四十九、始末と旅立ち
ブリアソーレ執政アマデオが獄中の元軍監カリスト・デ・ベレイマを訪ねたのは行政上の事務処理に関する二、三の質問のためだった。
わざわざ足を運んでおきながら相手からの答えについては期待していなかったアマデオであったが、彼の予想に反してカリストは最早自分とは何の関わりもない仕事の質問に対して的確な指示にささやかな助言まで付け加えて速やかに回答した。
わずか四半刻も掛かることなく用事が済んでしまったアマデオは、軽く礼を述べて早々に牢を後にすることになる。
が、ふと立ち止まって踵を返すと、すでに貸与された経典へ目を落としていたカリストに尋ねた。
「最後にもう一つ聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
「何で、独立なんかしようと思ったんですか?」
「どう言う意味です?」
「あんたはエスパラム公の命令でヴァルターを監視しに来た、ヴァルターや俺なんかよりずっと公の信頼が厚い立場だったはずでしょ。恩や義理だってあったろうに、どうしてそれを裏切るような真似を」
カリストは経典を閉じ、アマデオの方に顔を向けて答えた。
「このご時世に立身出世の野心を持つことがそれほどおかしいですか」
「あんたに限っては、おかしいと思いましたよ、俺は」アマデオは吐息混じりに伸ばした手で鉄格子に触れた。「ヴァルターとの仲だって、良かったってことはもちろんねぇと思うけど、恨みを持つほど悪かったってこともなかったはず、ですよね? 前もって周到に準備してた計画でもねぇし、上手くいきゃあ成功が約束されてるような夢のある話ってわけでもなけりゃ、分の良い賭けってわけでもなかった」
「そんなことはありませんよ。勝算は十分にあった。白狼殿がその類稀な運と生命力でラ・フルトの包囲を抜けていなければ、貴殿が彼を助けるためレノーヴァに助勢を請うていなければ、今頃私はこんな所にいなかったはずです。違いますか?」
アマデオの無言は全面的な肯定を意味するものではなかった。元軍監の言い分に否定できる要素はない。ヴァルターさえ始末できていれば、確かに彼の独立を阻むものはなかったはずである。
しかし、アマデオが素直に肯けないのはそんな話ではないのだ。慎重で遊びを嫌うこの男が、勝算はある、程度の計画に全てを賭けた理由が、彼にはどうしても分からなかった。
「今となっては、いずれも詮無きことですがね」
そう言ってカリストは経典に視線を戻した。もう話すことはない、その意思表示と取れる態度だった。
だが、アマデオはそれでも牢の前に留まった。投げかけた疑問への回答だけが理由ではない。短い付き合いではあっても少なからず世話になった元上役との名残を、彼は惜しんだのだ。
ばつが悪そうに頭をかきながら、アマデオはかけるべき言葉を探した。今日までの礼を言うつもりだった。これを最後と思うなら別れの挨拶も必要だった。しかし、何を伝えてみたところで格子の向こうにいる相手にとって何の慰みにもなることはないだろう。そんな気後れがいたずらに沈黙を長引かせた。
冷淡な元軍監にも情はあった。カリストはつと経典の紙面から目を逸らして、いつまでも立ち去ろうとしないお人好しの元傭兵隊長に言った。
「アマデオ殿、貴殿の洞察はまったく正しい。仰るとおり私は、かねてよりエスパラム公からの独立を目論んでいたわけではありません。白狼殿に個人的な恨みもなければ、是が非にでもこの街が欲しかったわけでもない。この乱世に身を立てることにだって、全く何の興味もありませんでした」
思わぬ返答に目を丸くしたアマデオは再度尋ねた。
「じゃあ、何で?」
「別に」カリストは自嘲気味に口角を上げて目を閉じた。「ただ、どうしても許せないものがあった、それだけです」
「何なんです、その、許せないものってのは?」
カリストは微かに口角を上げたままで、結局何も答えなかった。話したところで理解してもらえるとも思わなかったし、理解して欲しいとも彼は思わなかった。
正しさは忠義や利徳の上に立つ。それが彼、カリスト・デ・ベレイマにとって譲れない信念だった。彼の考える正しさとは道義の問題ではなく、正か否か、真か偽かの話である。烏は鳩より黒く、馬は人より速い。一握りの石は鳥の羽一枚より重く、一枚の硬貨は路傍に転がる石ころより価値がある。好き嫌いの感情はその判断を左右せず、善か悪かは問題にならなかった。それを問いとした時、絶対的に正しい解だけが、彼を満足させる答えだった。
カリストはその信念に従ってこれまでの人生をたった一つの誤謬もなく生きてきた。少なくとも本人にはその自負があった。当代エスパラム公エルネストがまだ成り上がり者の金貸しと揶揄されていた頃も、後にその成り上がり者が亡き先代の公妃と彼女の一人娘を担いで後継者争いに参戦し、公弟派に属する自分とは立場を違えていた時も、戦いの末に捕虜となり、検分のために引き立てられた先で顔を合わせるなり「鞍替えして俺に仕える気はないか」と告げられた際も、常に正しきを為してきた事が、彼にとって誇りだった。
そんな彼だから、信念に従い続けてきた彼だからこそ、敵の流した偽の情報に踊らされて南西公軍の作戦全体に破綻を生じさせた今回の失態は許しがたい汚点だった。処罰を恐れているのではない。彼はただ、自分が至上の価値を見出し戴いてきた宝に修繕不可能な瑕が入ることを嫌ったのだ。直せないその瑕を装飾へと変えるために、彼が見つけ出した手段は唯一つだけだった。
カリストは自身の幼稚さにこそ苦笑した。下げたくない頭を下げない、たったそれだけのために、私は犯した失態を謀反のための布石に転じたのか。あまりの身勝手さには呆れたくもなる。
しかし自嘲する彼に後悔はなかった。彼は他のどんなものより優先すべき宝を守ることができたのだ。人命よりも、富や名声よりも、勝利よりも、大事なもの。不忠の謗りを受けようが、無様と笑われようが、信念とは、どうしても守らなければならない至宝に他ならないのである。
カリスト・デ・ベレイマ男爵は最後までその胸中を誰にも語ることなく斬刑に処された。防腐処理を施された首は一日だけブリアソーレ行政庁舎前に晒されると、すぐに首と同様防腐を施された体に縫い付けられて彼の故地であるエスパラムへ送られる。棺を載せて西へ向かう街道上の馬車を挟む景色は、すっかり秋の装いに変わっていた。
ブリアソーレの支配権を再度掌握し、謀反に加担した者たちの処分をあらかた終えた後でもなお、白狼隊の課題は山積みだった。失った人員の補充とそれに合わせた隊の再編成、返す当てのなくなった戦費の返済計画に領内外のごたごたで悪化した治安の回復、裁判やら市場の監督やら犯罪者の取締りやらの通常業務に加えて、こんな状況だと言うのにラ・ピュセル侯からノラヴド公との小競り合いの助勢まで要請されている。猫の手を借りたって足りないくらいの忙しさに隊内は上から下までもれなく目を回していた。
そんな時である。
「……忙しそうだな」
頭頂部が天井に届きそうなほど長身の男は、行政庁舎の正面玄関を潜るなり忙しなく立ち働いている様子の会計役に声をかけた。
声の方に目を向けたエンリコは驚きのあまり羽根筆を取り落として目を見開いた。
「プンスキ……お前、生きてやがったのか」
長らく工兵をまとめてきた大男は、相変わらず陰鬱な面差しで「……勝手に殺すな」と抗議した後、慌しい庁舎を見回して不満げに続けた。
「……遠路はるばる帰ってきたのに、歓迎もなしか」
「馬鹿野郎、歓迎して欲しかったらもっと早く帰って来いっての」破顔したエンリコは大男の腹をどつきながら尋ねた。「今までどうしてたんだ? そのなりでよくラ・フルトの奴らに見つからなかったな」
「……サラサン人の、村だ。……かくまってもらってた」
クルピンスキィが煩わしそうにエンリコの拳を払っていると、その存在に気づいた顔馴染みたちが続々と集まってきた。プンスキ、親方と、親しげに声をかけてくる面子は六人ばかり。大広間を見渡しても彼の知る顔はまるでない。
「……隊長殿は?」
「今ちょうど出てるよ」クルピンスキィの問いに頭を振って答えたエンリコは続けた。「つーか帰還報告なんて後回しでいいからお前も働けよ。今はどこも人手が足りてねえだからよ」
強引に背中を押されて早くも現場仕事へと駆り出されることになったクルピンスキィは、やはり足を洗うべきだったかと今更ながら後悔したが、もちろん後の祭りである。会計役の言葉が率直に表す通り、急性的でもあり、慢性化の懸念もある人手不足に悩まされている隊の現状は、一人でも多くの労働力を必要としているのだ。
帰ってくる者がある一方で、出ていく者の姿もあった。
こなした先から新たな仕事が舞い込んできて、昼夜を問わない労働には全く終わりが見えないこんな状況下で、ただでさえ人手に困っているのに経験豊富な幹部の一人が、今まさに旅支度を終えて市門を後にしようとしている。
ああ、何てことだ。ヴァルターは大げさなしぐさで頭を抱えて天を仰ぐと、すぐに上体を起こしてその身軽そうな後姿に恨みがましい問いを投げかけた。
「だってのに、やっぱり考え直す気はねえんだな?」
「……ごめん」
愛馬の轡を取るエイジは困り顔に微かな笑みで答えた。あまりに素直な反応だったからか、ヴァルターも苦笑して頭を振る。
「しょうがねえな、まったくよ」
ヴァルターは茜色の濃い西日に目をすがめて遠くを眺めた。市門から続く街道は北へ伸びている。
「当てはあるんだったか?」
「とりあえず、サン・タルテュール大伯領に行こうと思ってる。そこのヴィラゼ大学が神学の最高峰だってエティエンヌが」
「大学だぁ~? お前まさか、坊主にでもなろうってんじゃねえだろうな」
エイジの返答でヴァルターは不味いものを吐き出すように舌を出した。見当違いの疑惑に対してエイジも当然頭を振る。
「ないない。ただちょっと、知りたいことの手がかりでもあればと思ってさ」
「知りたいこと?」
それは何だと瞳で問われて、エイジは返事に窮した。比較的柔軟な考えを持つヴァルターも、やはり信心が習慣になっている世界の住人なのだから率直に述べるのは躊躇われる。エイジは慎重に選んだ言葉で表現した。
「いや、その、つまり神様がどこにいるかとか、神様と直接会って話す方法とか」
「それ探求すんのを聖職者っつーんじゃねえのか」
エイジの努力に意味はなかったらしい。ヴァルターはなお胡散臭そうに、と言うかいっそ心配そうに相手を見やると、その肩に手を置いて諭した。
「お前ちょっと冷静になったほうがいいぜ。童貞こじらせておかしくなっちまったか? エティエンヌ見てるとそう思えねーかも知れねえけど、坊主は坊主で狭き門だぜ、実際」
「おかしくなってないし出家なんか絶対しないから。絶対に!」
言い切りと同時に手を払われて、ヴァルターは一応それ以上の追及をやめた。
「なら、いいけどよ」払われた手をさすりながら、ヴァルターはさらに尋ねる。「その後はどうすんだ?」
「分からない、まだなんとも」
エイジはまた頭を振った。次いで不器用に口角を上げ、作ったような照れ笑い混じりに答える。
「案外すぐ行き詰って帰って来ちゃうかもね」
空しい笑いは、そうはなりそうにない未来を予感してのものだった。男でも一人の旅路にはそれなりの危険を伴う今の時代を思えば、その努めた明るさも虚勢に過ぎないことをヴァルターは理解していた。
「俺はそれでも一向に構わねえけど、まあ、そうならねえことだってあるわな」
言って懐から封書を取り出すと、ヴァルターはそれをエイジに渡す。
「何?」
「別に覚えてたらでいいんだが、もし何かのついでに北東公領、ゲルジアに行くことがあったら俺の実家に届けといてくれよ。大したことは書いてねえし、行く機会がなけりゃ捨てちまっても構わねえからさ」
封書に差出人ヴァルターの名前とエッセンベルク子爵の宛名を確認すると、「分かった」と答えてエイジはそれをしまった。
それから少しの間、会話らしいやり取りもなくただ時間だけが過ぎた。
やがて、ただ立っていることに飽きたらしい愛馬の控えめな鳴き声に促されて鐙に足をかけると、エイジは一息にその背中へと跨って鞍上に腰を下ろす。
直後、彼の愛馬は命令も待たずに石畳を蹴り出した。
「じゃあ、まあ、元気でな。また会おうぜ、そのうち」
速歩で遠ざかっていく友人の後姿に向けて、ヴァルターは声をかけた。
「ああ、ありがとう」エイジは振り返り、手を上げて答えた。「また」
その頼りなげな背中は、ヴァルターが見送っている間にもどんどん小さくなっていく。きっともう、呼びかけたところで声は届かないだろう。
その時、ヴァルターは自身の足元をすり抜けて、街道に灰色の毛玉が飛び出したのに気づいた。
その立ち耳の犬は街道の真ん中で振り返ると、真っ直ぐな瞳でヴァルターを見つめた。
「行きな」
ヴァルターは口端を上げて肯いて見せる。灰色の犬は弾かれたように駆け出し、大きなトカゲとその背に跨る青年を追いかけた。
「エイジを頼んだぜ」
つぶやいてから、必要のない言葉だったかとヴァルターは思った。あっと言う間に見えなくなった犬の耳にだってもう聞こえてはいないだろうし、それに恐らく彼女にとってみれば、それは言われるまでもない願いのはずなのだ。
ハナの脚は止まらない。エイジは彼女にそれを命じなかった。活発な彼女の勢いに任せなければ、またいつまでもあの場に留まってしまいそうだった。
アティファに会いたかった。だが、会うわけにはいかなかった。もし今彼女の顔を一目でも見れば、情けなく泣き崩れてしまう自分を、きっと抑えることができないからだった。
西から射す夕日が目に沁みる。早朝や真昼や夜半、他のどんな時間帯よりも夕暮れ時の別れはとかく涙腺を刺激した。
こんな時間に人と別れたことをエイジは少し後悔した。