南面のみに集中していた弩の照準が次々と左、つまりは東方向へ向けられる。
アンゲランにとっては都合がいい。思わぬ抵抗の多さに諦めかけていた攻撃を再開する。
出合え、出合え! アンゲラン・ドゥ・バルティエこれにあり!
両側からの包囲を振り切るように、勢いに任せて突撃を仕掛ける。稲妻隊はまたも遅れる。まごつく間に防御線を抜かれ、弩を投げ出して三々五々に散っていく。
最悪だ。ヴィンチェンツォは吐き捨て、アマデオの首根っこを掴んで部屋を出る。
「何だ、どうするつもりだよ!」
「逃げるんですよ! 包囲される前に戦線を下げるしかない! とりあえず北門守備隊と合流して」
ヴィンチェンツォは雑音に顔をしかめる。屋外の喧騒が二人の会話を邪魔する。
どうした、立ち会え! ルオマの騎士とは皆斯様に腰抜けか!
アンゲランは得意げに息巻く。算を乱して逃げ惑う敵兵の姿が、ラ・フルト騎士を益々高揚させる。奪う強者の目には奪われる弱者の姿しか映っていない。逃げ遅れを騎馬槍で一突き。堪らない快感に身震いする思いだ。
反してヴァルターは冷静に進行方向を眺める。歴戦の傭兵隊長はたった一兵卒の生死に戦局を左右する価値などないと知っている。自身もまた一兵卒の立場なら話は違うが、退散する敵の背中を執拗に追い掛け回して槍で突くなどは、少なくとも一軍を率いる将の仕事ではない。
故に広場を狭しと追いかけっこを続けるその男たちもヴァルターにとっては単なる障害物だ。邪魔だから蹴散らす、それだけのことだ。不用意に横腹を晒して広場を駆け回る騎兵の一団。鋭い騎馬槍は進路を妨げているその障害物に向けられる。
程なく障害物は雄叫びを悲鳴に変えてのたうち回る。
アンゲランは驚愕する。心地よい陶酔も一瞬で冷める。側背近くで悲鳴を上げるのは、彼の部下をおいて他にいない。何が起きたのか理解する前に背中を鈍器で殴られるような衝撃。馬上から投げ出され、甲冑が石畳を滑る高音が兜の内で反響する。ほんの一瞬だけ、アンゲランの意識は天の国の門を叩く。
ヴィンチェンツォは地獄を見る。踊り場の小窓から顔を覗かせてみれば地獄が彼ら自身を逃すまいと包囲を狭めているのが一目で理解できる。それでもヴィンチェンツォは足を止めない。このまま篭っていた所で状況は改善しないのだ。包囲の不備を祈りながら、味方の援軍を信じながら、隊長殿の襟首を掴んで階段を駆け下りる。最早その目は前しか見ていない。
アマデオの目は後ろばかりを見ている。襟首を掴まれたまま半ば引きずられるようにして、ほとんど人の出払った庁舎を見ている。と、十間先、玄関口へと通じる廊下の角から人が飛び出して、いや、吹っ飛んできて、壁にひびが入るほど強く全身を打ちつける。軽装で歳は若い。稲妻隊の本陣付き連絡中隊の者だろう。
彼が手にしていたと思われる短剣が時間差で床に落下する。角から現れた鉄靴に蹴られ短剣は板張りの床を滑る。音を立てて、アマデオのいる側とは反対の方向に。
鉄靴に続いて、角から姿を現したのは血に染まった白銀の甲冑と抜き身の長剣。下を向いているその長剣の先端から、赤い滴が垂れ落ちる。
ヴィンチェンツォは違和感に振り返る。視界に映るのは彼の手から逃れた頼りない隊長殿の背中。そしてとても味方には見えない血染めの騎士。慌てて手を伸ばす。遠ざかる隊長殿の背中に。ヴィンチェンツォの手は空を掴む。こんな時ばかり、隊長殿は判断も行動も早い。
「パエザナの稲妻」を率いる隊長殿は騎士と力なくうな垂れる彼の部下の間に立つ。血の滴る騎士の長剣から、部下を守るように両手を広げ、震えた声で、告げる。
「参った、降参だ。俺たちの負けだから、これ以上は、やめてくれ」
騎士はまんじりとアマデオを見やり、おもむろに面頬を上げる。
「話が早くて助かるぜ」
口角を上げて剣を納める。いでたちとは対照的な、爽やかな笑顔だ。
両傭兵隊の争いは、ここに終結した。
一方、気持ちの剣を納められないアンゲラン・ドゥ・バルティエは、縄目の恥辱を受けながらしきりに叫んだ。
「放せ! 横槍とは卑怯千万! 貴公らに騎士としての誇りはないのか!」
必死の訴えにも、白狼隊の面々は苦笑するばかり。激昂するアンゲランはなおも泡を飛ばした。
「縄を解け! こんな戦いは認めんぞ! 騎士らしく、正々堂々の一騎打ちで勝負だ! ラ・フルト騎士アンゲラン、逃げも隠れも」
その時、何かが壊れる音がブリアソーレ中央広場に鳴り響いた。集まる視線は広場の片隅に砕け散った木桶を見つける。
「ふざけんな馬鹿野郎! そんなに戦いたけりゃ他所でやれェ!」
声を上げたのはいかにも職人といった風情の男だった。男の叫びは次々に続くブリアソーレ市民の言葉によって賛同された。そうだ、そうだ、いい加減にしやがれ、迷惑なんだよ。陶器の壺が、皮の突っ掛けが、六芒星の装飾が施された鉄製の燭台までもが放物線を描いて広場に投げ込まれる。暴動にこそ至らないものの、市民の怒りは総意となって遠路やってきたラ・フルト騎士に向けられた。
はじめの内は罵倒に怒りで返したアンゲランも、絶えず飛んでくるごみと怒声には閉口せざるを得ない。
市民の怒りは結局日が沈むまで収まることはなかった。




