九、東へ-2
「大丈夫、大丈夫だ」
目と鼻を刺激する白煙に顔をしかめながら、ボリスは何度も自分自身に言い聞かせていた。そして同時に問いかけてもいた。本当にそうか、他にすべきことがあったのではないのか。
不安な問いかけが止まぬのは、すぐ目の前にいる木偶の坊がなお不安な面持ちで何度も彼に問うからだった。
「兄貴、大丈夫なのかな本当に」
「うるせえ、俺が聞きてえよ、クソ」
怒鳴られたペペは泣きそうな顔で萎縮した。潤んだ瞳の先にあるのは無情にも燃料にされた自身の衣服である。彼ら奴隷にとっては当然一張羅であるから今のぺぺは腰布一枚きりの情けない姿。ボリスとて同情しないわけではなかった。
とはいえ他にすべきことというものも具体的な方策も思い浮かばないボリスには、やはり無理やりにでも納得するしかない。
ボリスは横目でちらりと英二を見た。いつ追手が迫るとも知れないこの状況下に狼煙を上げようなどと言い出したのは、岩山の縁から首を伸ばし、西北東とせわしなく見回しているこの青年だった。
日のあるうちにこちらの居場所をあえて明かすことで追手を誘い込み、地勢の有利なこの岩山で迎え撃つ、というのが英字の企図するところである。
全体彼ら自身にもいかにして登ったか定かではない切り立った巌は、多勢で攻め立てることに適していない。見通しの悪い夜間なら要撃する側にとって都合も良いし、下手に動き回って不期遭遇するような危険を回避できるという利点もある。
上手くことが運べば馬の一頭でも奪って一息にこの窮地を逃れられるかもしれない。
「やつらは恐らく油断している。俺たちが待ち伏せて反撃することなんか、きっと考えてもいないだろう」故に勝つ見込みはあると、英二は自身の提案をこう締めくくった。
納得し、感心しかけたボリスは、ふと冷静に思い直す。
「待ち伏せするなら、わざわざ敵に位置を知らせる必要なんかねえんじゃねえのか。黙って隠れててもこの岩の上だ。そう簡単には見つからねえだろ。砂竜のおかげで足跡も残ってねえだろうしな」
「簡単に見つけてもらわないと困るんだ」英二は頭を振った。「隠れてやり過ごすのが目的なんじゃない。追手に追われて身動きが取れないこの状況を打開するのが俺たちの理想なんだから」
今宵のうちに獲物を捕捉できなかった追手はどうするだろうか。諦めて帰るか、あるいはもうしばらく付近に留まり捜索を続行するかもしれない。
探すにしても砂漠は広い。追撃の手がなくなるまでここで隠れ通すことは確かに不可能ではないかもしれないが、現実問題としてその間に消費する食料や水が今の彼らには無かった。
それに安全が確保されるまでの間この場から動けないというのは精神的に苦しいものがある。
追い詰められているこの状況だからこそ交戦の必要があると英二は主張しているのだった。
不安があるとすれば自分に人が殺せるのかという一点だけだったが、英二はそれを伝えなかった。
「戦うってお前、一体どうやって」
「そこらに転がってる石を投げよう。この高さならそれなりの威力になるだろうし。もし上ってきたら剣で迎撃する」
「確かに山ほどは来ねえかもしれねえが、こっちは三人だぜ」
「向こうだって村の状況から考えて十人もいれば良いほうだろう。十人が二十人になったところで地の利は俺たちにある。勝てないことは無いよ、多分」
ここまで聞いても、ボリスは不安を消せなかった。筋は通っている。理屈に穴も無い。何よりもただ座して待つという消極策より断然好みな案ではあった。
それでも納得できないのは、つまりは心の問題だった。英二の策に諸手を上げて乗ることは、ボリスの自尊心を傷つける行為に等しかった。
故にこそボリスは言い聞かせていた。好き嫌いを気にしている状況ではない。自身の行く末がかかっているのだ。苛立ちを抑え込むために何度も「大丈夫」を繰り返す。声に出して言い聞かせても、彼の心は不安と不満をなくさなかった。
と、その時、彼ら三人の拠る岩山がわずかに揺れた。
縁に立っていた英二は眼下に視線を向ける。揺れの正体は巌を取り囲む砂竜たちが身を翻しているからだった。
「どうした」ボリスとぺぺも縁に這い寄った。
彼らの見る前で砂竜たちは巨体をくねらせ一斉に砂中へと潜っていく。岩山から離れたそこかしこからも砂埃が上がった。どこからか大気を震わせる轟吼も聞こえる。
英二はすぐさま顔を上げた。太陽は西の空に沈みかけているが、まだ健在だった。
「眠りにつく、わけじゃあなさそうだぜ」
ボリスは隆起する砂の塊を目で追った。地上すれすれの砂中を泳ぐ竜が目指しているのは例外なく北の方角、彼らが逃げてきた方向だった。
「まさか、追手が……?」
仕掛けてきたというわけか。日が落ちるまでまだ二刻はあろうというこの状況で。
ボリスは喜色に顔を染め上げた。
「おい、都合がいいんじゃねえのか。やつらこのまま砂竜にやられてくれれば手間が省けるってもんだろ」
「それは、そうだけど」応える英二の表情は対照的だった。
理解の及ばない状況が発生している。
追手にしても砂竜の習性を知らぬはずが無いだろうに、何故?
獲物を見つけて逸る気持ちを抑えられなかっただけなのか。それとも砂竜をものともしない大兵力、あるいは強者が彼らを追っているのか。
英二の脳裏にギョームの剣筋が蘇えった。鉄の剣を、檻を、いとも容易く切り裂いて見せた超速の剣。あれほどの力があれば砂竜とて恐るるに足らずと言えるかもしれない。
怒号のような声が聞こえた。距離は遠いが一人二人のものではない。息を合わせた集団の掛け声だった。
まさか、と英二は思った。
まさかギョームは生きていたのか。己に刃を向けた不届き者を誅するために、自ら軍勢を率いて自分たちを追っているのか。
常ならぬ混乱が英二の思考をかき乱した。その不安げな表情にペペとボリスも引きずられた。
不安は英二に一つの決断を促した。
「逃げよう、ここから」
ボリスは驚いて目を剥いた。
「な、何いってんだお前いきなり」
「俺たちを阻む砂竜はもういない。日が落ちるまでの間は連中が引き付けてくれるだろう。その間に北寄りに東へ進んで、可能なら今夜中に砂漠を出る」
「迎え撃たなくていいのか、追手は大丈夫なのかよ」
「状況が変わった。そもそも夜まで身動きが取れなかったから思いついた話だ。自由に動ける今ここを固守する理由は無いよ」
英二は早くも降りられそうな取っ掛かりを探して縁から身を乗り出していた。西日に当てられたその表情は、一見淡々としているように見えた。
ボリスはやはり不安だったが、今度の不安は自身の感情によるところでは無い気がした。しかし、何が、何故という理由を言語化することができない。
苛立ちは収まらず、最早「大丈夫」と口にすることも無かった。
五騎一編隊の軽騎兵が二十余り、砂塵の中を駆け回っていた。それを追って巨体をくねらすのは砂色の体表をした巨大な環形動物、砂竜だ。
砂竜は一隊あたりに四、五体の数で獲物を囲んでいた。互いに激しく体をぶつけ合いながら、のたうつ度に大地が揺れる。
この地獄の中で兵馬共に足並みを乱さないところは流石に精兵だった。逃げ続けているだけとはいえ未だにただの一人とて欠員を出していないところも驚嘆に値する。
が、それも最早限界だった。
「隊長殿!」疾走する鞍上でハインツが怒鳴る。「この装備、この数であれの相手をするのは不可能です」
ヴァルターは肯いた。「確かにな。竜の名を冠するだけはあるってわけだ」
一体だけならそれほどの脅威ではない。しかし、砂竜を脅威たらしめているのはなんといっても無限のごとく湧き出るその数である。これを完全に駆逐して砂漠を踏破するには白狼隊が軽く三つは欲しいところだとヴァルターは勘定した。
「仕方ねえな」ヴァルターは巧みに手綱を操って眼前に迫る砂竜の牙を避けた。駆け抜けざま鋼鉄よりも硬いと言われるその腹部を切り裂き、ハインツに告げる。
「撤退を許す。ハインツ、全員連れてまず西南に突撃をかけろ。包囲を抜けたら右方向に旋回して北東に直進。そのまま砂漠を抜けるまで絶対止まるな」
「はッ、隊長殿」
口を挟もうとするハインツを制してヴァルターは馬を飛ばす。今まさに背後から一騎を飲み込まんとする砂竜の巨体に剣を突き刺し、愛馬に鞭を打って走り抜けた。
砂竜は苦痛の叫びを上げて砂上に悶えた。その隙に窮地を脱した頼りない騎兵の横へ馬を着け、追いかけてくるハインツを待つ。わずかな間もおかずハインツが馬を並べるとヴァルターは続けた。
「砂漠を抜けたらさっきの廃村で夜を待て。日が落ちたら煙の上がってた辺りを捜索。どの程度まで続けるかはお前の判断に任せる。まあ、一晩中ってことはねえだろう」それから隣の少年を見て、「ディノ、死にたくなかったらハインツの側を離れるなよ。こいつの馬の尻だけ見て走ればいい」
「あんたはどうするつもりだ」
ハインツの口調がぞんざいになっていた。苛立ち(主に隊長に対しての怒り)を抑えられない時の態度だった。
ヴァルターはにやりと笑んで馬足を早め、二人を振り返った。
「決まってんだろ、別行動だ。俺は東南に抜ける。明日の朝まで戻らなかったら……喜べ、明日からお前が白狼隊の隊長だ」
体液のこびりついた長剣を振り払い当然のように告げる隊長に、ハインツは問い直さずにはいられなかった。
「朝まで!? 何のために!?」
「臭うんだよ」夕焼けに犬歯が輝いた。「狼の鼻を舐めるなよハインツ」
根拠など無い、直感というやつだった。だがその直感こそが、彼ら「エッセンベルクの白狼」の名を世に知らしめてきたのだという事実を、ハインツは身をもって知っていた。
ヴァルター隊長殿の決めたことが負の方向に働くことは無い。それは絶対遵守の隊規でも隊長への妄信でもなく、彼ら白狼隊の経験則なのである。
ハインツが舌打ちをくれつつも次第に遠くなる隊長の背中を追わないのは、彼自身そんな隊長の能力を疑っていないからだった。
初めに足を止めたのはやはりペペだった。
「もう駄目だ」と砂漠の真ん中に巨漢が倒れ伏すと、それを機に英二とボリスも足を止め、振り返った。
太陽は、遠く山の稜線に半分ほどその身を飲まれている。橙色の大地にも若干の暗さが見受けられる。
砂竜の雄叫びは聞こえない。ようやく眠りについたのだろう。追手を全て始末してくれていれば理想的だが、逆の場合も考えられると英二は信じていた。
故にこそ逃避行を続けたかったが、体の方は限界だった。視界が狭まり、体の末端から感覚を無くし、自身の鼓動以外の音が耳に入らない。思考力など皆無だった。意識があるだけ上出来なのだ。
肩を揺さぶられる感触に、英二は目を開けた。ぼやけた視界にボリスの顔が映る。何かを訴えているようだった。
「起きろ! 砂竜が」
体の下に悪寒のようなものを感じ、英二は寝返りを打った。
直後、彼らの足元が盛り上がる。砂の山を押しのけて出てきたのはこの砂漠で幾度となく目にしてきたミミズのような怪物だった。
三人は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。その足はどれも鈍重だった。
それ故、砂竜は迷ったのかもしれない。どいつから食おうかと首を巡らすほんの数瞬が、砂竜の運命を決めた。
最も手近な獲物に首を伸ばした瞬間、鱗で覆われた砂竜の胴には鋭利な刃物が深々と突き刺さっていた。
砂竜は苦痛を訴えて暴れまわった。
遠方から長剣を投擲した男は、愛馬の腹を蹴って二十間の距離を一息に詰めると、自らが放った長剣の柄に手を伸ばす。馬上に座したまま長剣の柄を捻れば、砂竜の巨体は勢いを増して荒れ狂った。
砂竜はとうとう自身の真下に痛みの根源を見つけた。胴から長剣を抜いた男は鐙から足を外して大地に立った。馬の尻を叩いて走らせてやると、ちっぽけな人間がたった一人、頭上の巨体を見上げていた。
轟吼と共に砂竜は男に飛び掛った。
その瞬間、男は常人に許された限界を優に超える速度で大地を駆けた。二歩で砂竜の生える根元に達し、三歩目で体側に構えた長剣が砂竜の体を半分まで切断する。男が四歩目を終えて振り返った時、砂竜の胴には長剣の刃渡りと同じ長さの裂傷ができていた。
遅れてきた痛覚に砂竜は身をよじった。自重に耐え切れなくなった裂傷が見る見るうちに傷口を大きく広げてゆき、ついに巨体が分断されて体液を迸らせた。
激痛にのたうつ砂竜は半ば砂中に埋まっている下半分を取り残し、上半身だけで砂の中に消えていった。残った尾部は自らを生贄とするかのように砂中からその身を踊り出し、砂埃を上げて跳ね回ると程なくして動かなくなった。
男は剣身にこびりついた赤銅色の体液を袖無し外套で拭き取ると、快活な笑顔で奴隷たちに向き直った。
「全員動くなよ。逃げようとしたら殺すぞ」
硬直する英二のすぐ側を、男の乗ってきた馬が悠然と通り過ぎた。
愛馬の鬣に手櫛をかけるその仕草は、発言とは裏腹にとても優しかった。