四、騎士と知恵の守護聖人
「すみません。お見苦しいところをお見せしまして」
ずび、と絹布で鼻をかんだ後、教司アルベルトは対座する相手に向き直った。
「それで、エイジさん。何か用件があって私を訪ねられたとうかがっておりますが」
エイジは当初の目的を思い出して姿勢を正した。そして言い難そうに視線をさまよわせながら答えた。
「あの、実は、お聞きしたいことがありまして……少々ぶしつけで、失礼な内容になってしまうかも知れないのですが、その、気分を害さないで聞いていただけると」
「何でも仰ってください。私でお力になれることでしたら、協力は惜しみませんよ」
アルベルトの返事でエイジはとうとう意を決した。軽く咳を払うと真っ直ぐに相手の目を見て尋ねる。
「神に会う方法をご存知ではありませんか?」
「神に?」
教司アルベルトはわずかに目を見開いて繰り返した。エイジは続けた。
「死んだ後に天の国で、とか、瞑想や祈祷の末にお告げを聞く、とか、そう言う感じじゃなくて、肉体を持ったまま、今の正常な思考を保ったまま神と会って直接話す方法が知りたいんです。ご存じ、ないですか?」
教司アルベルトは眉根を寄せた。口元に手を当て、腕を組み、俯いて、しまいには抱えるように手が側頭に乗せられる。「いつかは」「いつでも」「心の中に」、このような時の常套句があらかじめ封じられてしまうと、聖職者は途端、言葉に窮してしまった。
熟考の末、アルベルトはどうにか答えた。
「我々が生きるこの世界と、神々の住まう天の国とは、その、異なる世界、いや異なる理にあると表現すべきでしょうか……とにかく大きな隔たりがありまして、我々の側からおいそれと行き来したりはできないものと、聖教会では考えられております。それゆえに人々は自らの魂が正しくあちらへ導かれることを期して神々に祈るわけで……あの、ですから、エイジさん、残念ですが、あなたの望みをかなえることは」
申し訳なさそうなその回答に、エイジはふっと小さく息を吐いて答えた。
「そうですか」
大きな失望はなかった。それは薄々予感していたことだったからだ。奴隷や傭兵として過ごしたこの数年の間、およそ人間の業とは思えない奇跡の数々を彼は何度も目にしてきた。生傷を一瞬で治してみたり、鋼鉄や大岩を易々と長剣で両断してみたり、何もない掌から火や水や土を出してみせたり、いずれも自身では到底真似出来ない不可思議な力、奇跡と呼んで差し支えない超常現象たちであったが、それらのどこにも、神の存在を感じさせる要素はなかった。
善人とはとても呼べないような人間だって『法術』で傷を治せたし、『魔法』の行使に信仰心を必要としている様子もなかった。『闘技』に至っては日々のたゆまぬ鍛錬があのような形となって実を結んだに過ぎない。マナを介した奇跡の数々は、神の存在などより、ただこの世界に生きる人々の特異性を強調するだけなのだ。長く続く戦乱も、その中で時に現れる残酷な事象も、エイジが生まれ育った神の存在しない世界の歴史に散見する出来事と何一つ変わらないのである。
そして今、最も神に精通している神学の専門家の口からも神との対面は不可能であると告げられてしまえば、いよいよエイジは現実を受け入れなければならなくなった。
それでも最後の確認として、エイジは教司アルベルトに尋ねた。
「この大学で同じ質問をした場合、別の答えを返してくれる人はいると思いますか?」
「いない、でしょうね。少なくとも、聖教会には」
「神の声を聞いた経験があるような人もいないでしょうか?」
「……私の、知る限りでは」
「あなた自身はどうですか? 神の声を聞いたり、その姿を目にしたりした経験はありませんか?」
「……まだ、ありません」
内心の動揺が少ないのは諦観の為だ。ここに至ってもなお神の存在を期待するより、これだけの材料があるのだからやはり神はいないのだと断じてしまう方がエイジにとっては自然な考え方だった。やはり神とは概念であり、ある種の価値観でしかない。対面したり会話したり、一個の生命として厳然と存在するような、そう言った類のものではないのだ。エイジはその結論を胸の中で再度かみ締めて立ち上がる。
微かに口角を上げて頭を下げると「ありがとうございました」と言ってエイジは教司アルベルトの執務室を出た。
追いかけるでもなく呼び止めるでもなく、一人立ち尽くすアルベルトの目には、その寂しげな微笑が長く残った。
「エイジさん」
学寮の門を出たところで声をかけられ、エイジは顔を上げた。尻についた砂を払って、気さくに手を上げるのはケインだった。
「用事は済んだのかい?」
「ええ、まあ」
「そりゃあ何よりだったな。で、どうすんだこれから? まだ日も高いし帰るにはちょっと早い時間だ。とりあえず街でもぶらついてみるかい? よければ俺が案内するぜ。色町なら一通りは紹介できるし、昼間っから客取ってる娼婦だって何人か」
エイジは頭を振ってケインの提案を遮った。憂鬱に眉根を寄せたまま、口元に微笑を浮かべて続ける。
「少し、一人になりたいです」
相手の反応を待たずに門前の通りを東へ折れたエイジは、ケインと大通りに背を向けて、どこへともなく歩を進めた。
――どうしたものか。
敷石の間に詰まる小石を数えながら、エイジは心の内でつぶやいた。勢い込んで訪ねてみた先で、手掛かりを得るどころかいきなり目標を見失ってしまった。もちろん神はいないと結論付けてしまうのは早計と言えようが、しかしではどうやって会えばいいのかと考えると全く方法が思いつかない現状が目の前にある。
神学者でも分からないのに、一体どうすれば神に会える? そもそも方法を考える前に、居るか居ないかの検証をするのが先ではないのか? 居もしない神を求めて旅を続けるのは不毛だ。ならどうすれば神の存在、あるいは不在を証明できると言うのか……。
無意識の歩みは少しずつ緩慢になっていき、やがてぴたりと止まった。エイジは今文字通り路頭に迷っていた。行く手を阻む問題の大きさが自身の手に余る事実を痛感し、一歩たりとも動けなくなっていたのだった。
神を求めて始めた旅が、その原動力となった無神論的価値観によって邪魔されるのは、全く皮肉な話と言えた。なるほど、世界に神は必要なのかも知れない。例え敵意の対象としてだって、存在してくれなければ困ってしまう人間がこうしてここに居るのだから。
どうする? いっそ白狼隊に帰ろうか。ちょっと決まりは悪いけど、今ならちょっとした休暇扱いで何事もなかったかのようにしれっと合流できるかも知れない。そうして神への怒りも探究心も忘れて、ただ一人の傭兵として生きていくのだって悪くないような気がする。ルオマならアティファとラフィークの暮らすサラサン人の集落もそれほど離れてないし、それに戦で失った多くの仲間たちの弔い合戦だって参加する義務と責任が俺にはあるはずじゃないか。方針もなくこんなところで立ち往生しているくらいなら、その方がよっぽど有意義じゃないか。
弱気な逃避は何とも魅力的な情景を脳裏に思い描かせた。仲間と友人と意中の女性。全てが彼に困難な問題からの撤退を促している。
エイジはヴァルターや他の仲間たちへの言い訳を考えながら踵を返した。そしてもと来た道を引き返そうと、いっそ晴れ晴れとさえした気持ちで足を踏み出した。
「ん?」
彼の軽やかな歩みを止めたのは、回れ右をした瞬間、視界の端に移った違和感だった。エイジは何気なくそれを一瞥してすぐに大通りの方へ向き直り、しかしまたすぐにそちらへ顔を向けた。向けざるを得なかった。
思わず二度見してしまったその建物を眺めながら、彼の足はとうとう完全に止まった。どころか視線を釘付けにさせたまま自身の歩みをなぞるように後退して真正面からそれと向き合った。
「あ、れ……?」
黒い瓦屋根に白漆喰の滑らかな塀。開け放たれた惣門の向こうに見えるのは二階建ての御殿で、正面玄関と思しき張り出しが門と同様施錠もせずぽっかりと口を開けている。
その無防備な入り口に、エイジの足は吸い寄せられた。ふらふらと門を潜り芝生と植木の茂る庭を素通りして張り出した玄関を見上げる。木の柱に支えられた張り出しの屋根には風雨に晒されて黒ずんだ破風板と花弁を模した、懸魚としか思えない装飾が施されていた。
「……いや、いやいやいや、いや、そんな……まさか……」
ふるふると頭を振りながら、エイジは独りつぶやかずにはいられなかった。緩く反りの入った低めの屋根も、大きな庇の下から覗ける幾本もの垂木も、階段状に設けられた式台も、全てが他の街並みとは異質で、浮いていて、白昼夢のように現実味がない。
しかし懐かしさを感じる木の匂いと、でこぼこした木目の感触は確かに実在しているらしい。靴を脱ぎ、式台を上がって直に触れても、板敷きの床も木製の柱も消え失せたりはしないのだ。そして実際に触れてみれば、もうエイジの疑念は確信へと変わってしまった。
「これ、これは……でも、やっぱり……」
理性にはしつこく拒絶されながらも、五感がもたらす情報はその結論を固く信じて疑わなかった。石造りの家々が当たり前に立ち並ぶ中、こつ然と現れたのは、どう見ても古式ゆかしい和風建築そのものだった。
なぜ? どうして? どうやって? だれが? いつ?
脳内に浮かぶいくつもの疑問が、処理されないままエイジの頭を埋め尽くした。きょろきょろうろうろと、しきりに玄関周辺を歩き回る彼の様子は明らかに不審者のそれであり、当然そこには見咎める者がいた。
「君、そこでは履物を」
不意の声に振り返ると、剪定鋏らしきものを持った若者が脱ぎ捨てられた革靴と式台の上のエイジとを見比べていた。
「失礼。ちゃんと脱いでいたようだな」
若者はこほんと一つ咳を払い、決まり悪そうに目を背けて続けた。
「知らず土足で上がり込む輩が多いものだから、つい声を上げてしまった。気を悪くしないでほしい」
「いいえ」と無意識に答えて、エイジは相手を見返した。年の頃は十代半ばから後半くらい、動きやすそうな袖の短い綿の肌着をうっすら汗で染ませながら、手持ち無沙汰に鋏をいじる青年は、言動から察するにこの建物の関係者のようだ。庭師の見習いと言ったところだろうか。
エイジの頭はなお混乱の最中にあったが、あふれる疑問がどうにか言葉になって口を出た。
「あの、こ、ここは何なんですか?」
不意の問いかけに、青年は眉根を寄せて尋ね返した。
「何って、表の看板に書いてあったろう。だから見学に来たのではないのか?」
「全く、目に入りませんでした」エイジはぶんぶんと頭を振ってなお尋ねた。「見学ということは、ここは何かの施設ですか? 何をするところで、あ、誰が、いつここを」
「何をするという場所でもない。ここは聖アルテュール記念館。偉大なる六聖人の一人聖アルテュールこと、初代ラ・シャルメ伯爵が晩年を過ごされた邸宅だ。今は改装され、聖アルテュールゆかりの品や彼の事跡が記録された書物などを展示する場所として開放されている」
「聖、アルテュール?」
「そうだ。まさか、知らないわけではあるまい?」
「騎士と知恵の、守護聖人?」
「そうだよ。知っているじゃないか。その人だ」
エイジは断片的な記憶を思い起こした。聖アルテュール。騎士と知恵の守護聖人。二百年以上前の建国の英雄と言うやつの一人で……、それ以上の情報はどう頑張っても出てきそうにない。
「この屋敷を建てたのも、その人なんですか? どうしてこんな、変わった感じというか」
「アルテュール様式を見るのは初めてか? まあ確かに、他所で流行ってるという話は聞かないが」
騎士と知恵の守護聖人、聖アルテュール。二百年以上前の建国の英雄と言うやつの一人で、初代ラ・シャルメ伯爵で、晩年をこの和風建築の屋敷で過ごした……。
エイジは尽きない疑問を一つにまとめて口にした。
「いったい、どんな人なんですか、その、聖アルテュールって?」
問われた若者は微かに口端を上げると鋏を持ったままの手で式台の上を指して答えた。
「『百聞は一見に及ばず』とは、聖アルテュールの言葉だ」
エイジは示された方を振り返った。開け放たれた引き戸の向こうに、彼の足はまたふらふらと吸い寄せられていった。