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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第二章「ルオマ」
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七、侵すべからざる-1

 空位二十一年初夏の昼下がり。荒涼とした畦道に熱の入った世間話が聞こえる。


「そりゃあ見事な手際だったらしいぜ」身振り手振りを交えて、男は他所から来たという若者に講談師さながらの熱弁を振るった。

「十万都市のレノーヴァだ。守備する傭兵の数だって軽く五千はくだらない。正面から立ち向かうならあの城砦、二万の軍勢だって難なく追い返しちまうだろう。そこをジャコモ率いる一揆軍はたったの三千。どうやって落としたかって? ここが大将のすごいところよ」


 息を殺した一揆軍が市壁の眼前に迫ったのは深夜のこと。天の恵みかちょうど雨が降り出して、当直の番兵はその存在に気づかなかった。


「さりとて都市を守るのは高さ二十間の市壁と鉄門。破るにしろ越えるにしろ一筋縄じゃあいかない。どうしたもんか、怒りに我を忘れていた野郎どもも途方に暮れて大将を見るわな。すると大将何を思ったか、突然跪いてお祈りを始めやがった。十字を切って例の呪文だ、『エイメン』と唱えりゃあ夜闇に星のような十字が煌めいて、次の瞬間、なんと門が開いたんだな。後から聞いた話だが、奴さんあらかじめ都市の中に仲間をたくさん送り込んでいたらしいや。決起に合わせて門を押さえさせれば、例の十字は開門の合図ってな寸法だ。

 なだれ込んだジャコモの軍勢は二手に分かれてぐるりと市壁を制圧していった。抵抗は予想したよりずっと少なくて、あれよあれよという間に全ての門を占拠、その勢いで行政府まで落としちまった。あっけないもんだと思うかい? 実は間抜けなからくりがあるんだな」


 大都市の防衛は往々にして行政府の雇用した傭兵に一任された。砦の建築から兵員の徴募、装備や勤務時間、詰所の確保と管理まで、全てが傭兵隊長各々の裁量に委ねられたのである。レノーヴァ行政府と専属契約を交わしていた傭兵隊長は、名をロベール・ドゥ・バルティエといった。ラ・フルト出身のれっきとした貴族で腕も確かと評判の男だった。


「しかしこいつが意外にけちな野郎でさ、当初八千人いた部下を行政府にも内緒で次々クビにしてやがったんだな。この内緒でってのがミソだ。行政府の方じゃあそんなことは知らねえもんだから月々八千人分の給金がロベールの懐に納められる。部下の取り分を差し引いて、浮いた金は丸々やつの財布の中さ。襲撃当時、正規に給金を受け取ってたのは四千と少し。その内レノーヴァ市内に家があってすぐにでも戦えるのが三千人弱で、襲撃の日に酒を飲んでいなかったのは千人程しかいなかったんだと。ロベール本人も千鳥足で戦おうとしたらしいが、へ、自慢の長剣を抜く前にあっさり赤ら顔を斬り落とされたって話だぜ。笑えるだろ」


 かくしてルオマ南部の諸都市を支配下に置く南都レノーヴァは一揆軍の手に落ちた。都市を守れなかったロベールと彼の率いる傭兵隊「バルティエの荒鷲」の面々の亡骸は、今もレノーヴァ市内で晒し者になっているという。


「ああ、俺も怪我さえしてなけりゃ一緒に戦ったんだけどなぁ。こればっかりは神様を恨むぜ全く」


 エイメン、エイメン、雑に唱えながら男は十字を切った。


「これかい? ジャコモが信仰する神様へのお祈りさ。聖天主様っつったかな。なんでも天主様は六芒星の主神エデンよりもずっと力が強い神様なんだってよ。違いはよくわかんねぇけど、ジャコモの軍に参加するにはこの聖天主教に改宗しなきゃだめなんだと。まあ何が違うかとかはどうでもいいんだ。こっちの方が六芒星よりずっと描くのが楽だし、長いものには巻かれるべきだってあんたも思うだろ?」





「というわけで、目指すは公都だ。公都リティッツィ」話を終えるなり長椅子の背もたれを叩いてボリスは立ち上がった。

「ジャコモの十字軍がレノーヴァを出たのは三日も前だ。ひょっとしたらもう公都だって落としてるかも知れねえが、今から急いで追いかければまだ間に合う可能性だってある」


 まくし立てたボリスは急ぐ様子など微塵もない二人の態度に再び長椅子を叩いた。


「だから公都だよ。ぼさっとしてねえで追いかけようぜ。そして戦で手柄を立てるんだ。十字軍は身分の別なく兵を集めてる。俺たちだって戦えるんだぜ。手柄を立てりゃあ金だって領地だって手に入る。もう誰にも奴隷なんて言われることはねえ。こんな好機はまたとねえんだ」


 ペペはボリスが情報ついでに調達してきた麦餅をかっ込んで立ち上がった。口を全力で動かしながら何も分かっていなそうな顔でふがふがと何事か答える。「分かったよ兄貴」と言っているつもりらしい。


 一方陰鬱な表情で英二がつぶやいた。


「関も」

「あん?」

「あの関所も、その十字軍がやったのかな」


 英二が言うのは昨夜彼らが越えてきた関所の惨状だった。関所の番兵と思われる十人余りの死体は皆一様に惨殺と表現する他ないほど損壊していた。五体満足なものは一つとしてなく、十字に切り裂かれた喉はそれこそ象徴的な意味を臭わせるものだった。


「だろうな」わずかに顔をしかめてボリスは首肯した。「喉笛を十字にかっ切って殺すのは、やつらの聖書に載ってる伝統的な処刑法だって聞いたぜ。目を潰すのも手足を切り落とすのも、よっぽど恨みが溜まってたってことさ」


 ボリスは頭を振って嫌な記憶をかき消した。それがどうした、という気分だった。奴隷として虐げられてきたボリスからしてみれば、傭兵にせよ商人にせよ支配者の側がどんな形であれ報いを受けることにはむしろ爽快感すら湧く思いだった。まして同情など微塵も感じることはない。


 優しさなのか、あるいは単に臆病なだけか、ボリスは英二の発言にむしろ軽蔑の気持ちを強くした。どこまでも合わない。ペペと違って考えが読めない分、心に生じる隔たりもより強く感じる。


「さあほら、支度をしろよ二人とも。お天道様は待っちゃくれねえんだ。日の高いうちにとりあえずレノーヴァに行って、そこから街道沿いを北へまっすぐ行けば明日にはリティッツィだ。急がねえと誰かに手柄を取られちまうぜ」

「俺は、いい」英二は長椅子に視線を据えたまま答えた。「先に行っててくれ。後で追いかけるから」

「何言ってんだテメェ。俺の話聞いてなかったのか? 急いで出ねえと」

「聞いてたよ。分かってる。でも」


 英二の見つめる先には黒い僧服が横たわっていた。顔面は殴打の痕で醜く腫れ上がり、僅かに開いた口腔から微かな吐息が漏れている。僧服の至る所には靴や血や唾の跡が散見し、なかんずく胸元にある六芒星の刺繍部分にそれらは集中していた。

 彼らが今休憩に利用しているこの教会の主、グイド・フェルミという名の導師である。


「ほっとけよ。そいつはもう、長くねえ」


 ジャコモの演説に触発された村人たちの私刑を受け、導師の容態は深刻だった。顔を近づければひどい便臭が鼻をついた。清めようにも傷を診ようにもただ触れることにすら激痛を伴うらしく、途切れがちな呼吸はボリスの言葉を肯定するように弱々しい。


「分かってるよ。だから、言ってるんだろ」


 『法術』が使えれば助かる命かもしれないが、彼らにそんな力はなかった。せめて苦しまないように死なせてやるべきだとボリスは提案したが、英二はそれを拒絶し、ペペもぶるぶると頭を振った。ボリスにしてもその役を引き受ける気はなかった。相手のためと分かっていても、人間の命を奪うという行為には勇気がいる。領主を殺し、威勢良く村を出た彼らでも、その勇気を身につけるのには今しばらくの時間と経験が必要だった。


 何もしてやれることはない。酷だがボリスは真実を言っている。

 それでも、英二は動こうとしなかった。


「勝手にしろ」

「あ、待ってよ兄貴」


 出て行くボリスを、両手一杯に食料を抱えたぺぺが追いかける。

 やはり合わない。どこまでも。

 分かっていながらもボリスは常歩(なみあし)でレノーヴァを目指した。馬を飛ばしてさっさとリティッツィを目指せない自分に、苛立ちは募るばかりだった。





 教会にはおよそ人の気配と呼べるものがなかった。英二は石のようにじっと座って動かなかったし、グイドの呼吸は蚊の羽音よりもささやかにしか空気を震わせていなかった。


 時折水を含んだ布切れで腫れ上がった唇を湿してやると、一瞬だけ釣り上げられた魚のように体を緊張させ、やがてまた小さな呼吸を繰り返す。辛うじて生きているといった様子の導師は、とても苦しそうだった。


 英二はこの名も知らぬ導師を見ながらアントニオのことを思い出していた。そういえば弔いもしてやれてなかった。アントニオの遺体はどうなったのだろうか。魂というものがあるのだとしたら、アントニオの魂は救われたのだろうか。


 自問してみても答えは出なかったが、そのもやもやとした気持ちは、英二にとってこの導師を看取る理由になっていた。手前勝手なすり替えだが、この導師を看取らずに行けば、アントニオの魂はきっと救われないのだと思った。


 西からの陽光が天窓から差し込む頃、導師の口から呼気以外の呻きが漏れ出した。助けを求めるように、折れた手足を動かす。いよいよ激痛に耐えられなくなったのかもしれない。


「苦しいですか? どこが痛みますか?」


 返事らしき言葉は返ってこない。呼吸は荒くなり、呻き声には慟哭(どうこく)のような激しさが伴う。眼窩(がんか)があったはずの腫れ上がった目蓋からは涙が一筋零れ落ちた。


 英二は腰に差していた短剣を手に取り、唾を飲み込んで渇く喉を湿した。


「楽に、なりたいですか?」


 耳元で囁くと、導師は腫れ上がった顔を英二に向けた。覚悟を決めて短剣を握る英二の眼前で、痛々しいその顔は確かに頭を振ってみせた。小さな動きだ。痛みに震えただけかもしれない。そんな英二の推測を否定するかのように、導師は再び否と首を振る。


 英二は自得した。六芒星の経典は、生ある限り生きよと説いているのだ。英二の言葉に肯けるはずもない。


 導師の口が何かを訴えるように動いた。耳を寄せると切れ切れ紡がれる導師の言葉の意味が分かった。


「主神、エデンよ、審判の神、ジェマよ、どうか、願わくば、彼らを、お許し、ください」


 こんな仕打ちに遭いながらもこの導師は、自らの信仰を捨てようとはしなかった。自らを傷つけた人々への許しを、神に願っていた。その純粋なまでの高潔さは、英二が父と慕っていたアントニオに似ていた。


 程なく導師は大きく息を吐き、やがて呼吸を止めた。

 神や天国が存在するのかは分からない。しかし、できることなら在って欲しいと英二は思った。でなければこの怒りと悲しみを、どこにぶつけてやればいいのか分からないのだ。


 導師の亡骸に合掌し、不器用に六芒星を切って、英二はその魂が救われることを願った。

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