二、学生街
ルイ一世統一王の元年、統一戦争における論功行賞としてルイ一世は自身の直轄領を七つに分割し、その内の六つを子女の預け先である六名の功臣たちに分け与えた。彼らが元々有していたものにこれらの化粧料を加えた領地は実に広大で、その価値は公侯の有するそれとさして変わらないほどであった。
本来なら支配する領地の大きさに併せてそれに相応しい爵位が与えられるべきであったが、宥和政策の一環として最高位の爵位が与えられた公爵や、統一以前からの深い臣従関係が評価されそれに次ぐ高位へと封じられた侯爵の立場を慮ってか、ルイ一世はこれらの六名に対して依然として伯爵位以上の位を名乗らせなかった為、彼らは実質的には広大な領地を有していながら身分制度上は公侯より下の立場に甘んじることになった。彼らを指す時に用いられる大伯と言う呼称は、公侯に比肩する大身となった彼らへの敬意を込めたあだ名が一般に定着したものである。
そんな大伯領の一つ、通称サン・タルテュール大伯領ことラ・シャルメ伯爵領は「信教の都」として広く世に知られていた。由来は初代の領主にして建国の英雄の一人アルテュール・ナタンの政策による。
彼は当時まだまとまりもなくしばしば死傷者を出すほど激しく対立していた各宗教、派閥の指導者や信者たちを仲裁し取りまとめて、熱心な保護に取り組んだ。その結果、神の道を志す者や布教闘争に負けて土地を追われた者たちが自然と集うようになり、ガルデニア王国の三代、篤信家として知られるジャン一世善良王の時代にこのメコン市の一角、ヴィル=アゼッタ街区周辺に立ち並ぶ宗教従事者たちの学び舎群がヴィラゼ大学として法的に認められる運びとなったのである。
創立から実に百年あまり経つ現在も神学の研究、教育機関としては未だ最高の権威を保ち続け、パッサローラ公爵領のリスボア大学と並んで「理学のリスボア、神学のヴィラゼ」と称されるほどその評判は名高い。
「で、その天下のヴィラゼ大学のどこに用があるって?」
目抜き通りを歩く道すがら、ケインは尋ねた。
「どう言う意味ですか?」
尋ね返すエイジにやれやれと頭を振り、ケインは人差し指をぴんと立てて続けた。
「一口にヴィラゼ大学っつっても建物は山ほどあるしやってることは場所によってばらばらだ。経典について勉強してるとこもあれば神とは何ぞやについて問答してるとこもあるし、布教とか説教の仕方を教えるとことか、経典や神話から歴史を調べるみたいなところもあったぜ、確か。どこでもいいってんなら近場で適当に案内するけど? ここもう学生街だし」
いつの間にか周囲には黒い僧服が目立つようになっていた。服装はよく見る導師のそれでも剃髪していないあの若者たちこそ聖職者の卵、神学生に相違ない。彼らが寝起きし、学ぶための施設が集まっているからこの辺り一帯は学生街と呼ばれているのだ。広い意味でならすでに大学の敷地に足を踏み入れたと考えて良かった。
「あ、そうかそういえば、大学に着いたら訪ねろって、言われてる人がいるんでした」
エイジは懐から折り畳んだ便箋を取り出してケインに渡した。紙には簡素に二人分の人名と些細な注意書きが記されているだけだった。
――主神論の教司バティスト・アレ、マジュール学寮の導師カジミール・ラギエ←教司になってる可能性あり
「バティストって方はなんか聞いたことある気がするな」ケイン少し考えた後、すぐにその紙を返して続けた。「ま、とりあえず近いところからあたってみようぜ。マジュール学寮なら知り合いもいるしすぐそこだ」
ケインの案内で二人は学生街を進んだ。人通りの多い往来を離れ、路地裏の辻を二度ほど右に左に折れながら四半刻も歩くと、彼の言葉通り目的の建物は街の中にひっそりと佇んでいた。
石塀で囲まれた敷地はそれなりに広く見えた。開いた門の向こうに中庭があり、そのさらに奥にはそれを囲むような形で二階建ての木造建築が鎮座している。エイジが学寮と聞いて思い浮かべたものよりかなり立派で、寮と言うよりは学校そのものに近い印象だった。
「待ってな。ちょっと見張り番と話つけてくるから」
ケインはそう言って門の横に立っている導師風情の男の元に小走りで駆けていった。少しの間その男と談笑した後、エイジを手招く。どうやら通行の許可が下りたようだった。
中庭を左方向に突っ切る形で校舎の方へと向かいながら、ケインは言った。
「まずは住居棟の食堂か談話室だな。この時間なら誰かしら知り合いがいると思うから」
玄関口をくぐると迷いのない足取りで廊下を折れるケイン。エイジは物珍しげに辺りを見回しながらその後に続いた。入り口からすぐの階段は無視して両側に木戸の並ぶ廊下を進む。と、突き当たりに開けた空間があり、そこからなにやら盛り上がっている人の気配が伝わってきた。
天井の高い空間には五、六人が掛けられる長机と椅子が多数配置されている。ほのかに香ばしい匂いが残るここが食堂のようだった。その奥の方で十人程の若者が各々卓を囲み、どうやら札遊びに興じているらしい。闖入者二人の存在には気づくそぶりもない。
少し背伸びをして遠目に若者たちの面相を検めたケインは、真っ直ぐその一団に近づくと隣の卓をこんこんと叩いて自身の来訪を知らせた。
卓を囲んでいる中で一番体格の良い青年が振り返り、相手の顔を見て口角を上げる。
「よぉ、ケインじゃねぇか。またいい時にカモが来てくれたもんだぜ」
年の頃はエイジと同じくらいと思われる青年は隣卓の椅子を親指で示してケインに同席を促した。
「でけぇ口はうちのツケ全部払ってから叩けよ、ジョス」
ジョスと同様に笑みを浮かべたケインは自然な流れで腰を下ろしそうとした直前に、はたと本来の目的を思い出して頭を振る。
「つーか今日は遊びに来たんじゃねぇんだよ。なあ、カジミール・ラギエって坊主、誰か知らねえか? 導師カジミール」
「カジミール?」問われたジョスは眉間に皺を作って首をひねる。「聞かねぇ名だな。おい、知ってるやついるか?」
ジョスの問いかけで一同は雑談を止めてしばし考え、やがて一様に眉根を寄せた。口々からは「誰だ?」「知らねぇ」としきりに漏れている。
と、たった一人だけいた例外が思い出したと言うように卓を叩いて答えた。
「あ、俺の部屋に前住んでたやつがそんな名前だったかも」
「ホントかよ!? 今どこにいる?」
眉を上げて身を乗り出すケインに、その面長の神学生は首をかしげて答える。
「さあ? 俺があの部屋に移った頃だから二年くらい前になるかな……たしか、貴族の娘孕ませたのがばれたとかでどっか行っちまったって話だよ。それが本当なら少なくともここらにゃいねぇんじゃねえかな。事がことだし天の国にでも行ってなけりゃ、まだしも幸運だと俺は思うね」
朗報から一転、返ってきたのは不穏な情報であった。実にエティエンヌの友人らしい顛末と言えるが、今のエイジにはその話を笑って済ませられるだけの余裕がない。彼は堪らず口を挟んだ。
「あの、じゃあ主神論の教司バティスト・アレと言う方は」
「バティスト爺さんか? それなら知ってるよ。つーか昔ここの寮長だった縁もあって何かと世話になったやつも多いだろうし、うちで知らねぇやつはいねぇんじゃねぇか、なあ?」
ジョスが答えて周りに同意を求めると、神学生たちはもちろんと肯く。
「そうなんですか」エイジは安堵し矢継ぎ早に続けた。「お会いしたいのですが、その教司バティストは今どちらに?」
「どちらって、そりゃあんた天の国だよ」
「は?」
呆けるエイジと眉根を寄せて尋ね返すケインに、ジョスは目線で天井を示して続けた。
「旅立っちまったの、半年くらい前に。まあいつ行ってもおかしくはねぇ歳だったからなー驚きもねえけど、優しくて、いい先生だったよ、本当に」
どこか遠くを見てしみじみと語るジョスの声はエイジの耳に届いていなかった。肩を落とし眉根を寄せてうつむく青年の様子は神学生たちを誤解させた。
「主神論なら今は別のやつが教えてるよ。何て名前だったか……確かまだ若い教司だったと思うけど……」
「アルベルト・モローだろ?」
「そう、そいつだ。教司アルベルト。今行ってすぐ会えるかは分かんねぇけど、シャプレ学寮に住んでるから、主神論の講義がない日は大抵そっちにいると思うぜ。講義が聞きたきゃ明後日の昼頃ここに来な。俺の予備の僧衣貸してやるからよ」
言い終えるとジョスはエイジたちに背を向けて卓上の札を集めだした。
ケインは力なくその場に立ち尽くしているエイジを振り返り、尋ねる。
「だってよ。どうする? とりあえず行ってみるかい、その教司アルベルトって人の所まで?」
「……そう、ですね……」
答えるエイジの歯切れは悪かった。さもありなん、彼は何も神学を学びに来たわけではないのだ。神はどこにいるのか、どうすれば会えるのか、その疑問の答えを手っ取り早く知りたい、このサン・タルテュールはヴィラゼ大学までわざわざ足を運んだ目的と言えばそれだけなのである。
しかしながら、頼みにしていた伝は到着早々用をなさなくなってしまった。こうなると例え望みは薄くても、今のエイジには示された手がかりを追う以外に道はない。
幸い今いるマジュール学寮からその教司が居住しているシャプレ学寮とやらまでは程近い距離にあるらしい。すぐにマジュールの食堂を後にしたエイジは、またもケインに案内されて、四半刻ほどでシャプレ学寮の門前までやって来た。
が、彼らはそこで文字通りの門前払いを食らうことになった。
「何でだよ! いいじゃねぇかちょっとくらい! 何も悪さしようってわけじゃねぇんだぜ、こっちは」
ケインは大柄な門衛の坊主に食って掛かる勢いで泡を飛ばした。対して相手は細めた目で少年を見下ろしながら首を左右に振って答えた。
「何と言われようと、部外者を寮内に入れるわけにはいきません」
同じヴィラゼ大学の施設でもマジュール学寮とは大分勝手が違うらしい。しばらく続いた押し問答にも門衛は決して譲ろうとせず、諦めた様子のケインはしかめた面で舌を打って続けた。
「っじゃあいーよ別に、入れてもらわなくてもよぉ! だったら代わりにテメェ、ちょっと行って伝えて来いよ、教司アルベルトってやつに! 用があっから面貸せってなぁ!」
ケインの口にした名が、門衛の目を微かに開かせた。
「教司アルベルト様とはどう言ったご関係で?」
「あぁ!? ご関係も何も」
「主神論のお話が伺いたくてお訪ねしました。初めは導師エティエンヌ・ロウの紹介で教司バティストを訪ねたのですが……」
エイジはなおも喧嘩腰のケインを制してこれまでの経緯を説明した。ケインの粗暴な言葉遣いから一転、物腰柔らかく丁寧なエイジの話しぶりに、門衛は思わず黙って聞き入る。
「なるほど、事情は分かりました」
やがてエイジが話終わると、少し悩んだ様子で門衛は続けた。
「その、導師エティエンヌと言う方は、申し訳ないが存じ上げませんな。他にどなたか信頼に足る聖職者の紹介はありますか?」
問われてエイジは答えに窮した。もちろんそんな心当たりはないし、あればエティエンヌなど頼らずそちらに相談していただろう。
傍らでそれを察したケインは得意顔で進み出るとエイジに代わって返事をした。
「マジュール学寮の準導師ジョス・ベローはどうよ? 寮生の相談役だ。悪くねぇだろ」
「準導師ではお話になりません」
ケインの切り札をぴしゃりと跳ね除けた門衛は憐れみと嘲笑を混ぜた笑みで少年を見下ろして続けた。
「しかもマジュール学寮? よりにもよってあんな不良の溜まり場からの紹介など、信用を失いたくないなら口にしない方が賢明と思いますが?」
「な、んだと、この禿げ」
「アントニオ」
一触即発の雰囲気を仲裁するためか、知らず高くなってしまった声が告げたのは自身が最も信頼する導師の名だった。
言ってしまってから、エイジは心中に湧いた不意の寂しさと後ろめたさで胸を痛ませる。が、今さら無かったことには出来ないし、その気持ちに偽りは無い。エイジはアントニオがすでに故人であることを伏せたまま続けた。
「導師アントニオ・メスキの紹介と言うことでは、駄目でしょうか? 私に聖教会と経典について教えてくださった方なのですが」
「導師アントニオ・メスキ」門衛は何か考えるように中空を見上げた後、顎に手を添えたまま尋ねた。「紹介状などはお持ちではない?」
一瞬だけ、アントニオの形見、六芒星の首飾りが脳裏を過ぎる。しかしエイジは結局頭を振って答えた。
「……いいえ」
「すみません。教司以上の名でなければ、印章付の紹介状でもないと、やはりお通しはできませんな」
門衛は申し訳なさそうに、しかしはっきりとした拒絶の意を込めて軽く頭を下げた。
「そうですか。分かりました」エイジは答えて、未だ納得していない様子のケインの袖を引いた。「宿に戻りましょう。どの道明後日の昼にマジュール学寮へ行けば会えるって話ですし」
エイジに促されてケインも踵を返し、彼らはシャプレ学寮の門前を離れた。
と、大通りへ戻る二人とちょうど入れ違いに、一台の屋形馬車が辻を折れて学寮前通りに入って来た。屋形馬車はそのまま学寮の門前に停まると、すぐに御者台から降りた神学生が昇降段を用意して戸を開ける。
「何かありましたか?」
踏み段を降りながら尋ねるのは福々しい体つきの坊主だった。黒衣の上に紫の上衣を羽織り、剃り上げた頭には教司の象徴たる黒の僧帽を被っている。すれ違った時悪態を吐く少年の姿を見咎めたのか、高位の坊主は去っていく二人の若者の後姿を何気なしに眺めていた。
「あ、いえ、大したことでは」
同様に通りの方を見送っていた門衛はすぐさま相手に向き直るとありのまま起きたことを話した。
「教司アルベルトにお会いしたいと訪ねてきたのですが、素性が知れないためお帰り願いました。導師アントニオ・メスキの紹介と口にしておりましたが」
「もし! お待ちください、そこのお二方」
大通りを南へ歩き出したところで不意に呼び止められ、エイジとケインは振り返った。見ればそこには聖職者が、それもよく目にする導師より明らかに位の高そうな格好をした小太りの坊主が膝に手をついて呼吸を整えているところだった。
彼は息を切らしながら尋ねた。
「アントニオを、導師アントニオ・メスキを、ご存知なのですか?」
ケインはちらりとエイジを見た。少し考えて、エイジは肯いた。
「はい。導師アントニオは、私が以前、とても、とてもお世話になった人です」
「以前と言うと、今、彼はどこに?」
真っ直ぐな瞳がエイジを見る。エイジは束の間、目を伏せて答えた。
「亡くなりました。二年と、少し前になります」
坊主は目を見開いた。何か続けようとしていた口が力なく閉じられると、やり切れない感情は彼の相貌を悲しみで染めた。目も顔も伏せた聖職者は震える手でかろうじて六芒星を描き、往来の端でそのまま黙祷を続けた。
少しの間彼の祈りを黙って見守ると、やがてエイジは遠慮がちに尋ねた。
「あの、あなたは、導師アントニオとは」
「はい」聖職者は肯き、過ぎし日を思い起こすように顔を上げて続けた。「彼は私と同じ日に神の道を志し、同じ部屋で共に学んだ、私にとって唯一無二の親友です」
天を見上げていた彼は、俄かに言葉を止めてきつく唇を噛んだ。そして視線を空から眼前のエイジ、さらに地面の石畳へと移すと、きつく結んでいた唇を自嘲気味に歪ませて言った。
「いいえ、親友、でした」