三、親愛なる友
アントニオ・メスキとアルベルト・モロー、二人は二十年ほど前のここシャプレ学寮で出会った。片や食うに困った没落貴族、片や富裕で子沢山な商家の五男。高い志や特段の熱意もないまま神の教えを学ぶことになった彼らは、故にかすぐに意気投合し、互いに気の置けない無二の親友となるのにも時間は掛からなかった。
二人は対等の友人であったし、いつだってそうありたいと思っていた。相手に負けまいとする対抗意識が良い刺激になったのだろう。神学そのものへの興味があまりなかったのにも関わらず、互いに競い合うように勉学に励んだ彼らは大学内でめきめきと頭角を現し、あらゆる科目で主席と次席を占める二人の名はいつしか学内で知らぬ者は無いほどに広まっていた。
導師教育を二年で終えた彼らは更なる高みを目指すために大学に残り、教司陣の助手を務めながら専門分野の研究に励んだ。どちらが先となるかはまだ分からなかったが、そう遠くない未来に彼ら二人が教司の上衣を身に着けるだろうことを疑う者は一人としていなかった。
しかし、運命の神が彼らを導いたのは誰もが想像していたのとは全く異なる未来だった。
「十七年前の、夏の始まりのことです」
教司アルベルトは組んだ両手に視線を落としたまま続けた。
「夏至祭りで賑わう往来の一角で、私たちはある少女と出会いました。名前はエマ。学生街からは少し離れた所にある食堂の娘で、その日は祭りの時だけ店を出す屋台の客引きをしているところでした。昼飯時に腹を空かせた様子の若い導師が二人。彼女にとってはちょうど良い客だったのだと思います」
アルベルトの口元に微かな笑みが浮かぶ。その瞳には在りし日の、多くの人で賑わった大通りの一角が映し出されているようだった。
「彼女の、忙しく立ち働きながらも決して絶えることのない太陽のような笑顔に、私は次第に惹かれていきました。祭りが終わってしばらくした後になっても度々彼女のことを思い出し、論文執筆の合間に何かと理由を作っては彼女の父が営む食堂まで足を運んだものです。他愛もない噂話や経典に由来する寓話、逸話、素人には少し難解な神学問答まで、いつも目を輝かせて聴いてくれるのは、自分が得意の客だからと言う理由だけではなかったと今でも信じています」
アルベルトはそこで一旦言葉を切ると、息と気持ちを整えるように間を置いた後で続けた。
「そんな日々を送りながら、やがて季節は晩秋を迎えました。私の執筆作業は順調そのもので、その年の冬には完成を見込めるほどに進んでいましたが、対してアントニオの論文はあまり捗っていないようでした。学寮の図書館で二、三冊の本を抱えたまま、何やら物憂げに過ごしている彼の姿を、あの時期はよく見かけていたことを覚えています。ある日、私は深刻に思いつめている様子のアントニオに相談を持ちかけられました。夜分に突然部屋を訪ねてきた彼は自信なさげに低めた声でこう切り出します」
――聖職者として、色恋に身をやつすのはやはり良くないことだろうか。
「彼の口からそんな言葉が出るとは露ほども思っていなかった私は、驚くと同時に内心で大いに喜びながら尋ねました。誰か気になる女性でもいるのか、と。好奇心がまったくなかったわけではありません。ですが、この時の私は本心から応援したい気持ちで相手の事を聞いたのです。ところが」
――夏至祭りの日、屋台の客引きをしていた女の子のことを覚えているか? 名前は……。
「彼の口からその名を告げられた瞬間、私の中にあった友誼や親愛は跡形も無く消えてしまいました。私とアントニオはお互いにそれを知らぬまま、あの日、あの場所で偶然めぐり合った一人の少女に、恋心を抱いていたのです」
二人は対等の友人だった。しかし、容姿や生い立ち、人格までもが対等なわけではなかった。細くすらりとした体格の友を見る度、立派に蓄えられた髭の下から笑みとともに時折こぼれる白い歯を目にする度に、アルベルトは男としての劣等感を刺激された。長く時間を共にした親友だからこそ、その高潔な人間性や誠実な人柄を世の女性達が好ましく思わぬはずがないと理解できた。
それはただの友人でいた時には、同じ女性を思ってなどいなければ決して意識することのなかったはずの感情だった。アルベルトはざわめく胸中で考えた。アントニオの長く繊細な指と自分の短く肥えた指とでは、どちらに触れられるのを彼女は喜ぶだろうか。もし同時に思いを伝えたなら、彼女はどちらの愛に応えるだろうか。
「胸の内に渦巻く負の感情は私に言わせました。恋は所詮路傍の花。愛でている間にも時は過ぎるものだと」
アルベルトは何かに耐えるようにくっと下唇を噛んだ。少しの間の後、彼は続けた。
「彼は納得してくれたようでした。確かにと深く肯いて、それっきり私たちはこの話をしなくなりました」
時は過ぎ季節は初冬、その年の主神祭の日となった。アルベルトは苦労して書き上げた論文を師事する教司の元に提出すると、急ぐその足で市街へ、隣町の食堂まで繰り出そうとしていた。後ろめたそうに背中を丸めて、懐には密かに用意していた指輪を隠し持ちながら。
「指輪はもちろん彼女に渡すつもりで用意したものでした。アントニオには賢しらに恋を諦めるよう諭しておきながら、私は彼女を自分のものとするための工作を止めなかったのです」
しかしその時、偶然通りかかったアントニオの部屋の前でアルベルトは足を止めた。薄い木戸の向こうから微かに漏れ聞こえてくる話し声。女人禁制のこの学寮ではまず聞くことのない、それは女性の声のように思われた。
そっと聞き耳を立ててみる。部屋にいるのは二人。一人はアントニオで、もう一人は……。
高鳴る鼓動が室内の人声を遠ざけた。物音を立てぬよう慎重につくばったアルベルトは戸の隙間から見えた光景に思わず目を疑った。小鳥のさえずりを思わせる透き通った声でアントニオと楽しげに話しているその太陽のような笑顔は、自分がこれから指輪を贈ろうと心に決めていたあのエマに他ならないのだ。
「この世の全てが、がらがらと音を立てて崩れていく感覚に陥りました。床板の冷たい感触も、戸の向こうに垣間見える彼女の笑顔も、全てが存在をを失って、私の中には醜い嫉妬だけが残りました」
気配を殺したままその場を離れたアルベルトはすぐに寮監の下へ足を運んだ。
――学寮内に女性を連れ込んでいる者がいる。
告げられた寮監がすぐさま宿舎を見回ると、程なくその密告が真実であることが明らかとなる。導師アントニオの部屋から出てきたのは黒い僧服で偽装した齢十七の少女だった。
彼女はその場で身柄を取り押さえられながらもあくまで潔白を主張した。経典の話を聞かせてもらっていただけで、何もやましい事はしていないと。両者に衣服の乱れはなく、平素のアントニオの振る舞いからもその主張は真実のように思われた。
しかし、当事者のアントニオは自身の行いについて何の釈明もしなかった。そして大学の上層部はエマの訴えも現場の状況も一切考慮しなかった。聖職者でありながら規則を破り神聖な学び舎に婦女子を連れ込んだ。その事実だけがアントニオへの評価材料となった。
大学の下した処分は軽くはなかった。この一件によって後援者も指導者も失った若き導師アントニオは大学を離れることになった。学内で一、二を争う期待の新鋭には反面その才覚を妬む者も少なくなかったらしく、まるでこれまでの評判が幻だったかのように彼は孤立してしまったのである。
近郊の教区はどこも人手に困ってはいない。となれば必然、赴く場所は辺境と決まった。空位六年仲冬の寒風吹きすさぶ中、アントニオは南西公領エスパラムへと旅立った。侘しく南へ向かう背中を、見送る者の一人とてなく。
「糾弾される彼をかばうことも、旅立ちを見送ることも、私はしませんでした。若さゆえの身勝手な妬みはもちろんありましたが、何より親友を陥れる裏切りを働いておきながら、一体どんな顔をして彼と会えばいいのか、私には分からなかったのです。そうして私は、一時の淡い恋とともに彼の親友を名乗る資格を失いました」
アルベルトは深く大きな溜め息を吐くと、不意に立ち上がり事務机の引き出しを開けた。
「彼がここを離れてから十三年あまり、私は彼のことも自らの犯した罪も忘れてただひたすら勉学に励みました。そして今から四年ほど前になるでしょうか、南西公領から私宛に、突然手紙が届いたのです。差出人は、アントニオでした」
紐で縛った封筒の束を、アルベルトは応接机の上に置いた。そして再び腰を下ろし、組んだ両手を見つめながら続けた。
「最初の一通が届いてから、恐らくアントニオが亡くなった二年と少し前までの間、手紙は月に一通の頻度でほぼ途切れることなく届けられました。しかし私には、その封を開けることがどうしてもできなかった」きつく結んだ両の手が倒れそうなほど前に傾いた額に当たる。「怖かったのです。恐ろしかったのです。これだけの月日が経っていてもなお、薄情な友人への恨み言やどこかから聞き知った私の裏切りを非難する言葉が、そこに書かれているのではないかと、私はただそればかりを恐れて……!」
荒い呼吸には嗚咽が混じっていた。教司アルベルトは顔を伏せたまま、机上に載せた手紙の束など一顧だにしないで肩を震わせている。その姿は祈りを捧げているようにも許しを請うているようにも見えた。それが何となくエイジには面白くなかった。
エイジは手紙を束ねている紐を解くと一番上の一通を取り上げて日付を確認した。四年前の仲夏。おあつらえむきにこれが最初の一通目らしい。躊躇うことなく封を開けると、すぐに文面を検める。
頭から末尾まで全てを読み終えたエイジは静かに目を閉じた。懐かしさと、嬉しさと、むせ返るほどの寂しさに、しばしの間彼は言葉を発することができなくなった。
ややあって目蓋を上げると、エイジはその便箋を対面の聖職者に差し出した。
「ご自身で確かめてみてください。あなたが恐れているようなことは、何も書いてませんから」
顔を上げたアルベルトは恐る恐るそれを手に取り、紙面に目を落とした。
――親愛なる友アルベルト殿。十年以上経った今になって突然手紙など遣した非礼を、どうかお許しください。貴方の信頼を裏切ってしまった私に対する怒りがどれ程のものか、想像すると堪らなく筆が重くなり、こうして文を出すまでの勇気がどうしても湧かなかったのです。こんな手紙を出したところで貴方の怒りは収まらないかも知れませんが、やはり筋として一言詫びておかなければならないと思い、今ようやくと筆を執った次第です。
改めまして過日の段、まことに申し訳ございませんでした。謹んで謝辞申し上げます。
また、このような立場で、そして今になってこんな事をお願いするのも恐縮ですが、彼女にも私の謝辞を伝えていただければありがたく思います。私の不届きな行いで彼女の名誉が不当に傷つけられることがあれば甚だ遺憾であり、慙愧に堪えません。
最後に、こちらは色々と不便なことも多いですが、神々のご加護か、何とか毎日を生きて行けております。僭越ながらこの南の地より今後もますますのご健勝を祈らせていただきます。どうかお達者で。
(もし許してくれるなら)貴方の学友の一人、導師アントニオ・メスキより
教司アルベルトの頬を涙が伝った。恥じ入るばかりに伏せた顔は羞恥と自身への怒りとで赤くなっていた。
エイジは嗚咽するアルベルトに言った。
「お世話になったのは二年余りで、あなたに比べればそれほど長い時間を共にしたわけでもありませんが、私の知る限りアントニオは寛容で心優しく、誰かを恨んだり、怒りを抱いたりするような人じゃなかったと思いますよ。あなたが何をしたか知っていたとしても、きっと彼にとってあなたが親友であることは変わらないはずです」
エイジは掌の上、そこに乗せたアントニオの形見の首飾りに視線を落とした。こんな風に言い切ってしまって良いものだろうかと、一瞬だけ躊躇する。が、迷いはすぐに振り払った。アントニオならきっと「よくぞ代弁してくれた」と言ってくれるに違いないのだ。
エイジは一つ肯くと、泣きじゃくる相手の目を見て続けた。
「あなたにとってはどうですか、教司アルベルト? アントニオは、十年前に絶縁した元友人ですか? できれば思い出したくなかった過去ですか?」
教司アルベルトは首を振った。左右に何度も、何度も振った。
「いいえ。いいえ、親友です。もう二度と、会うことができなくても、天の国に旅立ってしまっても、私にとって彼は永遠に、唯一無二の親友です。彼が、許してくれるのなら」
アルベルトは机上に積まれた封筒の山に手を伸ばした。逃避していた長い時間を埋めるために、彼は親友からの手紙一枚一枚と改めて向き合いたかった。
エイジは心の中で別れの言葉をつぶやいて六芒星の首飾りを机上に置いた。