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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第二章「ルオマ」
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七、侵すべからざる-2

 導師の遺体を教会裏の墓地に埋葬すると、一夜を教会で過ごして明くる朝、英二は南都レノーヴァを目指した。荷もなく、馬の調子も良かったので昼前には都市に入ることができた。


 意外だったのは袖のないぼろぼろの麻服に黒の外套を羽織り、馬竜に跨ったいかにも怪しげないでたちなのに、特段(とが)められることもなく都市に入れたことだった。ジャコモの一件で半無政府状態と化したレノーヴァにはどこから湧いたのか彼に負けず劣らず出自不明の輩が跋扈しており、英二ただ一人が悪目立ちするような状況でもなかったことが幸いした。


 とは言っても、先行したボリスとペペに大きく遅れてしまった事実は否めない。馬の手綱を取って、英二は当て所もなく大通りの人混みを練り歩いた。

 急ぐと言っていたボリスたちは、順調ならもうリティッツィに着いてる頃だ。すぐにでも追いかけるべきなのだろうが、英二の足は重かった。ろくに食事も摂らず駆けてきた疲労もある。喧嘩別れのようになってしまった気まずさだってないわけではない。しかし何より、一揆に参加して戦で手柄を立てる、というボリスの計画に、英二は気が乗らないのだった。


 一揆、戦。現実感のない言葉が英二の不安を駆り立てた。戦って手柄を立てるなどと簡単に言うが、やろうとしていることは戦争で、要するに誰かの命を奪う行為である。諸手を挙げて賛同できるはずもなかった。


 英二はここ数日ですっかり嗅ぎ慣れてしまった臭いを思い出した。それは血と臓物の臭いであり、死体の放つ腐臭であり、つまりは尊い命が失われていく実感であった。


 命に絶対的な価値はないとアティファは言ったが、英二にはそれを全肯定することは出来なかった。確かに一考の余地ある意見なのかもしれない。家族と他人との二者択一を迫られれば、家族の方を選択することは至極(まっと)うな考え方だと英二も思う。そして、それを是とするなら両者の価値には明確な違いが存在しうる。秤に載せて比べれば、家族の命こそより重く、尊い存在となるはずだからである。

 客観というものを完全に排し、主観によってのみ考えるのならば、アティファの言葉は紛れもない真実を語っていることになるだろう。


 しかし、英二の知る限り生命というものは主観を以って論ずるべきものではないはずだった。日本国憲法は基本的人権の尊重を明記し、全ての国民が法の下に平等であると定めていた。それには当然生きる権利も含まれており、英二にとって最も馴染みのある法的観点から見れば全ての人命は等価、それも一つ一つの価値は秤に載せることもできない程重いものとされているはずだった。

 そして、言うまでもないが法や倫理というものは客観に基づいて定められている。秤を持つ者の裁量で刑の軽重が決まる法廷に誰も納得することなど出来ないように、個人の思想や感情を逐一(おもんばか)っていては、どんな問題もそれによって解決することが困難になるからである。

 法や倫理の価値とはそれの有する可能な限りの客観性に集約されていると言って良い。半ば洗脳的教育ではあったが、英二はその点において祖国の秩序を形作るこの原則の意義を疑ったことはなかった。


 もちろんここは日本ではないし、奴隷の扱いと貴族の振る舞いを見る限り自分たちには人権も平等も存在しないのだろうということは英二も理解していた。しかし、法がないから、罰則がないからといって生命の尊さを軽んじたくはなかった。

 アティファの意見とは真っ向から異なる「生命の絶対的な尊さ」というものが、結局は英二の主観なのだった。


 奴隷として厳しい生活を強いられていたとはいえ、やはり英二の人格を形成したのは平和を絵に描いたような十五年間だった。戦争をはるかな昔に先祖が犯した過ちとし、人の生きる権利を侵すべからざる聖域と考えるその価値観は、生まれ育った環境を思えばなにも特異なものではない。


 英二は雑踏の中で天涯孤独となった身の上を思った。ボリスはきっと待たないだろう。急いで追いかけたところで、二人の意見に流されて一揆に参加するなど出来ない。もとより彼らとは目的が違うのだ。遠からず別れの時は来ていたはずだった。


 頬をざらりとした感触が撫でた。目を細めた愛馬が、労るように英二の顔を嘗める。


「どうした、急に」


 馬竜は鱗に覆われた硬い鼻を主人に押し付けた。わたしがいるでしょ、そう訴えるような牝馬(ひんば)の鼻息に、英二の心は少しだけ慰められた。


 まずは食料と、馬の休める寝床を探そう。ようやく目的を持って通りを見渡したその時、不意に沸き起こった奇妙な違和感が、英二の足を止めた。雑踏を流れる空気の中に、ここ数日ですっかり嗅ぎ慣れた嫌なものを、感じたのである。


 すぐにでもその場を離れたい、と本能が訴えた。しかし混み合う人の流れに抗えず、英二は臭いの強い方へと流されていく。不安を感じるのは英二だけのようだった。人混みはその臭いに誘われているかのように、止まることも逸れることもなく行進を続けている。気づいていないはずはないのに、なんらの不快も顔に出さず、笑みすら浮かべて練り歩く彼らの様子は、英二の不安を一層駆り立てた。


 次第に混雑が和らぐのはその大通りが開けた場所につながっているからだった。広場に出てようやく人心地ついた英二は、程なく悪臭の根源を見つけて息を呑んだ。


 石畳に突き立っているのは、どうやら長槍のようだった。穂先を深々と地面に突き刺し、石突は真っ直ぐ天を向いている。してみればその槍は妙な飾りをつけていた。石突から長い紐で吊るされているその丸い飾りは、正対すれば大体目線の高さに五、六個もぶら下がっている。陽光を直で受けてもなお暗い色合い。洒落(しゃれ)で着けるにしては大きすぎる存在感。よく見ればそれは見慣れた形をしていた。凹凸(おうとつ)があり、窪みがあり、だらしなく開いた穴から覗くのは、白い、歯のようだ。


 英二は悲鳴を上げそうになる口を反射的に押さえた。長槍に(くく)り付けられているのは人の頭だった。


 慌てて目を逸らし、ようやく気づいた。広場を視界に収めればその晒し首が目に入らぬ場所はないほど、石畳には無数の槍が突き立っているのだった。


 道行く人々は何事もない様子で酒瓶を片手に談笑していた。話のついでに唾など吐きかけつつ、彼らの目に映るそれは人間の首などではなく出来の悪い芸術作品か何かなのかも知れない。


 とりわけ目立つのは広場中央の人だかりだった。集まる人々の視線の先には腰丈ほどの演台とそこに並べられた二つの首が見えた。壇上に立つ貧相な風体の男は芝居の口上さながらに客を呼んだ。


「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。これなるはこの南都レノーヴァに豪勢な屋敷を構えていた元領主フランコ・ディ・フィオルドと、それに雇われていた傭兵隊長ロベール・ドゥ・バルティエの首にござい」


 喝采、それと甲高い指笛が男の口上を囃し立てる。気を良くした男は益々口を滑らせて続けた。


「ご覧くだせえ、この惨めな姿を。醜く肥えて豚やなんかと区別がつかねえ。こんなやつらが威張りくさって、今まで俺たちから金も食い物も巻き上げてたなんて、まったく腹の立つ話でさあ。加えていざ事が起きてみりゃあ都市を守るまでもなくこの様だ。こんな馬鹿な話が許されていいのかい、え、皆さん方よ」


 許されるはずがない。観客の答えは客引きの男を満足させるものだったらしい。男は盛り上がる客達を平手で抑えながらも満足げな顔でさらに煽る。


「ごもっとも、みんなの意見はごもっともだ。いっぺん死んだくらいじゃこいつらの罪は消えない。俺たちの怒りだって収まらないだろう。こんなゴミ屑どもにはもっと酷い罰が必要だ。唾を吐きかけてやれ。弓矢の的にしてやろう。細切れにして犬のえさなんてのも相応しい。違うかい」


 狂喜の声が男の提案を歓迎した。ここまでくれば男はその仕事の八割方を終えたことになる。高々と上げた手に指を順繰りに立てながら、後は口上を締めるだけだった。


「さあ、我こそはと思うやつは手を上げろ。銅貨一枚で唾を、十枚なら矢を射る権利があんたのものだ。そして銀貨五枚を融通した暁には、どちらか一つの首を進呈する。さあさあ、断罪の時だ。積年の恨みを晴らせる幸せ者はどいつだい」


 銅貨銀貨が宙を舞った。男の供する商品には買い手の数が後を絶たない。ただ死体を辱めるという行為に、我も我もと客が群がる。


 異常なのはそれだけではなかった。広場を囲むように並ぶ露天商の高い声。指折り数えて入札を競う男たち。どちらもありがちな光景なのに、その異常性は一目見れば瞭然だった。


 喜色満面で競売人がひさぐのは、麦でも織物でもなく鎖に繋がれた人間そのものなのだ。


 今、好色そうな男が血反吐に汚れた銀貨十枚で商家の箱入り娘だという少女を落札した。淡い栗色の髪をした少女は牛や豚でも扱うように首につながれた鎖を引かれ、買い手の元に連れて行かれた。頬に浮かぶ幾条もの赤い痣の上を涙が伝い落ちる。それでもその少女はましな方だと言えた。


 なんとなれば商品の中には服すら着せてもらえない者が少なくないのだ。貴族や豪商の縁者など、商品的価値の高い者ほど客を煽るために人としての尊厳を奪われた。割合男の数が少ないのは、抵抗でもして殺されたためだろう。


 理解の追いつかない英二は突然肩を叩かれて振り返る。ボリスだった。

 どこから調達したのか、下服に留め具付きの上衣を着込んで、不機嫌そうにあごを振りついて来るように促す。


 甲高い悲鳴が響いた。見れば落札された商品に売却済みの証である焼印が押されているところだった。丸く愛らしい男児の尻に刻まれた赤黒い焼け痕が痛々しい。

 英二は思わず左腕を押さえた。自身の腕にも似たような印がある。これを刻まれた時の痛みと恐怖が一瞬にして蘇った。今あそこで焼印を押されているあの子供も少女たちも、これから先は英二がベルガ村で過ごした二年間のような苦境に生きなければならないのだろうか。


 絶叫の重奏が絶えることなく響く中、人ごみを掻き分けてボリスはどんどん先へ行ってしまう。すすり泣きが聞こえる。父や母を呼ぶ声が聞こえる。英二が無批判に尊いものだと思っていた人の命が、一握りの金銭で取引されている。


 許されるはずがなかった。罰せられるべき悪が、今目の前で行われていた。それでも、英二の足はボリスを追っていた。


 命に絶対的な価値などない。どうしても受け入れ難かったアティファの言葉が、何度も頭の中で響き続けた。





 ボリスに連れて来られたのは小さいながらも(うまや)のある建物だった。表の看板に街区の番地と詰所の文字が見える。件の傭兵達が宿舎として利用していた場所なのだろう。大通りの交差点でしばしば目にしたその趣は日本の街角で見かける交番のようで、実際の役割も同じようなものらしい。定住するには不便な間取りだが仮の宿とすれば上出来と言えた。


「あ、おかえり兄貴」ペペは干し肉の燻製を頬張りながら出迎えた。「良かった、見つけたんだねクチナシ」


 ボリスは何も答えず、不機嫌そうな面持ちでどかりと椅子に腰を下ろす。そのままぺぺが飲みかけていた葡萄酒の杯を流し込むように(あお)った。


 ちっとも良くなさそうな兄貴分の様子にペペは萎縮した。視線を逸らすと手綱を握ったまま戸口の外で立ち尽くしている英二に気づいた。


「馬をつないでこいよクチナシ。食い物ならたくさんあるぜ。へへ、全部兄貴が見つけてきたんだ。すげえだろ」


 差し出された麦餅を、英二は無意識に受け取った。空腹だったはずだ。今朝から何も食べていないのだ。それなのに、口も体も食べるための動きを拒絶していた。


 麦餅片手に立ち尽くす英二を一瞥して、ボリスは早くも酒臭い口を開いた。


「公都、落ちたってよ。今朝方早馬が届いた」


 英二は顔を上げただけで何も答えない。ボリスは再び酒を呷って続けた。


「やり口はここレノーヴァと一緒だそうだ。内通者が門を開けて、寝入りばなになだれ込んで、たった一晩で片がついちまった。どんなに急いでも間に合わなかったわけだ。こんな間抜けはねえぜ、なあ」


 話を振られたペペが愛想笑いで答える。英二はなおも難しい顔で立ち尽くしていた。


「ルオマ公の一族は大方がとっ捕まって首を斬られた。賛同者は増えに増え、まさに向かうところ敵無しだ。革命ここに成れり。神様とやらに余程気に入られてるらしいぜ、そのジャコモって御仁は。あやかりてえもんだ」

「違う、そんな、ことは」英二は頭を振り、搾り出すようにつぶやいた。

「あ?」


 話など耳に入ってはいなかった。公都が落ちようが、革命が成ろうが、現実関わりのない問題でしかなかった。虚ろな視線の先に映るのはほろ酔いのボリスでも手のひらの麦餅でもなく、あの地獄のような広場の光景だった。


「どうだっていい、そんなこと。それより、何なんだ、あの人たち、あれは、何をして」


 言葉を忘れてしまったかのように、一語一語を口に出す。ボリスは眉間の皺を深くして尋ねた。


「何の話だよ」

「広場だよ! あの、広場で、人が」

「商人ごっこのことか」心底くだらないとでも言いたげにボリスが舌打つ。「正確には奴隷商人ごっこ、だな。豪商の専横で職を失った職工、食い詰めて都市部に出てきた農家の次三男、けちな隊長が首にした元傭兵ども。そんなやつらがジャコモの勢いを味方につけて好き放題やってるのさ。鬱憤(うっぷん)晴らしにやってることが商人の真似事とは、滑稽な話じゃねえか」


「鬱憤晴らし」英二は鸚鵡(おうむ)返しにつぶやいた。「そんな、理由で」


 あのような地獄が生まれたというのか。(にわ)かには信じられない話だった。わけても人の善性を信じる英二にとって、到底納得できる事ではない。人間は平等なのだ。例え制度上の身分に違いがあっても、生命そのものの価値に違いはないはずだ。家族の命が他人のそれより重いというのは、まかり間違っても他人の命が軽いなどという意味ではない。生命とは、そんな身勝手な理由で(もてあそ)んでいいものではないのだ。絶対不変の価値を享有(きょうゆう)する、侵すべからざる尊きもの、それこそが――、


「ま、酒肴になってんのはどうせ商人と貴族だろ。様ぁねえ、天罰ってやつよ」


 その言葉を耳にした瞬間、英二の視界が真っ白に弾けた。体が勝手に動いて、気づけばボリスの胸倉をつかんでいた。


「ボリス! そんなこと、本気で――」


 大通りで上がった歓声が彼らの拠る詰め所まで響いてきたのは、ちょうどその時だった。

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