二、二年前
気づけば目の前にあるのは赤い壁だった。押しても引いても拒むことなどできない巨大な壁に、英二は今にも押しつぶされようとしていた。
ややあって、英二は自分の四肢がその壁を押すことも引くこともしていないのだと分かった。手足の感覚が希薄で、指一本すら自分の意思で動かすことができていない。
その段になって初めて、英二は目の前にあるのが大地で、自分がそこに倒れ伏しているのだと気づいた。
同時に襲ってきたのは激しい頭痛と耳鳴りと吐き気と眩暈と動悸だ。喉奥から固形に近い液体がせり上がり、呼気を塞いで排出される。鼻も目も耳も、止めどなく噴き出る体液に塗れて赤く染まった。最早意思では動かない体は、苦しみのためにのた打ち回った。
土ぼこりを巻き上げ、大地に転がり、叫ぶこともままならず、英二はただ苦しみながら意識を失った。
次に目覚めたのは薄暗い一室だった。
ひどい喉の渇きと頭痛が英二の思考をぼやけさせる。重いまぶたを押し上げて、まず見えたのは低い赤土色の天井だ。照明が弱く視界がはっきりしない。
首をめぐらすと、右手には天井と同じ色の壁が、左手には黒い格子と光源が見える。光源の側には人影があった。ぼろぼろと裾のほつれた服をまとっている、男性のようだ。椅子に座っている。
頭が痛い。喉が渇いた。助けを求めて手を伸ばすと、男は立ち上がり、どこかへと消えていった。
「待っ……て……」
英二は必死の思いで寝返りを打った。全身が重い。だが手足の感覚はある。夢中で格子に這い寄ると、男は新たに二人を連れて戻ってきた。何事か話している。だが聞き取れない。理解できない。顔を上げてよく見れば彼らは日本人の顔立ちではなかった。話している言葉は、少なくとも英語ではないような気がした。
それでもすがる気持ちで、英二は声を絞り出した。
「ヘルプ……水……」
衝撃が英二を突き飛ばした。遅れてやってきた痛みが鼻先に弾ける。
仰向けに倒れた英二はかろうじて目線だけを動かして三人を見た。真ん中に立つ太った男の足が格子を蹴りつけている。どうやらあの足で蹴られたらしい。何事か吐き捨てる肥満男の突っかけを椅子に座っていた男が布で磨き、もう一人の男、スキンヘッドがそのデブに詰め寄っている。
鼻腔から一筋血が落ちた。もう何をする気力も無い。何故か英二は全裸だったが、それも最早どうでも良かった。意識が薄れれば自然と頭痛も弱まっていく。誘われるままに英二は再び眠りに落ちた。
体力は大分回復した。頭痛も治まり吐き気も無い。
世話をしてくれたのはスキンヘッドの男だった。身振り手振りで知りえた男の名はアントニオというらしい。イタリア系だろうか。顔立ちにもどことなくラテンの雰囲気がある。しかしイタリア人というわけではないらしい。試しに「ボンジョルノ」と言ってみたら怪訝な顔をされた。
ともあれ意識が鮮明になれば、見えてきたのはなんだか奇妙な現状であった。
この狭い土壁の部屋はどうやら地下牢のようだ。格子は金属製でとても容易に出られるような代物ではない。
奇妙といえば彼らのいでたちは相当変わっていた。初めて見た時から違和感はあったが、よくよく見れば牢番の服装はどうにも野暮ったい。生地の粗い布でとりあえず服の体裁を整えたといった飾り気の無いノースリーブ。それなりの年齢に見えるのに下半身は同じ素材のハーフパンツで膝頭から下の生足が見たくもないのに丸見えである。当然のように上下は同色。手作りなのだろうか。
アントニオの方は多少ましに見えたが、単に面積が多いだけで生地の質自体は大差なかった。あまり裕福ではないのか、神父の着るような黒い長衣の上から腰を荒縄で縛っている。ズボンらしきものはなく、一見それはワンピースのようにも見えて、初見の時は引いてしまった。
まあしかし、現在布切れ一枚を腰に巻いているのみの英二にとやかく言う権利は無いかもしれない。ちなみに布切れをくれたのはアントニオだった。
食事は朝晩二回アントニオが運んできてくれる。主食は硬いパンのようなもので、ざらざらとした舌触りに馴染みの無い味だった。コンソメ風の薄いスープも付いているが、ごく細かい野菜のかけらが浮いているのみで、ほとんどぬるい水である。はっきり言って旨くはない。
皆こんなものを毎日食べているのだというならやはりイタリア人ではないのだろうと英二は思った。第二次大戦中、イタリアの捕虜になったどこかの国の将校が、あり得ないくらい豪華な食事を振舞われた、という話を英二は思い出した。食にこだわらない=イタリア人ではない。英二の乏しい知識で導き出した結論は、とりあえずは真であった。
地上へと続く階段からは時折話し声が漏れ聞こえてくる。怒声罵声に笑い声、赤子の泣き声や獣のものと思われる遠吠え、いななきなど、いずれも日本を感じさせるものではなかった。
なるほど、外国にいるらしい。人身売買というやつだろうか。危機感が足りていないのは、英二にとって今の状況があまりにも現実離れしているためだった。英二はまだどこかで、これが夢なのではないかと思っていた。何故ってこの前までの英二は部活に勉強にと毎日をそれなりに楽しく過ごしていたのだから。目が覚めたら異国の地下牢でいわれの無い不当な扱いを受けているなど現実であるはずが無かった。
しかしながら、寝て起きたところで英二の夢が覚めることは無かった。
地下牢での生活が七日も続いたころ、英二は突然牢を出ることを許された。牢番に引っ立てられ、連れて来られたのは鍛冶場のようだった。促されるままに跪くと三人ほどの男に押さえ込まれ、次の瞬間左腕に激痛が走った。精一杯の抵抗は全くの無意味だった。やがて解放された左腕にはミミズの張ったような文字の焼印が刻まれていた。
驚く間もなく次に連れて行かれたのは粗末な建物だった。近づくだけで顔をしかめてしまうほどの悪臭が周囲に充満している。建物にはほとんど半裸、年恰好はばらばらの男女が肩を寄せ合って暮らしているようだった。
呆然としているとアントニオがやって来た。粗末な小屋の住人に何かを話している。半裸の老人は英二を手で招いた。ふらつく足取りで近づくと、老人は優しく英二の頭を撫でる。アントニオが英二の肩を抱いた。ルシオ、ルシオと、老人を指差し連呼する。老人の名前だろうか。
相変わらず言葉は分からない。取り巻く人々の、笑顔の理由も分からない。左の二の腕がひどく痛んだ。そこに刻まれた焼印だって、英二には読み解くこともできない。
不意に英二の頬を温かいものが滑り落ちた。
いつの間にか、英二は泣いていた。
焼印は所有者を示す目印だった。汚い掘っ立て長屋は所有物の寝所である。要するに英二は奴隷となっていた。
何故、こんなところで、こんな目に。経緯は分からないが、英二に拒否する権利は無かった。言葉も通じない異国で、逃げようとしたところであてなど無いのだ。
しかし、事ここに至っても、英二は挫けなかった。
なるほど、分かった。奴隷というやつか。このご時勢にそんなものが存在しているなんてにわかには信じられないが、ここは夢じゃなくて現実なのだ。理解した。受け入れよう。殺されないだけましだ。俺は運が良かった。
そうと分かれば対処のしようもある。希望だって持てる。なんとなれば地球は丸く、世界は一つなのだ。果てしなく見えるこの大地、何千何万キロの先には必ず日本があり、愛しい我が家だってあるはずなのだ。
歩いていくのは無理だろう。車も飛行機も近くには無い。まずは落ち着いて現在地を知るのだ。どこそこ地方の何がしという国のなんと言う町なのか。それが分かったら首都を探して、日本大使館にでも駆け込んで事情を話せばよく計らってくれるはずである。
さしあたって必要な情報を得るために、英二はアントニオを頼った。
アントニオはいでたちから想像したとおり宗教関係者のようだった。朝晩仕事の無い時間を見つけては、こまめにアントニオの寝起きする教会を訪ね、説教と貸し出される経典を頼りにコミュニケーションの糸口を掴む日々が続いた。教会の造りからキリスト教のものではないらしい。屋根の上に大きく飾られている六芒星はキリスト教でいうところの十字架だろうか。
アントニオは自身の説く教えを聖六芒星教と呼んでいた。馴染みの無い宗教だった。おそらくこの地方に土着のものなのだろうが、現在地を知るヒントにはならない。経典の文字も英二の知る限りはじめて見るものである。雰囲気としてはアルファベットに近い表音文字だが、自力で読めるものは一つとしてなかった。
文字と言葉の解読は難航したが、それでもいつしか、多少ならば理解できるようになっていた。文法は英語に近く、元々得意ではなかったが、仕組みと名詞さえ分かれば片言でも言いたい事は伝えられる。厄介だったのはアントニオの話す言葉と周りの奴隷仲間が話す言葉で微妙に発音や意味が違うことだが、日常会話を耳にしているうちにその問題も概ねクリアできた。
ある日ついに、英二はたどたどしい言葉で、アントニオに地図を所望してみた。
幸い英二の意図は通じ、ごわごわとした大判の紙がアントニオの手によって机の上に広げられた。
「ここがガルデニア王国の都パラディス。王都を守るように囲んでいる六つの領地が、ルイ一世統一王を支えた六聖人の氏族が治める大伯領で」
印象としては、とても雑な作りの地図だった。線は歪で等高線や記号などは無く、わずかに数箇所町や道の名前らしきものがメモ書きされている。どう見ても手作りだ。
加えてさっきからアントニオの口をついて出るのは全く聞き知ったことの無い国なり土地なりの名前である。何か求めていたものとは違う気がする。
地図を眺め、ああ、そうかと英二は自得した。縮尺がおかしいのだ。この地図は英二の求めている世界全体を表すようなサイズの地図ではない。
ともあれ、現在地と首都を知ることだって目的の一つである。首都の名前と場所はわかった。英二は土地土地の由来を語るに熱心なアントニオを遮って現在地を訪ねた。
アントニオはあちらこちらへとさ迷わせていた指をぴたりと止めた。
「私達がいるのはここだ。南西公領エスパラム。ベルガ村はさらに南の、この辺りかな」
アントニオが指すのはかなり南の端っこだった。実際の距離は不明だが、これなら中央の首都を目指すより南の国境を越えて他国へ逃げた方が早いのかもしれない。逃亡先の情勢にもよるが、ここから首都までとなるといったい何日かかるのか分かったものではないのだ。
隣国のことを尋ねるための言葉を考えていると、英二は地図上の奇妙な印に気づいた。
「これ、何?」
方位を示す目印だろうか、その割には妙な位置に記されている。その黒い円は地図の四隅、方角で言うならば北西、北東、南西、南東にはっきりと同じような形で描かれていた。
「それは司竜だ。この世界を支え監督する神の使い、などと考えられているが、実際のところは私にもよくわからない」
「司竜、何?」
「巨大な竜だよ。天気が良ければここからでも拝むことができるぞ。畑に出たら南の空を見てごらん。山の間に大きな塔の様なものが見えるはずだ」
「竜」という単語はしばしば経典に出てきた。首が長かったり羽が生えていたりする爬虫類系の怪物で、人里を荒らしたり水源地を占拠したりしているところを神の啓示を受けた英雄に倒されるという、要するに英語で言うところのドラゴンで、日本の童話で言うところの鬼みたいな役割だと英二は認識していた。
「巨大な竜」
そうだ、と肯くアントニオは冗談を言っている顔ではなかった。よほど教育が遅れているのか、あるいは信仰というものに対する意識が強いのか、はたまたサンタクロース的な話と同じで子ども(この場合は英二)の夢を壊さないように配慮しているのか。返す言葉も見つからないので英二は深く聞くのを止めて地図の話に戻った。
「アントニオ、地図、もっと大きい」
ガルデニア王国とやらが、どこにあるどういう国なのかは知らない。周りの人種から察するにアジア圏の国ではないのだろう。しかし、世界地図で見てみればもっと馴染みのある治安の良さそうな国だって近くにあることだろう。その国から来た旅行者あたりと運よく接触できれば帰国の糸口もつかめるかもしれない。
期待に反して、アントニオは首を振った。英二にとってみればそれは初めての拒絶だった。
言い方が悪かったのかもしれない。丁寧に一語ずつ、英二はなおも繰り返した。
「見たい、もっと大きい、地図」
「それが一番大きい地図だよ。それ以上のものはここには無いな。君は、何が知りたいんだい?」
英二は南西の黒円のさらに下を指した。国境線を越えた南、地図に記載されていないだけでそこにはこの見知らぬ王国とは異なる国が存在していることだろう。何が知りたいのかと問われれば、己を取り巻く全てをこそ、英二は知りたかった。
「ここ、国、名前」
「そこに何があるのかはまだ分かっていないんだ。魔人の国があるとか、司竜の巣があるとか、色々言われているがね、今のところは未踏の地だ。分からないのだから描く必要もないと言うことだろう。これは地図の余白、あまった部分だよ」
分からないなどと、英二にとってそんなバカな話は無い。未踏の地。この地球上にそんな場所があるなど、未だかつて聞いたことも無いのだ。
しかしアントニオは言った。長方形の紙の上、雑な線で区切られたこのスペースが世界の全てだと。それ以外は必要とてないのだと。
「おい、クチナシ。ダニの野郎が呼んでるぜ。人手が足りねーんだとさ」
はや朝の仕事の時間だった。迎えに来たのは寝床が隣のボリスだ。有無を言わさず首根っこを掴まれ、英二は畑へと駆りだされた。
朝だというのに、陽が強く照っていた。眩暈がした。吐きそうだった。何度振り払っても拭い去ることのできない絶望感が、再び英二を夢という道に逃避させた。
やっぱり俺は間違っていたんだ。現実なんかじゃない。これは夢だ。何が奴隷だ、王国だ、馬鹿馬鹿しい。竜なんてこの世にいないし、この地球に人類未踏の地なんてないんだ。早く起きよう。悪い夢だ。明日は小橋あたりに相談でもして、明後日はなんとデートなのだ。
不意に頭上を大きな何かが通過した。蛇行する影が英二の周りから束の間、陽の光を奪った。
見上げれば、そこにいたのは大きな蛇だった。翼は無い。風だって無い。だと言うのに大蛇は、凪いだ空を変わらない高度で真っ直ぐ南西に泳いでいた。
「珍しいな。竜だ」英二と同じように空を見上げた誰かがいった。
「でっけーなー。あれに襲われたらひとたまりもねぇや」
「安心しろよ、翼が無いだろ。翼が無い竜は滅多なことじゃ人を襲わないらしいぜ」
「おいおい、それじゃ、たまには人を襲うこともあるのかよ」
「そりゃあ、機嫌が悪ければな」
誰もが感嘆の声を上げていた。しかし、その誰もが、英二のように驚愕して腰を抜かすような反応はしていなかった。一口で人間を三、四人は軽く飲み込んでしまえそうなほどの巨大な蛇が、優雅に頭上を滑空しているというのに、口々に上がるのはその怪物をごく当たり前の現実として肯定する声だった。
もし日本人が都会の空で鶴でも見かけたら、似たような反応を示しただろうか。確かに珍しい。しかし、ありえないことではない。
証拠に彼らは、大蛇の行方を最後まで確かめようともせずに、各々作業へと戻っていった。ああ、こんなところにも雑草が生えてやがる。馬鹿、お前が飲んでどうすんだよ。水は畑にまくんだ。おい、誰かこの石運んどいてくれ。鋤が傷んじまう。
上空を竜が飛ぶ。牛のような大きさのトカゲに鋤を引かせる。耕した畑に手ずから種をまく。それが彼らにとっての日常だった。
ただ一人、英二だけが、その日常を受け入れられぬまま、飽かず竜の後姿を見送っていた。
「あ……」
何故今まで気づかなかったのだろうか。竜の行く手に塔が見えた。
「……司、竜……?」
黒い巨塔はその中ほどを入道雲に包まれながら、なお高く真っ直ぐ天へと伸びていた。頂をうかがい知ることは、英二にはかなわない。見上げる限り果てなく、青い空を貫くように分断する黒い塔。それは英二から夢という希望を奪う現実だった。
英二とて、本心では気づいているのだ。もしこれが夢なら、殴られ、ぶたれて気を失いそうなほどの苦痛を味わうことなどないだろう。枕も布団も無い臭い板の間で眠りに落ちても、目を覚ませばそこには温かい我が家が英二を迎えているはずなのである。
何もかもを非現実として片付けてしまうには、ここ数日の生活は現実感が強すぎた。不味くて臭い飯も鉄の味も棒打ちの痛みも、全てが生々しい体験として英二の身に刻まれている。それは日本で何不自由なく生きてきた十五年の人生よりも、ずっと強く確かな現実だった。極めつけは空を舞う大蛇とあの巨大な建造物である。
英二の知る世界に、雲を超えるほども高い建造物は存在しない。世界最大の蛇はニシキヘビで、大きさは十メートル弱。当然空を飛んだりはしない。
では、今視界に映っているこの二つは何なのか。夢でも幻でもない、今自分が見ている光景は、立っているこの場所は。
地球は確かに丸いのだろう。しかし、世界は一つではないようだった。
太陽があり、大気が満ちて、地上に人が生きていても、そこが地球とは限らない。
この日、英二は、今己を取り巻く全てが、彼の生まれ育った世界とは異なるものだと理解した。