十、月に
ヴァルターは指折り数えながら三人の奴隷を確認した。
「でかい赤毛、痩せた金髪、小さい黒髪、話に聞いたとおりだな」
彼らは揃って硬直していた。単に疲弊しきっているだけかもしれないが、誰一人突如として現れたヴァルターの脅しに逆らうものはいなかった。
「さて、自分たちが追われる理由に、説明の必要はねえだろうが」言いながら、ヴァルターは三人を観察した。
右の太っちょは論外だな。人を殺せるような面じゃない。その隣の金髪はいくらかましだが、実力は大差ないだろう。上等な剣を持ってやがるところを見ると、こいつが頭目か。それから黒い頭の小さいやつ。動くなと言った時こいつだけ得物に手をかけていたが、結局抜かずに座り込んだまま。がっかりだ。
ヴァルターは若干の落胆を禁じえなかった。目に映る逃亡者たちはどう見ても弱者だ。酒がいくらか入っていたとはいえ、これに負けるようでは正騎士兄弟とやらの力も程度が知れるというものだろう。
「まあ、積もる話も別にねえか」長剣を軽く素振りし、ヴァルターはあごをしゃくった。
「抜けよ。一勝負といこうぜ」
反応はなかった。抜いた長剣を肩に乗せ、ヴァルターは溜め息を吐いた。
「俺に一太刀でも入れられたら見逃してやる。早く抜けって、日が落ちちまうだろ」
微風が砂塵を巻き上げた。黄昏が熱砂の名残を過去にしていく。
金髪はごくりと喉を鳴らした。おもむろに伸ばした手が長剣の柄に触れる。赤毛の巨漢も彼に続くとヴァルターの気力はこれ以上無いほどに萎え切ってしまった。両者の態度の裏に逃げ出す隙を窺う小狡さがありありと見えたからだった。
全く、面白くない。ヴァルターは剣を肩に乗せたまま無造作に歩を進めた。距離は一番遠い金髪まででも二十間といったところか。残らず間合いの内にいるというのに誰一人剣を抜かない。本気を出せば五つ数える間に三人とも伸してしまうことができるだろう。
視界の隅で黒髪が動いた。長剣を支えにして立ち上がったようだった。
奇妙な違和感にヴァルターは足を止めた。黒い髪の奴隷はヴァルターの眼前四歩ほどの距離で剣を抜いた。
「領主様を殺したのは俺だ。後ろの二人は、何もしてない。見逃してくれませんか」
ゆるく正眼に構えた少年は、血色の悪い乾いた唇からそんな言葉を紡ぎだした。
英二の体を動かすのは安っぽいヒロイズムでも美しい友情でもなく、強い罪悪感だった。
英二は追手の事情を知らない。この若い騎士風の男が何故たった一騎で、如何にして彼らを追ってきたのか、真実は全て理解の外にあった。
故に英二は仮定と結果から事態を推理した。
狼煙を上げた、その時点では主導権は英二たちにあった。
その後間もなく砂竜の包囲が解ける。これは追手が何かしらの行動に出た結果だろう。
状況が変わり、選択を迫られた英二は逃げることを選んだ。もし追手が砂竜などものともしない強者だとしたら迎撃など敵わない。
そしてその結果がもたらしたものが今の状況なのだった。
判断を誤ったのだと英二は思った。事実を言えばあの場に留まっていたところで残りの騎兵に捜索されて英二たちは余さず捕らわれていたことだろう。それに逃亡は彼の独断ではあったがボリスとペペにも反対する権利、従わない自由というものがあった。
英二ただ一人が責任を負わなければいけない理由などないはずだった。
それでも英二は責任が己のみにあると思っていた。英二は今なお己の行いを悔いていた。
柄を握れば生々しい肉の感触がよみがえる。目蓋の裏には苦痛に相貌をゆがめるギョームがくっきりと焼きついて離れない。領主を殺したのは確かに俺だ。貴族に反抗し、最初に手を出したのも。飽き足らず俺は全能の神すらも呪った。挙句が今も剣を構えて人を斬ろうとしている。罪があるとすれば俺以外にはないじゃないか。
因果応報とはよく言ったものだ。犯した罪の大きさが、この騎士を俺のもとに遣わしたのだろう。俺を裁くのは騎士の形をした神の意思というやつか。そんなものに他人を付き合わせる道理はない。
皮肉なことに、結果としてちっぽけなヒーローが生まれた。いつの世も、英雄とはなろうという意志のもとに生まれるものではないのだった。
騎士は不遜にボリスとペペを見やり、手を払った。「いいぜ、行けよ」
ややあって英二の背後から足音が聞こえた。遠ざかる足音に英二は顔を向けられなかった。
ぺぺは足を速める兄貴分の背中を追いかけた。
「待ってくれよ、兄貴」
ボリスは止まらなかった。ただ無性に腹を立てていた。
「兄貴、いいのかな、俺たち」ペペは足を止めた。
「クチナシ一人置いて、いいのかな、このまま逃げても」
ボリスの足も止まった。思い直してのことではなかった。
「黙れよ! そんなに心配なら一人で助けにでも行け、この木偶の坊が」
一体何がこんなに腹立たしいのか、ボリス自身にも判然としなかった。
またとない好機だ。あれのことは元々よく思ってなどいなかった。もとより機会があれば切り捨てるつもりだった。このまま見捨てることにいささかの迷いとてないはずだ。
それなのにボリスの足は重かった。自らが逃げ出したあの場から遠ざかるほどに、一歩一歩が重く砂に沈んでゆき、とうとう踏み出すこともできなくなっていた。
どこかで金属の打ち鳴らされる音が響いた。振り返ってみても砂の丘陵に阻まれて彼らの様子は分からなかった。
素人ではない。一目見てヴァルターはそう判断した。“農夫”に似ているが、体の開きが小さい。それに足の位置も左右逆だ。我流か。
それにしても落ち着いていた。剣を構えた相手と対峙してマナの動きに一分の乱れもないとは、相当の場数を踏んでいるヴァルターでも容易には真似できない。わずかながら警戒していると、後方で彼の愛馬がいなないた。
ヴァルターは苦笑する。エッセンベルクの白狼が様ぁないなと思い直し、大胆にも一歩踏み込んだ。
三歩の距離。双方にとっての有効な間合いだ。正しい姿勢の“農夫”から、喉元目がけてヴァルターは突きを見舞う。
音を置き去りにするほどの速さだった。常人に避けられるはずがない。寸前で止めていたとはいえ、その剣圧は彼我の実力差を見せ付けるのに十分な一撃だった。
が、その一撃は届かなかった。完全に決まったと思っていたヴァルターは、一拍遅れていつの間にか半歩下がっていた相手に気づいた。
慌てて構え直す。その間に少年は二歩下がった。
驚かされたがまっすぐ後ろに退くようではヴァルターの剣からは逃げられない。左に構えた“雄牛”から踏み込みつつも再度の突き。
何かに当たる感触があった。直後に高い金属音が鳴った。砕かれた少年の剣先が宙を舞う。またしてもヴァルターの剣は狙いを外した。
少年はさらに三歩も下がった。先端の折れた長剣を正眼に構え、相も変わらず静かに対峙する。微かに呼吸は荒いがマナの動きには淀みがなかった。
術理に則ればそのまま畳み掛けるところ、ヴァルターはそこで剣を止めた。先刻から気がかりだった違和感の正体にようやく気づいたのだ。
(こいつ、マナを)
まるで使っていない。
人間なら、いや、人間でなくとも意思ある生き物ならば無意識のうちに必ず影響を与えてしまう生命の根源。怒れば昂ぶり、悲しめば共に泣く、『闘技』とはそれを意識的に操作して常人を超越した動きを可能にする技術だが、そのマナの動きがこの少年からはひとつも感じ取れないのだった。
熟練の闘技者は相手のマナの動きを見て攻撃の気配を察知するものである。それは無意識の癖で、戦場においては必須の技術となるが、それ故にヴァルターにはこの少年の動きを予測できないのだった。
いつの間にか立ち上がりいつの間にか退いている。暗殺を生業とする輩にはこの手の技術に精通する者が少なくないとは聞いていたが、こんなところでお目にかかるとは思ってもいなかった。
不意に笑みが湧いてきた。今までに対したことのない敵だ。どんな戦い方をしてくる。どうやって倒してやろうか。考えるだに笑みは収まらない。はじめにこの奴隷を見つけたときには俺の鼻も鈍ったかと思ったが、なかなかどうして、冴えてるじゃないか。
ヴァルターは喜色を浮かべて相手に向き直り、八双によく似た形、彼の流派で言うところの“塔”に構えた。
「名を、聞いてなかったな。俺はヴァルター・ベレ・フォン・エッセンベルク。聖ジョルジュ兄弟団で二年剣を学んできた。序列は四位だ」
青白い顔の少年は、大きく深呼吸すると正眼に構えた剣を握り直し、答えた。
「内藤流目録、内藤英二」
聞いたことのない名前だった。と言うかどこまでが名前でどこからが流派なのかもわからない。
まあ瑣末なことか。ヴァルターはやはり大胆に踏み込んだ。“塔”からの斬り下ろし、こいつはどう返す。
素性など、最早どうだっていいことだった。彼の頭の中は彼が日頃求めて止まない好奇心で満たされていた。
音速を超えるヴァルターの袈裟斬りが英二を襲った。止める気などない一振りは英二を一端の武芸者と認めてのことだろう。
期待に応えるように英二はそれをかわしてみせた。わずか半歩の後退で辛くも胴の分断を免れたが、安堵している余裕はない。
続いて即座に、やや下げ気味の正眼から突きが繰り出される。狙いは首筋。
英二は膝の力を抜いて剣先を避けた。突きの後に生じる隙は大きい。だが、英二には反撃の余裕がなかった。
ヴァルターは構えを右に持ち替えて再び突きをくれようとしている。後ろに下がったのでは避けきれない。相手の左手、つまりは自身の右に体重を傾けて二度目の突きを何とか避ける。
体勢を崩しながらも英二はヴァルターの左側面を斬りつけた。防具に守られていない腕か胴に刃を届けるつもりだったが、惜しむらくは剣の長さが足りない。先刻の突きを受けていなければ確かに一太刀入っていただろう。
悔いる間もなくヴァルターの袈裟斬りが英二の剣を受けた。再び鳴り響く金属音。英二の長剣はさらに短く砕かれてしまった。
「惜しかったな。まあ剣の尺が足りてても俺なら防げたけどな」
軽口の合間に英二は距離を取る。ヴァルターの発言の真偽は分からない。完璧なタイミングで決めたと思ったのに受ける袈裟斬りの動きがまるで見えなかった。あんな速度で切り返されてはとても一太刀など入れられない。
「避ける技術は一流ってところだが、そればっかりじゃ退屈だぜ」
下段に構えた長剣の柄を両手でもてあそび、ヴァルターは攻勢を止めた。仕掛けて来い、ということだろう。体を左右に揺らしながら、少しずつ距離を詰めて来る。
英二は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。見たことのない剣筋。人間業とは思えない体捌き。命のやり取りをしているというのに、どこか楽しんでいる自分がいた。
動作の終わりに新たな攻撃を仕込む、絶え間ない攻撃の連続。日本の剣術じゃないな。昔じいちゃんに聞いたことがある、ドイツ流の剣術ってやつに近いのかも。重量からしてだいぶ不利なのにあんな馬鹿力、受け続けたらこっちが潰される。狙うなら、先の先だ。
英二は無論、超人などではない。『闘技』など理屈も知らないし、そもそもマナの存在についてすら信じていない。
彼にできることといえば幼少よりの修練で身に着けた術の実践、即ち相手の構え、目線、呼吸や立ち位置、ほんのわずかな筋肉の緊張などから動作の起点を見つけ、その終点を予測すること。そして起点の動作を可能な限り消し相手の予測を外した動きで不意を打つことくらいである。
少しでも読み間違えれば、反応が遅れれば、待っているのは死だろう。今だって死線を間近に感じて彼の心臓はかつてないほどの高鳴りを響かせている。
それでも、真剣での勝負は彼に恐怖以外の感情を与え続けた。その高揚は過度のストレスにより引き起こされた躁状態に他ならないが、恐怖で動けなくなるよりは余程ましな状態といえた。
人を斬るという罪悪感すら置き去りにして、英二はヴァルターに向き直る。
改めて対峙してみれば、この若い騎士から感じるプレッシャーは祖父に比べればずっと軽いもののような気さえする。祖父なら最初の一合で勝負を決めていただろう。この構えを見せても動揺したりはしないはずだ。
削られ、折られて刃渡りはおおよそ五十センチといったところか。訓練で使っていた棒切れより重く、在りし日に演舞の稽古で使っていた模造刀より少し軽い。不思議と手に馴染む感じがあった。
大したことない。怖くない。迷ったら負ける。そうだよね、じいちゃん。心の中でつぶやくと、震える手が長剣の柄を握り締める。
右足を軽く引き左足を前へ。英二は八双で立てた剣を右の肩に乗せるように倒し、左の肘を突き出すように晒して構えを終えた。
内藤流剣術、応用型叢雲。
目の当たりにしたヴァルターは、期待通り足を止めていた。
初めに感じたのは奇妙だということだった。古今見聞きしたことがない。その構えを取る合理的な理由が見当たらない。
故にヴァルターは足を止めた。そこからまた新たな動きがあるのではないかと身構えた。
対する相手はその奇妙な構えを崩さぬまま一歩、また一歩と近づいてきた。突き出した左腕、肩に乗せた剣、どちらも斬ってくれと言わんばかりの隙だらけだった。
勝負を投げたのか。わずかな油断がヴァルターに剣を上げさせる。防御に向いた“物乞い”から、攻勢へと転じる“農夫”へ。
その間に少年はまた一歩足を踏み出す。両者の距離は三歩。正眼なら互いの剣身が交差する間合いだ。
隙だらけの肘を小突いてやろうか、とヴァルターが思った次の瞬間、眼前の少年が突然動いた。
ヴァルターは思わず硬直する。ほんの一瞬だが確かに居着いてしまった。
風を切る音と同時に折れた長剣が姿を現した。仕掛けて来るのか。身構えるヴァルターの眼前で少年は制止する。
何のことはない、ただ構えを正眼に変えただけだ。
踏み変えた足がさらに距離を縮めるが、間合いは未だ二歩半。相手の剣は中ほどで折れているのでさらに一歩は距離を詰めなければヴァルターに届かないだろう。
圧倒的に有利な状況だ。ヴァルターはその喉元に突きを出した。“農夫”からの突きは聖ジョルジュ兄弟団で謳われる最速の攻撃だ。構えも位置関係もそれが最適な攻撃だと結論できる状況にある。
それ故にヴァルターには不可解だった。突いた剣先に何者も触れた感触がないのだ。ヴァルターをして最速と自負する突き。避けられるはずがない至近距離で、突如少年は視界から消えた。
いや、右の隅に、微かに動く黒い髪が見える。伸ばした腕の下、かいくぐる様に少年の刃が煌いた。
(――やられた!)
ヴァルターは慌てて肘をたたもうとした。時の流れが緩やかになる。
右脇を滑る折れた長剣が守るもののないヴァルターの腋下に。右足を突っ張って跳ねる様に逃れたい。が、体が重い。到底間に合わない。
刃が当たる感触が来た。肘をたたむ。脇を締め、やはり手遅れだ。
襲い来るであろう痛みにヴァルターは覚悟を決める。痛いだろうな確実に。腕はつながってくれるだろうか。軽く斬られる程度なら治しようもあるが。ああ、クソ、なんて様だ。
妙に思考が働いた。今までの人生を振り返れそうなほど、長い一瞬だ。
痛みは一向に感じられない。肘をたたむ。同時に左側方へ跳躍する。飛び去りざまにヴァルターは右脇を斬りつけた。
「……あぁッ!」
ヴァルターは砂埃を上げて転げ回った。細かい砂粒が顔中にこびりつく。すぐさま身を起こし中空を一薙ぎ。五間ほど先にうずくまる黒い影。脇をさすっても痛みはおろか斬られた跡すらない。
ヴァルターは立ち上がった。視線の先で黒い影が微かに動く。陽の落ちかけた黄昏の中で、一筋の赤い線が鮮やかに映えていた。
「……何でだ」
答えはない。ヴァルターは足を踏みしめうずくまる少年を見下ろした。
「何で、斬らなかった」
少年は答えなかった。微かにうめき声を漏らし、芋虫のようにただ砂の上を這っていた。
「答えろ!」ヴァルターは少年の肩を蹴り上げた。
苦痛に喘ぎながら露になるのは髭も生え揃わないほど幼い少年の相貌だった。目尻に涙を溜め砂をかきむしるその体は、対峙していた時よりずっと小さく感じられた。
今の今までヴァルターは気づかなかった。戦っていた相手がこんなにもか弱く、若い少年だったと言うことに。
痩身が小刻みに震えている。少年は斬らなかったのではない。斬れなかったのだとヴァルターは思った。
ヴァルターにも経験のあることだ。戦場で初めて人を斬ったその日の晩は、斬った相手の顔が夢にまで出てきて寝付くことができなかった。
血液が、沸騰しそうなほど熱く滾った。顔から火が出る思いだ。ろくに人を斬ったこともない子供に手心を加えられた。名うての傭兵隊、「エッセンベルクの白狼」の長が。
「おい、お前」自分自身、どうするつもりなのかも分からないまま、ヴァルターは少年に呼びかけていた。
差し伸べた手は、しかし傷ついた少年に触れることはない。突然横合いから巨大な岩が投げ込まれたからだ。
ヴァルターは咄嗟に飛び下がった。先ほどまで自分がいた位置に岩の塊が落下する。砂塵が巻き上がり、闇に包まれ始めた一帯の視界を更に悪化させた。
続いて飛んできた石つぶてを難なく叩き落すと、側背に気配を感じて振り返る。大木でも生えてきたのかと見紛ったのは夜空を背景に掲げられた砂竜の尾部だった。
野太い雄たけびと共に、その太った人影は砂竜の半身を振り回した。息を吹き返したかのような砂竜の体が激しくのたうつ。
握り直した長剣でそれを受け止めると、ヴァルターは力任せに押し返した。
宙を舞い、砂上を跳ねる竜の尻尾がやがて動きを止めた時、遠ざかる襲撃者の足音はまだ近くに感じられた。
ヴァルターは追わなかった。投げ込まれた岩の周囲をぐるりと回り、握り締めた拳を思い切り叩きつけた。
「クソッ!」
半壊した岩が欠片を四散させて転がった。岩の近くに少年の姿はない。すっかり陽は落ちてしまったが今宵は満月。走ればまだ追いかけることもできるだろう。
しかし、そんなのは恥の上塗り以外の何ものでもなかった。
右の脇をさする。確かに一太刀、入れられていた。ヴァルターはあの少年との勝負に負けていたのだ。
厚い雲が月光を遮った。愛馬が側まで歩み寄り、鼻を押し付けてくる。この上追いかける理由など、何一つないのだった。
「クソ、クソが……!」
何をしているのか自分でも分からない。走り続けながら、ボリスは吐き出す悪態を止められなかった。
気に入らないやつだった。機会があれば捨てていくつもりだった。
なのに、何で、助けちまったんだ、クソ。
追ってくる気配はない。都合よくも雲が月を隠してくれた。この闇の中ならそう簡単に見つかることはないだろう。
「あ、兄貴、どうしよう、大変だ」後ろでペペが叫んだ。
「何だようるせぇな!」
「こいつ、体が燃えてるみたいに熱いよ。大丈夫なのかな」
背に負った英二の体が発熱しているのだった。火の着いたような熱さなのに彼はぶるぶると震えていた。
「うるせぇクソ、知るか!」ボリスは一顧だにしなかった。ただ疲労故に足並みが少しだけゆるくなっていた。
「で、でも、兄貴」
「黙って走れ! もしそいつを、途中で落としたりしたらぶっ殺すぞ」
悪態を吐きながら、ボリスは自身の内にある不快の正体に気づいていた。
クチナシは、この野郎は俺を助けやがった。仲間でもねえ。友でもねえ。ただなし崩しでつるんでただけの俺たちのために、命を捨てやがった。昨日だってそうだ。こいつはチキータを助けるために、クソ、何でそんな真似ができる。
「な、何でだよ兄貴ぃ」
「うるせぇ、知るか!」
ペペはとうとう文句を飲み込んで押し黙った。
必死に夜の砂漠を泳ぎながら、これは貸しだとボリスは思った。
様ぁ見やがれクチナシめ。俺を助けたつもりで、その実俺に助けられてるじゃねえか。貸し一つだ。返すまで、俺は絶対忘れねえからな。
揺れる背中に担われながら、英二は幻の祖父に問いかけていた。
どうだった、じいちゃん。我ながら上手くできたと思うんだ。叢雲から華風の連係。じいちゃんの型がヒントになったよ。
祖父は答えなかった。ただ、満面の笑みで肯いていた。
俺、十分頑張ったよね。正直しんどくて、もうダメなんだ。辛かったことばっかり、思い出してさ。
祖父は頭を振った。英二にとって、それは非情な答えだった。
もっと頑張れって? ひどいよ、じいちゃん。神様に物申すなんて大口たたいといて、かっこ悪い話だけど、俺には、もう。
英二の訴えを待たず、祖父の幻は消えた。
やけに明るい夜だった。朦朧とした意識で顔を上げると満月を囲む六つの輝きが宵闇に光を落としていた。
強く風が吹いている。月にかかる雲は晴れていた。