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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第一章「エスパラム」
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三、夢

 懐かしい木の香りが鼻腔を満たす。折りたたんだ(すね)に当たるのは硬い板張りの感触である。素材が何であったのか英二は覚えていないが、祖父曰く「こだわりの天然物」であるとのことだった。文化庁の役人に無理を言って建て替えてもらったのだとご満悦に語る祖父の様子が記憶に新しい。


 目を開けると、対面にはその祖父、内藤英斎が座していた。袴姿に当然防具など無く、ぴしっと背筋を立てて真っ直ぐに英二を見つめている。稽古の始めと終わりの時だけ見ることのできる、貴重な祖父の真顔である。


 無言のまま傍らに置いてある木刀を手に取り、二人はゆっくり立ち上がった。


 英二は正眼に構え、対する祖父は八双だ。右肩辺りに剣を立てるその構えは、差しの勝負においてあまり合理的な構えとは言い難い。得物と相手の距離だけを見れば断然英二に分がある。

 しかし、祖父の構えには踏み込むだけの隙が無かった。


(ちょっと踏み出して突けばいい。持ち手と反対の左肩を軽く突いて、そのまま体側を左に回しながら相手の反撃を受ければ、俺の有利が維持できる)


 理屈に問題は無かった。にもかかわらず行動を躊躇(ためら)うのは、祖父の斬撃の速度を計算出来ないからである。経験から来る恐怖心も、英二の体を鈍らせる。


 考える間に、祖父の側が動き出した。八双のまま、英二の正眼に正面から踏み込んでくる。英二が半歩進めば、剣先は祖父の体のどこかしらに触れるだろう。


(斬、いや、突いた方が)


 速い。迷いは一瞬だった。英二は倒れこむように体重を乗せて木刀を突いた。同時に脇の下を微風がそよぐ。


 寸止めを忘れた渾身の突きは、何らの手ごたえも無く中空に制止した。正面に祖父の姿は無く、視線を左下方に動かすと英二の腋下には祖父の木刀がぴたりと据えられている。左足前の八双はいつの間にか右足踏み込みからの斬り上げに変わり、そのまま剣をあと五センチも進めれば英二の動脈を両断していることだろう。


 英二が敗北を悟ったと見るや、祖父は木刀を下ろし微笑んだ。


「この距離じゃあ一瞬でも迷ったら駄目だよ。それと、突きは点、斬りは線っていつも言ってるでしょ。もう忘れちゃった?」

「突きは当て難いし外した場合のリスクもあるから確実な時と屋内以外では使わない」

「そういうこと」うんと肯いて祖父は続ける。「最初の発想は悪くなかったけどね。突きを囮にして均衡を崩す。その先も読めてればあんなに迷うことも無かったろうに。駄目だよ考えがまとまらない内に間合いを詰めさせちゃ。パニックで居着いて動きが鈍っちゃうんだから」


 口に出していたわけでもないのに英二の考えは筒抜けだった。これが夢で目の前に居る祖父が英二の自我から生まれた虚像だから、というわけではない。現実の祖父も超能力者のように冴え渡る感性で常日頃から立会いの相手を翻弄していた。とはいえ、英二が夢を見ていることに変わりは無いのだが。


「基本の五行については悪くないね。良く励んでいると思います」

「マジで? やった」ぐっと小さくガッツポーズ。敗北のショックも忘れて英二は大きく伸びをした。

「問題なのは応用系かな。相手がいないと掴みづらいからね。型稽古だけじゃどうしても……そろそろ時間みたいだ」


 祖父の言葉に答えたのは英二ではなかった。違和感に振り返ると、そこには白い袴の剣道少女が面を小脇に抱えながら待ち構えていた。


「さあ、英二君。デートしようか」


 いよいよもって夢の実感が強まった。腰まで届く長い髪を手ぬぐいでまとめるその少女は、英二のことを名前で呼んだりはしない。


「ゆ、百合原さん」


 夢だというのに、英二の顔は赤面していた。いや、夢だからというべきだろうか。気持ちの高ぶりを抑えられない。


 甘い香りを振りまいて、百合原真菜はきびすを返した。思わず英二は追いかける。道場の外はまばゆい光で満ちていた。


「いってらっしゃい」背後で祖父の声がする。


 振り返ると、光の中にもう祖父はいなかった。





 驚いて目蓋を開ける。窓も壁も無い長屋に朝の微風が心地よい。空は早くも白み始めていた。体を起こし周囲に目をやると、起きているのは英二だけだった。


 自ら頬を叩いて目を覚ます。音を立てたのはその一度だけ。仲間達の至福の眠りを妨げないように、英二はそっと長屋を出た。


 忍び足で向かったのは長屋の裏に掘られている井戸だ。喉を潤し、軒下に隠しておいた棒切れを取り出すと軽く素振り。体調は良好、周囲に人気は無い。大きく息を吸い深く吐くと、英二は日課を始めた。


 思い描くのは祖父の八双。左足をやや前に出し、右は肩と共にわずかに引いて剣は少しだけ前傾させる。トレースは自画自賛してしまいたくなるほどに完璧だ。が、問題なのはこの先の動きである。


 英二は目を閉じ、敵の姿を想像した。構えは正眼。こちらまでは約一歩の距離。間合いは断然有利であるのに、攻めあぐねた様子でその場に居ついている。想像の中で対峙するのは夢の中の自分だ。


 まずは左足から半歩踏み出す。敵の剣先はすぐ目の前。びびって退きそうになるのをぐっとこらえ、相手の反応に集中する。


 英二の記憶するとおりなら、躊躇は一瞬だった。動作の起点を消した即座の突き。容易に避けられる距離ではないはずだ。


 だが祖父はその間に体を入れ替え、刀を返していた。右足から踏み込み、同時に斬り上げた刃が敵の脇を下から切り裂く。


「……そうか」


 動作を真似ながら英二は気づいた。正対した状態から右足を踏み出せば、その場にとどまった左半身が隙だらけになる。それを防ぐため、踏み込みは同時に左足の後退も行わなければならない。敗北のからくりはいかにも単純だった。英二が「突く」という一つの動作を繰り出す間に、祖父は「避ける」「斬る」という二つの動作をこなしていたのだ。


 恐るべきはいくら力量に差があるとはいえ、いとも容易(たやす)く相手の間合いに踏み込んできた祖父の度胸である。もし祖父の助言どおりに英二が「斬る」ことを選択していたら、勝敗はまた変わっていたかもしれない。真剣での勝負ならば、敗北は即ち死を意味するというのに。


「……いや」


 待てよ、と英二は思い直す。稽古とはいえ、祖父は一か八かの勝負はしない人だった。祖父が迷わず踏み込んだということは、「英二に斬られることは無い」と確信していた証左でもあるのではないか。


 新たな疑問は間もなく氷解した。答えは互いの構えにあった。


 思い返してみれば、英二はあの時祖父の左側から攻めることばかり意識しすぎていた。元々が持ち手の逆を狙った突きを画策していただけに、正眼に構えた剣先がやや右に倒れていたのだ。


 八双に構えた祖父の左半身はいかにも格好の的に見えたが、それこそ術中だった。英二が迷う内に祖父は間合いを詰め、選択肢を狭めた。正眼なら「斬り」より「突き」の方が速く出せる。加えてあの至近距離では「斬り」の動作に祖父の攻撃が追いついてしまうかもしれない。

 なんとなれば、英二の剣先と祖父の持ち手はわずか十センチほどの距離に肉薄していた。英二に祖父の正中が斬れるならば、祖父にもその剣先を鍔元で抑え、英二の刀を叩き落とすことが可能なのである。

 咄嗟(とっさ)の判断は正確さより速さを求めた。より速ければ避けにくくもなる。


 かくして、英二は突き、祖父はそれを避け得たのだった。


 隙が無いなら作ればいい。敵の動きを制し、真正面から不意を打て。祖父が日ごろよく口にしていた言葉を英二は思い出した。今にして思えば、あの八双こそ英二の意識を誘導するための罠だったのだ。


 忘れないうちにと、英二は祖父の切り替えしを反復した。繰り返し、繰り返し、それこそが英二の日課だった。


 救いの無い現実を直視することになった英二は、それでも鍛錬を怠らなかった。意味など無いのかもしれない。ただ疲れるだけかもしれない。笑われていることだって知っている。


 しかし、それでも、武術を捨てるわけにはいかなかった。


 言葉を覚え、生活にも慣れてきた英二の脳裏には、ふとよぎる事があった。あるいは、日本などという国は存在しないのかもしれない。地球そのものが、哀れな奴隷の夢見た幻だったのかもしれない。


 鍛錬はその不安をかき消す魔法だった。技の一つ、型の一つを身につければ、それだけ元いた世界が肯定された。日本人、内藤英二の十五年を証明するものは、最早彼と祖父ら一族の培ってきたこの技術以外に無い。もし英二が鍛錬を止めてしまえば、地球も、日本も、この世界から消えてしまうのだ。


 不自由など無かった。多少は退屈を感じることもあったかもしれないが、明日を思えば辛苦しか予想できないこの世界に比べて、日本での十五年の日々はなんと素晴らしき毎日だったことだろう。


 英二はやはり、武術を捨てるわけにはいかなかった。あの温かく優しい世界を、奴隷の夢などにしてしまうわけにはいかなかった。


 気づけば影の輪郭が濃くなっていた。長屋の中から篭った話し声が聞こえる。早い者はもう起床しているようだ。


 足音に英二は振り返る。眼をこする少女も先客に気づいた。


「あ、おはよう……クチナシ」

「おはよう、チキータ」


 英二は棒切れを軒下に戻して大きく伸びをした。

 あまり人目につくのも面白くないので朝の稽古はこれまでだ。次は仕事が始まるまで教会でアントニオの説法を聞く日課が待っている。とりあえずは汗だくの頭に水でもぶっ掛けて、乾かしがてら教会まで歩法の練習でもしようか。考えながらチキータが水を汲み終わるのを待っていると、彼女の所作の違和感が気になった。


「足、どうしたの?」


 かばうように浮かせた右の足首が腫れている。


「……転んだ。昨日」患部に水を掛けながらチキータは答えた。捻挫のようだ。

「痛む?」

「ちょっとだけね。あんたも、こっちの目ひどいよ」


 チキータは自らの左目尻をとんとんと指で叩く。彼女が言うのは英二の左目蓋にある青あざのことだ。昨日、午後の作業に遅刻した(とが)で監督役に殴られた時にできたものだった。


「俺はまあ、見えるし大丈夫だよ」


 しかし足は、と英二は思う。足を引きずったままで畑仕事など可能なのだろうか。怪我だって悪化するし作業だって捗らない。いい事などないだろう。と言って彼ら奴隷は療養のための休暇をもらえる身分でもない。ガルデニア王国は南に下れば下るほど命の値打ちが下がっていく。最南端たるこのエスパラムはベルガ村において、奴隷の命は家畜のそれと大して変わらないのだ。


 彼らの命は、いってみれば消耗品だった。使えなくなったら捨てられる。そこに男女の別はなく、時に老若すら問わずに命を奪われることとてあった。


 これだけ腫れて、歩くのに足を引きずって、その痛みがちょっとだけのはずがない。それでも無理を言わぬのは、このやせ我慢が彼女にとっての死活問題だからである。


 英二はあまりにも身近な死の存在にあらためて恐怖を覚えた。今チキータは、英二と歳も大して変わらないこの少女は、英二よりずっと死に近いところにいる。このままの生活を続けていれば、遠からず彼女の命は失われてしまうだろう。動けない奴隷が容易に生きられるほど、この世界は優しくはないのだ。


「そうだ」と、突然英二は手を叩いた。奴隷にも優しい心当たりが、英二の知る中に一人だけいた。

「教会に行こうチキータ。導師が診てくれるよ」


 英二の提案にチキータはぶるぶると首を振る。


「無理だよあたしには。供物もないし、字だって」

「足を診てもらうだけだ。金なんて取らないし、説法だって聞く必要はないよ」

「でも」と言いよどむチキータの手を引いて、英二は早くも歩き出した。

「ほら早く。朝の内なら人が少ないからすぐ終わるし。おぶってこうか、教会まで」

「いい、自分で歩けるから」


 手を振りほどき、チキータはうつむいた。耳の先まで真っ赤にして、それでも英二の後にゆっくりと続く。


 肩を貸そうかとも考えたが、大人の男が苦手だと、以前彼女が話していたことを英二は思い出した。この世界の人間は十五で成人を迎えるらしい。となれば英二も立派な大人なのである。


 英二が歩調を緩め、二人は並んで奴隷区を後にした。


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