十二、聖アウグスタの御加護
俊足にして長駆を誇る一角馬騎兵およそ二百は、マリオに率いられて先行した。
その後方を三町ばかり空けて、普通馬の重騎兵およそ八百が混乱しながらも何とか二列縦陣を組んで後を追う。先導するのはピーノだった。
中衛に位置するルイジは急な出撃を聞きつけてばらばらと関を出てくる歩騎兵をまとめ、非常に簡素な作りの敵陣を拠点に逃げ惑う敵歩兵の掃討、捜索を指揮した。関に多少の守りを残して、数はおよそ二千五百。退こうと思えばいつでも関に戻れる位置関係からか、隊列も組まず緊張感のない野良探しを続けていた。
後半刻ほどで夜も明けようかという時刻だった。この時、戦場たる平野は「リトニアの一角獣」の独壇場と言えた。
敵兵は逃げるばかりで戦おうとせず、闇が少しずつ晴れるにつれ、彼らの勝利への自信は確固たるものとなっていく。故に誰一人、止まろうとはしなかった。
白み始める空を天佑だとマリオは思った。気配だけを頼りに追っていた敵の憎たらしい後姿が、次第にはっきりと見えてくる。距離は最早二十間もない。
「感謝いたします、聖アウグスタ!」
マリオは鞭をいれて一気に距離を詰めた。都合よく下る丘陵の勢いに任せ、右手に構える騎馬槍を無防備なその背中に突き入れる。
馬上のヴァルターは振り返りざまに長剣を抜き打って何とか槍を弾いた。しかし、不意に重心を傾けたためか、彼の愛馬が主を落とすまいと馬速を下げる。
マリオはその間に回り込み、ヴァルターの行く手を阻むように丘の斜面で馬を止めた。総大将に遅れをとった一角馬騎兵が続々集まってきてヴァルターを囲む。
五十からなる一角馬に周りを囲まれ、ヴァルターもとうとう馬を止めた。いつの間にか共に逃げていたはずの手勢は行方をくらまし、総大将ただ一人だけが敵中に取り残されていた。
「狼ってのは、薄情なもんだな」面頬を上げたマリオは皮肉たっぷりに言った。
「そう思うかい? だとしたら勉強不足だぜ、そいつは」ヴァルターは汗ばむ頬を肩口でぬぐいながら答えた。「裏切り、騙し合いが当たり前のこのご時勢にあって、狼ほど義理堅いやつらも珍しいと、俺は思うけどな。まあ、旦那にはわかんねえか。雇い主を裏切って、あの大都市を手に入れた旦那には」
その余裕のある態度が気に入らなかった。馬鹿にしたような薄ら笑いが癪に障った。マリオは愛馬の角が届く位置まで近づいて槍を突きつけた。
「強がるのはよせ。うっかり手を滑らせて刺しちまうかも知れねえ」槍先をヴァルターの喉元まで持ち上げる。「そうしたら、身代金がふんだくれなくなるじゃねえか」
言いながらマリオは期待していた。妙な動きをして見せろ。すぐに天の国へ送ってやる。
ヴァルターはマリオの期待通りには動かなかった。右手に下げた長剣をピクリとも動かさず、手綱から離した左手は息を荒くする馬の鬣を撫でている。
もう少し脅してやるか。マリオは周りを囲む彼の精鋭部隊にも聞こえるように声を張り上げた。
「折角の御加護だ。無駄にするのは罰当たりってもんだろう。え、違うか野郎ども」
聖アウグスタ、グリマルディ! 聖アウグスタ、グリマルディ!
マリオの配下は期待通りの反応を示した。手に手に騎馬槍を掲げては、声高らかに鬨を上げた。彼らの愛馬も従って、しきりにその誇らしげな角を上下させる。その様はさながら異端審問だった。
並の人間なら見ているだけでも失禁しそうな敵意の中心で、マリオの仇敵はまたも彼の期待を裏切った。
ヴァルター・ベレ・フォン・エッセンベルクは、笑っていた。割れんばかりの鬨を聞いて、仰け反りそうなほど大口を開けながら、なんと大笑いをしていたのだった。
「何がおかしい!」
マリオは無抵抗のヴァルターにあえて槍を突きつけた。ほんのわずかでも手を動かせば、薄い碧眼は真っ赤に染まることだろう。緊張感が気性の荒い一角馬をも静まらせた。それでもヴァルターの余裕は消えなかった。
「何がおかしいって旦那、おかしくねえことなんてあるのかよ、え?」ヴァルターは左手を耳元に当てて目顔で後方を示した。「よく耳を澄ませて聞いてみな。聖アウグスタのご加護がどこにあるって?」
軍馬のいななきが聞こえた。無数の蹄に蹴られた大地が、雄たけぶように震えている。
マリオは当然のこと、それが自分を追いかける部下のものだと思っていた。出陣の触れを聞いていた兵は千を数えたはずだった。マリオと共に敵陣に突撃をかけた一角馬騎兵は欠員なしの二百。そしてその後に続く重騎兵が、少なくとも五百はいるものと思っていた。
だとすれば、いくら一角馬の足が格別の速さを持っていたとしとも、これだけ時間を経て後続が追いついてこないのは、どう考えても不可解だった。二百の精鋭一角馬騎兵も、未だ五十ほどしか集まっていない。
謎はそれだけにとどまらなかった。喧騒と悲鳴と怒号に紛れて、時折聞こえる鬨の声は、マリオ達が突撃の最中高らかに叫んでいたものとは違うように聞こえた。
距離がありすぎて聞き取り辛い。そう思った瞬間、マリオは全身の血の気が引いていくのを感じた。気づけば彼の誇る「ルオマの壁」は、一里の彼方に遠ざかっていた。いや、実際に遠ざかっているのはマリオだった。追撃に集中するあまり、マリオは一里近くも本陣たる関所から離れていたのだ。
開けた野原に伸びきった隊列が見える。遅々として進まない理由は夜明けの兆しが教えてくれた。マリオから向かって左手に、大河の奔流を思わせる人馬のうねりが微かに見える。掲げる軍旗は当然「リトニアの一角獣」ではない。急な陣触れにあれほどの軍旗を用意する余裕はなかった。
後続部隊は横合いから迫るその敵に気づいて、おそらく立ち往生していた。敵に備えろ。旋回、旋回。退避運動を。隊長殿はどこだ。よく見れば後続の混乱に気づいた一角馬騎兵の大半が慌てふためいて援護に向かっている。騒がしく叫ばれるのは、明らかに統制の取れていない集団の混乱だった。
一方、敵と思われる人馬の塊は大音声で聖人の加護を祈っていた。次第に鮮明になるその声はこう聞こえた。
「聖ジョルジュ、エスパラム!」
突然の声にマリオは身構えた。反射的に槍を動かそうとしたが、微動だにしない。見ればその先端をヴァルターが左手で掴んでいる。ヴァルターは再び叫んだ。
「聖ジョルジュ、エスパラム!」
聖ジョルジュ、エスパラム!
突如、ヴァルターの叫びに呼応する声が上がった。左右から、後方から、前方からも。振り返ればヴァルターを囲むマリオたちは、五十あまりの軽騎兵に逆包囲されていた。疑いようもなく、ヴァルターと共に逃げていた者たちだった。
「ほら、勉強不足だった」ヴァルターは口角を上げた。
一角馬騎兵は慌てて馬首を返した。が、角同士が邪魔になって思うようにいかない。
歴戦の軽騎兵達は威容を誇る一角馬の尻目掛けて、抜剣と共に突撃した。




