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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第二章「ルオマ」
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二、命

 英二の誰何(すいか)に答えはなかった。女は初め微笑を浮かべたまま英二を見据え、やがて表情を無くして首をかしげると、しまいには眉根を寄せて英二を()めつけだした。


 ちょっとした沈黙は英二に考える余裕を与えた。髪はともかく黒味がかった褐色の肌はエスパラム人には珍しい濃さだ。服装も村の貴族や平民とは(おもむき)が異なる。公用語が通じないのかもしれない。


 しかし、その心配が杞憂であることは女が自ら教えてくれた。


「座れ。背を向けて」


 人差し指で絨毯を指しながら、実に明瞭な公用語だった。


 英二はつい命令に従って無防備な背中をさらしてしまった。頼まれもしないのに正座して身を強張らせると、背後で衣擦(きぬず)れの音が聞こえる。


 さすがに危険を感じた直後、背中に温もりが触れた。

 右の肩甲骨の辺りから左の腰骨のやや上まで、線を引くようにゆっくりと滑るのは女の指のようだ。


《痛みは無いな?》


 突然の耳鳴りに英二は飛び上がった。訳の分からぬまま周囲を見回す。何もない。誰もいない。耳鳴りは再び続いた。


《どうした?》


 音が鼓膜を震わせる感覚は無かった。それなのに今、確かな声が、知覚できた。不思議な耳鳴りは明らかに言葉を伴っていた。


 両耳を押さえると笑い声のようなものまで聞こえてくる。理解の及ばないことばかりが英二の混乱をいたずらに深めさせた。振り返れば、背後の女が口元を押さえてくつくつと笑っていた。こちらは耳鳴りではなく確かに彼女の肉声だった。


《落ち着け》《感応話法だ》


「『感応話法』……」

 鸚鵡(おうむ)返しにつぶやいた言葉は、英二の記憶にもある単語だった。『法術』とかいうものの一種で、動植物と意思の疎通を図るために用いられる技術であると、確かアントニオに教えられたことがある。同時にこの声を聞いたのが初めてではないことも思い出した。


「さっきまで見てた、夢の中で」

《いかにも》《興味深いものが見れた》


 だが、納得しかけた英二の脳裏にふと疑問が浮かぶ。記憶が確かならその技は何故か英二に対しては使えないはずだった。これもアントニオが残念そうに、不思議そうに語っていたことだ。


《それは違う》


 脳内で一人出した結論に、その声なき声は異を唱えた。


《正確には》《正しくない》


《お前に》《使えないのではない》

《その坊主が》《法術を》《使いこなせなかった》《だけだ》


《なんとなれば》《法術は》《マナに願う術》


《マナは万物に宿る》《この世の全てを構成する》

《当然》《お前自身も》《私も》


《例え》《お前の内包するマナが》《無関心でも》

《呼びかける者が》《正しく呼びかければ》《マナは答える》《願いを聞く》


「導師が、……アントニオが悪いって言うのか」


《良し悪しではない》《方法を間違えていた》《あるいは》《知らなかった》《だけだ》


《恐らく》《坊主は》《マナに対して呼びかける努力を欠いた》


《対話は》《一人ではできない》

《自身の感情を送り》《相手に感情を受けさせる》

《同時に行う》《高度な技術》《だが》

《お前には》《無関心なお前のマナには》《それが必要だった》


 英二は無線通信機を思い浮かべた。送信される電波は受信機の電源が入っていなければ受け取ることができない。アントニオには電波を送ることはできた。英二の受信機に電源が入っていないことも確認できただろう。

 ただ、彼にはその受信機の電源を入れる方法が分からなかったということだ。


《よく分からんが》《納得したか?》


「ああ、まあ……」頭の中に響く声に返事を返すというのは奇妙な感覚だった。


《改めて聞く》《痛みはないな?》


 背中に当たる指が肩と腰を何度も往復する。背骨を斜めに両断するようなその直線は、英二が忘れていたことをまた一つ思い出させた。


「傷……傷が」あったはずだ。騎士の攻撃を避け損ねて、背中にひどい痛みを感じた、はずだった。


 徐々に思い出してきた。自分が眠りにつく前のことも。


 村から逃げた。追手と戦った。そして、


《斬られた》《だろう?》

《その傷なら治した》

《忘れていたくらいなら》《問題ないな》


 ぐるぐると思考が巡り出す。


 ここはどこだ? 後ろの女性は誰だ? 俺は、いや、ペペとボリスは、どうなった?


 考えなければいけないことが山ほどあるのに、何一つ独力では解決しそうにない。


 そんな英二の混乱を無視するように、女は英二の背中の中心に掌を押し当てた。


《では》《聞こうか》


「へぁ? 何を」


《何故騎士を斬れなかったか》《分かっているのだろう?》

《自分の口で語ってみろ》


 夢の中で、最後に行われた問答を思い出す。


《死にたくなかった》

《悔いてもいない》

《では何故》《お前は斬れなかった?》


「何で、そんなこと言わなきゃ」


《答えろ》《もう一度傷口を開くぞ》


 背中に当たる手が一層熱を帯びる。『法術』を使うとき、導師の手が同様に熱くなっていたことを英二は思い出した。


 ごくりと喉を鳴らす。頭の中まで筒抜けなのに、英二にはまだ隠していたい感情があった。それを己の口から語るのは、何とも格好の悪い、恥ずべきことなのだった。


「俺は」躊躇(ためら)いがちに口を開く。


《お前は》英二の後に女が続ける。


「怖かった。人を、斬るのが」

(しか)り》


 閉じた目蓋の裏に今でも鮮明な光景が(よみがえ)る。脇腹を斬られたあの男の血走った眼。胸を刺し貫かれた領主の苦痛に満ちた表情。そして、手にこびりついた真っ赤な血の臭い。


「初めは分からなかった。とにかく必死だったから、やるしかないって思って剣を振った。ただいつもより、防具や木に打ち込む時より重い感じがあるなって、思っただけだった。だから誤魔化したんだ自分を。

 領主の時も、そうだ。手応えもなく腕が切り落とされて、それで麻痺した。剣で人を刺すことも大したことじゃないって思い込んで、気づいたら、剣を」


 己の突き出した剣が人の体に埋没する感触を英二の手は忘れなかった。


 悔いる気持ちは嘘ではない。ただそれは人を殺したことへの悔恨(かいこん)ではなく、この感触に苛まれることへの後悔だった。


 人の体は重く、分厚い。例え筋肉の薄い急所を狙ったとしても、何らの苦痛もなく一瞬で相手を(ほうむ)ることができたとしても、命を奪う際に生じる重みに変わりはない。

 あの時、騎士の先手を取って肉迫したあの一瞬に、あとほんの少しでも剣を出していれば、再びこの感触を味わうことになっていただろう。

 英二はそれを思い出すのが怖くて剣を止めたのだ。


 涙が、震えが、止まらない。一度(せき)を切った感情は、英二に(つくろ)う余地を与えなかった。隠しようもない恐怖が、十七歳の少年をただ赤子のように泣きじゃくらせた。


《良かったな》


 嗚咽と恐怖に蓋をされた英二の耳にはどんな慰めも届かない。それでも英二が顔を上げたのは、その声が彼の心に直接語りかけるものだったからだ。


《良かったな》女は続けた。《己を(さいな)むものが恐怖で》


《価値観》《道徳》《信念》

《それらは生まれと共に育んだもの》《容易に変えることができない》


《人を斬る》《他者の命を奪う》《そのことに抱く罪悪感に苛まれるなら》

《この先の生は厳しい道程となるだろう》


《だが恐怖なら》《慣れることができる》

《時を経て場数を踏めば》《無様に泣き崩れることもなくなる》

《これから先も生きて行ける》


 英二には強い抵抗感があった。人殺しに慣れろ、殺生の罪に思い悩むなと、この女は言っているのだ。これを容易に肯定できるほど、英二にとって人命は軽くない。それは平和な世界に生まれ育った者として当然の価値観であるし、アントニオの説く教えにも(のっと)った判断だった。


 しかし、女はその考えを否とした。


《勘違いするな》《命に絶対的な価値などない》


《命に絶対の価値を認めるなら》《奪うことと等しく奪われることも罪ではないか》

《奪うものは相手の命を》《奪われたものは己の命を》《どちらも軽んじている》


(しか)らばこの世に罪を持たぬものはいなくなる》

《自らの命を奪われない方法が他者の命を奪うこと以外に無いからだ》


《我々は罪人か?》《生きることは罪なのか?》《私はそうは思わない》


《命は絶対的価値を有する》《その仮定が間違っているのだ》《この命題は》


《命の重みは相対的に(はか)るべきだ》

《肉親の死と他人の死とで悲しみの深さが違うように》《命の重みは量る者の立場で変わる》


《故に思い悩むな》《お前に仇なす者の死に》《その者を殺めることに》


《そんな生き方は面白くない》《生命はすべからく利己のために生きるべきなのだ》


 厳しい言葉の中に温かい思いを感じた。英二に語りかけるその声は、彼の身を案じているようだった。


《お前を苛む恐怖はお前を救わない》《お前の命を損なう危険すらある》

《故に忘れろ》《馴致(じゅんち)してしまえ》

《奪う者のために命を捨てることは》《馬鹿げている》


《もしまた同じ状況に陥ったら》《己の命を天秤(てんびん)にかける状況が訪れたら》

《お前の命の乗った皿に》《私の思いも乗せればいい》


《軽くは無いぞ》《お前の命は》

《忘れるな》


 それきり、声は止まった。室内には英二のすすり泣きのみが響き続けている。


 返事を待っているのかもしれない。英二は洟をすすって「はい」と答えた。





 ひとしきり泣いてしまえば、やがて涙は枯れた。残ったのは気恥ずかしさとさっぱり理解できない現状に対する疑問ばかりだ。


 女の手が英二の背中から離れた。何はともあれ、恥を忍んで尋ねるのが一番の近道である。英二は振り返り、目を合わせないように平伏した。


「あ、あの、この度は」


 言葉は最後まで続けられなかった。頭の上に布切れのようなものが落ちてきたのである。手にとって確認すると赤黒い血の跡がべっとりとついた麻布の服、のようだった。


「着たらどうだ?」


 久しぶりの肉声で言われて気づく。それは彼が着ていたものだ。そして先ほど目覚めてから今までずっと彼は半裸だった。

 慌てて着衣するとますます顔を上げられなくなる。少年の純情など知ったことかと女は命じた。


「立て。顔を上げろ」


 背筋を正して直立したまま、恐る恐る視線を上げる。

 美しく、均整のとれた微笑がそこにあった。身長は英二よりも頭半分は低い。女性としては平均的だろう。ゆったりとした白の長衣に身を包み、首元を覆う黒の襟巻きが頭巾のように頭も隠している。軽く癖のかかった栗色の長髪がほとんどその中に収まっていたのは、英二にとって少しばかり残念だった。


 女はわずかに口を開いてそこから少しだけ空気を漏らすと、すぐに眉根を寄せて口を閉じ、おもむろに伸ばした手で英二の頭をつかんで強引に顔を背けさせた。


 促されるままに回れ右をした英二の脳内に、声なき声がまた響いた。


《許せ》《公用語は舌が疲れる》


 やはり異国の人間だったか、英二が自得すると答えるように女は続けた。


《そこを出てすぐ右手に同じような小屋が建っている》

《そこにお前の疑問に答える者がいる》《お前の仲間も》


 正面の壁に長方形の枠のようなものが見える。枠の中には垂れ幕があり、はたはたと揺れている。部屋だと思っていたこの空間は、よく見れば天幕のような造りのようだった。壁面には角が無く円形。天井は低く、(はり)や屋根の骨組みがむき出しになっている。文化史で習った遊牧民の住居のようだ。


 観察していると背中を押された。その勢いで二、三歩歩き、言われた通りに枠をくぐろうとして、英二はふと振り返った。


「名前を、聞いても?」


 女はわずかに考えるような間をおいて軽く咳を払い、

「アティファだ」と答えて腕を組んだ。


「ありがとう、アティファ」英二は頭を下げて天幕を出た。


 そっぽを向いたままの横目でアティファはそれを見送った。





 天幕の外は夜気が肌寒かった。灼熱のような日中を知らなければ夏の到来など疑ってしまう寒さだ。袖の無い奴隷服には殊に厳しいものがある。


 しかし、英二は動じなかった。右手を今しがた出てきたばかりの天幕に着いて、おぼろげな足取りで歩く。


 夜風ごときでは冷めない熱が英二の全身を包んでいた。それはアティファの天幕が持つ余熱なのかもしれない。


 ほんのり頬を朱に染めて、考えるのは彼女のことばかりだ。

 似ているなと英二は思った。美しい顔立ちも、可愛らしい笑顔も、花のような香りも、昔好きだった少女を思い起こさせた。温かい手に安らぎを感じた。彼女の言葉に癒された。


 思い出していると、不意に足が止まる。途端、耳の先まで真っ赤に変色し、英二は人目も無いのに顔を押さえてうずくまった。


 目覚めたばかりの記憶が蘇る。心臓の側を下にして、頬に当たる柔らかい温もりは枕などではなく、彼女の膝ではなかったか。


 衝撃のあまり、英二は中々立ち上がることができなかった。全く滑稽な話ではあるが、英二の全身を打ち震わせるのは生の喜びに他ならない。


 辛いことばかりの毎日だった。死にたいと思ったことだって何度もある。


 そんな英二は今初めて生の喜びを実感した。滑稽にも膝枕ごときで、生きてて良かったと、そう思った。



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