一、追憶
夢を、見ているらしい。
ずっと昔の記憶。これは俺が覚えている中で最も古い景色だ。
黒い服を着た人たちが、沈痛な面持ちで入れ替わり立ち代り目の前を通り過ぎていく。彼らは白い桐の箱に向かって頭を下げる。箱に収められているのは女性。
《葬儀》《のようだな》
そう。これは祖母、おばあちゃんのお葬式だ。
《泣いている》《子供の声》
俺の声だ。死ってものが何なのかは、まだ分かってなかった。おばあちゃんとの思い出もあんまりない。ただ、皆の悲しそうな空気は分かったんだ。だから、涙が止まらなかった。
後にも先にも、記憶に残ってる葬式はこれだけだったな。両親は物心つく前に亡くなってたし、親戚が少ない家系だったから。
五歳で稽古を始めた。家業だから、まあ一応やっておくかって感じ。才能を誉められたことはなかったけど、それでも師匠たちが激甘だったから苦にはならなかったな。
《激甘とは?》
すごく優しくて、過保護だったんだ。辞めたい、継ぎたくないって言っても止められなかったと思う。俺にその意思はなかったけど。
剣先が正確に弧を描く。つま先から膝、股関節に腰、胴から上体、そして肩、肘、手指の先に至るまで、全てが隈なくその動作を行うために動いている。歩みは湖面を歩く水鳥のように滑らかで、床が薄氷で覆われていたとしても亀裂一つ入らないのではないかと錯覚するほど軽やかだ。
《美しい》
ああ、本当に。今でもよく覚えてる。英一兄ちゃんの演舞。俺が十二の歳だった。兄ちゃんは十八。これで免許が認められて、高等部の終了とともに家を出たんだ。
《兄》《か》
英一兄ちゃんは俺よりずっと才能に溢れた人だった。武術はもちろん、勉強の方も優秀で、やりたいことがあるからって外国の大学に進学したんだ。
惜しんだんだろうな。じいちゃんは少し残念そうだったけど、反対はしなかった。
兄ちゃんが家を出たから、何となく家業は俺が継ぐんだと思った。成人するまではゆっくり考えろってじいちゃん言うから学校はサボらなかったけど、履修したのは生物とか史学とかつぶしの利かない授業ばっかりだったな。このカリキュラムじゃあ軍人か学者にしかなれないぞって担任の先生に笑われたこともあった。
《軍人》《学者》《悪いのか?》
戦争なんて歴史上の出来事でしかない平和な時代だったから。軍に入るなんて余程の物好きか真っ当な職に就けないような事情がある人しかいなかったんだ。
学者は真っ当な職なんだけど生物や史学はあんまり敬われない分野だしね。
《敬われない》《何故?》
どっちも教養課程では暗記科目だから、自分の頭を使って解いてる感じがしないんだろうな。数学や科学の主席と生物や史学の主席じゃあ絶対的な評価は同じでも相対的な価値が違うんだ。少なくとも俺の周りではそうだった。
まあライバルが少なかったから履修科目の成績は結構良かったんだけど。おかげで進級につまずくことはなかったし。
中等部に上がってから、部活で剣道を始めた。空手や柔道と悩んだけど徒手よりも武器を使う稽古の方が好きだったから。
響く竹刀の音。おかしな奇声。毎日が楽しかった。体の使い方が全然違うんだ。中距離の駆け引きが最高でさ、いつ来るのか、どう来るのかって考えながら戦うのが特に楽しい。家の稽古と違ってたまに勝つこともできたし、それに、
白い袴が面を取る。頭を覆う手ぬぐいを解くと、長い黒髪がふわりと弾み、世界は光で包まれた。
《美しい》《娘だな》
二年の春に百合原さんが入部してきた。半端な時期なのには理由があって、百合原さんは一年の間いろんな部活を転々と、……悪く言えば荒らしてたんだって、小橋が言ってた。飲み込みがよくてしかも努力家だから二月もあれば大抵のスポーツではすぐ敵がいなくなる。それで飽きちゃうんだって。
でも剣道は特別長かった。他と掛け持ちもしてたらしいけど、少なくとも週に三、四日は剣道場に顔を出してたはずだ。根が負けず嫌いなんだろうな。男子全員に勝つまでやってみたいって冗談交じりに話してるのを聞いたことがある。いつだったか本人に聞いた話だけど、訳のわからない大声を出すのも楽しいって言ってたっけ。お嬢様育ちならではの発想だと思ったよ。
《よく喋る》
黒い瞳がこちらを見る。目を細めた彼女は申し訳なさそうに手を合わせて軽く腰を折った。あの仕草で頼まれてノーと返せたやつを俺は知らない。絵に描いたみたいに綺麗なのに小動物みたいに可愛い一面もあるんだ。反則だよホント。
《惚れているのか?》
彼女の唇が何かを語っている。聞こえてくるのは心臓の音ばかりだ。とにかくもう肯くしかない。
《さっきから》《この娘のことばかりだ》
……ああ。そうだな。そうだよ。惚れてた。ぞっこんだった。高値の花だなんて分かってたけど、どうしようもないんだ。気づけば彼女を探していた。後姿だけでも見つけることができた。休みの日とか家にいる時でも、今百合原さんは何してるだろうかって考えたりしてにやにやしてたよ。引くだろ?
恋とか好きとか付き合うとか、そういう言葉をあれほど意識したのは生まれて始めてだったと思う。
とにかく毎日が、楽しかったんだ。
百合原さんの笑顔が遠くなる。遠ざかっているのは彼女じゃない。自分自身だ。不意に周囲が暗転し、瞬きの一瞬で世界は荒野になった。
《赤い大地》《エスパラムの?》
そうだ。ここは、ベルガ村だ。
《何故?》《どうやって?》《いつの間に?》
自分でも分からない。覚えてないんだ。気づけば俺はこの国、いや、この世界で奴隷になっていた。
《世界》《己を取り巻く全て》
世界が、文字通り一変したんだ。昨日まで竹刀やら木刀やら振ってた手で畑を耕しレンガを運んだ。間違いがあれば殴られ、仕事が遅れれば蹴られた。初めはひどい悪夢だと思ってたけど、死ぬほど痛い目にあっても全然覚めないから、これが現実なんだって思うしかなかった。
大地に座り込んでいると、不意に声をかけられる。振り仰げば真っ黒な僧服、それに太陽を照り返す禿頭が手を差し伸べてきた。
《六芒星の》《坊主か》
死にたくなったことは何度もあったけど、変わり映えしない飯も、硬い板張りの長屋も、終わりのない毎日の作業も、最低じゃないって思えるようになったのはアントニオのおかげだった。
慈愛に満ちた笑顔だ。善人を絵に描けばこうなるのだと思わせるような。
アントニオは俺にいろんなことを教えてくれた。言葉や常識、村のことやこの世界の理についても。話の根本にあるのが大抵宗教がらみだったから、あんまり共感はできなかったけど、生きることの素晴らしさをいつも熱心に話してたな。アントニオが言うなら正しいんじゃないかって、いつの間にか思うようになったよ。
《母だな》《まるで》
そう。父親よりも母親っぽいんだ、アントニオは。失礼な話かもしれないけど、母って言葉を聞いて最初に思い浮かべるのはアントニオだ。きっと母親のいない家庭で育ったからだと思う。おばあちゃんの記憶は曖昧だし、じいちゃんはじいちゃんだったし。
俄かに日が翳り始めた。雨の気配がする。
作業に従事していた奴隷たちが一斉に走り出す。アントニオに手を引かれ、俺も走った。
恐怖に駆られ、振り返ることができない。併走していたアントニオが気づけば視界から消えている。
右を向く。左を見る。どこにもいない。
とうとう振り返った。ひざまずいたアントニオは、灰色の一団に囲まれていた。
頭から膝丈までをすっぽりと覆う灰色のローブ。手に持つ鎌は刃先から柄から全てが灰色一色だ。
《魔人》
やめろ。灰色の刃先が一つ、曇天を指して振り上げられる。
やめてくれ。雨粒が頬を叩く。絶叫するように叫んでも、結果が変わることはない。
鎌が風とともにアントニオの首を切り裂いた。雷鳴が響く。たちまちの豪雨。霞む視界にアントニオの亡骸が見える。
《殺されたのか》《魔人に》
そうだ。アントニオは、俺のもう一人の師匠は死んだんだ。
真っ暗な闇に落ちる。誰かが口論する声が聞こえる。薄い明かりが徐々に強くなると、気づけば檻に囚われているようだ。
《村》《か》
捕まったらしい。魔人から逃げるために村を出た。奴隷の逃亡は死罪だから。
檻から出ると、剣を握っていた。眼前には血走った目を向ける屈強な男。雄たけびと共に向かってくる。
上段の剣を避け、懐へ。駆け抜けざま脇腹に一太刀。
剣の先端が、かつて感じたことのないほど重い何かを斬った。
血の臭いがした。剣先から赤い滴が、石畳に落ちる。落ちる。
足裏に振動を感じる。振り返れば己の斬った男が血溜まりの中に倒れ伏している。
鼓動が高鳴る。何も聞こえない。俺は死体に背を向けて走り出した。
向かう先は教会だ。辛いことがあっても、アントニオがいれば甘えられた。
《だが》《もう》《坊主は》
そうだ。そこにいたのはアントニオじゃなかった。
小太りの男が剣を抜く。目にも止まらない一撃が眼前を掠める。
殺される。それが嫌なら、斬るしかない。
連撃の合間を縫って剣を置いた。男の腕が通過する軌道の上に刃を立てて。
バターを切るように容易く、男の腕が石畳に落ちる。
《見事だ》
おそらく利き腕だろう。勝負はあった。
でも、男の目はまだ敵意を、殺意を持っている。
だから、剣を、突き出した。男の体の中心に、深々と。
鍔に指をかけ柄を捻る。内臓を抉る感触が掌に伝わる。
男は血を吐いて倒れた。
俺は、人を、
《殺した》
俺はまた走り出した。いくら目を背けても、罪の深さは変わらないのに。
日が暮れようとしている。黄昏の中、剣を構えて対峙するのは若い騎士らしき男だ。
《戦って》《ばかりだな》
本当にそうだ。あの日魔人が現れてから、それなりに平和だった毎日が夢のように消えてしまった。
騎士の突きが来る。そこに俺の姿はない。予想していた。こっちはすでに踏み込んでいる。
完全に不意を打った。相手の対応は、間に合わない。
ほんの少し、あとほんの少し剣を出せば刃が腋窩動脈、急所に届く。
映像が脳裏をよぎった。見開かれた目と血の臭いと、そして重い肉の感触。
剣が止まる。足も止まる。まずい。
体重を前へ。膝の力を抜いて。突然、背中が熱くなる。
いつの間にやら、すっかり日は落ちていたのか。暗い地面が近づいてくる。ゆっくり。ゆっくり。
いや、近づいているのは、
暗転する。何も見えない。聞こえない。
そうか、俺は、死んだのか。
ずいぶん慌しい、走馬灯だったな。
あれ? じゃあ、今死んだと感じているのは何だ?
死んだのに、ものを考えてる。自我がある。
《魂》
そんな馬鹿な。魂なんて、そんなものが存在しないことは今時未就学児だって知ってる。常識だ。
《何故》
は?
《何故》《斬らなかった?》
《あの騎士より》《お前の方が》《先に動けた》《はずだ》
…………
《あの時》《思い出していたな》《お前が殺した男を》
《悔いて》《いるのか?》
《人を》《殺したことを》
…………
《殺したく》《なかったか?》
《お前が殺した》《あの男は》
《友人か?》《仲間か?》
違う。
《善人》《だったか?》《恩が》《あるのか?》
人となりは知らない。恩も恨みもないよ。命を奪う理由になるようなものは、何も。
《理由》《なるほど》
《なら》
《死んでも》《よかったか?》
《檻の中で》《死を待っていれば》《よかったと》《思うか?》
それは、違う。俺は、死にたいわけじゃなかった。死にたく、なかったんだ。
《だから》《殺した》
……そうだ。
《己のために》《生きるために》
ああ。
《理由》《あるじゃないか》
《生きるため》《生存本能》《故に》《殺した》
《なら何故》《斬らなかった?》《斬れなかった?》《あの騎士を》
《死にたくないと》《思った》《はずだ》《故に》《人を》《殺した》
《なのに何故?》
俺は、
《死にたく》《なったか?》
いや。
《悔いて》《いる?》
それは、もちろん。
《故に》《斬れなかった?》
……そう《違うな》
《いや》《真実》《ではない》
《お前は》《悔いていない》
《少なくとも》《生存本能を》《己のための》《殺生を》《否定してない》
《お前が》《騎士を》《斬れなかったのは》
英二は目蓋を押し上げた。橙色にぼやけた視界が二、三度の瞬きで鮮明になる。
薄暗い、狭い部屋だ。妙な既視感を覚える。二年も前、この世界で初めて目を覚ました(と記憶している)のもこんな場所だった。違いといえば寝起きとは思えないほど意識に鮮明なところがある点だ。ろくに喋ることもできないほど疲れていたはずなのに、ついさっきまで誰かと昔話をしていたような記憶もある。
左手に壁、いや、おそらく床だろう。心臓の側を下にして絨毯の上に寝そべっているようだ。
ふと、英二は頬に感じる温もりに気づいた。枕がある。あの地下牢とはえらい違いだ。柔らかく、暖かく、再び眠りの中に落ちてしまいそうな気分だ。香水のような心地のよい香りが一層眠気を誘う。
俄かに重くなる目蓋を、英二は再び見開いた。
妙な違和感。自分以外の息遣い、気配を感じる。背中に、何かが触れている。
目を向ける、天井のある方へ。白い布の膨らみの向こうに、薄い鳶色の瞳がこちらを覗いていた。
悲鳴を飲み込んで、英二は飛び上がった。大慌ての足が絨毯を滑る。這いつくばったまま後ろを振り返り、乾いた喉の奥から声を絞り出す。
「……だ、誰ッ!?」
褐色の肌に淡い栗色の髪。薄い唇の両端をわずかに上げてこちらを見る、美しい女がそこにいた。
全く未知の人間だ。気づけばこちらは丸腰で、女とはいえどことも知れないこの狭い空間に二人きり。
それなのに、英二の心は何故か安堵していた。
意識を失っている間に見た懐かしい夢のせいかもしれない。絵に描いたように整った美貌に浮かぶ微かな笑みは、小動物のように可愛らしいのだ。