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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第二章「ルオマ」
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二十二、逃避行

「何を……言っているの……?」口元で組んだ手は拒絶の意思の現れだった。少女は怯えた目を見開いて後ずさった。「どうして……そんな……」


 口をついて出るのは戸惑いと恐怖の言葉だった。震える声は次第に悲しみのために詰まり始めた。


「信じて……いたのに。……あなたたちのことを、信じて」


 涙で潤んだその瞳に見つめられ、黒い髪の青年は答えた。


「申し訳ありません、殿下」


 青年の手には鋭い剣が握られていた。片刃の長剣は天窓から差し込む月光に照らされ、妖しい輝きを放って少女に迫った。


 少女はいやいやと頭を振る。青年は無慈悲にその肩へ手をかけ、刀身を、白く美しいうなじへ走らせた。





 外れかかった廃教会の板戸の陰で、ボリスは注意深く外の様子を探っていた。日中時折聞こえていた話し声も足音も、今は絶えて久しい。日の入りからすでに二刻は経過しているのだから当然と言える。都市からは距離のあるこの寂れた農村で、真っ当な暮らしをしている者ならこんな時分に家を出たりはしないはずだった。


 小さな足音が聞こえる。背後からだ。ボリスは板戸のひび割れに顔を押し付けたまま尋ねた。


「済んだのか」

「ああ、なんとか」


 歯切れの悪い返事に、ボリスは振り返る。困り顔の英二とペペ、そしてペペの後ろに隠れるようにして二人分の足が見えた。


「どうした」

「いや、その」


 ボリスは眉根を寄せて立ち上がった。ぺぺの背後を覗き込むと、寄せていた眉が今度は持ち上がった。


「へえ、こいつはいい。どっからどう見てもルオマのお姫様には見えないぜ」


 少女たちは赤く腫れ上がった目でボリスを睨んだ。二人とも肩まであった髪が少年のように短く刈り込まれていた。のみならずその額や頬、首筋は土で汚れ、ぼろではあったが絹織の肌着はいかにも牧童が着ていそうな野良着に変わっていた。


「このような仕打ち、私、一生忘れませんわ」アンジェリカはすっかり泣き癖がついた目で英二とボリスを交互に睨みつけた。「ルオマの至宝と、母様からもお褒めいただいていた私の髪を、こんなにして」

「はん、暢気(のんき)なもんだな、お姫様は」少女の涙をボリスは鼻で笑った。「こっちが生きるの死ぬのって話で頭悩ませてる時に髪の心配かよ、くだらねえ」

「ま、なんて無礼な人なの!? 髪と言うものが女性にとってどれだけ大切か、あなたは」

「で、殿下、お静かに」金切り声は英二によって止められた。


 軽く二呼吸分の沈黙を挟んで英二は少女の口から手を放す。それから潜めた声で言った。


「殿下、髪はまた生えてきますが、命はまたと得られません。厳しいように聞こえますがボリスの言葉は殿下の身を案じてものです。どうかご理解ください」


 アンジェリカはわなわなと唇を開閉したが、やがて口を閉じてうつむいた。とりあえずは納得したらしい。


 ボリスは唾を吐いて告げた。


「そろそろ頃合だ。出るぞ」


 英二は肯いた。一方ペペは申し訳なさそうに腹を押さえた。


「兄貴、その前に飯にしようよ。腹減ったよ、俺」

「馬鹿。何でさっきの間に済ませなかったんだよ。いくらでも時間あったろ」

「だって、昼間は寝なきゃならねえし、夜だって物音を立てるなって兄貴が」

「この、うすのろ。ちっとは自分で考えて」

「二人とも静かに」


 制止の声の厳しさに、二人は思わず身を硬直させた。聖堂は即座に静まり返る。この上なおも音を発しているのは、屋外だった。


 英二は足音を殺して板戸に張り付いた。戸の隙間から外を窺う。


 二十余の一団だった。全員が馬に騎乗し、静かな歩調で街道を歩いている。油断の許される相手でないのは明らかだった。いでたちこそ軽装に見えるが、一団は余さず腰に剣を帯びているのだ。


「追手か」ボリスは舌を打った。「さすがに早えな、畜生」

「いや」英二は首を振った。「レノーヴァとは方向が違う。西から来たみたいだ」

「昼間、俺たちが隠れてた間に追い越したのかも知れねぇだろ」

「それはない、と思う。こんないかにも人が隠れやすそうな教会、探さずに素通りするはずない。レノーヴァからの追手はまだ来てないはずだよ」

「だったら、何なんだよあいつらは」

「分からない、けど」


 楽観していい状況ではなかった。ボリスたちは来た道を戻る要領で最短距離を通ってのルオマ脱出を計画していた。あの一団が何者であれ、彼らがこちらの予定している進行方向からやって来た事実は憂慮する必要があった。


 仮に移動の最中追手が迫って来たとしても、東からなら全力で逃げれば何とか振り切ることも不可能ではない。しかしこのような不意の遭遇が予想される以上西を目指しての逃避行は難しいものとなった。敵であれば言うに及ばずだが、実際のところ味方になってくれるような存在だったとしても、それが確認できなければボリスたちにとっては大差ないのである(そもそも誰一人として味方の可能性を考慮していなかったが)。


「三十騎、ってところだな」不意に英二がつぶやいた。

「やる気かよ」ボリスが尋ねる。もしそうだと答えたなら断固として逃げてやると思っていた。

「いや、そうじゃない」英二は再び首を振った。「あれは斥候かもしれない」


 その可能性は確かにあり得る話だった。馬も騎乗者も身軽そうな見た目だ。それに数も多くはない。戦闘を主目的とした集団では、恐らくないのだろう。


 規律の取れた隊列。装備にばらつきもない。都市の様子を思い出せば、今のレノーヴァから放たれる追手にあのような秩序ある行軍が可能とは思えない。


「だから?」ボリスは尋ねた。


 英二は肯いて続けた。「あれを運よくやり過ごせたとしても、進路を変えなければもっと厄介なのに遭遇するかもしれない」


 東はレノーヴァ、西に謎の一団。ここが世界の果てに接する南東公領ルオマである以上、残された選択肢は一つしかない。


「北か」ボリスは再び舌を打った。


 幸い騎馬の一団は、ちょうど彼らの視界から消えようとしているところだった。


「すぐに出よう」英二は振り返ってペペに言う。「念のため裏口から、馬の用意を」

「あ、兄貴」ペペは相変わらず申し訳なさそうに腹を押さえていた。

「何だよ?」

「あの、飯は?」

「逃げながら食え馬鹿」


 ボリスは音が鳴らない程度にペペの腹を叩いた。


 腹の虫だけが小さな抗議の声を上げた。


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