六、少女から淑女へ
当代ラ・ピュセル侯シャルロット・ドゥ・ラ・ピュセルには、かつて溺愛していた妹がいた。不幸な事件(とラ・ピュセル侯は捉えている)によって命を落としたその妹パトリシアがこの世に残した無二の宝こそルオマ公姫姉妹である。故に侯の庇護の下、二人の姪はたいそう大事に扱われ、ラ・ピュセル侯領に身を寄せたここ二年余りなに不自由のない暮らしを送ってきた。
十五歳になる姉のアンジェリカは少女から淑女へと成長する過程にあった。楚々とした振る舞いと優雅な所作、悲惨な体験を経てもなお輝く可憐な笑顔は同年代の貴族の娘たちの尊敬と羨望を集め、またルオマ公家と言う王国貴族の中でも屈指の名家に生まれながら身分の別なく人々と接する姿勢などは世人をも魅了した。
加えて容貌や人物、血筋のみならず、特にルオマ時代から培ってきた芸術的教養と審美眼に卓抜した才を持っていた彼女は、ラ・ピュセル侯家の貴族たちの間ですぐにその存在感を大きくした。流石に文化芸術分野において長い歴史を誇るルオマの生まれである。彼女の選ぶ着物や靴や手袋や装飾品、広間の内装やそこに飾る彫刻や絵画の種類、位置取りに、果ては料理の献立まで、あらゆる手配がどちらかと言えば古風で保守的な感性が主流だったラ・ピュセル貴族たちをあっという間に虜にしてしまった。
彼女に出会ったものはまず容姿に目を引かれ、次いで人柄に心を奪われ、最後には才能に感服した。社交界を控えた高家の子女たちがこぞって彼女の助言を求めるものだから、ルオマ公姫アンジェリカの名は程なく領外にも届くようになった。
評判が評判を呼ぶアンジェエリカの名と才は、やがて近領の領主サン・タウグスタ大伯の知るところとなる。
「それで誕生会、ですか?」
エイジの言葉に「そうなの」と肯いて、ガブリエッラは誇らしげに胸を張った。
「お隣の御領主に招待されてね、今は伯母さまと一緒にサン・タウグスタに行ってるわ。もう一月くらいになるかしら。わたしにはよく分からないけど、伯母さまが言うにはすごく名誉なことなんだって」
無邪気に姉の近況を話すガブリエッラも、それを聞くエイジの側も、その政治的意味合いについては理解の外だった。ラ・ピュセル侯シャルロットが亡き妹に代わって過剰な愛を注ぐ姪の同道を喜んだのは何もその愛のみが理由ではない。要請に従うことで主家サン・タウグスタ大伯への信頼と忠誠を示すと言う意味も多分にあったが、一番の目的は顔見せの為である。順当にいけば近い将来アンジェリカはルオマ公家を継ぐことになる。その際にサン・タウグスタ大伯領の貴族たちも姪の相続を後押しする味方となってくれたならこれほど心強いことはないとラ・ピュセル侯は考えていたのだ。
また、ルオマ、ラ・ピュセル、サン・タウグスタの三国が固い絆で結ばれることは双方に挟まれた位置に領地を構えるラ・ピュセル侯家にとって、そして今まさに王位を望まんと躍動しているサン・タウグスタ大伯にとって、必要不可欠な外交政策でもある。
いずれにしてもそれは知る人が知ればかなりの規模の金や人が動くことになる重要な情報であり、人目がそれほど多くないとは言え公の場で話すような内容ではなかったが、そんな大局的な情勢の変化には興味も関心もないエイジにはもっと身近に気になることがあった。
「ガビー殿下は」
「殿下はやめてよ。自分のことじゃないみたい」
口にした瞬間、ガブリエッラは顔をしかめて身震いした。
エイジは少し考えた後、迷いながら言い直した。
「ガビー様は、よろしいのですか?」
ガブリエッラはなお不満げに眉根を寄せてエイジを見つめたが、程なく諦めたような吐息と共に尋ね返す。
「よろしいって何が?」
「その、サン・タウグスタ大伯の誕生会にご出席なさらなくて」
「ご出席もなにも招待されたのはお姉さまだし」ガブリエッラは一瞬だけ寂しげに表情を曇らせると、それをごまかす様に頭を振って続けた。「それにいいのよ。わたしがついていったらかえってお姉さまの評判を下げることになりそうだから」
彼女の視線は縁側から投げ出した自らの足に向いていた。ぶらぶらと揺れるつま先を見つめながら、口元に浮かぶ微笑がエイジの目には苦く見えた。
「そんなことは」
「あるわよ」取り成そうとするエイジの言葉を即座に否定すると、ガブリエッラの微笑みはますます自嘲の色を濃くした。「礼儀作法もよく分からないし、踊りも苦手だし、みんなが素敵すてきって話してる絵とか着物とかなんて全部同じに見えるくらいなんだから」
一息に言ってしまったら、後には気まずい沈黙が残った。ガブリエッラは天を仰いで溜め息を吐いた。
「わたしにはお上品な社交界なんかより窮屈なお城を離れての遊学旅行の方が性に合ってるのよ。それだって退屈で死にそうだったけど、こうしてまたあなたと会えたんだもの、悪いことばかりじゃないわ」
「ね?」と微笑みかけるガブリエッラの表情に先ほどまでの陰りはなかった。「はい」と答えてエイジは笑みを返した。自分との再会がその笑顔の理由の一つにでもなっているなら、確かに外に出るのも悪くはないはずだった。
「ところで、その遊学旅行というのは何なんですか?」
「伯母さまに言われてね、少し領外に出てけんぶん? を広めてみるのはどうかって、十日くらいヴィラゼ大学でお坊様たちのお話を聞いたりして過ごすことになってるのよ。まさかあなたと会えるなんて思ってもみなかったけど」
ふふっと笑うガブリエッラの調子はすっかり以前の雰囲気に戻っていた。縁側に腰掛けたままエイジとの距離を詰めると目を輝かせてまくし立てる。
「さあ、今度はそっちの番よエイジ。どうしてここにいるの? 一人旅って言ってたけど、ペペとボリスとイフサンとアマニは一緒じゃないの? あの灰色の犬は? 新しいお友達?」
無邪気な質問の連続がエイジの胸を痛ませた。出来れば伝えずにやり過ごしてしまいたかった。知れば彼女は悲しむ。それが分かっているから。だが、隠したまま、起きてしまった事実から逃げたままで、これから先ずっと平気な顔をして彼女と向き合える自信はなかった。何よりそんな扱いでは彼女だけでなく二人に対しても無礼だし不誠実だと彼は思った。
だからエイジは答えた。思いがけず生じた間が彼女に不吉な予感を抱かせてしまう前に、自分の口と言葉ではっきりと伝えた。
「すみません。お話しするのが、遅れてしまいました。二人は――」
ペペとボリスがすでにこの世の人ではなくなったこと、イフサンは(ヴァルターが忘れていなければ)ブリアソーレで元気に暮らしていること、アマニの行方は分からないこと。全てを詳細に説明したわけではもちろんないが、それでも彼女がそれを理解できるだけの情報をエイジは話した。
彼が話を終えると、ガブリエッラは「そう」と一言だけ答えてまた自分の足先に視線を落とした。エイジも同じようにうつむき、お互いを見ることなく、何の言葉も交わされない時間がただ静かに流れた。
程なく、不意にガブリエッラは立ち上がった。傍らのエイジに背を向けて、彼女は足早に館の奥へ消えていく。
声をかける必要も追いかける必要もなかった。目になみなみと溜まっていた涙の一滴が縁側に跡を残していることに、エイジは気づいていた。