二十、怨讐
空位二十一年初夏の九日。リティッツィは玉座の間に、季節はずれの雪が舞っていた。細切れに散り裂かれた白い欠片は急を知らせる書簡だったものだ。それを破いたのはこの玉座の主、神聖天主王国法王ジャコモ・レイその人である。
「おのれ……!」
唸るジャコモは権杖を振った。舞い散る紙片は炎に飲まれ、一瞬にして塵に変わる。なおも治まらない怒りでジャコモは権杖を突き立てた。
「フェデーレ! フェデーレはどこだ!」
「秘書官殿は東都へ」グリエルモはいい難そうに答えた。「猊下の急使として」
ジャコモは歯を噛み締めた。無論覚えていた。つい今しがた、塵と変わった書簡を見るまでは。
「レノーヴァからは、何と?」
「何と!」ジャコモの目がこれ以上ないほどに見開かれる。「何と、だと」
ジャコモは言葉を継げなかった。激しい怒りが、彼の明朗な思考を妨げているのは明らかだった。やがてジャコモは苦い表情で答えた。
「レノーヴァの役立たず共め、公女を取り逃がしおった」
「はあ、それは」
そんなことかと思いかけたグリエルモは慌てて表情を引き締めた。ジャコモにとってはそんなことではないらしいことが、その態度から容易に察せられたからだった。
ジャコモは泡を飛ばして命じた。
「すぐに兵を手配しろ。各都市にもよく言って聞かせるのだ。法王の名において、今一度取り逃がすことまかりならんとな」
告げると、ジャコモは玉階を降りた。
「猊下、どちらへ」自然、追いかけようとするグリエルモの眼前を権杖が掠める。
「ついて来るな。余はしばし休む」ジャコモは長衣を翻して分厚い絨毯を踏みつけた。「危急の報せ以外は寄越さなくていい。何人も近づけるなよ」
返事も待たず、ジャコモは玉座の間を後にした。
肩を怒らす後姿を見送って、グリエルモは溜め息を吐いた。数日中に北都よりもたらされる報せが、法王猊下の機嫌をさらに損ねることを、グリエルモはまだ知らなかった。
ジャコモの足は止まらなかった。一度でも止まれば、湧き上がる怒りが全身を駆け巡り、法王としての威厳など忘れて暴れまわるのを抑えられないだろう。とにかく、じっとしていることができなかった。
彼が人を避けていたのか、人の方が怒り心頭の法王から離れていったのかは分からない。気づけば周囲に人の気配はなかった。
ジャコモは首を巡らせた。薄暗い石造りの通路が、すぐ視界に入った。下りだけの階段は地下貯蔵庫へと続くものだ。そのまま階段を下り、鉄扉を押し開けて庫内へと足を踏み入れる。瞬間、冷気が怒りに燃える禿頭を急激に冷やしていく。そこは食料を長期保存するための冷蔵室だった。
眼前に揺らめく炎を握りつぶし、闇となった室内で、ジャコモは唱えた。
「光あれ」
ジャコモの拳から光が零れた。ゆっくりと開いた掌上に、小さな太陽を思わせる光の玉が浮かび上がる。天井に放ると、その玉は炎に代わる照明となった。ジャコモは扉を閉める。先ほどまでとは違い厳かに、背筋を伸ばして息を大きく吸い込む。
主よ、天にまします全能の父よ。旋律に乗せて口ずさむのは讃美歌だった。
恵みと愛を無垢なる子らに。倉庫には大量の木箱が置き並べられていた。出入り口から二、三歩もすれば、両側を木箱に挟まれた狭い通路を歩くことになる。
主よ、天より遣わされる救世の天子よ。ジャコモは権杖の石突で木箱を開け、踊るような仕草で中から取り出した物を木箱の上に並べていった。
罪業全てを祓い清め給え。物寂しい通路を飾るように、木箱から取り出されたそれは十余を数えた。
心に愛の満ち足りたる。木目の茶色の上に青みがかった白い置物が並ぶ。
主の御恵みの満ち足りたる。華やかさの欠片もない地味な聖堂でも、ジャコモの軽快な足取りは変わらない。
やがてその足は奥の壁際で止まった。下げた視線の先には、やはり木箱が積まれていた。胸ほどの高さまで積まれた、さながら祭壇。ジャコモは氷のような表情でその蓋を開けた。皺だらけの手がその中へと差し入れられ、程なく何かをつかみ上げる。
両の手に一つずつ。箱から取り出され聖堂を飾るのは全て、青白く変色した、人の頭だった。閉じた目蓋に、張りの無い頬肉、だらしなく半開きの口腔には、当然生命の気配など無い。
ジャコモは笑みを浮かべた。その生首たちを、取り分け両手にぶら下げた二つを見ているだけで、怒りが静まっていくのが分かった。そして同時に、至上の歓喜が胸を満たす。
少なくとも生前は、美男美女と羨まれていた顔だった。色を失い、顔面の肉が垂れ下がっていても、元の美しさを損なわない、整った造作である。右手の男はダニエーレ・ディ・ルオマ。そして左手の女はその妻であるパトリツィア。ルオマ公夫妻の成れの果てだった。
甘美なる哉奇跡の響きよ。麗しき哉主上の声よ。ジャコモは振り返る。どうだと言わんばかりにその二つの首を掲げて、列を織り成す参列者に見せ付ける。首だけとなった彼らから、返事のあろうはずもない。参列者はいずれも、数日前までは元老会の名士として辣腕を揮っていた豪商たちである。閉じられ、あるいは見開かれた彼らの瞳にジャコモの姿が映るはずもない。
ジャコモの気分はいよいよ最高潮に達しようとしていた。結びの詞を口ずさみながら、目蓋を下ろして全能の神に、自身の全てを肯定される快楽に、身を委ねた。
絶えず栄える神のみやこに、今ひとたびの祈りを奉げん。
脳内に万雷の拍手を聞く。目蓋の裏に映るのは在りし日の情景だった。
紅顔麗しいジャコモ少年は、リティッツィの中央広場にいた。
下卑た罵りの声が、拍手の合間に聞こえる。屈強な男たちに組み敷かれ、ジャコモ少年は為す術もなく怯えた双眸を上げた。
名は最早忘却の彼方だった。時のルオマ公某は暴徒の頭目に案内されて口元を押さえながら少年を見下ろしていた。そしてその長い足先で、ジャコモ少年の眼前に皿を押しやった。
ジャコモは皿の上から目を背けたが、すぐに顔を掴まれ無理矢理に目を開かされた。否応もなく、それを直視する。執政議会の末席として名を知られていた父の虚ろな瞳が、彼を見ていた。
恐怖のあまりに失禁し、泣き叫ぶジャコモの耳に、男たちは囁いた。
食らえ。吐かずに飲み込めたなら、命だけは助けてやる。
涙と鼻水で顔中を汚しながらも、ジャコモの瞳は父の生首を見た。しゃくり上げるジャコモの呼吸に男たちの冷笑が同調し、いつしかジャコモの口も笑んでいた。
少年は父の、冷たくなった父の首筋に、歯を立て――、
ジャコモは目を見開いた。手にした生首を木箱に投げ入れ、こみ上げる吐き気を何とか抑える。最悪の気分だったが、最高の喜びもまた近くにあった。
ルオマ公の娘は生きている。ならば礼を、尽くさなければならない。
ジャコモは指で作った輪の中に息を吹きかけた。大気中のマナを振動させることにより特定の者に呼びかける『鈴』と呼ばれる『魔法』の一種である。熟練の魔法士なら言葉を乗せることも可能だったが、ジャコモはそれをしなかった。
直後、音もなく鉄の扉が動いた。両開きの扉が三寸ばかり開き、その間に暗い色合いの外套が佇んでいる。目深にかぶった頭巾で、その表情も性別も窺い知れない。頬の辺りにかかる黒い髪だけが微かに揺れている。
「公女を捕らえろ。必ず生かして、だ」ジャコモは告げ、口端を上げて十字を切った。「手引きした者には、神罰を与えてやれ。父と子と聖霊の御名によって」
外套は再び音もなく姿を消した。
ジャコモは再び十字を切った。その胸に神を思いながら、「エイメン」と静かにつぶやいた。




