十九、感情
レノーヴァの街は酔っていた。戦に勝ち、富を得、酒食を得、暴力の甘美を知った元農奴、や浮浪者、傭兵崩れ達は飽きることなく連日連夜のお祭り騒ぎ。朝から晩まで酒を飲み、商人から奪った金で買い付けた奴隷達をこき使って、いつ終わるとも知れない人生を謳歌しているのである。
咎めるものなどいないため、図らずもこの地上に品のない楽園が生まれていた(彼らに都と安寧とかけがえのない家族を奪われた元レノーヴァの上流階級の者達に限っては、地獄以外の何ものでもなかったが)。
永遠に酒の抜けることがない楽園の住人は、他人に頓着する習慣を持たなかった。
故に、珍妙な馬を連れて密かに都市を出る怪しげな五人組を、気にかける者は一人としていなかった。
夜闇が一行の姿を都合よく隠してくれた。はや一刻程は歩いただろうか。
英二は街道を振り返った。二里余りの距離に、不夜城と化したレノーヴァの明かりが見える。城外市も、そろそろ末端の辺りまで来ているらしい。家並みもまばらで、人の気配はますます乏しい。念のため地に耳を当ててみるが追っ手の気配も無いようだった。
英二はボリスを見て肯いた。二人は素早く馬竜に騎乗し、特別急いできたわけでもないのに息を切らせているルオマ公姫達に手を差し伸べる。
「これに、乗るのですか」
アンジェリカは不安そうに馬竜を見た。英二の愛馬は「文句あるの?」と言いたげに鼻息を吐く。
「問題ありません。よく人に馴れています」
そう聞いても公姫は手を取ろうとはしなかった。今になってアンジェリカは軽はずみな行動を悔いていた。このような怪しげな一行に加わらなくても、あそこで待っていればいずれ助けが来ていたかも知れない。
何故って私たちはルオマ公姫だから。ルオマに住む者は身分の高低に関わらず、ルオマ公の娘にかしずく義務を負っているのだから。
都合のいい発想は幼さゆえの現実逃避であった。いくら気丈に振舞おうとしても、アンジェリカは今年十三になるばかりの少女に他ならない。
「早くしてくれよ」焦れたボリスが馬首を寄せる。「こっちは気が気じゃねえんだ。いつ追手が来るとも知れねえ」
その言葉にアンジェリカは息を飲んだ。現状に、逡巡する自由はない。と言って振り絞った勇気で手を伸ばそうとした矢先、突然振り仰ぐ馬竜の目が彼女を見る。手を噛まれるのではないかと言う恐怖が小さな勇気を一瞬で無にした。背後で舌を打つ音が聞こえる。アンジェリカの目に、また涙がぶり返してきた。
あにはからんや、姉を救ったのは妹のガブリエッラだった。アンジェリカより三つ下の彼女は姉の外套を強く握っていた手を放すと、そのまま両手を英二に掲げた。少女の小さな体を拾い上げた英二は難なく鞍の前部に座らせる。
「姉さま、怖くないわ」無邪気な手に首筋を撫でられ、馬竜も目を細めた。「全然平気よ。少しお尻が痛いけど、平気」
妹の姿を見てアンジェリカは再び勇気を取り戻した。きつく目を閉じ、
「分かりました。私も乗ります」言って両手を英二に差し出す。
「あの、殿下」英二は困り顔でそれを見下ろした。「申し上げにくいのですが、三人も乗ると馬が疲れてしまいます。分乗していただけると」
「そ、そんな」アンジェリカはとうとう潤んだ瞳から涙をこぼした。「分かれて乗るなんて、できません。ガビーには私がいないと」
二人の表情を見比べれば苦しい言い訳だと誰もが気づいただろう。痺れを切らしたボリスが英二にあごをしゃくる。
「乗せてやれよ。三人っつっても女子供なら勘定には入らねえだろう」
唾を吐くボリスには小狡い思惑があった。追手を警戒しながらの逃避行で、足の遅さは致命的な不利となる。馬を疲れさせたくないのはボリスとて同じであったし、敵の目的が公姫である以上、追いつかれればその攻撃が集中することは必至だった。
面倒はご免だ。ボリスは不満を隠そうともせず馬腹を蹴った。ペペが慌てて後を追う。
英二には負い目があった。素っ気ない態度は半ば強引に二人を巻き込んだ自分に対する当然の反応だ。英二は心中で愛馬に詫びを入れながらアンジェリカの手を取った。前にはすでに妹の方がいる。腰を捻ってなんとか尾の付け根へ姫を乗せた。
両手に、もとい前後に花の格好だが、英二にその状況を楽しむ余裕は無い。無理に力を入れたため、左腕の傷口が開いていた。雑に巻いた包帯の赤い染みが大きくなっている。折悪しく小雨も降り出した。ただの雨滴が傷口を突くように痛い。
いや、これは幸いか。英二は思い、馬腹を蹴る。雨が強くなれば、人目も足音も、多少は誤魔化せるかも知れない。この痛みがあれば、まかり間違っても眠り落ちてしまうことはないだろう。
愛馬は駆け出した。背に負う荷の重さを感じさせない快速だ。
程なくボリスらに追いつき、三騎は轡を並べて街道を西へ。越境の際に通ったルオマ南西の関所を目指す。
「確かなんだろうな、クチナシ」
ボリスが呼びかける。当然聞こえているが、英二は答えない。
「おいって」
「そんな名前のやつは知らない」
ボリスは舌を打った。やや間を空けて口を出るのは彼が始めて呼ぶ名前だった。「……エイジよ」
「確かって、何が」英二は答えた。何気ない風を装っているがその口元は自然と笑んでいる。
「テメェが言ったことだ」照れと腹立たしさがボリスの語気を荒くする。「ジャコモは、確かに負けんのかよ」
「ああ」英二は肯いた。「ジャコモは負ける。この乱が終わるのに、そう長い時間は掛からないよ」
ボリスにとって納得できないのは英二の言葉に明確な根拠が示されていないからだった。何故そう言えるのか、問われた英二は一言「歴史が証明してくれてる」と言ったきりで多くを語らない。歴史に詳しいはずもないボリスだったが、一領地を挙げて農民が貴族を打倒するジャコモの蜂起が、ガルデニア王国史上類を見ない規模の大反乱であることくらいは分かっていた。
語らないのも道理で、英二は自論の根拠を王国史には求めていなかった。彼が根拠としたのは数千年にも及ぶ彼のよく知る歴史であった。中国史を振り返ってみれば陳勝・呉広の乱を始めとした農民の反乱は近世太平天国の乱に至るまで定期的といって良いほど頻繁に繰り返されてきた。
それらの一部が当時の王朝を崩壊させるきっかけになったことは英二も理解する事実である。しかしながら世界史全般を振り返ってみれば、中国大陸における革命的一揆はごく少数の例外と言えた。
百年もの間支配力を維持してきた加賀の一向一揆は、実際には周辺国の政治的判断により討伐を免れていたに過ぎないし、目を西洋に向ければジャックリーの乱、ワット・タイラーの乱、ドイツ農民戦争と、いずれも初動で目覚しい成果を挙げたものの、結局は体制を変革するまでには至らなかった。
加えるなら中国でしばしば見られた王朝を打倒する規模の反乱も、その勢力を維持できたのは長い例で二十年前後。反乱に未来と希望を見ろといわれても、英二にしてみれば無理のある話だった。
何より英二が問題を感じたのはジャコモという指導者の人となりだった。多数の農民をけしかけ、この短期間で二つの都市を陥落させた手腕に疑うところはない。扇動者として、また、戦略家として、無能というわけではないのだろう。
だが、人の上に立つものとしての能力は、レノーヴァの惨状を見る限り、十字軍とやらの蛮行を聞く限り、決して有能とは言い難かった。
おまけに気に入らないのはジャコモ・レイという名前だ。英二は益体もない思考を巡らした。ジャコモはフランス語や英語ではジャックとなる。農民を先導し、指揮するジャック・リー。なんとも縁起の悪い名前じゃないか。
「そうだ」英二は肯く。「あんなやり方で、人がついてくるはずがない。あんな奴に神の国なんか築けるはずがないんだ」
仮にジャコモがナポレオンのような天才で、ルオマ領民が挙国一致の姿勢でこの反乱に臨んだなら、あるいは革命はなったのかもしれない。身分制度は崩壊し、ただ頭上に神を戴くだけの楽園のような国が、生まれたのかもしれない。
しかし、ジャコモは誤った。ルオマ領民はジャコモの弄する姦計に乗ってしまった。
故に革命はならない。これは革命ではなく、反乱でしかないのだから。
考えれば考えるほどジャコモへの否定が絶えず浮かんでくる。その根拠に乏しい感情に頼った自信は、信心深い者が神に対して抱く信頼と最早大差なかった。
義憤から起こした行動だったが、やはり最終的には好みの問題だった。英二には顔を見たこともないジャコモ・レイという男のやり方が、どうにも気に食わないのだった。




