十、当代サン・タルテュール大伯
案内の道すがら、規則的な歩調で絨毯を踏むモンベレ子爵は後に続く客人に話しかけた。
「失礼ながら、先ほど公姫殿下がお話しされているのを私も密かに拝聴しておりました。腕に覚えがおありのようで」
「いやいやそんな」エイジはぶんぶんと頭を振って答えた。「お優しいから、色をつけてくださっているだけですよ。自分なんて全然大したことは」
「ご謙遜をなさる」
モンベレ子爵は振り返ることも、足を止めることもなく平板な声で続けた。
「『エッセンベルクの白狼』の名は当方も聞き及んでおりますよ。先の戦では揮わなかったようですが、ラ・フルト侯の被った損害を思えばあれをエスパラムの負けと評する者はいないでしょう。その精鋭ぞろいの傭兵隊で剣を教えられていた方が、そうご自分を卑下なさることもないのでは?」
「はあ」
話の向きが分からず、エイジは気のない返事で応えた。周りにどう思われようがあの戦は彼が白狼隊に属してから初めて経験した負け戦である。失われたものはあまりにも多く、それによって負った傷もまだ癒えてはいないのだ。正直なところこの話題が続くことをエイジは望んでいなかった。
そんな思いが通じたのか、モンベレ子爵はそれ以上口を開くことなく、また静かな時間が戻った。宴の賑わいからすっかり離れた廊下、絨毯に吸い込まれた二人分の足音だけがほんのわずかに響く。気まずい沈黙は不意にエイジを冷静にさせた。
――もう随分歩いてる気がするけど、一体どこに向かってるんだろう?
内密の相談と言うからには人目を避けたいのだろうと言うことは分かる。が、二階に上がった時点で人声はかなり遠くなり、途中でいくつか空き部屋らしきものを通り過ぎてもいる。
俄かに心細さを感じたエイジの手は思わず左の腰元へ伸びるが、落ち着きない指先が撫でたのは上等な下服の生地だけだった。
多くの要人が集まる社交の場であり、警備は専門の者たちが十分に配備されている。加えて舞踏の際には邪魔にもなるからと、邸内は長剣をはじめとした武器の持ち込みが禁止されていた。申告するのを忘れていた為入り口で取り上げられなかったサラサン人の短剣と両の袖口に仕込んであるいくつかの棒手裏剣のみが今の彼に頼れるものだった。
エイジは懐の短剣を意識しつつ注意深く前方の老紳士を観察した。武器は持っていない。上背はあるが、線は細く見える。取っ組み合いになってもこっちに分があるか……。
と、正確に時を刻んでいた長い足がようやく止まり、エイジの全身に緊張が走った。眼前のモンベレ子爵は踵を揃えて右へ向き直ると、軽く咳を払って両開きの重そうな扉を拳で叩いた。
「閣下、クレマンにございます。お客人をお連れ致しました。お会いになって頂いてよろしいですか?」
少しの間を開けても室内からの返事はない。わずかに眉根を寄せたクレマンは小さな溜め息と共に金属の取手を握り扉を押し開けた。目で促されたエイジは彼に続いて室内に足を踏み入れる。
広くゆとりのある部屋は天井から吊るされた照明器具の暖かい色で溢れていた。廊下のものよりさらに質の良さそうな絨毯の感触に一瞬足を取られそうになったエイジはぎこちなく踵を踏み締めながら視線を室内に走らせた。
向かって左側は一面書架。各棚の端から端まできっちり本が収まっている。その反対側、右手奥には天蓋付きの大きな寝台と本が二、三冊平積みされた小卓。壁に掛けてある風景画に描かれているのは陽光を反射させた湖のようだ。正面には露台へ通じる大きな窓が開いており、夜風に揺れる絹織りの窓掛けの向こうに見えるのはいくつかの星々が煌めく夜空だ。
がらんとした部屋の様子にエイジはいくらか警戒感を解いた。丸腰の老人と寝台の上で飾り板に寄りかかってうとうとしている青年一人、この場にいるのはそれだけのようだ。
「若様、しゃんとなさい。お客人の前にございますぞ」
モンベレ子爵に肩を揺さぶられて若者は煩わしそうに顔をしかめた。
「うるさいな。分かっている、そう何度も言われなくたって」
大きな欠伸と共に背筋を伸ばした彼は涙の滲む眼で老人を睨んで言った。
「大体何が客人だ。そんなもの招いた覚えは」
まだ覚めきっていないぼやけた視界が上品な仕立ての礼服を認めると、青年と、そしてエイジは互いに言葉を飲み込んで記憶を辿ることになった。着慣れていない雰囲気の礼服に身を包む黒い髪、黒い瞳の青年を見て、上品に切り揃えられた暗めの金髪に茶色の瞳、訝しげに寄る眉根を見て、二人は同じ情景を思い出した。
数日前、昼下がりの聖アルテュール記念館で、見た覚えのある顔だ。
「君は……」
青年が言葉を継ぐ前に、モンベレ子爵は守役の顔から臣下の態度に戻って答えた。
「こちらはルオマ公姫殿下にお仕えされている騎士、エイジ・ナイトー殿です」次いで未だ寝台から少し離れたところに佇立しているエイジに向き直って続ける。「エイジ殿、この方は当代ラ・シャルメ伯家当主、フィリップ・ナタン・ドゥ・ラ・シャルメ伯爵閣下であらせられます」
おぼろげな記憶を思い起こしている最中にあまりにもあっさりと告げられたものだから、モンベレ子爵が彼の主の名を伝えてからエイジがそれを理解するのには若干の間があった。聖アルテュール記念館で会った庭師見習い風の青年が、当代ラ・シャルメ伯。と言うことは、今目の前にいるこの若者がここら一帯の領主、通称サン・タルテュール大伯その人だ。エイジは慌てて跪き、頭を垂れた。
「あ、え、エイジ・ナイトウと申します! またお目にかかれて光栄に存じます閣下! 知らぬ事とは言え、先日は名乗りもせず大変失礼いたしました!」
低頭するエイジに、対するサン・タルテュール大伯フィリップはばつが悪そうに曇った顔を他所へ向けて答える。
「ああ、いや、うん。よしなに頼む、ナイトー卿」
「先日?」主の不自然な態度と、そして客人の発言を守役は当然漏らさなかった。「何処かで面識がおありでしたか?」
「いやなに、大したことでは」
ごまかそうとするフィリップの声は小さかった。冷や汗をかいて釈明するエイジの耳になど全く入らないほどに。
「先日、聖アルテュール記念館を訪ねた折にお会いする機会がございまして、その時は、その、失礼ながら鋏を携えてお庭に立たれているお姿から、まさかサン・タルテュール大伯閣下とは思いもいたせず」
「ほう、鋏を携えて聖アルテュール記念館の庭に、ですか」
老紳士の右の眉尻がピクリと上がる。モンベレ子爵はついと目を背ける主に険のある一瞥をくれると、穏やかな微笑でエイジに尋ねた。
「お会いしたのはいつ頃のことでしょうか?」
「え、っと……数日は前のことと記憶しています」
「閣下はお一人でおられましたか? それとも誰か供を連れておいでで?」
「お一人だったと、思いますが」
「その時閣下は何をなされておりましたか?」
「庭木の剪定を、されているように」
微笑を保ちながらも詰め寄らんばかりの老人の勢いに、気圧されたエイジの声まで小さくなっていく。当事者の一人を尻目にした意図不明な質問責め、そして先ほどから自分が答えるたびに背けた顔を明後日の方向へと捻っていくサン・タルテュール大伯の様子。エイジは自身が何か大きな失態をしでかしてしまったのではないかと思うと気が気ではなくなっていた。あの日の自身の行動や発言をどうにか記憶の底から掘り起こしながら、なるべく正直に、誠実な返答を心がける。
「お一人で庭木の剪定をなされていたとは言え、装いからなにか気づかれはしませんでしたか? 羽織の家紋、腰に提げた長剣の装飾、高貴な身の上を窺わせるものには事欠かなかったと思われますが」
「あ、その、とても楽そうなお姿をされていたので」
「楽そうな、と言いますと?」
「上下とも綿の肌着で、足元は革の突っかけ。武器らしきものは身に着けておられず、腰には職人がよく使っているような革製の道具入れを括りつけられておいででした。なので、その」
「庭師か何かと間違われてしまったと、そう言うわけですな?」
「は、あの、申し訳ございません」
エイジは改めて深々と頭を下げた。厳しい叱責を覚悟していた彼だったが、意外にもモンベレ子爵の反応は優しいものだった。
「いや、エイジ殿、貴殿が謝られることではございません。お気になさらず、どうかお立ちになってください」
思いもかけなかった言葉にエイジは顔を上げた。差し伸べられた手にも、申し訳なさげに少しだけ眉根を寄せた表情にも、顔を合わせた当初感じた冷淡な雰囲気は無い。
しかし慈父のような老紳士はエイジを立たせると一転眉間の皴を深くして、先ほどから頑なに目を合わせようとしない主へ鋭い視線をぶつけた。
「若様、あれほど庭いじりは止めていただくよう申し上げましたのに」
サン・タルテュール大伯フィリップは答えない。聞こえていないはずもなかろうに、目を閉じてそっぽを向いたままである。そして守役はもちろん追及を止めなかった。
「ご自身の立場をきちんと理解しておいでですか? 護衛を遠ざけて一体どこに行かれているのかと思えば、またあのようなところへ」
「余暇をどう過ごそうが私の自由だ。口を出される謂れはない」
「馬鹿なことを仰らないでください!」
ようやく出てきた反論は即座の雷であっさりかき消された。
「当代ラ・シャルメ伯ともあろうお方が、庭師の真似事などされていては御家の名誉に関わります。忠誠を誓った主君が額に汗して自ら庭木を整える様など目にした時の、家中の者たちの気持ちが想像できませんか? あるいは失望し、あるいは呆れ、遠からず人心が若様の元から離れることは明白です。それに万が一にもそんな噂が他領まで届ば嘲弄の的となることも必定でしょう」
「……それでも」
「それでもどのように振舞おうが私の勝手だと貴方は仰る。しかしそれは違います。代々王家より賜った広大な領地を守ってきたラ・シャルメ伯たるもの、全ての行動には責任と義務が伴うものだからです。高みにある者は、それにふさわしい生き方をしなければならないと、幼少のみぎりより口を酸っぱくして申し上げ続けてきたことを、若様はもうお忘れですか? 貴方が勝手気ままに振舞った結果をご覧なさい。エイジ殿に要らぬ誤解を与え、下げずともよい頭を下げさせたのは、一体誰の所為だとお思いですか?」
「それは……まあ、私にも至らぬ点がないとは言わんが」
言葉遣いは丁寧だが叱責することにいささかの躊躇いもないモンベレ子爵と、肩を落としながらそれを聞くサン・タルテュール大伯フィリップの姿は、悪戯を叱る飼い主とやんちゃ盛りの幼犬のようにエイジの目には映った(もちろん実際の立場は逆であるが)。そして遅ればせながらようやく気づいた。サン・タルテュール大伯はお忍びで趣味を楽しんでいたことをお目付け役に知られたくなかったから、先ほどからずっとなんとも歯切れの悪い態度を取っていたのだ、と。
だとしたら、なんて空気の読めない受け答えをしてしまったんだろう。一瞬の安堵の直後、エイジの額には再び冷たい汗が流れた。サン・タルテュール大伯は不器用ながらどうにかごまかそうとしていたのに、保身に焦るあまりそんな相手への配慮にまで頭が回らなかった。気の利かない奴と思われたことだろう。今まさに食らっているモンベレ子爵の説教は、半分くらいエイジの対応に責任がある。ろくに言葉も交わしていないのに、印象は最悪のはずだ。
ともあれ多くの犬の場合と同じで、サン・タルテュール大伯もまたあまり長い説教には耐えられない性質らしい。
「ああ! もういい、分かった! これからは気持ちを改める! それでいいだろう」
彼は老守役の理詰めを強引に遮って話題を変えた。
「で、その騎士殿が一体何の用だ?」
突然話を振られたエイジは思わず目を丸くした。内密の相談とやらのためにわざわざ呼びつけられたものと認識していたのだから当然の反応と言える。
が、よくよく思い返してみればサン・タルテュール大伯に用があるのはこちらも同じだった。エイジは背筋を正すと、不機嫌そうにこちらを見上げる茶色の瞳を真っ直ぐ見つめて答えた。
「閣下、恐れながら、是非ともご教示頂きたいことがございます。発言をお許し願えますでしょうか」
「エイジ殿、何を」
「聞こう」
思いがけない客人の言動に口を挟もうとするモンベレ子爵を、サン・タルテュール大伯フィリップが制した。内容に興味を持った風はない。ただ面倒な用事を早く済ませたいと言った態度で、彼は客人へ促した。
許しを得たエイジは丁寧に頭を下げ、続けた。
「閣下は、聖アルテュールが自ら著した本、世に広く出回っている刊本の類ではない原典となる一冊をお持ちでしょうか?」
予想していた角度からの質問ではなかったらしい。フィリップは一瞬目を見開くと、すぐ口元に手を当てて考え込み、答えた。
「無い、な……持っていない、はずだ」
「それが何か?」と相手が続ける前に、エイジは重ねて尋ねた。
「では、それらが今現在どこにあるのか、ご存じではありませんか? 恐れながら、数代前の財政難の折に貴家で所有されていた書物の多くが散逸してしまったと言うお話は伺っております。ただ、その際に買い手のことを記録した目録が残されているとも耳に致しまして、捜索するうえで何か手掛かりだけでも得られないものかと」
フィリップはまたしばしの間考え込み、やがて独り言のように答えた。
「……目録、ではないが、どこの誰が何をいくらで買い取ったかの記録は、確かに残っているな」
「そ、それを見せていただくことは」
「申し訳ないがそれはできない」
思わず前のめりになったエイジは、フィリップの即答に勢いを止められ、ぐっと言葉を飲み込んだ。二呼吸ほど間を置いて、再度尋ねる。
「何故でしょうか?」
「その記録と言うのが当時のご当主、倹約伯ラザールの日記だからだよ。当時の我が家の経済事情はもちろん、今明るみになっても問題になりそうな王政への批判や、まだ誰にも知られていない女性関係の内緒話やらが赤裸々に綴ってある。そんなもの部外者に見せられるわけないだろう」
想定外の答えに、とうとうエイジは口をつぐんだ。なるほど、公にできないはずである。百年近く前に書かれた日記とは言え、不名誉を何よりも恐れる貴族にしてみれば当然の判断だと納得せざるを得ない。しかし、ここで諦めれば自分はまた当てのない世界へ単身放り出されることになるのだ。どうにか説得できないものかと、彼は脳を全稼働させて糸口を探した。
と、そんな彼に助け舟を出したのは、申し出を拒絶したサン・タルテュール大伯自身であった。
「実物は見せられないが、覚えている内容を口頭で伝えるくらいなら別に構わない。私の記憶を頼りにしている以上情報の正確性は保証できないし、そもそもが百年近く前の記録だから今現在の所在とは異なる場合も多いだろうが、それでも良いと言うならね」
「そ、それで構いません! 是非お願いします!」
「そうか」
相手の即答に、サン・タルテュール大伯は少しだけ気を良くしたようだった。覚めた表情にこそ変化はないものの、先ほどまであからさまだった受け身の姿勢から一転してエイジに尋ねる。
「で、知りたい書物と言うのは、具体的に?」
「できれば、ご記憶なされていることは全て」答えながらも、それがどれだけ図々しく、また困難な内容であるかに気付いたエイジは慌てて訂正した。「あ、いや、ですがお手間であれば『騎士道教書』とか『軍学覚書』とか、内容にアルテュール文字が含まれているものだけでも」
「本気で全てを探し出すつもりなのか? それは確かに手間だが」エイジが言い直した理由を理解できるフィリップは、しかし微かに首を振って答えた。「まあ、実際のところ、その二冊に関してならさして難しいことでもないさ。何故かと言えば、本の種類によって買い手の傾向がある程度分かれていたからね」
彼は立ち上がると、腰のあたりに手を組んだまま広い室内を歩き始めた。書架の前で行ったり来たり、時折天井を見上げるのは、どうやら考え事をする時の彼の癖らしい。フィリップは独り言のような声量で続けた。
「図典や小説、芸術評論などはルオマの豪商、名前は思い出せないが今も残っているような家の主人が全て買い取っていたな。壁の建設も順調で当時は取り分け羽振りのよかった時期だから、それこそ金に糸目などつけなかったわけだ。天文や理学等の学術書の類は時のパッサローラ公がほとんどを買い取っていたかな。刊本ならいくらでも持っていたはずから、当家の困窮を不憫に思っての行動だろう。日記に繰り返し倹約伯の謝辞が記されていたことを覚えている。そう言えば法律や領地経営にまつわる本は人気があって買い手にもばらつきがあったな。『アルテュール憲章草案』は王弟のネーヴェラント公オーバン、『四公六民』と『富める国』はサン・ドゥニエ大伯家、『国元論』はサン・ブロワ大伯家の元にそれぞれ買われていったと記憶しているが、細々とした部分はあまり自信がない」
挙げられた書物はいずれもアルテュール文字の記述があまりないものではあったが、エイジは一つとして聞き漏らすまいと黙って耳を傾けていた。果たしてサン・タルテュール大伯フィリップはぴたりと足を止めるや指を二本立てて客人を振り返った。
「それで、君が知りたがっている二冊だが、確か『軍学覚書』の方はゲルジア東部の有力な貴族が買い手だったように思う。その他兵法書や軍記物の多くはゲルジア貴族に特に人気で買い手も北東公領に集中していた。そして『騎士道教書』他、思想書や日記の類は」
サン・タルテュール大伯の饒舌を止めたのは窓外から聞こえる物音だった。良いところで遮られて思わず眉根を寄せたフィリップは、足早に窓辺へ寄ると開いたままの硝子窓に手を掛けた。
「全く、何だと言うのだ」
苛立ちも露わに窓を閉めようとしたフィリップの手が再度の喧騒によって止まる。およそ優雅な宴席には似つかわしくない女性の悲鳴と、陶器や何かが割れるような音が階下から響いた。
不審な雰囲気にエイジとモンベレ子爵も身構える。と同時に、彼らは廊下を駆ける荒々しい足音に気付いた。
途中の空き部屋で逐一止まりながら、徐々に近づいてくるその気配は、とうとう彼らの部屋の前で止まると、直後、大きな音を立てて扉を破壊した。
現れたのは粗末ななりの中年男だった。口の周りに不揃いな髭を生やし、背はそれほど高くないが筋肉質の体格。ぎょろぎょろと室内を見回すその右手には僅かに反りの入った片刃剣が握られている。
「何者だ! 無礼であるぞ!」
モンベレ子爵の問いに答える素振りはない。男は軽く周囲に視線を走らせるとすぐに標的と状況を見定めて得物を振り上げた。ひょろそうな金髪と黒髪と爺。全員丸腰。取るに足らない相手だ。一振りで手前の二人をまとめて撫で斬りにして、返す刃で標的の体を真っ二つ。一番手柄はいただきだ。
決断、行動、どちらも迅速だった。しかし不幸なことに彼は判断を誤っていた。取るに足らないと決め込んだ黒い髪の青年は武器を隠し持っており、それは彼の間合いよりも遠くから使え、尚且つその青年は実戦経験をそれなりに積んだ元傭兵であった。
「――あッ!」
眼球に急激な熱を感じた男は思わず自身の左目を押さえた。
その間に身を低くして間合いを詰めたエイジは腰を折る男の左側面から背後に回り込むと、剣を掴んだままの相手の右腕を取りつつ足を払う。勢いよく絨毯に突っ伏した直後、後頭部に全体重を乗せた膝を落とされた男はつい先ほどまでの様子が嘘のように静かになった。
ほんの一瞬の攻防が終わり、室内には静寂がやって来た。
俄かに荒くなった呼吸をどうにか整えたエイジが恐る恐る尋ねる。
「あの……えっと……知り合いだったりし、ます?」
「しないよ! 知らない。誰なんだ、それは」
否定が欲しくてした質問にフィリップが即座に回答した。ひとまず安堵したエイジだったが、モンベレ子爵の何か思いつめた様子に気付いて視線を向ける。
主君と客人に見つめられて、彼は観念したように口を開いた。
「恐らく、若様の命を狙う者たちの差し金でしょう」
その言葉にエイジは眉根を寄せ、そしてフィリップは察したように目を閉じた。
「それは一体、どういう」
「エイジ殿」
客人の口から出る素直な疑問を遮って、モンベレ子爵は相手の前に跪いた。
「内密に相談したきこととはこの事です。どうか貴殿に当代ラ・シャルメ伯フィリップ様の御身を刺客の魔の手からお守りいただきたい」
「へ?」
突然の、しかも重要に過ぎる頼み事に、混乱したエイジは思わず間抜けな声で応えてしまった。少し聞いただけで分かる。やばそうではなく、とても自身の手に追えそうにないほどやばい内容なのだ。
エイジは本能的な判断で頭を振った。
「いや、あの、ちょっと何を言っているのか分からないのですが、自分には」
「エイジ殿、詳しくお話している暇はございません。ただ一言、承知したと仰っていただければそれで良いのです! お願いいたします。どうか」
「止せ、爺。困っておられるだろう」
相手の都合など一切聞く気はないらしい。モンベレ子爵は必死の形相で食い下がる。見かねた彼の主が老人の肩を引いても彼はやはり諦めなかった。
「今こうしている間にも新たな刺客が迫っているやも知れぬのです。重ねてお願いいたします。どうか貴殿のお力を我々にお貸しくだされ。どうか」
「あの、困ります。自分、いや小生は、ルオマ公姫殿下にお仕えする立場なので、勝手な約束は」
当惑と混乱の間で板挟みになっていたエイジの頭は、不意に嫌な閃きにとらわれて冷静さを取り戻した。新たな刺客、さっきの悲鳴、ルオマ公姫。断片的な情報を線で結んだ結果、浮かんできた像がエイジの思考を単純化する。
――ガビー様が!
近くに転がっていた片刃剣の柄をつかみ取ると、弾かれたようにエイジは飛び出した。