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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第一章「エスパラム」
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一、ベルガ村

 かんかん照りの太陽が、今日も下界を焼いていた。暦の上ではまだ春の内だというのに、強大な自然の力は身分どころか生命の有無も問わず平等に降り注いだ。赤茶けた土の屋根瓦が鉄板のように熱くなる。鋤を曳かされる家畜が人の支配による不当な労働を訴えることもできずに熱射に当てられて息絶える。


 農夫は麦藁帽子の下で舌を打った。今年に入って何頭目だろう。考えたくも無い。

 地平線を睨んで農夫は土を蹴りつけた。視界にはいっぱいに広大な赤土が広がっている。ひと際遠く、熱気でゆがんで見える辺りには整地の進まない開墾予定地が三(リュー)に渡って続いているはずである。税を不足無く納めるためには少なくともあと半里分は余裕を持って耕しておきたい。


 何故かと言えば乱世である。いつどこでとなく始まった小領主同士の小競り合いはいつの間にやら世界各地へと波及し、世はまさに戦乱の時代を迎えようとしていた。本来ならば諍いを仲裁するのが天下を統べる王の役割なのだが、王室自らが跡目争いのために剣を取り合い互いに矛を交えているのだから始末に終えない。王に倣えと各地の諸侯が衝突を繰り返すのも、この様子では無理からぬことである。

 王朝の成立からおよそ二百年。偉大なるルイ一世統一王の威光にも、はや陰りが見え始めていた。


 戦が終わればまた戦。勝って得られる物はそれなりであったが、損失を鑑みれば純利益はさして多くない。勝敗に関わらず、糧食、軍装、城砦の構築に兵士の給金と戦費ばかりがいたずらに増え続ける。


 領主は莫大な戦費を増税に次ぐ増税で賄おうとしていた。しわ寄せは当然労働者階級に来る。税の不足により待っているのは厳しい兵役だ。鍬や鋤を剣と槍に替えて、右も左も分からない戦場を号令一下の突撃である。命がいくつあっても足りはしない。


 昨年の兵役で従兄弟が三人も死んだことを農夫は思い出した。

 手柄を立てれば給金が出る。それで借金をチャラにして一躍おいら達は屋敷持ちの豪農だ。

 武器を手に手に意気揚々と村を出て行った仲間達は一人として帰ってくることは無かった。さもありなん、現実は厳しいのだ。昨日まで畑を耕すことしか知らなかった農民が今日の戦場で手柄を立てることなど、風の前の塵にも等しい夢物語である。


「しかし、この様を見りゃあ……」


 一縷の望みに懸けたくもなる。開墾は終わらない。種まきだって当分先だ。きっと次の納税期にはおいらの手にだって槍か剣が握られてることだろうな。農夫は不毛な大地にどかっと腰を下ろして笛を吹いた。


 程なく地を駆ける音が聞こえだした。ばらばらと別々の方角から集ってきたのは粗末な布切れを身にまとった女達だ。歳は十二、三から五十代くらいまで。皆領主から二束三文で借り受けた奴隷である。今しがたも勤勉に働いていたのであろう。汗の滲む頬や額に赤土の小片が張り付いている。


「こいつ片しとけ。その金で新しいの買って来い」


 農夫は隣で横たわる家畜の死骸を投げやりに指した。命令を聞き、女達はおずおずと家畜の体を押し出してみるがちっとも動かない。

 農夫は溜め息をついて立ち上がった。奴隷の中から若く元気そうな一人を選んで北を指す。


「もう昼だ。男ども呼んで来て手伝ってもらえ。荷車も使っていいぞ」


 少女は駆け出した。農夫の示す先には小さな村があった。


 南西公領エスパラム。その中でも最南端に位置するその村は、名をベルガと言った。


 これより南に人里は無く、果ての知れない砂漠地帯、その手前にぽつりと存在するこの村は、紛うことなく人の世界の最果てだった。





 小さな村をぐるりと囲み、各作業場では休憩を賜った奴隷達が無気力な昼を過ごしていた。何をするでもなく日陰に寝転がってただ空を眺める。怠惰に見えるが咎める者は無い。


 労役を取り締まり監督する下っ端貴族達とて半分は彼らに同調し、もう半分は同情しているのだ。炎天下に体力と気力を奪われ、最早咎める力も失っているのが前者。その中でも比較的考える力の残っている者は後者である。


 もっとも、このうだるような暑さの中、文句の一つも許されずに重労働を強いられている奴隷達を見れば、慈善家でなくとも同情するだろう。奴隷は奴隷で、通気性の悪い皮の鎧を着込まされ、何をするとも無くただ立っているだけという拷問にも似た仕事を否も応もなく任される貴族達に憐憫を抱いた。


 自然と連帯感が生まれていた。奴隷も下級貴族も、この炎天下の中では同じ人だった。


「なぁ、兄貴ぃ」


 つぶやくように漏らしたのは木陰に寝そべる巨漢だった。もごもごと口を動かし、ぷっと中空に何かを吐き出す。放物線を描き地面を転がるのは何のことは無い普通の石だ。


「やっぱ石は食えねぇよ。味もしねぇし」


 視線は右手に向けられた。そこには巨漢と同じ姿勢で空を仰ぐ若者がいた。


「バッカおめぇ諦めんなよ。はえーって」

「でもよぉ、確かなのかよ」


 痩せぎすの若者はごろりと寝返りを打って巨漢に向き直った。


「信じろよ、ホントなんだって。俺の爺さんが言うにはな、唾ってのは物を溶かす力があるんだってよ。食ったものが腹の中で消えちまうのはほら、食い物と一緒に唾も飲み込むだろ。あれのおかげで腹の中に唾溜めってやつができててな、それで食い物を溶かすんだってよ」

「で、でもよぉ、唾で食い物が溶けちまったら、俺の腹だって唾で溶けちまうんじゃねぇのか?」


 やれやれと若者は吐息を漏らした。


「それが違うんだな。唾溜めの唾はずっと体にあるわけじゃねーんだよ。なあペペ、お前飲んだり食ったりしたもんがどうなるか知ってるか?」

「どうって、食いもんは腹に溜まった後、半日くらいでウンコと小便になって……ああ! そうか、分かったよボリスの兄貴!」

「そう言うことだ」ボリスは肯いた。

「そうか、唾は全部小便になって出るから、俺の体は溶けないんだ。あれ? 体が溶けないと、何で石が食えるんだ?」

「おめぇはホントにバカ野郎だなペペ。最初に言ったろ、唾はものを溶かすんだよ。けど、何もかもすぐに溶かすわけじゃねぇ。口の中でじっくり三日も転がしとけば石だって鉄だって食えねぇことはねぇんだって話だよ」

「そ、そうか、へへ、ごめん兄貴。あれ? でも俺、三日も飯食わなかったら腹減って死んじまうよ。どうしよう」


 ペペは駄々をこねるように手足をばたつかせた。

 こうなるとうるさいのだ。空腹を誤魔化させるために石などなめさせてみたが、新たなでまかせを考える気力はさすがのボリスにも残っていない。言い訳を探すように往来へ目を向けると無駄毛の生えていない滑々とした褐色の脚が眼前を通り過ぎる。

 目線を上げてボリスは声をかけた。


「よお、チキータ」


 少女は急停止して振り返った。


「何してんだこんな所で? そんな急いで」

「トカゲが死んだの。運ぶように言われたんだけど、あたしらだけじゃ無理だから男を呼んで来いって」


 額に汗の玉を浮かばせ、チキータは安堵を浮かべる。四半刻も走ってようやく顔見知りに会えた。気の弱い彼女にしてみれば知らない大人より同年代の彼らのほうがずっと話しやすいのだ。


 しかしボリスの表情は真逆だった。眉根を寄せチキータから目をそらすと投げやりに彼方を指差し、


「ダニならあっちだぜ。エドゥとドミンゴはあっちの木陰で休んでる。おいペペ、お前も手伝ってやれよ。得意だろ力仕事」

「えぇ? やだよ俺。なんで兄貴は」

「俺は疲れてるからだよ」

「俺だって疲れてるよ! ひでぇよ兄貴」

「何でもいいから手伝ってよ。誰でもいいから人集めてきて」


 苛立つチキータの金切り声が辺りに響く。この暑さである。皆誰しも疲れている。


 そんな中、


「どうした、何か困りごとか?」


 横合いからかけられた声は場違いなほど明るく響いた。立っていたのはすらりと背の高い青年だった。精気みなぎる顔色も類を見ないが、中でも異彩を放つのは癖のかかった黒髪である。一般的なエスパラム人の髪は赤か栗色。栗毛でも黒に近い色を持つものは少なくないが、彼のような深い黒髪は他所から来た人間の証左に他ならない。焼けなれていない肌は赤く、地の白さが未だ目立つ。元は重労働とは無縁の世界にいたのだろう。マメのつぶれた両手が痛々しい。


「フェデリコ」


 そう呼ばれた青年は快活な笑みでチキータの話を聞いた。視界の隅で苦い顔のボリスがぺっと唾を吐く。そんな態度には気づかぬ様子で、フェデリコは「よし」と両手を合わせた。


「分かった。荷車はそこにあるのを使おう。悪いけどチキータ、荷物下ろしといてくれないか。人手のことは任せとけ。俺が一回りしてみんなに声をかけてくるから」


 言うやフェデリコは駆け出していた。やあダニ、聞いてくれよ、畑で困ってるらしいんだ。エドゥ、ちょっと手伝ってくれないか。今こそ男を見せる時だ、そうだろドミンゴ。見かけによらず体力があるらしい、そこかしこで休憩を取る仲間達に相変わらずの笑顔で声をかけていく姿には疲れの色など一切見えない。


 笑顔と元気は伝播した。疲れきってただ横になっているだけだった奴隷達は、フェデリコの声を聞けば呼ばれずとも集まってくる。彼の周りはにわかに人垣ができていた。


「トカゲ一匹にこんな人手はいらないな。勇者は十五、いや十人だ。さあ、俺と一緒に男を上げたい奴はどいつだい。昼休憩は返上だが、なに、仕事をこなせばそれなりに見返りだってあるのが世の理だ。違うかい、旦那?」


 いつの間にか樽の演台に立ったフェデリコは群衆にまぎれる下級貴族に問いかける。ひどい無茶振りだが、貴族は怒る素振りも無く両手を打ち鳴らした。


「なるほど、そいつは道理だ」


 本来なら、下級とはいえ農夫より上の立場にある彼ら貴族は、労役のために臨時徴収している奴隷たちを畑仕事に貸し出してやる義務はない。こんな往来で話し合いをさせてやる義理もなければ、農夫の課す労働に見返りを用意してやる理由もないのだが、水を向けられた下級貴族の頭には奴隷達の熱意を冷ますような野暮な考えはなかった。


 彼らとて、群衆の熱気にあてられていた。同時に、ご機嫌なフェデリコの口上に、えも言われぬ期待を抱いていた。人好きのするフェデリコに、「旦那」と親しく呼ばれる現状には快感すら覚える。群衆の視線は自然二人に集まった。


「しかしな、フェデリコ、勇者を名乗るなら十人だって多すぎるぜ」

「はは、さすが貴族の旦那は言うことが違う。となると旦那、何人までなら勇者の栄光にあずかれるんで?」

「五人だ。五人でトカゲをここまで運べたなら、そいつらは勇者と呼んで相違ないだろう」


 掌を頭上に掲げ、貴族は高らかに宣言する。


 その言葉に群衆はどよめいた。この地方で一般的な農耕家畜「砂トカゲ」の重さは成人男性五、六人分に相当する。荷車を使って良いとはいってもたったの五人でこの村まで運ぶとなっては半刻以上を要するだろう。昼休憩の時間内に作業が終わる望みはかなり薄い。見返りの言葉に逸っていた何人かはあからさまにフェデリコから距離をとった。


 しかし、当のフェデリコは余裕の表情を崩さない。


「五人か、たしかにそいつは重労働だ。して旦那、その栄光ある勇者への褒美は」

「葡萄酒一杯に干し肉一切れ。悪くないだろう」


 群衆は再びどよめく。葡萄酒に干し肉とは悪くないどころか上等な報酬である。水以外のもので喉を潤した経験も、カビの生えた黍餅以上のもので腹を満たした記憶も、彼らには絶えてなかったのだ。


 しかし、ここで引き下がらないのがフェデリコである。やれやれと大げさに溜め息をつき、演台を飛び降りて貴族の近くへと歩み寄る。


「旦那、旦那、けち臭いことは言いっこなしだ。こんな働き者に褒美がそれっぽっちじゃ器が知れるってもんだぜ」


 馴れ馴れしくも肩を組んで、フェデリコは低めた声でささやいた。


「聞いた話じゃ、南畑のカルロスさんは働き者の奴隷三人を家に招いてご馳走を振舞ったって言うじゃないですか。なるほど、カルロスの旦那は豪農だ。土地もでかいし金もある。しかし、貴族の旦那が農民に負けていいって道理はないでしょう。今男を上げるのは俺達じゃない。あんたですよ、エルナンの旦那」

「よくもまあそれだけ口が回る」下級貴族エルナンは思わず苦笑した。

「葡萄酒一樽に干し肉一切れだ。さあ早く勇者を決めろ。昼休憩が終わっちまうぞ。言っとくが、休憩時間内に片付かなかったら褒美は無しだからな」


 貴族の言葉に歓声が上がった。我も我もと手が上がり、勇者志願者が後を絶たない。いよいよ群衆は祭りの様相を呈してきた。


 遠巻きに群衆を眺めていたチキータは慌てて自分の仕事を思い出した。レンガが山積みされた荷車と地面に転がるボリスたちとを交互に見る。


「あの、二人とも、手伝って欲しいんだけど」


 ペペは渋々立ち上がった。しかし、振り返ってみると兄貴分は地面に寝そべったままごろりと背を向けてしまう。


「あ、兄貴ぃ」

「へっ、お断りだね。ルオマ野郎が気取りやがって」


 フェデリコは先年の戦の戦利品として連れて来られた外国人だった。生まれは南東公領ルオマで、父について南方侯領ラ・フルトにて商売をしていたところ戦に巻き込まれて奴隷となったのだった。


 ボリスはフェデリコが嫌いだった。何故と問われれば答えに困る。ただ何となく、あの男を見ていると不快になるのだ。それは髪の色のせいかもしれない。顔形かもしれないし性格かもしれない。ボリスの心がフェデリコという男を拒絶していた。


 寝食を共にし、同じ話題で語らおうと、フェデリコの態度にはどこか鼻につくところがあった。奴隷の中にあって奴隷でなく、貴族相手にも堂々と意見する、その振る舞いにはやはり平民生まれの余裕が見える。生来の奴隷ばかりで構成されているこの閉じた社会にあって、フェデリコは群の中に突如やってきた異分子だった。


 不快を感じるのはボリスだけだろう。現実、フェデリコは仲間達に受け入れられていた。どころか、奴隷の中には露骨にフェデリコに取り入ろうとする者も少なくなかった。

 フェデリコに従っていれば楽ができる。上手い話にありつける。

 なるほど、それは事実である。午前と午後の小休止に、加えて昼に大休止をもらえるようになったのもフェデリコの粘り強い交渉によるものだ。勤勉な仕事ぶりには監督の下級貴族たちとて一目置いている。


 ボリスはそこが気に入らない。フェデリコの態度はもちろんのこと、周りの誰もが彼の密かなる優越感に気づかず彼を受け入れ、ありがたがっている現状が何よりボリスを苛立たせた。


 がりがり頭をかくと自慢の金髪が指に絡む。ぺっ、とボリスは泡立つ唾を吐いた。気に入らねぇ、気に入らねぇ。気に入らねぇことは考えねぇに限る。


 こうなると梃子でも動かない兄貴分のことをペペはよく理解していた。さりとて非力なチキータを無視することもできない。恨みがましくボリスの背中を見つめ、ペペとチキータはレンガの山を平らにしていった。


 気に入らないことなど考えたくはなかったが、世界はボリスのために回っているわけではない。ぼんやりと往来を眺めているといやに目立つ黒い僧服が見えた。

 目を合わすまいとボリスは目蓋を閉じる。しかしながら足音は徐々に近づき、ボリスの前で止まった。


「何かあったのかね? 皆妙に慌しいが」


 仕方なく目を開ける。見上げればそこに立っていたのは黒衣をまとった坊主だった。修行の一環なのか、この暑いのに手首まできっちり袖がある長衣(ながぎぬ)。日にあぶられた坊主頭からは止めどなく汗が噴き出し、見ているこっちまで暑くなる。


 応対も億劫なのでボリスは背後の二人を仰ぎ見た。


「えっと、何だっけ?」ぺぺは自分が何故荷車からレンガを下ろしているのか忘れてしまったらしい。へへ、と笑ってチキータを見る。


 チキータはうつむき、小虫の羽ばたきほども小さな声で「トカゲが」云々と答える。彼女にとってこの坊主は話し慣れない大人の一人だった。


「またトカゲが死んだらしいですよ。男連中で運ぶんだそうで」


 折れたボリスが通訳をした。坊主は胸元で六芒星を切り、目を閉じた。


「そうか、後で祈りに行かなければな。ところで、君は手伝わなくてもいいのかな、ボリス」

「黒髪の旦那が声掛けて回ってんだ。俺なんかいなくても困らねぇさ」

「黒髪?」


 坊主は群衆を振り返った。人垣の中心には誰かに担がれてでもいるのだろうか、頭ひとつ飛び出たフェデリコの黒い頭が見える。なるほど、と苦笑する坊主の顔には若干の落胆が見えた。


「まあ、あんたにしてみりゃ黒髪はルオマ野郎のことじゃねぇか」


 エスパラムの、なかんずくこのベルガ村では髪の黒い奴隷は珍しい。先述したが一般的なエスパラム人には赤毛と栗毛が多く、黒髪といえばベルガ村より南部の砂漠地帯に住んでいたといわれる少数部族か、ルオマなどを主とする外国人のものである。

 口は軽いが勤勉で学もあるルオマ人奴隷はエスパラム内でも引く手数多の需要があるため、奴隷商人が領内最南端のベルガ村までたどり着く頃には買い手がついてしまうことがほとんどだった。


 そんなわけで、ここベルガ村でたいていの人間にとっての黒髪は、珍しいルオマ人として身分の別なく覚えのめでたいフェデリコという認識だが、実のところこの村には髪の黒い風変わりな奴隷がもう一人いる。


「お探しなのはクチナシかい、坊さま」

「うん、そうなんだ。もう昼の祈りの時間だと言うのに教会に現れんものだから、何かあったのかと」

「坊さま、クチナシなら小屋のあたりにいたぜ。この暑いのに、また棒切れ振り回して遊んでやがった、へへ」


 坊主はペペの指す方角を見た。村の西南で小屋と言えば奴隷の寝泊りする掘っ立長屋に他ならない。


「そうか、ありがとう」坊主はきびすを返して歩き出す。かと思うと、不意に振り返った。

「君達もたまには祈りに来るかい」

「安息日以外の祈りでも食い物出してくれるならな」


 ボリスの返事に坊主は苦笑し、


「考えておくよ」と答え、足早に去っていく。


 それを見送ると、ボリスはばたりと倒れ伏した。寝返りを打って空を睨み、


「気に入らねぇ」誰にとも無くつぶやく。


 異分子と言えばもう一人も同じだった。黒い髪に黒い瞳。今でこそよく焼けているが、来たばかりの頃は貴族のように滑らかで白い肌が否応無く目を引いた。凹凸の少ない顔は表情の変化に乏しく、時折見せるのは半端な微笑だった。普段は一切表情を変えず淡々と仕事をしているのに、話しかけてみるときまって何がおかしいのか分からない曖昧な笑みで応えるのだ。


 見た目も仕事ぶりも他の奴隷と区別などつかない。ともすれば木偶の坊のペペより役に立たないこともある。しかし、ボリスが彼を見るとき、フェデリコに対するものとは違う不快な感情が胸の内にとぐろを巻いた。


 それは畏怖に似ていた。雨の日も嵐の日も、貴族や農夫に殴られ、理不尽な扱いを受けても、決して変わらないその曖昧な微笑に、ボリスは本能的な恐怖を感じていた。

 こいつは同じではない。仲間ではない。

 その奴隷は確かに目の前にいる。だというのに、その振る舞いから感じるのは言い知れぬ距離と、隔たりだった。今にして思えば、フェデリコに対する悪感情もその異分子と同じ黒髪を持っている故だったのかもしれない。


 一度思い出すと、不快は中々消え失せてくれなかった。





 止めどなく汗の吹き出る禿頭をぬぐって、導師アントニオは足を速めた。中央通りを抜け職人町へ続く脇道に入る。二つ目の角を左に曲がり、そのまま真っ直ぐ行けば貧民区を過ぎた奥に粗末な長屋が四、五棟見えた。

 幅五(ジュベ)、奥行き十丈ほどの建物に壁は無く、代わりに間を仕切るボロ布が風にゆれている。


 微風に運ばれるすえた臭いに顔をしかめながら、アントニオは長屋の外周を回り始めた。昼休憩の最中であり人の気配は少ない。まれに見かけるのは育児中の女か内職に精を出す不具者のみだ。


 と、四棟目にさしかかったあたりで、ボロ布がゆれる音に混じって不規則な風切り音が聞こえてきた。長屋の影から覗いてみれば尋ね人はそこにいた。


 黒い頭の青年は、一本の木の棒を両手で握り締め、なにやら奇妙に舞っていた。

 倒れこむように三歩ほど歩き、踏み込んだ足を軸にくるりと方向転換。同時に構えた棒を正面に向かって振り下ろし、かと思うと突然横に薙いでゆっくり後退する。振り抜いた棒はぴたりと中空に据えられ、足が動くやすぐさま連動して向きを変える。

 体を起点に行われる円を描くような滑らかな動きは息を呑むほど優雅だった。


 もう何度同じ動作を繰り返しているのだろうか。地面には彼の足跡が縦横に刻まれ、悪童の一団が駆け抜けた後のように荒れていた。


 舞が一段落するのを見計らってアントニオは声を掛けた。


「こんにちは、エイジ」


 青年は振り返る。吐息と共にその顔に浮かぶのは、やはり微笑だった。


「こんにちは、導師アントニオ」


 汗だくの額を手の甲でぬぐう。無造作な髪がのけられ、露わになるのは髭も生えそろわないまだ幼さの残る顔だった。本人の言が確かなら、歳はじき十七になる。


 彼、内藤英二がこのベルガ村でクチナシと呼ばれるようになって、二年の時が経とうとしていた。


作品内単位

一里=約1km

一刻=1時間

一丈=約3m

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