八、仮説
「おう、おかえり。どしたい? 二晩も寝ずに飲み続けた朝帰りみたいな顔して」
宿へ戻るなり、受付周りを掃除中だったケインに尋ねられてエイジは自分がひどく疲れているらしい事を理解した。
「ちょっと、色々あって」
答えるエイジは戸口に手をついて何とか体を支えた。手を引かれるまま服飾の大店に連れ込まれ、あーでもないこーでもないと着せ替え人形のように何十着もの試着に付き合わされたかと思えば、すぐに場所を移しての舞踊や立ち居振る舞いの礼儀指導。熱が入るクロエ女教の教練は、仕舞いにはその必要もなさそうなのに一式で家が建つほど高級な食器を用いての食事作法の習得にまで及んでいた。
ようやく解放されたのはすっかり日も落ちた時分で、理由はと言えば彼が十分な所作を身に着けたからなどではもちろんなく、単に男を姫様と同じ屋敷に泊めたくないからと言うことらしい。こと礼儀作法や社交界での常識に関しては全くの素人であるエイジには明日の晩餐会までにまだまだみっちりとしごかれる必要があり、その為にクロエ女教は早く帰って復習しつつ一晩休み、明朝にまた屋敷まで出仕するよう彼に要請したのである。
――くれぐれも、くれぐれも、姫様に恥をかかせるような事のなきように。
帰り際に投げかけられた言葉が今も脳内に木霊していた。出来の悪い生徒に対するのとは全く異なる種類の苛立ちを隠す素振りもない女教の眼光を思い出すと、エイジは堪らず身震いした。
「親父さんは?」
頭を振って疲労感と共に溜まっていた記憶を一旦脳内から追い出したエイジは、珍しくまじめに働いているらしい旅籠の一人息子に尋ねた。
指先に引っ掛けた雑巾をくるくると器用に回しながら、ケインは顎で奥を示した。
「厨房だよ。さっき新しい客が入ってさ、久々に二部屋も埋まったからご機嫌らしいぜ。張り切って晩飯作ってら」
ケインの言葉通り、奥の厨房からは何かを刻んだり煮込んだり洗ったりの忙しない物音が鼻歌の伴奏と共に聞こえてきている。芳しい香りはエイジに宿を取ってから数日の豪勢な食卓を思い出させた。香草を効かせた鳥の丸焼きは水分をたっぷり含ませて炊いた麦飯とよく合う。砂糖と果実酢を基本とした甘しょっぱい味付けの煮物もまた絶品で、麦飯をかっ込む手が止まらなくなったものだ。それらに加えてさっぱりとした塩味の汁物と歯応え抜群の酢漬け、締めには適度に冷やされた果物の蜜煮まで出てくるのだから、思わず頬が緩んでしまうのも仕方ないことである。
しかしそれだけにエイジとしては残念だった。何日続いたって飽きることはないオーソン自慢の品々も、明日の夜に限ってはご相伴に与れないことが確定しているのだ。
「あー悪いんだけどケイン、明日の夕飯、俺の分は要らないって親父さんに伝えておいてくれないかな。他所で済ませる用が出来ちゃって」
「そりゃ構わねえけど、今日は食うんだろ?」
「ああ、もちろん」
「じゃ、出来たら呼ぶよ」
「ありがとう」
階段を上がり、後ろ手に自室の戸を閉めるや、すぐさまエイジは硬めの寝台に倒れ込んだ。決して寝心地が良いとは言えない安物でも今の彼にはこの上ない誘惑となった。天日に干した布団の匂いが抗い難い睡魔に変わってエイジを誘う。
――目ぇ閉じて二、三回深呼吸でもしたら即落ちるな。
エイジはわずかに残った理性でそう判断すると、一回目の深い呼吸と同時に何とか目蓋を押し上げた。睡眠への欲求と戦いながら起き上がり、どうにか卓上燈に火を点してようやく一息つく。
寝台は未だしつこく彼を呼んでいるものの、横にさえならなければ無視できるはずである。気持ちが変わらないうちに、彼は確認の為に手製した聖アルテュールの著作一覧表を手に取った。
蝋燭の頼りない明かりの下で追う文字の並びはなかなか頭に入っていかなかった。古代語と公用語の入り混じった表題や注意書きに、アルテュール文字と殴り書いた日本語の雑記。同じ箇所で目が滑るのも二度や三度の話ではない。普段の倍近い時間を掛けることで、ようやっとエイジはここ数日の成果を確かめることが出来た。
凡そ聖アルテュールに関わる全ての文献を網羅しているとされる『聖アルテュール大全』。そこに記載がある中で現状手に入る書物七十冊余りの内、大要をまとめられたのは六十七冊、残すところは三冊となった。それらの三冊にしても幾度か公用語に翻案されている空想小説の類だからそれほど時間は掛からない見込みである。
一日の大半を割いているとは言え、進捗は全く順調の一言と評せるはずだ。が、エイジの表情は浮かなかった。どころか眉間に皺を寄せて、彼は再度未着手の書物の数を検めた。しかし、二度、三度と読み返してみても結果は変わらない。手をつけていない文献はあとたったの三冊だけなのだ。
終わりが近づいて来るにつれて、エイジは心に空虚な穴が開いていくのを感じていた。何冊の本を読んでも、どれだけ聖アルテュールの事を知っても、その結果が神に近づくことはない。他人を巻き込んでまで励んでいる研究は、結局のところ手詰まりとなった現実からの逃避に過ぎないのである。
その穴の正体は、夢中になって取り組んでいる間は決して思い出すことのなかった事実だった。逃避の対象が無くなりそうになった今、いよいよエイジは己が直面する問題と向き合わなければならなくなった。
――どうしよう、これから。
今読める全ての書物に目を通したらそれで研究が終わると言うわけでもない。より深い知識と理解を得るためには、もっと多くの資料を手に入れ、多角的に精読し、検証していく必要がある。当然ながら今エイジが研究と称しているものはその領域には全く至っていないのだ。
だが、それをしたところでどうなると言う思いがエイジの中には強くあった。研究は興味本位ではじめたものだ。学業で身を立てるつもりなど元よりなく、自身が抱く疑問を解消することさえ出来ればそれ以上の成果は必要としていない。それも本来目指すべきものへの道を見失った手持ち無沙汰な状況がそうさせているに過ぎず、要するにエイジの行動は確固たる信念に基づいたものではなかった。その分熱も冷めやすい。一つの区切りが見えたことで失いかけているのは研究対象への興味ではなく、研究そのものへの熱意である。現状を俯瞰したエイジには不意に将来が不安に思えてならなかった。
――このままの生活を続けていいのか? 蓄えがあると言っても収入がなければ減る一方だ。細く長く使って二年弱。終わりなんか見えないかも知れない研究に費やす時間としては短過ぎる。懐に余裕がある内に当座の生活を支えるための仕事でも探した方がいいんじゃないのか? あるいはすぱっと切り上げて本来の目的に戻るか。手掛かりなんてないけど、こうして自己満足のために時間を使うよりいくらか有意義に思える。二年弱。それだけ頑張ってみてどうにもならないなら諦めも……。
冷静な視点で俯瞰すると言う事が、停滞した状況を打破する有効な手段となる場合はままある。エイジは別のことを考えながら何とはなしに眺めていた表から思いがけず違和感を抱いた。
「『神統記』、統一王初年春……『騎士道教書』、統一王二年……『未だ来ぬ日の為に』統一王三年春……」
順に読み上げているのは聖アルテュールが存命中自らの手で著したとされる書物である。いずれも表題にアルテュール文字が用いられており、割合に多少の差はあるが本文中にも必ずアルテュール文字のみで書かれた章や段落が存在していた。
エイジは時系列に従って続きを読み上げていった。
「『北西公領草花図録』、統一王三年の中春……『聖アルテュールのこと』、統一王十三年の晩秋……『神と王と法』、統一王二十年の初春……『聖アルテュール大全』、フィリップ一世謙虚王五年の晩夏……『聖人伝』、謙虚王二十二年の中秋」
後半は聖アルテュールの死後、彼の言行等が第三者の手によってまとめられたものが大半となった。当然ながらアルテュール文字による記述はほとんど見られず、たまにあったとしても表題や署名のみ記されているだけ。にもかかわらず、そのたった数箇所のアルテュール文字には誤字が少なくない。
エイジは一つの仮説に思い至って教司アルベルトから借りた『騎士道教書』を手に取った。内容には目もくれず、表紙や巻末をつぶさに調べる。
程なくして彼は目的のものを見つけた。ヴィラゼ大学シャプレ学寮図書館の蔵書印が捺されているその本の末尾には、原著者の名前と共に筆写した者とそれを行った年までがしっかりと遺されていた。
「……シャルル王の六年初夏にこれを記す」
シャルル王と言えばガルデニア王国四代シャルル一世美男王を置いて他にない。今より百年ほど前の治世だが、聖アルテュールの没年から数えても同じく百年は間がある。
――聖アルテュールにしか読めないし書けない文字の、正確な写本なんて残せるもんか?
散見する誤字脱字の類が全て筆写の過程で生じた誤謬だとすれば、発行年が原著に近くなるほど日本語として正しい文章に近づいていく可能性は高いはずだ。
エイジはすっかり覚めた頭で他の書物にも手を伸ばした。問題が解決したわけではない。研究が一足飛びに飛躍したわけでもない。むしろ必要なものが増えたことで解決までの道のりはかえって遠くなっている。
ただ、衝動的な熱意が彼を再び駆り立てていた。冷めやすくもあるその熱は、反面火が点く際も急なのだった。