十七、決別
どこをどのように通ってこの詰め所に帰り着いたのか、英二は覚えていなかった。足は自然と駆けていた。これまでの道程で蓄積した疲労などは、一歩ごとに忘れていった。
熱を上げる群衆に背を向けて、英二を急かすのは強い感情だった。
それは怒りであり、悲しみであり、嘆きであり、焦りである。その全てをたった一語で表すならば、義憤という言葉が適当だった。
何とかしたい。何とかしなければ。こんな非道は許されない。見過ごしていいはずがない。
理不尽な暴力に、ただ虐げられようとする少女たちの姿が、耐え難い激情を英二にもたらしていた。詰め所中をひっかき回すようにして、英二は何かを探した。罪の権化だと。何をしても許されるだと。そんなふざけた話があるか。そんな滅茶苦茶な理屈で、アントニオの六芒星を汚したのか。
手が、重みのある何かをつかんだ。懐かしさを覚える、木の手触りだった。
両手で捧げ持ってみる。少し細めの、長剣のようだ。鯉口を切ってみれば、その細さの理由はわかった。剣身が、いや刀身が薄い。刃も片側にしかないのである。反りがなく、柄も鍔も両刃の長剣と同じ造りのため、抜いて見なければその不自然さには気づかない。西洋剣の柄に日本刀の刃を無理やりくっつけたような、なんとも奇妙な直刀だと英二は思った。
不思議なことに、その刀もどきを見ていると、胸中を渦巻く激情が小さく、しかし決して消えたりはせずに凝縮されていくのを感じた。些細な迷いや躊躇だけが、胸の内から消えていくのを感じた。
物音に振り返る。息を切らしたボリスが、膝に手をついてこちらをにらんでいた。
「何なんだよ、テメェ。いきなり、血相変えて」
英二は刀もどきを腰紐に差した。ボリスと正対する。口は勝手に言葉を紡いだ。
「あの子達を、助ける」
「はあ?」
ボリスは困惑に顔をゆがめたまま言葉を返せなかった。英二は噛んで含めるように繰り返した。
「あの女の子達を、ルオマ公の娘を、助けるんだ」
「気でも触れたのかテメェ」ボリスはようやく言葉の意味を理解した。「何でそんなことする必要がある? はあ? 意味わかんねえ」
「何でかって? そんなの」
正義のため、言いかけて英二は言葉を切った。違和感が脳裏をよぎる。正義などと、そんな大層な理由ではないはずだ。正しさなどというものは所詮、立場が変われば容易に変わる。人命に至上の価値を定めながら、正義という言葉はその価値を減じるために幾度も用いられてきた。分けても顕著なのは戦争だった。古今あらゆる戦争行為が、各人の掲げた異なる正義のために行われてきたことを英二は知っていた。その愚劣きわまる歴史を知っていればこそ、正義を理由に何かを為すことは、神の名を免罪符にして非道を重ねるジャコモの同調者達となんらの違いもない愚行であると断じざるを得なかった。
正しさとは人に押し付けるべきものではない。正義とは、行動の絶対的指標にはなり得ないのだから。
ならば何故、あの少女たちを助けると言うのか。
飾る必要はなかった。答えるべきは至極単純にして明快な言葉だった。正しさも生命の尊さも、どれだけ理屈を説いたところで、これに勝るとは思えない。英二はまっすぐにボリスを見た。
「そんなの、嫌だからだ。罪もない女子供が、無残に殺されるなんて俺は嫌だから、だから助ける」
「ぬかしてんじゃねえ!」ボリスは英二の胸倉をつかんで声を荒げた。「そんな馬鹿みてえな理由で」
「ああ、感情だよ。好き嫌いだよ。馬鹿みたいで何が悪い!」英二は一歩たりとも退かなかった。ボリスの胸倉をつかみ返して、殴りかからんばかりの勢いでまくし立てた。
「あの子達だって、馬鹿みたいな理由で命を弄ばれようとしてるじゃないか。政治が悪い、暮らしが良くならない、その恨みを領主にぶつけたくなるのは、確かに筋の通った話かもしれない。でもその罪を子供にまで問うのは、間違ってる。あの子達が、何かをしたわけじゃない。あの子達に、何かができたわけでもない。それなのに、あんな扱いはただの八つ当たりだ。誰が聞いたっておかしいとわかる、馬鹿みたいな話だ。違うか」
熱弁する英二の剣幕に、ボリスは圧倒されたようだった。思えば英二が、この二年でこれほどまでに熱く何かを訴えたのは初めてだったかもしれない。
そこに、ペペが戻ってきた。状況もわからぬまま、慌てて二人の間に割って入る。
「よせよ。兄貴も、クチナシも、喧嘩しないでくれよ」
流石の馬鹿力だった。必死のペペに引き離されて、ボリスは英二を放した。一方、英二は自由になった手を不意に腰へと伸ばした。
「く、クチナシ」ペペは青ざめ、
「テメェ、何の真似だ」ボリスは険しい表情で後ずさる。
英二の手には短剣が握られていた。逆手に構えられた短剣は、かすかに震える正拳と共に、その突き出した刃で一線を引いた。容易には近づけない迫力が、ペペとボリスを居竦ませた。
英二は深く呼吸して、おもむろに柄頭を上向けた。唾液を飲み込む。のどの渇きは癒えない。それでも、その鋭利な切先から目を逸らすわけにはいかなかった。
「俺は、クチナシじゃない」
震える声で告げ、手首をひねる。短剣の先端が示すのは、自身の左腕。鼓動が早くなる。息が苦しい。それでも、この手を、止めるわけには、いかないのだ。
「奴隷のクチナシは、今日、死ぬんだ!」
英二は短剣を突き刺した。切先は二年も前にベルガ村で刻まれた焼印を正確に捉えていた。苦痛に顔がゆがむ。汗と涙が頬の上で混じり、あごの下を滑って落ちていく。なおも英二は左目だけをわずかに開けて、皮膚に残る黒い痕を抉り取るように短剣をひねった。噴き出す鮮血が刺し傷を赤く塗りつぶし、英二がベルガ村領主の所有物であった証は、とうとう姿を消した。
「ペペ、ボリス」呻き声を噛み殺しながら、英二は短剣を抜いた。「本当に、このままでいいと思うのか」
二人は答えない。血の迸る左腕をぶら下げたまま、英二は続ける。
「勝てる見込みもない一揆に参加して、何の縁もない商人や貴族と戦って、それがあんな思いをしてまで村を出て、やりたかったことなのか」
激痛が英二の言葉を止めさせた。その間にも、二人の口から反論は出てこない。英二の感情は止まらなかった。
「一緒だ、このままじゃ。このルオマで、農奴や浮浪者と、虐げられてきたやつらと一緒になって、同じことを繰り返すだけだぞ。それでいいのか? そんなのでいいのか!?」
良いわけがない。わかりきった確認を、英二は求めなかった。英二が求めたのは、ほんの少しの勇気と、決断だった。
「自由になるために、村を出たんだろ!? 戦ったんだろ!? だったら」
真っ赤に滴る短剣の切先が、ペペとボリスに向けられる。英二は持ち手を返した。柄頭を相手の側に向け、言葉を搾り出す。
「決別、しろよ」耐え難い苦痛を唾液とともに嚥下して、続ける。「奴隷としての人生から、きっちり決別するんだ。自分の手と、意志で」
床に落ちる赤い滴がペペをますます竦ませる。想像した痛みのためか、涙で潤んだ瞳は兄貴分に救いを求めた。
ボリスは剥き出しの歯を軋らせた。耳の先まで真っ赤に染まり、怒る目は差し出された短剣と、それを持つ英二から離れない。
止め処なく落ちる赤い斑点が時を刻んだ。
やがてボリスは手を伸ばした。その手が握ったのは、眼前に差し出された短剣ではなく、彼自身が腰に提げた長剣の柄だった。
煌びやかな剣身が露わになる。当然のこと、その間合いは英二の短剣と比べれば倍以上になった。怒れるボリスは相変わらず英二を睨み、片手持ちの長剣を上段に掲げた。
「テメェ、生意気を」苦虫を噛み潰した歯の間から声が漏れる。「言うんじゃねぇ!」
長剣が風を切る。ペペは思わず顔を背けた。




