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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第二章「ルオマ」
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二十五、山中模索

 南のセラック山から北のギエゴ山まで、全長三十里に渡って跨る通称クイラ山地は、いずれも低山ながら西都ブリアソーレにとって南の要害の一角を成していた。木々の生い茂る山林は大軍で踏み入ることが難しい。加えてどの山も高さの割には傾斜がきついため、陣を布くにも不向きだった。


 苦労して登ったそれらの山頂から西を望めば標高二千間を誇るラ・グロール大連峰が鎮座し、ブリアソーレの西方面まで睨みを利かせている。両山を結ぶ峡谷には関が設けられ、常時二百人余りの兵による監視に余念がない。故に南からの進軍はまず以って困難なものとされていた。


 さて、そんなことは露ほども知らない英二たちが、自らの判断で選んだ道の険しさに気づいたのは入山から一夜明けた昼ごろのことだった。


 夜を徹しての強行軍でなんとかセラック山頂にたどり着いた一行は、山頂から北に望める峰々の様相に思わず膝を折ってうな垂れた。一里や二里の話ではない。このまま北を目指せば少なくとも十里以上は山中を移動することになる。容易に予想できる労苦が前倒しとなって、一行の気力体力を奪う。

 しばらくは誰も立ち直れそうにない以上、休憩は自然な流れだった。


「姉さま、のどが」渇いたわ、と続く言葉が出てこない。

「そうね」アンジェリカは肯いて英二たちに視線を投げる。「どなたか、水を、頂きたいのだけれど」


「すみません、切らしてしまいました」英二は皮袋の水筒を掲げて頭を振った。英二の水はアンジェリカと共有だったためことさら消費が早かった(八割以上はアンジェリカの消費だったが)。


 英二に目顔で尋ねられ、ペペも頭を振る。こちらもガブリエッラとの共有だったが無計画に消費したのはペペだった。


 希望をこめた目で、今度はボリスを見る。


 ボリスはまさに喉を潤している最中だった。ごくごくと、二度ほど喉仏を上下させ、皮袋を逆さにしてみせる。「たった今切れた」


 偶然だったのかもしれないが、アンジェリカの目にはそう映らなかった。細い指先で腐葉土を握り締め、アンジェリカは金切り声を上げた。


「あなたは、どうして、そんなに意地の悪いことができるの? 思いやりという言葉を知らないのかしら。きっと心が氷でできているのね。そうに違いないわ」

「ぴいぴい喚くなよ」ボリスは迷惑そうに片耳を塞いだ。「追手に見つかるだろ」

「なんて口の利き方」アンジェリカは立ち上がって英二を見た。「もう我慢できません。エイジ、ルオマ公姫として命じます。この無礼者を処罰なさい」


 英二はしばし両者を眺めた後頭を振った。「それはできません、殿下」


「何故です? 私が、ルオマ公姫が命じているのですよ」

「寝言ほざいてんじゃねえよ」ボリスは鼻で笑った。「もう忘れたのか。俺たちゃテメェの召使いじゃねえ。ルオマ人でもなけりゃ貴族でもねえんだぜ。たまたま通りかかったレノーヴァで、偶然殺されそうになってるルオマのお姫様を、ただの好意で助けてやった、それだけだ。文句があるなら今からでも遅くはねえ。レノーヴァに戻ってあんたんとこの領民に命令でも何でもして来いよ。無礼者がいるわ、斬って捨てなさいってな。俺は止めねえぜ。さあ、ほら」


 アンジェリカは言葉をなくしてうつむいた。力なくへたり込み、手の甲に落ちるのは涙だった。野犬のような目でそれを見ていたボリスは、面白くもなさそうに落ちていた木の枝を拾って折った。


「どうして」嗚咽の中にか細い声が混じる。「どうして私たちが、こんな仕打ちを受けなければならないの」

「どこまでもめでてえな、お姫様は」ボリスは呆れたような溜息を吐いて仰臥した。「テメェの親父が領主としてちゃんと働かなかったからだろうが。どうせ偉そうにふんぞり返って毎日食っちゃ寝してたんだろ。農民どもが怒るのも無理はねえ。戦と政が貴族の義務だって、日頃威張り腐ってんのは他でもない貴族様本人じゃねえか」

「そ、そんなこと、私たちの責任では」


「殿下」


 助け舟と思しき声に、アンジェリカは顔を上げる。


 英二は少女の眼前にひざまずき、真正面からその瞳を見つめた。


「恐れながら、悪政に対しての罪を殿下方に問うことは、確かにお門違いの話と言えます。しかし、責任となれば別です。ルオマ公のご息女たる殿下には、お父君の政を諌める権利と機会がございました。民の声は聞こえなくとも、愛娘の言葉なら、ルオマ公殿下はお耳を傾けてくれたかもしれません。そうして市井を省みてくださったかもしれません。つまり公姫殿下には、この乱を未然に防ぐお力もあったのです。それを為し得なかった事には、その、他ならぬ殿下ご自身にも責任があったと、考えられるのでは、ないでしょうか」


「どうして、あなたまで、そんなことを言うの?」止まりかけていた涙がぶり返した。唯一と思っていた味方から拒絶された少女は、恥も外聞もなく訴えた。「私たちは、何もしてないわ。ただ、父様と母様の言うことを聞いて、生きてきただけなのに、それのどこが、悪いと言うの?」


「お言葉ですが、殿下。何もしていなかったことが、問題なのではないかと。平民に労働が課せられているように、貴族にはその平民の生活を守る義務が課せられています。納税の義務を怠る平民が罰せられるのと同じように、貴族としての責務を怠れば、平民とて怒りを覚えるのは道理です。ルオマ領主と言う立場にあればこそ、レノーヴァで殿下方に怒りを向けた人々の窮状を、ご父君も、殿下も、よく理解していなければ、ならなかった、のでは、ないでしょうか」


 躊躇(ためら)いが英二の言葉を一時的に止める。それで終わりにしてしまえれば良かったが、結局彼の口は止まらなかった。


「貴族はその血統が特別なのではありません。平民には為し得ない責務を負うから特別な存在として敬われるのです。殿下の何不自由ない一日は、民草のたゆまぬ労働の上に成り立っているのだということを、ゆめゆめ肝に銘じおき頂きたく存じます」


「父様が」アンジェリカは掌でしきりに涙をぬぐった。「あなたは父様が悪いと言うのね? それを諌めなかった私たちも同罪だと」

「率直に申し上げるならば、そうなります、殿下」

「もう、いいわ」


 少女の涙声が英二を冷静にさせた。率直に過ぎたかもしれない。不意の罪悪感が英二に言葉を継がせた。


「法で定められているわけではない事と思いますが、人の上に立つ者にとり、無知は悪であり罪であると言えます。貴族として生まれたのなら、その責任を誰かに委ねることは、望ましい事ではなかった。知らなかったからと言って、ご自身を正当化することは」

「もういいと言ったの!」差し伸べられた手を、アンジェリカは払った。「聞きたくないわ、これ以上、あなたの話は」


 布切れが、微かな音を立てて地に落ちた。涙と土で汚れたアンジェリカを気遣って英二が差し出したものだった。


 非情なことをしている自覚が英二にはあった。それでも、このルオマで目にした光景が、農民たちの怒りが、全く理由のない理不尽な行いであるなどと認めたくはなかった。彼らは皆、激しい怒りに駆られていたからこそ残虐な行為にも手を染めたのだ。道を外れた悪事にも疑いを持たなかったのだ。

 そう思わなければ、英二は信念を疑わなければならなくなる。人の生まれ持つ善性を、疑わなければならなくなる。


 そうなれば、善を根底に据えた生命の尊ささえ、英二は疑わなければならなくなるのだ。


 英二の思いは、やはり身勝手で無神経なものだった。親子共々不手際を糾弾されたアンジェリカは深く傷ついた心に塩をまぶされたようなものだった。英二はかける言葉をなくした。


 ガブリエッラはむせび泣く姉に駆け寄った。布切れの汚れを手で払い、労わるように姉を抱き締める。姉さま、平気よ。のどはもう渇いてないから、平気なの。


 英二の言葉をどこまで理解していたのかは分からない。しかし、英二をねめつけるその目は少なくとも今の姉よりはまともな状態に見えた。


 英二は立ち上がった。「ちょっと辺りを見てくる。沢でも見つかればいいんだけど」


 皮袋を持って狭い山頂を北へ歩く。ボリスは舌打ちして後に続いた。


「さっきのは」ボリスは足を止めずに尋ねた。「経典の言葉か?」

「まあ、そんなところだよ」


 英二は肯定した。正確には違うが人の言葉であることに変わりはない。「無知は悪」であったか「悪は無知」であったか、正確なところは覚えていないが、ずっと昔に哲学の授業で習った言葉だ。


「おい」ボリスは振り返って尋ねた。隣を歩いていたはずの英二がいつの間にか足を止めていた。


 うずくまる英二の心中に罪悪感がよみがえった。人から聞きかじった言葉を用いて賢しらに説教する行為に、改めて良心が痛んだのだ。しかも相手は自分よりも年下の女の子で、泣かせてしまったのだからなおのことだった。


 英二は火の出そうな顔面を押さえた。冷静になればなるほど己の酷さが浮き彫りになる。あんな言い方はなかったし、あんなに言うこともなかったはずだった。


「どうした、いきなり」


 顔を上げればボリスが眉根を寄せて覗き込んでいた。


「いや、ごめん」英二は立ち上がる。両手で頬を叩きながら、後できちんと謝りに行こうと思った。


「なあ」ボリスは不機嫌そうに眉根を寄せたまま尋ねた。「貴族言葉、どこで習った」

「……アントニオが」英二は伏し目がちに答えた。「ちゃんとした言葉遣いを覚えないと経典は読めないからって」


 貴族言葉とは公用語の敬語表現の俗称だった。経典内でも特に神について言及している部分には敬語表現が多数用いられている。経典を教材にして言語を覚えれば、貴族風の話し言葉が身につくのは必然だった(読み書きとなると話は別だが)。


 話している内に、下りやすそうな箇所を見つけた。山肌から突き出した大小の岩が階段のように連なっている。少々不安だが、斜面を下るより滑落の危険は少なそうだった。


 英二は足場を確かめるために何度か岩を踏みしめてみた。びくともしない。これなら騎乗して下りても問題ないかもしれない。馬には負担をかけるが、可能な限り楽をしたい。そう思っていた矢先、足が滑る。無様に尻餅をついた英二はボリスに支えられて立ち上がった。


「ごめん」

「あ?」

「見通しが、甘かったかもしれない。山を登るのが、こんなにしんどいとは思わなくて」


 英二は疲労のためか小刻みに震える膝を指差した。慣れない、それも整備された道もない山肌を一晩中這い上がってきたのである。誰しも疲労は同じだった。


「今さら謝ったって、どうしようもねえだろうが」


 平気そうな英二を放して、ボリスは踵を返す。しかしすぐさま、抵抗感に足を止めた。


「何だよ」振り返れば英二の手が彼の服を掴んでいた。

「ボリス」英二は眼下に視線を向けたままボリスをしゃがませた。「何か聞こえないか?」


 二人は耳を澄ませた。微風が吹いていた。木々の枝先が揺れ、鳥の声だろう、さざめきが聞こえる。


 安堵しかけたボリスの頭を英二が押さえた。腹這いに岩の上を移動して、縁からそっと顔を出す。枝の折れるような音が聞こえた。それに、人の話し声、愉快そうに笑う声が聞こえる。


 二人は音を立てないように注意深く岩の階段を二つ程下りた。声は次第に鮮明さを増し、とうとうその目にも、声の主たちが映し出された。


「何だ、あいつら」


 セラック山とクイラ山のちょうど間。峠に沿って狭い山道を進む行列が見えた。肩に槍など担ぎながら、男たちは談笑交じりに西へと向かっているようだ。騎士の風体ではない。得物も鎧もまるっきりばらばらで、中には野良着に兜だけかぶった不恰好な歩兵もどきも見受けられる。


 何の間違いだろう、と英二は思った。手にした槍なり剣なりを(くわ)(すき)にでも持ち替えれば、その行列はまさにこれから畑仕事に向かおうとする農夫の集団にしか見えないからだった。殺気などない緩んだその表情は、少なくとも人を殺しにいく者の顔には見えないからだった。


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