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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第一章「エスパラム」
13/131

九、東へ‐1

 ベルガ村より南に出ると、五里までは農道が敷かれている。整備は行き届いてないが、それは紛れもなく人の縄張りを示す目印である。農道の終端には十年ほど前まで集落と呼ばれていたものがあったが、今ではその名残の井戸を警邏隊が利用するくらいで、それを除けばこの辺りまで来る者は皆無なのだった。


 道の途絶えた荒野からさらに南に下れば程なく景色は一変する。まず大地の色味が薄くなり、辺りに生い茂っていた植物は少しずつ姿を消していく。一里も歩かぬうちにその理由は判明した。踏み出す足は(くるぶし)辺りまで埋まりそうなほど砂に飲まれ、まぶしい陽光の照り返しにはろくろく目も開けられない。


 大地の性質が変わっていたのだった。視界一杯に広がるのは見る者から距離感を喪失させる無限の砂漠だ。この不毛の地に人の住めようはずもなかった。


 故にボリスの主張は正しかった。こんな地獄をろくな装備もなしに踏破しようなど絶対に不可能。自ら進んで死にに行くようなものだ。当然ペペも賛同して形勢は二対一となった。


 にもかかわらず最後の一人はその意見を全く無視した。二人が止めるのも聞かず、ただ一点だけを目指して砂の山を這い進んだ。


 そして今、三人は走っていた。髪を振り乱し必死に(もも)を上げて、ぐねぐねと蛇行するように砂の起伏を転げまわる。


 鈍重なぺぺの努力なのか、それ以外の二人がもう限界なのか、器用にも足並みが揃っていた。


 しかしそれも長くは続かない。盛大に転倒したペペは立ち上がれぬまま背後を振り返った。


 駆け続ける彼らの足跡を追って、砂地が奇妙に隆起した。砂中から姿を現したのは巨大なミミズのような生き物だった。長い体をくねらせて、大きく開いた口腔(こうこう)には不揃いな牙がびっしりと生えている。その口が狙うのは恐怖と疲労に緊縛され身動きの取れないペペだ。


 怪物の牙が眼前まで迫る。


 ペペは横っ飛びに吹っ飛んだ。英二の体当たりが寸でのところでペペを救ったのだ。


「くそッ!」悪態を吐いてボリスは抜剣する。


 ギョームから奪った(きら)びやかな長剣を大上段に構え、ボリスは砂中からはみ出る怪物の胴体に振り下ろした。


 刃がわずかに肉を斬った。赤銅色の体液を滲ませ、怒れるミミズは長い胴体をうねらせた。


 砂の大地が大きく揺れる。ただでさえ悪い足場が(かせ)となり、三人は身動きが取れない。


 上下にのたうつ怪物の尾部がボリスの体を跳ね上げた。


 弾き飛ばされたボリスは空中で二度回転し、なす術もなく落下する。落下点に待つのは怪物の大口だ。軽い失神に見舞われたボリスは己の窮状に気づかない。


 死に瀕する兄貴分を救ったのはぺぺだった。全体重を乗せた捨て身の突き押しが、眼前の獲物へと伸びた怪物の胴を食い止める。


 瞬間、英二は抜き放った長剣を怪物の喉元へと突き刺した。


 生き物に当たったとは思えない硬質な音が英二の腕を痺れさせる。


 ボリスの体が砂を巻き上げて墜落した。勢い余って砂丘を転がるも、何とか激痛をこらえて顔を上げる。と、現状を把握する前に体を引っ張られた。


「な、何だ、おい」

「無理だ。逃げるぞ」


 彼を牽引する英二とペペのすぐ後ろに、まるで傷など負っていない巨大なミミズが猛然と襲い掛かる。


 ボリスは慌てて走り出した。遅れがちなペペの肩口を怪物の牙がかすめる。血の甘美さを思い出したのか、怪物は咆哮をあげて彼らに踊り掛った。今度はボリスのふくらはぎに赤い直線が走る。咄嗟(とっさ)に跳躍していなければ今頃膝から下は怪物の腹の中だっただろう。


 安堵しているゆとりはない。獲物を追いかける怪物は彼らの背後でいつの間にか数を増やしているのだ。


 右も左も不覚のまま、とうとう彼らは足を止めざるを得なくなった。気づけば眼前にそびえるのは巨大な岩の塊だった。


 恐怖は時に人を助ける。考える寸暇(すんか)も惜しんで、彼らは岩塊(がんかい)にへばりついていた。尻のすぐ後ろまで追いすがる怪物を足蹴にし、ほぼ垂直に見える岩壁をリスのような俊敏さで上りきったところですぐさま頂上に倒れ伏す。


 怪物の気配が遠のいた気がした。岩の(へり)まで這い進んで恐る恐る覗き込むと、ボリスは改めて大きく息を吐く。怪物は悔しそうな咆哮をあげながら岩山を取り囲んでいた。二十間はあろうかという巨体でもここまで上ってくることはできないらしい。


 何とか恐怖が収まった。続いてきたのは絶大な疲労。そして怒りだ。


「だから、言った、だろうが、絶対、無理だって」


 怒りを向けられた本人はそれどころではないと大儀そうに呼吸してそっぽを向いた。そんな態度に当然ボリスは腹を立てる。


「おい、テメェ、聞いてんのか」

「別に、ついて来てくれって頼んだわけじゃない。行きたければ西でも東でも好きなところに行けばいいんだ、二人で」

「この野郎」疲労も忘れてボリスは英二の胸倉をつかんでいた。


 英二の主張は(おおむ)ね正しい。元より深い絆で結ばれた関係というわけでもないのだから行動を共にする理由もないのだ。


 ボリスとしても本音ではそうしたかった。従順なペペはともかくとして、自由の身となった後もこの得体の知れない少年と寝食を共にするのは、あまり気分のいいものではない。


 だが、自儘(じまま)に生きられるほど彼らの自由は磐石(ばんじゃく)ではなかった。お互い頼れるものがない身の上なら助け合って生きていくのが筋ではないのか。


 然るに相手の態度は非協力的だった。その冷めた目は、ボリスの(いや)しい腹積もりまで見透かしているようだった。


 こいつの存在は気に食わない。けれどもギョームを圧倒したあの手並みは使えるかもしれない。トカゲが尻尾を切るように、いよいよとなってから捨ててしまっても遅くはないはずだ。


 ボリスは実利のためなら感情など排除できる人間だった。彼が異議を唱えつつも英二に同行したのは妥協という至極単純な話だった。


「や、やめなよ兄貴、クチナシも」


 ぺぺの言葉にボリスは不承不承手を離した。英二に当たっても現状を打破することはできない。


「で、どうするつもりだ? まさかまだ神様に会いに行くとかいうつもりじゃねえよな」


 英二は答えず目を逸らした。遠方にそびえる塔を見て、眼下にうごめく怪物の声を聞く。


「もう、帰ろうか」ペペがぼそりとつぶやいた。「なあ兄貴、帰ろうぜ村に。俺たちだけじゃ生きていけねえよ」

「どんな馬鹿でもお前よりはましだろうぜ、ペペ」ボリスは天を仰いで頭を振った。

「村になんか戻ったって殺されるだけだ。貴族には面子がある。領主を殺されておきながらそれを黙って見過ごすなんざ、たとえ神が許しても、へ、誇りってやつが許さねえのさ」


 もとよりその選択肢はボリスの中にない。ボリスは決めたのだ。この神が与えたもうた千載一遇の好機に奴隷という気に入らない立場から必ず脱却してみせると。


「悪かったよ」沈黙を続けていた英二は不意に口を開いた。

「ちょっと、自棄(やけ)になってた。見通しが甘かった。あそこを目指すのは、一旦諦める」

「そうかよ」眉根を寄せてボリスは答えた。あれだけ頑なだったのに突然素直になるのだから益々分からない。


 だが、ともかくも意思の統一はできた。ボリスはどかりと腰を下ろして今後の方針を話し始めた。


「で、どうする。俺としてはやっぱり砂漠の境目沿いを東に進んでラ・フルトに向かうのがいいんじゃねえかと思うんだが。多少村の近くまで戻ることにはなるが北西のラ・ロシュより近いし、前の戦のせいで関所が壊されてるって話も聞くし、何より砂漠よりは歩きやすいからな」

「なあ、その前に聞きたいんだけど」

「何だよ」


 英二は自分たちが今しがた登ってきた岩壁の方を指した。「あれをどうにかするのが先なんじゃ」


 今やすっかり大人しくなってはいるが、彼らの拠る岩山は未だあの怪物に包囲されている、言わば陸の孤島となっていた。試しにペペが覗いてみれば、とぐろを巻いた大ミミズが二匹ばかり岩の麓で睨み合いをしている。どちらも頭上彼方へ逃げた獲物を逃がすつもりはないようだった。


「いいんだよあいつらのことは」ボリスはそんなことかといった様子で手を払った。「やつら砂竜(さりゅう)は夜になると寝ちまう。俺たちはそれまでここで休んで、日が落ちてから移動すりゃあいいんだ」

「へぇー、そうなのか。っていうか、あれも竜なんだ」


 時折大空を泳いでいるものとも、砂漠の向こうにそびえ立っているものともだいぶ違う。いろいろな種類があるものだと英二は素直に感心していた。知っていてもおかしくなさそうなものだが、ぺぺもしきりに感嘆の声を漏らしている。


 そんな様子に気を良くしたのか、ボリスは鼻高々に語りを続けた。


「しょうがねえやつらだな、常識だぜ。夕方の警邏番が貴族どもに嫌がられんのは、要するにあいつらのせいなんだよ。砂竜がわんさか出る昼の砂漠じゃあ命がいくつあっても見回りなんてできねえからな、昼番は砂漠までは入らないでいいことになってる。ところが夕番の警邏は違う。砂竜がいない分昼に比べれば安全だから、砂漠の中まで入って見回りをすることが言いつけられてやがるのさ。考えてみろ、ろくな目印もない夜の砂漠を一晩中だぜ。落伍(らくご)は珍しくないし気分だって乗らねえ。話に聞くだけで貴族どもには同情したくもなるってもんだ」

「そんな大変な思いして、何でまた見回りなんかするんだ。ベルガより南には村なんかないし、砂竜だって砂漠から出てきたりはしないんだろ、砂竜っていうくらいだから」

「お前もう忘れたのかよ」ふんと鼻息を吐いてボリスは指を立てる。「まず一番に魔人がいないか調べる必要がある。それに砂漠の魔獣は砂竜だけじゃないんだぜ。砂狐(すなぎつね)乞食鼠(こじきねずみ)戦場蟻(いくさばあり)、数えだしたらきりがねえ」

 人の手の届かない土地は魔獣、即ちマナを用いることができる獣の住処(すみか)だった。というより、魔獣を撲滅できないから人里に組み込むことができない、と表現した方が正しい。厄介なことに今ボリスが例に挙げた種は砂竜と違って砂漠の外にも出てくるのだった。


「貴族様はこいつらが人里に入ってこないよう日々の見回りを(おこた)らないわけだ。民草の生活を守り戦うことこそやつらの義務であり権利だからな。ご苦労なこ」


 気分良く回る饒舌(じょうぜつ)は不意に止まった。ボリスは脳内に湧いた疑念のために言葉を止めざるを得なかった。


「どうした」英二が問う。


 ボリスは即答できなかった。ただぶつぶつと「待て」を繰り返し、頭はひたすら不安の理由を探し続ける。


 夜を待って東へ。この単純な方針に問題はないはずだ。聞いた話で確証はないが、夜間に砂竜が眠ることもまず信用していい情報だろう。不安があるとすれば砂竜以外の夜行性の魔獣だが、こればかりは運よく遭遇しないことを願うしかない。このままこの岩山で飢え死にするくらいなら賭けに出た方がまだしも建設的だし、なんにせよ今は待つことしかできない。日が沈み砂竜の包囲から逃れられれば、後は夜のうちになるべく距離を稼いで……。


 その時、ボリスは気づいた。何故危険を冒してまで砂漠を進まなければならないのか。一体何から距離を稼ごうと思っていたのか。


「――警邏が」


 ボリスが無意識に存在を度外視していたのはベルガ村から毎夜出される警邏隊だった。


 夜になれば自由に動けるのはボリスたちだけに限った話ではない。村の警邏隊も砂竜さえ眠ってしまえば出入りは自由なのである。


「まずい、警邏が来る……かもしれない」


 ボリスの言葉に英二が眉根を寄せる。「警邏って、今話してた夕番のか」


「ああ」ボリスは肯く。が、すぐに頭を振った。「いや、違うな、違うか」


 珍しく歯切れの悪い反応はボリス自身未だ考えをまとめきれていないためだった。


「普通なら警邏は、毎日毎夜見回りをすることになってる」

「でも昨日は来なかった。それは今の村が普通の状態じゃないってことじゃないのか」

「そうだな、昨日は」ボリスは首肯した。しかしまたしてもそれを否定するように頭を振る。


 無論、ボリスとてつい先ほどまでは英二と同じように考えていた。

 毎夜警邏が出動するのはあくまでも平時の話。魔人の襲撃を受けて間もない今のベルガ村に警邏を派遣する余裕は、おそらくないはずだ。

 仮に追捕の部隊を派遣するにしても、逃亡したのはたかが奴隷が三人だけで、冷静に考えれば貴重な人員を割いてまで追いかける理由はないだろうからである。

 昨夜は警邏の追撃を受けなかったという事実が、その推論を裏付けてもいた。


 しかし、


「昨日が無事だったからといって、今日また無事に過ごせるわけじゃねえだろ。何せ」ボリスは気づいてしまった。憂慮すべき事項が自分たちにはあるということを。

「何せ俺たちは、領主をこの手にかけてるんだぜ」


 英二は息をのんだ。遅れてぺぺも顔色をなくした。


 彼らの罪はただ逃亡のみではない。領主とその配下、計四名を殺害して金品を奪ってもいるのだ。


 誇り高い貴族ならば、このような屈辱を看過するはずはないだろう。これ幸いと野心を抱く者とているかもしれない。実質的な長を欠いている今のベルガ村なら、仇討ちを果たした者がその座に据わったとしても強い反発は受けないはずだ。


「お、俺たちじゃない、領主はクチナシがやったんだ! そうだろ兄貴」

「そんな言い訳が通じるかよ馬鹿。一緒に逃げた時点で同罪だ」


 実際都合のいい現実逃避だった。領主についてはともかくとして、他三名の殺害(加えて領主弟の死)に関してはペペ自身もしっかりと関与しているのである。


「何とかならねえのかよ」ボリスは苛立ち混じりに岩山の縁を指した。


 麓では巨大な砂竜の熾烈(しれつ)な縄張り争いが今も続いている。余波が度々(いわお)を揺らし、うっかりすれば足を滑らせてしまいそうになる。


「ギョームをやったみてえにバシっとさあ」


 英二は鞘ごと長剣を投げた。危うく取り落としそうになるボリスに背を向ける。「無理だって言ったろ」


 ボリスは英二の長剣を抜いた。突きを見舞った剣先が欠け、剣身の半ばほどまで亀裂が走っている。これではもう使いものにならない。


「お前強いんじゃねえのかよ。毎日剣の稽古してたじゃねえか。簡単に正騎士を倒してみせただろ、なあ」


 英二は答えなかった。うな垂れるように肩を落とし、組んだ両手を見つめていた。


「追って、来るかな」目を合わさぬまま英二が尋ねた。

「来るか、だぁ?」ボリスは舌打ちして天を仰いだ。「今更聞くかよそれ。主君の仇だ。金目の物も持ってる。お前なら見逃すか? 俺なら多少面倒でも追いかけるね。今日来なくても明日、明日がなければ明後日。こんななりしてるが俺たちは、たいそう肥え太った獲物に見えることだろうぜ」


 ギョームの遺体から剥ぎ取った外套をもてあそび、どうしたものかとボリスは考えた。彼らは砂漠に入ってから二里も進んでいない。足場が悪いとはいえ馬であれば二刻と待たず追いつかれてしまう距離だ。


 ここは思案の為所(しどころ)だった。


 もしも当分追手が来ないのなら、進路を北東にとり砂漠を抜ければ、比するに安全な逃避行が望めるはずである。赤い荒地にも魔獣はいるが、少なくとも砂竜ほど凶暴な魔獣は出ないし、砂漠に比べれば食料等の確保もいくらかましだろう。もちろん単純に越境までの距離が近くなるという利点もある。


 しかし、追手が来ていないという判断こそがすでに希望的観測であり現実を見ていないともいえる。その前提を基に行動を決めるのは浅慮というほかない。


 考えるべきはすでに追手が村を出ている場合の話である。取れる手は二つ。このまま身を伏せてやり過ごすか、あるいはさらに南下して逃れるか、である。


 どちらにもいえることは多少危険でも砂漠を出ない方がいいということだった。砂漠より北はあくまでも人の領域だ。通過すれば何かしらの痕跡を残すことになるし、それを辿られれば足の速い馬には容易に捕捉されてしまうだろう。

 対して、通過するのが困難な砂漠なら追いかける側も意気を削がれることになる。似たような景色ばかりで気配も隠しやすいし、逃亡者の痕跡が乏しければすでに死んだものと判断して諦めてくれるかもしれない。


 ボリスの気分としてはこれ以上南に進むのはご免だった。といってこの場に身を隠すという手も取りたくない。留まるというのは不安を誘う行為だ。受動的であり修正がきかない。己の運命を任せるには神という存在はなんとも頼りないとボリスは思っていた。


 日はすでに南中を過ぎ、日没まではおおよそ四刻といったところ。いずれの若者にとっても、人生の全てを振り返るのには短すぎる時間であった。


「なあ」不意に沈黙を破ったのは英二だった。「追手が来てるとして、何で俺たちの逃げた方角が分かるんだろう」

「何で?」ボリスは顔を上げた。

「実際俺たちは南に向かって逃げてるけど、追いかける側からしてみれば北なのか西なのか、あるいは東に逃げたのかって、分からないんじゃないかと思って」

「お前のおかげで謎がひとつ解けた」ボリスは鼻息を吐いて寝返りを打った。「昨日の夜追手が来なかったのは、つまりはこういうことだろ。魔人が出たばかりなのにあえて南に逃げる馬鹿はいねえ。奴隷が逃げるとしたらそれ以外の方角だと決め込んで方々に散ってったわけだ。ところがどこにも痕跡はない。とくれば残るは南以外にねえだろう。いよいよ追手が迫ってる実感が沸いたぜ。どうもありがとよ」


 ボリスの推測はまるで的を外していたが、事実として追手は迫ってきていた。英二にもその点を疑問視する気はない。それでも疑問を投げかけるのは今以って活路を求めているからだった。


 英二はなおも問うた。


「追手はどうやって俺たちを探すと思う。南といったって範囲は広い。農道沿いに真っ直ぐ南へ行くか、東の国境を目指して南東に逸れるか、南西に大きく迂回して北西からの越境だって不可能じゃない」

「馬鹿かよお前。ここに来るまでの間、何か工夫したか? 足跡を消す努力は? 飯の後片付けも糞の始末もしてなかっただろ? 途中の廃村で井戸も使ったな。よっぽど頭と目が悪くなけりゃ俺たちの後を辿るなんざ造作もねえこった」


 返す返すも己の無計画さに腹が立った。口をついて出る言葉は全て自分自身に返ってきた。何よりボリスにとって腹立たしいのは、それを再確認することに一体何の意味があるのか分からないことだった。


 英二はそんなボリスの悔恨(かいこん)を逆なでするようにゆっくりと繰り返した。


「つまり追手は、追われてることなんか少しも考えていない馬鹿な奴隷三人を見つけるのに、何の苦労もないわけだ」

「だから何だよ。俺のせいだって言いてえのか!?」


 再びつかみかかろうと身を起こすボリスを制するように、英二は頭を振った。


「俺たちは肥え太った獲物だ」

「あぁ!?」

「ボリスが言ったんだ」組んだ両手で口元を覆い、虚空(こくう)を睨みつけて英二は続ける。「要するに俺たちは、カモがネギ刻んで手ずからナベの用意してるようなもんだってことだろ」

「……はぁ?」

「だから追われてる。こんなに旨い話はないから」


 狩るものは強者で狩られるものは弱者。活路があるとすれば、この境遇にこそ存在するのではないかと英二は思った。


 生を模索するその思考からは、諦めるという言葉が完全に排除されていた。





 ベルガ村の腐臭から離れて気分良く馬を進めていた矢先、突然隊列は止まった。人の痕跡が残っていた廃村からは半里あまり、眼前に無尽の砂漠を(のぞ)んでいざ行かんと意気込んでいるまさにその時だった。


「何事だ!」


 隊長よりも先に怒声を発したのは副隊長のハインツだった。というより、彼らの隊長殿は戦陣にあってすらあまり声を荒げない。今ものん気に空を眺め、遠く南方に見える司竜に感嘆していた。


 程なく最前から一騎が駆けてきた。馬上にあるのは自ら案内役を買って出たディノだ。


「あ、あの、ご報告が」


 ハインツは眉間の皺を一層深くした。別段機嫌が悪いわけではなくただの癖なのだが、初対面のディノにそんなことが分かるはずもない。緊張に震える声は不可抗力だった。


「そ、そそその、この先は少々問題、いや、き危険がございまして」

「はっきりしろ」

「あ、すいま、いや、申し訳ありま、せん」


 背中の主に釣られてディノの馬が大地を踏み鳴らした。慣れない馬上にディノは益々緊張し、馬を落ち着けるのに手一杯となった。


 見かねたハインツが馬を寄せ、ディノの手綱を取る。


「何があったって」


 ようやく視線を下ろしたヴァルターはディノに尋ねた。


「こ、これより先は砂漠に入ります。日があるうちに入るのは危険かと」

「何が危険なんだ」

「砂竜が出ます。すごく獰猛(どうもう)で数が多いため、余程の馬鹿か自殺志願者でもない限りは昼間の砂漠には入らないはずです」

「足跡はどうなってた」


 ヴァルターが言うのは農道のそこかしこに散見していた足跡のことだ。村とは反対の方向に三人分、それも素足の形がはっきりと残るそれは間違えようもなく奴隷のものと思われた。


「砂のせいでかなり消されてますが、確認できるものは砂漠に続いているようです。夜のうちに入ったのかもしれません」

「すると今頃は砂の中、か。危険はないのか」

「日が落ちていれば、とりあえずは。砂竜は夜の間は出てこないので、砂竜が起きる前に安全な場所を見つけて、そこでまた砂竜が眠る夜を待っているのではないかと。昔ラ・フルト侯の書物でそのような話を読みました」

「ダニエル冒険侯の『南冥冒険録』だろう。それなら俺も読んだことがある」ひとしきりディノの馬を愛でていたハインツは手綱を本来の持ち主に返して二人の間に入った。

「だが、その知識を奴隷にまで期待するのは無理があるな。なるほど、下手人は夜の内に砂漠へ入ったかもしれん。だがそれは砂竜の存在や習性を理解した上での行動だとは断定できん。追撃を恐れるあまりの強行軍で砂漠まで進み、俺たちの到着を待たず砂竜とやらの餌になっていたとしてもおかしくはないだろう」

「つまり?」面白くもなさそうにヴァルターが問う。


 はたしてハインツは隊長殿が予想したとおりの答えを返した。


「頃合です。村へ戻りましょう。これ以上の捜索はその必要性を認められません」

「ま、待ってください」間髪いれずにディノが食い下がる。「まだそうと決まった訳じゃない。ここらは俺たちの地元だ。奴隷が砂竜のことを知ってたとしても不思議はないです。せめて日が沈むまで待って、少しだけでもいいから砂漠の捜索を」

「必要ないと言っている。お前らにとって主の仇か知らんが、俺たちにとっては危険を冒してまで追う理由のある相手ではない。ここまで付き合ってやっただけありがたいと思え。大体生きているかどうかも分からん罪人のために俺たちが兵馬を消耗させる理由がどこにある。皆無だ」

「でも」

「くどいぞ馬鹿め。隊長殿、撤収を進言します。急げば日没までに戻れるでしょう。あんな村でも野宿よりはましなはずだ」

「まあまあ落ち着けよハインツ。落ち着いてあれを見ろ」


 許しも待たず馬首を返す副隊長を手で制し、ヴァルターは南を指した。


 ハインツの眉間にこれ以上ないほどくっきりとした溝が刻まれた。同じものを認めたディノも、ぎりと歯を噛み締めた。


 西に傾く陽を受けて、南の空に一筋の煙が立ち上っていた。(いびつ)なその線は遠くそびえる司竜に比べて遥かに近い位置にあった。直線距離にして一里ほどにもならないだろう。


「余程の馬鹿かは知らねえが、とりあえず生きてはいるようだな、その罪人どもは」


 沈黙が訪れた。


 ややあってハインツが尋ねる。


「この辺りに火を使う魔獣はいるか」

「いません」ディノは答えた。「俺の知る限りは」と眉をひそめてハインツを見る。

「エスパラムには、公に帰順しない少数部族が少なくないそうだな」

「はあ、しかし、あれをその部族とするなら煙の数が少ないのでは」


 そんなことは分かっている。ハインツの険しい目が無言のまま怒りも(あらわ)にディノを睨みつけた。


「見苦しいぜ、ハインツ」


 目をやれば、にやけ顔の隊長がハインツを見ていた。


「二つ質問だ、副隊長」傭兵隊長ヴァルターは右手の指を二本立てた。

「これまでに俺の決断で隊が不利益を被ったことがあるか」

「ありません」

「俺とお前の意見が真っ向から割れたとき、俺がお前の意見を容れたことは」

「……ありません」


 歯を剥いて笑うと、ヴァルターはハインツの肩を叩いた。


「折角こんな辺境まで来たんだ。砂竜とやらも見物してから帰ろうぜ」


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