十一、姫の危機には
記憶を頼りにエイジは無人の廊下を走り抜けた。「待たれよ」と背後から上がるモンベレ子爵の声は彼の耳に届かない。低い脇構えのまま僅かの間に突き当りまで通過すると、不意に人の気配を感じて階段の手前で急停止する。
と、角から現れたのはどう見ても晩餐会の招待客ともサン・タルテュール大伯の家人とも思えないやさぐれた風体の男だ。
エイジは相手が臨戦態勢を整える前に素早く半歩間合いを詰めてその手首を斬り上げ、続けざまの一太刀で胴を払った。
苦悶の声を上げる男の横をすり抜け絨毯を蹴る。一足飛びに踊り場へ着地すると痺れる両足を叱咤して再度跳躍。膝を曲げてもなお殺しきれない衝撃に軽い目眩を覚えつつ、エイジは広間のある方へ顔を向けた。
急がないと。その焦りは間違いなく彼の視野と思考の幅を狭めていた。なんとなればどうにか一階に着地したエイジが顔を上げたまさにその瞬間、広間へと続く廊下には上階での異常を察知したならず者の一人が大上段に得物を振り上げて彼を待ち構えていたのだ。
不安定な姿勢、自由の利かない身体、かわすことも受けることも困難な間合い。どうにか逃れようと重心を傾けながら、エイジは瞬間的に死を悟った。
「――ッ!」
しかし、その刃がエイジに届くことはなかった。勢いあまって壁に激突したエイジは、今まさに凶刃を振り下ろそうとしていた男の胸に深々と突き刺さる長剣の柄を見た。ならず者は目を見開いたまま口端から赤い血を漏らすと、音を立てて仰臥する。心臓を一突き。恐らく即死だったことだろう。
エイジは長剣の柄頭が向いていたのと同じ方向に顔を向けた。小走りに駆けて来たのは、やはりサン・タルテュール大伯家主催の晩餐会には不釣り合いな恰好の男である。裾のほつれた衣服にみすぼらしい袖なし外套。どこか陰を宿した眼光にばらつきのある長さの前髪が掛かり、口の周りを覆っているのは不揃いの髭。身の丈は二間に近く、肩幅も広い。一見すればならず者の一味に相違ない風情だ。
しかし反射的に腰を上げたエイジは剣を低く脇に構えたまま動きを止めてしまった。相手の出方や実力を測りかねている部分も無いではないが、何よりも彼を戸惑わせたのはどうにも拭えない違和感である。走り方、振舞い、身にまとう雰囲気。どれをとってもその男からはそこはかとない品位、先ほどから三度遭遇してきたならず者たちからは一切感じることのなかった気高さがにじみ出ているのだ。加えて丸腰なのは、つい今しがた自分に斬りかかろうとしていた相手に向けて剣を投げつけた為ではないのか? 実際距離を詰めはしたものの間合いの外で所在なさげに立ち尽くすばかりの様子からはこちらと事を構えようと言う意思を感じない。
互いに無言のままにらみ合うだけの時間が少しの間続いた。
それを中断させたのは広間から上がる悲鳴であった。彼らは同時にそちらを見、再び視線を合わせる。意を決したエイジは、
「助かりました」
と、軽く礼をして相手に背を向けた。不安と確信の相半ばする決断である。柄を握る手にも力がこもった。
結果を見ればエイジはその賭けに勝ったことになる。男は広間へ向かうその背中をただ黙って見つめるのみであった。
「大人しくしてりゃあ何もしねぇよ」とは、突然「花の間」に現れたその闖入者たちが狂奔する招待客たちに向けて繰り返し口にしていた言葉であった。武器もなく抗う気概も持たない賓客たちの大多数はその言葉を信じて促されるままに出入り口から離れた壁際で身を寄せ合っていたが、所詮はならず者の口約束である。舌の根も乾かぬうちに賊の一人が卓上に散乱する豪勢な料理の残骸をつまみながらその下卑た視線をそちらへ向けだした。
「まったくお貴族様ってやつは、おびえ方までお上品で感心するぜ。なあ?」
「へへ、違ぇねえや。この分ならきっと、あの時もお上品なんだろうな」
げらげらと声を合わせて二人は高笑った。赤ら顔で同調する男は飲みなれない高級酒と自分たちの支配的な状況にすっかり酔っている様子だ。思うところが相棒と同じならば、自然とその目は可憐な少女たちに向けられる。
「いったいどんな声で啼くのか、お前聞いたことあるか?」
「あるわけねぇ。しかしそいつは、なんともそそられる話じゃねぇか、え、兄弟?」
二人はゆっくりと賓客たちの方へ歩を進めた。澱んだ瞳に映るのは、暴力とは縁遠い男たちが作る頼りない壁の向こうで恐怖に怯え震えているであろう少女たちだ。
「おい、やめとけ。余計なことして、もし頭領に知られたら」
「冷めるこというなよ、ちょっといたずらするだけだって。これくらいの役得、大目に見てくれるさ」
確かめるまでもなく察せられるろくでもない思惑に仲間の一人が制止の声をかけるが、欲に囚われた獣の耳には届かない。
「ったく、知らねぇぞ」
吐息と共に洩らす言葉は苦くも微かな笑みを浮かべている。あわよくば自らもおこぼれに与かろうと言う下心は明らかだった。
豊かな口髭に赤い調味料をつけたならず者の太い腕が、ほとんど突っ立っているだけの坊主や紳士たちの壁をこともなく払いのけ、その奥に隠されていたものを鷲掴む。鼻腔をくすぐる甘美な香りと明らかに女のそれとわかる細い二の腕の感触が彼の気持ちを昂ぶらせた。
男は手にした戦利品を見せびらかすためにその細い腕を引っ張り出そうと力を込めた。
「降参します!」
と、痛みに耐えかねて漏れる短い悲鳴は、直後に上がった堂々たる宣言によってかき消された。
三人の賊、そして怯え竦むばかりの賓客たちの視線が声の主に集まる。
伸ばした指を高く天井へ掲げた短髪の女騎士は、その姿勢のまま賓客たちの集まりから一歩進み出て賊たちの前に立つと、真っ直ぐな瞳で再度続けた。
「降参しますから、命ばかりは助けてください」
ならず者たちは視線を合わせた。驚き、戸惑い、ついには笑い出す。状況が分かっていないのか、恐怖のあまり気が動転しているだけか、どちらにしても間の抜けた騎士がいたものだ。
口髭の男はせっかく捕まえた獲物の腕を放すと高らかに降参を宣言した女騎士を値踏みした。近づいてみればなかなか上背がある。が、頭一つ分彼の方が勝っており、尚且つ相手は腰に剣を帯びていない。よくよく見れば顔はそれほど悪くないようだ。くりくりとした丸い目に危機感の乏しい微笑。美人ではないが愛嬌はある。つまむならやはり貴族の娘と思っていたが、女騎士というのも悪くはないだろう。同じく興味を引かれたらしい赤ら顔の相棒と共に、彼は笑みを浮かべてその新たな獲物を見下ろした。
「騎士様よ、何か誤解があるみてぇだが、俺たちゃなにもあんたらの命まで奪おうなんて思っちゃいねぇんだぜ」
「そうそう。ただちょっとの間付き合ってくれりゃあ悪いようには、いやいやそれどころかいい思いだってさせてやれる」
「よくいうぜこの野郎。そういって何人の女を泣かせてきたんだ」
「馬鹿! 変なこというなよ。お嬢さん方がおびえちまうじゃねぇか」
赤ら顔の男がそう言って少女たちへ視線を向けた時だった。肩を寄せ合う二人の賊は耳朶に空気の爆ぜる音を聞き、直後に束の間意識を失った。
少し離れたところで傍観していた三人目がすぐさま横に飛び退くと、一瞬遅れて彼の立っていた場所に黒い蛇のようなものが襲い掛かる。蛇は風を切ってその場にあった椅子の背もたれを粉砕すると次の瞬間には元の位置、間の抜けた女騎士の手元に戻った。
「この女! どこにそんなもん!」
仲間二人を昏倒せしめた女騎士の得物を偶然目撃していた彼は、倒した食台を盾にしながら悪態を吐いた。何の変哲もない革の腰帯と思われていたものは長さ四間あまりにもなる鞭だった。相手が丸腰だと思ってすっかり油断していた二人のならず者は、ほんの少しの警戒もしていなかった無防備な脳天を不意の一撃で揺さぶられたのである。
まさに電光石火の連撃。一瞬の間に形勢は逆転していた。そのあまりにも急な展開を同僚の二人と賓客たちとが飲み込めずにいる間にも、ジェルソミーナは攻撃の手を緩めない。有利な間合いを維持しつつ絶え間ない連打を繰り出して初撃から逃れた三人目が拠る楢材の食台をただの木片に変えていく。牽制と、可能なら一撃でも入れて弱らせたい。武器を手放させることさえできればオレリアとエルマを加えて三人。さして時間をかけずに倒せるはず。
極めて冷静に見える彼女にも焦りがあった。賊の規模は分からないし、入り口で短剣を預けてしまった為今頼れるのはこの鞭だけだし、何より――、
視界の外で不意に上がった悲鳴に、ジェルソミーナの鞭がぴたりと止まる。声の方に顔を向けると、先ほどの不意打ちから早くも回復したらしい口髭の男が彼女を睨みつけていた。
「い、ますぐ、そいつを捨てろ! さもなけりゃあ」
長さ四間の鞭は近過ぎた間合いでその威力を十分に発揮できなかったようだ。怒りか、はたまた酒の為か、真っ赤にした顔で要求する男は、その腕に捕らえた可憐な少女の頬先に鋭利な刃物を突き付けていた。
躊躇いは一瞬であった。一目で状況を理解したジェルソミーナはすぐに鞭を手放すと、両手を上げて今度こそ嘘偽りない降参の意を示した。
人質に取られたのが他の誰かであれば、彼女の行動はまた違ったものになっていただろう。しかし囚われていたのはよりにもよって彼女がその身命を賭してでも守らなければならない主君であった。ルオマ公姫の身の安全以外に、騎士ジェルソミーナが優先しなければならないものは存在しない。彼女の視野と思考を常ならず狭めさせていたのは、このわけの分からない危険な状況から一刻も早くルオマ公姫を連れ出さなければ、と言う焦りであった。
食台の盾の後ろから女騎士の武装解除を確認した男は、慎重にそこから這い出ると油断なく長剣を構えて勇敢な女騎士との距離を詰めた。
目まぐるしく入れ替わる形勢がとうとう自分たちの望まぬ方向に決したことを察すると、無力な聴衆たちの間に落胆の空気が漂った。
「へへ、そうだ。それでいい。次また妙な真似しやがったらこの」
薄ら笑う口髭の声は途中で途切れた。
突然、喉に何かを詰まらせたらしい。苦し気に背を丸めて気道を塞ぐ何かを吐き出そうとする。
しかしどれだけ咳き込んだところで彼の身に生じた異状は改善されない。短く空気の抜けるような呼吸音を繰り返して、その表情は苦悶に歪むばかりだ。そんな状態に陥っても得物を手放さなかった彼の気力は称賛に値するものであったが、彼らの優位を決定づけていた人質の方は、彼が苦しみ喘ぐ間にあっさりとその手から逃れてしまった。
「お、おい、どうした? 何が」
突然苦しみだした仲間と、予期せず解放されてしまった人質の少女と、それを抱きとめる油断ならない女騎士。それはそのならず者の男が決して長くはない人生の最後に目にした光景であった。仲間と人質と女騎士の三者にしか気を留めていなかった彼は背後から音もなく迫る存在を認知することなく、それが繰り出した一閃によって首と胴とを分断された。
迸る鮮血からかばうように、主君の身を同僚の二人に預けると、ジェルソミーナは昏倒したまま意識の戻らない赤ら顔の落とした長剣を手に取り、丸くなったままの口髭の背中を一突きする。
剣先は正確に心臓を捉えていた。一瞬にして苦しみから解放された口髭は床に伏したそのままの姿勢で動かなくなった。
招かれざる客達が沈黙すると、宴席の会場には異様な静けさだけが残った。
目の前で繰り広げられた凄惨な出来事に、命を拾った賓客たちは言葉もない様子だった。仕事柄多少命のやり取りに慣れている女騎士、オレリアとエルマの二人にしても現況を把握し切れていない状態は同じである。
荒い息遣いと衣擦れの音以外は何も聞こえない、その沈黙を破ったのは主賓たる少女であった。
ルオマ公姫はお付きの騎士二人の手を振り払うと返り血も露わな青年の首に飛びついた。
「信じてたわ。あなたならきっと来てくれるって、私、信じてた。だって約束したもの。たとえ地の果てにいたとしても」
ガブリエッラの言わんとしていることを思い出してエイジは苦笑した。少々の気恥ずかしさと喜びに動揺しながらも、彼は主君の言葉を継いだ。
「はい。姫様の危機には、必ず馳せ参じると誓いました。約束を、違えずに済んで何よりです」
エイジは首に組み付いたままの少女の背中に手をやった。指先に感じる微かな震えと陽だまりのような温もりは、彼の心により一層の強い思いを抱かせた。
何が起きてるのかは分からないけど、この少女だけは守り通さなければならない。
成り行きで授けられた騎士の叙任から二年余り。戦場や儀礼の場などで得た数多くの経験が、騎士道の何たるかも知らなかった一人の青年の精神を一端の騎士と呼べるまでに成長させていたらしい。ルオマ公姫のために命を懸けることを微塵も厭わない自分自身に、エイジは全く疑問を抱かなかった。