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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第二章「ルオマ」
18/131

三、サラサン人

 アティファの天幕を出て右を向くと、寄り添うように建つ同じ造りの天幕が見えた。出入り口から微かに明かりが漏れている。


 自然に戸を叩こうとして英二は手を止めた。戸の役割を果たしているのは布製の垂れ幕で叩いても音など鳴りそうにない。他を探してみるが呼び鈴のような(おとな)いを告げられそうなものは見当たらないのである。


「し、失礼します」遠慮がちに声をかけて英二は垂れ幕をくぐった。


 幕内の様相はアティファの所と全く同じだった。中心を囲むように配された四つの照明。橙色の薄明かりは蝋燭(ろうそく)の炎だ。むき出しの梁に柔らかい絨毯の模様、空間の広さまで一見したところ差異はない。


 唯一にして決定的な違いは入り口から向かって正面に敷き詰められた座布団の山に、気だるげな様子で寄りかかり本を読んでいる人物の存在だった。白い長衣(ながぎぬ)に身を包んだ褐色の美丈夫は英二の来訪に気づいて本を閉じ、居住まいを正して客を迎えた。


「目覚めたか」


 アティファと同じく明瞭な公用語でつぶやくと、彼は右の親指と人差し指とで輪を作りそこに息を吹きかけた。


 程なく幕の外から人の声が聞こえ、部屋の美丈夫と同じ白い装束で身を固めた壮年の男が室内に半身を差し入れてきた。

 二、三度、英二の理解できない言葉が交わされると、男は一礼して幕外へ戻っていく。


「どうした? 楽にしろ」


 男の出て行った後と幕内とを交互に見やりながら棒立ちする英二に、美丈夫が声をかけた。

 丸腰で、特別強そうにも見えないし敵意も無いようだ。言葉に従って英二は腰を下ろす。


 不意に沈黙が訪れた。アティファの時は黙っていても向こうから話しかけられたがこの天幕の主は寡黙だった。腕を組み、時折明後日の方向に目をやったり首を捻ったりする以外は何の反応もなく黙って英二を見つめてくる。

 耐えかねて英二は尋ねた。


「あの……あなたは、いや、ここは一体……どこ、なんですか?」


 美丈夫は微かに眉を(ひそ)めた。


「あれから何も聞いてないのか?」

「あれ?」

「お前を治した女だ」


 アティファのことらしい。英二は彼女の言葉を思い返して答えた。


「彼女は、アティファはここに、疑問に答える者がいる、と」

「アティファ」美丈夫は意外そうに目を開いて繰り返した。「あれが、そう名乗ったのか?」


 質問の意図がわからず、英二は恐る恐る首肯した。「あれ」と雑に言われるアティファの存在が英二の心を少しだけざわつかせた。


 と、幕外に再び人の気配が戻ってきた。数名の足音が段々と近くなり、すぐ外で再び何者かの声が聞こえる。その声に美丈夫が答え、先ほどの壮年の男が身を低くして幕内に入ってくると、男に続く見知った顔が英二の頬をほころばせた。


「ボリス! ぺぺ!」


 英二が呼ぶと二人は口をそろえて返した。


「クチナシ!」


 ペペの太い腕が英二を抱きしめた。身動きの取れない英二の頭をボリスがわしわしとかき撫でる。


「良かった。良かったなぁ無事で。なあクチナシ」


 長い奴隷生活ですっかり慣れてしまったその呼び名に英二は妙な懐かしさと喜びを感じた。


 正直なところ英二と彼ら二人とはそれ程親しい関係ではなかった。同じ長屋に寝起きする歳の近い仲間。互いにそれ以上のものを感じていなかったし、ボリスにいたっては密かに英二を(うと)んでいる部分もあった。


 だが今、どことも知れぬ天幕の中で再会した彼らは、心から互いの無事を喜びあった。お人好しで知られるぺぺはもちろんのこと、英二も、そしてボリスも、一様に瞳を潤ませているのは一点の曇りもない素直な気持ちによるものだった。


 言葉に窮した英二はただ思い切り笑うことにした。友達と、そう友達とこんな風に馬鹿笑いをするのは、この二年で初めてのことだと、英二は後になって思い返したのだった。





 騎士から逃げ、夜の砂漠をあてどなく彷徨っていた時のことだ、とボリスは述懐(じゅっかい)した。


 血の臭いを嗅ぎつけて来たのだろう。一行は砂狐(すなぎつね)の集団に囲まれ、あわやというところまで追い詰められていた。


 身の丈一間半に余る狐の鋭い牙が、いよいよ彼らの四肢に食いつかんとするまさにその時、血に飢えた獣たちは獲物を目の前にして突然動きを止めた。悔しそうにぐるぐる喉を鳴らし、獣たちは徐々にボリスたちの周りから遠ざかっていくと、やがて姿を消した。


 砂狐を退けたのは風に運ばれて来た(こう)の匂いだった。風上に目を向けると闇の中に微かな明かりが見えた。少しずつ近づいてくるそれはどうやら松明(たいまつ)を携えた一団のようだった。


 追手かもしれないと疑う余裕はなかった。無我夢中で彼らは一団に助けを求めた。


 それが、


「砂漠の民、サラサン人だったんだ」

「サラサン人……?」


 ボリスの言葉を英二は繰り返した。聞き慣れない単語だった。少なくともエスパラムやベルガ村の周辺にはそのような名前の土地はないと記憶している。


「なんだ知らねえのかよ」ボリスはしたり顔で言葉を継いだ。

「サラサン人ってのはな、エスパラムの南に広がる砂漠一帯に住んでるっていわれてる少数部族のことだ。俺も実際会うまでは本当にいるなんて信じちゃいなかったが」

「お、俺聞いたことがあるよ兄貴。言うこと聞かない悪い子はサラサン人に連れてかれるぞって、昔お袋に言われたことが、痛」


 兄貴分に脇腹を小突かれてぺぺは口を閉じた。当人を目の前にした口さがない言動をボリスは気にしたのだ。


「その情報は正確ではないな」話を聞いていたサラサン人の美丈夫は気にした様子もなく微笑した。

「まず、我々は自らをサラサン人と称したことはない。それに、エスパラムの砂漠に定住しているわけでもない。まして異教徒の子供をかどわかしたことだって、俺の知る限りでは、無いな」

「これは、とんだ失礼を」


 頭を下げるボリスを、その美丈夫は制した。


「いい。自分たちが異教徒からどのように認識されているのか、実に興味深い話だった」


 美丈夫はひょうたん型の水差しを傾けて二つの(さかずき)に水を注いだ。一方を自らの手に、もう一方を英二に差し出すと、端正な顔に微笑を浮かべて名乗った。


「ラフィークだ。名を聞かせてくれるか、客人」


 英二は杯を受け取り、答えた。「内藤、英二です」


「ナイトー」ラフィークと名乗った若者は肯いた。「……変わった名前だな」

「あ、すみません、内藤は家名で、英二が名前です」

「そうか、エイジ……どちらにしろ変わっている」


 優しく微笑むラフィークに、思わず英二も顔の緊張を解いた。


「すみません」

「お前が謝ることではないだろう」


 英二は頂戴した杯を一息に(あお)った。水と思っていたそれは透明度の高い酒のようだった。


 堪らず咳き込む英二を見て、ラフィークはとうとう声を上げて笑った。





 一般的なエスパラム人が呼ぶところのサラサン人という部族は、今を(さかのぼ)る事二百年前に成立したと言われている。


 ルイ一世統一王の事績をまとめた書物『統一王記』によれば、未だ世界に群雄割拠していた当時、後に諸侯が治めることとなる各地には、彼らサラサン人のようにガルデニア王国とは異なる文化風俗を有する民族が数多(あまた)暮らしていたという。


 諸方で王国の主導による交渉が数度もたれたが、結局平和的には解決せず、現地人と王国人との間には征討戦争と呼ばれる激しい争いが起こった。

 結果は広く知られているようにガルデニア王国の圧勝。

 かくて彼ら先住の民族たちは、あるいは王権に屈服し、あるいは国を追われ、ガルデニア王国は史上初めて満天下を統べる一大王朝を築いたのである。


 エスパラム南部及びラ・フルト中央部を領有していたラフィーク達の先祖は王国の支配から逃れるため不毛の地である砂漠へと住処を変えた。


 サファル・アッサラーフ。


 彼らの言葉で「救済の旅」と呼ばれたこの逃避行が後に転訛し、砂漠に住む異邦人を総じてサラサン人と呼ぶようになったのである。


 逃亡の過程で数を減らしたサラサン人は現在ラ・フルトの南部にささやかな集落を築いて暮らしている。エスパラムでこそおとぎ話のように伝えられているがラ・フルト侯爵領では彼らの存在は半ば公然の秘密と言って良いほど知れ渡っていた。


「ってことは、ここはもうラ・フルトなのか。越境できたんだ、俺たち」


 呂律の回らない舌で英二は一人快哉を叫んだ。


「馬鹿。何聞いてたんだよお前」


 不安定に揺れる体はボリスが軽く小突いただけで簡単に均衡を崩した。杯を呷るボリスは倒れこむ英二に構うことなく続けた。


「テメェがぶっ倒れてまだ一日と経ってねえんだぞ。そう簡単にラ・フルトまでなんて行けるかって」

 げふっと品なく息を吐くボリスの杯にラフィークが酒を注ぎながら続けた。

「ここはエスパラムの砂漠、その南東の端くらいだ。国境までは歩いてあと一日ってところだろう」


 冷静に語る彼の顔にも酒気が色濃く表れていた。重たげな目蓋の下にあるのは充血した眼と何が可笑しいのか分からないにやけ顔だ。

 彼らの酒宴が始まってから、はや二刻は経とうとしている。英二がここをラ・フルトと勘違いするのは四度目。ボリスが誰かに馬鹿と言ったのは二十回を超え、ラフィークは今しがた彼らサラサン人の歴史と未来について六度目の講釈を終えた。ペペはとっくの昔に眠りこけ、その他の三人も最早意味のある話などできる状態とは言いがたかった。


「そもそもよお、おかしいぜ。あんた達は何だってこんな所に? 集落はラ・フルトにあるんだろ?」


 不意の話題は珍しくも意味のありそうな疑問だった。

 ボリスに尋ねられてラフィークは言葉を捜すように目を伏せた。


「殉礼の旅。その途中なんだよ」

「殉礼?」

「俺たちの掟で、神に対する信仰を欠いた者がその(つぐな)いとして神の御許(みもと)まで(おもむ)き己の罪を()びる旅のことだ」

「神の御許、ってどこだよ? へっ、まさか天国とか言う気じゃねえだろうなあ」

「いかにもその通りだが?」

「そりゃあいい」途端にボリスは笑い出した。

「おい、お前ら聞けよ、天国は他ならぬエスパラムにあったらしいぜ。こいつは傑作だ」


 大いびきをかくぺぺの腹を太鼓のように打ち鳴らす。当然反応はない。

 浮遊する英二の意識の中に天国という言葉がぼんやりと浮かんだ。天国。その一言がかろうじて英二の意識を繋ぎ止めていた。


「何がそんなに可笑しいのか知らんが、エスパラムの人間なら見慣れたものだろう。南西の空にそびえる、天の頂へと続く塔など」

司竜(しりゅう)!」半分夢見心地で聞いていた英二は不意に起き上がった。

「司竜に、司竜のところに行くんですか、あなたたちは? って言うかあれはやっぱり竜なんかじゃなくて塔なんですね? そこに行けば神に会えますか? あなたは、神に会ったことがあるんですか?」


 突然まくし立てる英二に、談笑していた二人は顔を見合わせた。

 耳の先まで真っ赤な顔に真剣な表情を貼り付けたような英二を見てボリスなどは思わず噴き出した。


「どうしたよクチナシ? 飲み過ぎたか、それともまだ酒が足りねえか? ん?」


 なおも真剣な眼差しで見つめ続ける英二にラフィークも姿勢を正して答えた。


「期待にそえず申し訳ないが、塔というのはそのように見えるから勝手に呼んでいるだけだ。我々の間でも、司竜は文字通り全てを司る竜で通っている。それに、目的地はいかにも司竜のたもとだが、実際にそこまで辿(たど)りつけているのかは俺の知るところではない。俺はただの引率だからな。故に旅の果てにあるのが神の御許か天上の楽園なのか俺には分からない。神に(まみ)えたことも未だにないよ」


 ラフィークの返答に英二は肩を落としてうな垂れた。


「神に、会いたいのか?」


 問われて英二は肯いた。気づけばボリスも眠りに落ち、意識があるのは二人だけだった。


「何故、神に会いたい? 神に会ってどうする?」

「もし、存在するなら」わずかに躊躇(ためら)って、英二は答えた。

「ちゃんと働けって、今すぐ世界を救って見せろって、説教、してやりたいです」


 ラフィークの目が見開かれた。眉間には(しわ)が寄り、引き結んだ唇が微かに震えている。

 やはり怒らせてしまったかと英二が身構えた直後、ラフィークは予想に反して大笑した。


「すまない、……だが、説教か……面白いことを言う」


 酒の影響もあったのだろう。ひとしきり笑ったラフィークは目じりに溜まった涙を拭って再び尋ねた。


「神は働いていないと思うか」

「少なくとも、俺にはそう見えます」


 全能の神なら救うべきだったはずの人々が、何人も魔人に殺された。英二にとってはこれだけでも神を疑う理由など十分だった。


「そうか」


 ラフィークは首肯すると目蓋を下ろして、英二を手招いた。身を乗り出した英二の耳元に口を寄せ、「ここだけの話だ。他言するなよ」と前置きしてささやくような小声で告げた。


「神の御許へ咎人(とがびと)を導く役を担っているが、俺個人は神の存在を疑っている。少なくとも、あてにして毎日を生きてはいない。部族の者はもちろん、妻にも子にも話していないが、俺の本心だ」


 目を見張る英二に悪戯(いたずら)な微笑で応え、褐色の美丈夫はなおも続ける。


「神に対するお前の憤り。俺の疑念。どちらも俺たちの掟に照らし合わせれば死に値する大罪と定められている。つまり俺たちは似たもの同士というわけだな、エイジ」


 ここだけの話だぞと駄目押しに酒杯を渡され、英二は笑顔でそれを受け取った。


 英二の心は二つの感情に支配されていた。一つはこの古めかしい前時代的な世界で神という絶対的権力に立ち向かう同志を見つけた喜び。


 そして、


(妻と、子か)


 なみなみと注がれた酒の波紋に栗色の髪が見えた。思い出すのはこの天幕の隣、寄り添うように建つもう一つの天幕だった。どこをとっても魅力的な美しい褐色の女性だった。

 年齢は定かではないが、包容力があって、慈愛に満ちていて、自分よりもずっと大人で、ってそりゃそうだ。結婚してるんだもの。この優しくて格好良くて聡明な感じのラフィークの、奥さんなんだもの。子供だっているんだもの。


 英二は自棄(やけ)になって杯を呷った。そのままばたりと仰臥(ぎょうが)して、間もなく意識を失った。


 彼の心を奪ったもう一つの感情は、今日までの人生でついぞ味わうことのなかった失恋の悲しみだった。恋に落ちてから二刻と少し。あまりにも早すぎるが故の悲しみだった。



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