四十八、兄と弟と赦し
浴びるほど酒を飲み、吐くまで肉や果物を食らった。女だってある程度は選り好み出来る。金を払って買う必要なんてない。町で評判の器量良しでも、大店の主人が大事に育てた一人娘でも、こちらが一言魔法の言葉を口にすれば父親の方から進んで娘を差し出した。
次期シャット男爵がご所望である、と。
ボリスの人生はまさに薔薇色だった。衣食住を満たされ、好きな時に寝、好きな時に遊び、何をせずとも文句を言われることもなく、道を歩けば人々は勝手に頭を垂れて傅こうとするのだ。貴族とはこうも恵まれた人生を歩むものかと、初めは妬み、憤ったものだが、そんな後ろ向きな感情はすぐに消え去った。何故って今では自分もその羨むべき貴族の仲間入りをしているのだから。
全く笑いが止まらない。毎日が楽しくて、楽しくて仕方がなかった。ベルガ村の連中が知ったら何と言うだろうか。奴隷のボリスが、今やラ・フルト侯領で男爵位を継いで貴族になろうとしているなどと。仕事が遅いと文句をつけて散々いたぶってくれた下っ端どもになんて特に聞かせてやりたいものだ。そうしたら奴ら、恥知らずにも頭を下げて仕官を申し出てくるかも知れないぞ。もしそうなったらいくら出してやろうか。一日あたり麦餅三つなんてどうだ。俺たち奴隷の飯代、皮肉が利いてていいと思わないか、なあ――
愉快な妄想は、いつも最後には寂しい虚無感で終わった。そしてそんな時は堪らず人恋しくなるのである。ボリスは馬鹿話に付き合ってくれる相手を求めて屋敷の中を彷徨ったが、目当ての人物は見つからなかった。彼を今の地位へと導いたアダム・ガレとはしばらく顔を合わせていなかった。相続関係の面倒臭そうな手続きに追われているらしく、ここ数日は姿も見ていない。
ならばと次に求めるのは女だった。年上で包容力のある女中のアンヌか、明るくて元気のいい靴屋のエリーズか、初々しい反応が魅力的な大店のロザリーか。誰でもいいから会いたかった。話を聞いてくれるだけでいい。いや、何も言わずただ抱きしめてくれるだけでもいいのだ。誰かが傍にいてくれないと、この寂しさはどうにも仕様がなかった。
すぐさま町の靴屋へ家令を遣いに出すと、程なくエリーズが屋敷を訪ねて来た。
酒と女に温められた褥はしばしの間ボリスに寂しさを忘れさせたが、所詮それは一時的なものに過ぎなかった。どれだけ飲み食いしても、誰と何度肌を合わせても、心に生じた飢えを満たすことは出来なかった。
寝台で果て疲れて眠るボリスは幾度となく同じ夢を見た。
夢の中でボリスは走っていた。彼の前を行く丸い背中が、遠ざかっていくのを追いかけているのだ。
待てよ、おい。待てって。ボリスは必死に呼びかける。相手は振り向く素振りすらない。
どこに行くんだ。お前。ボリスはいよいよ焦った。一心不乱に走っているのに、何故か歩いているはずのその背中に全然追いつけないのだ。
叫ぶ間に、距離はどんどん遠くなる。もうどれだけ叫んだって聞こえないほど遠くに。
俺を。俺を置いて行くなよ。
必死の訴えが通じたのか、丸い背中は立ち止まり、こちらを振り返った。その口が動く。何かを語りかけているようだ。ボリスにではない。視線はもっと後ろを見ている。
ボリスは振り返った。闇と同じ色の髪と、閃く片刃の長剣が眼前に肉迫する。
ボリスは叫び声を上げて飛び起きた。慌てて体をまさぐる。どこにも斬られた跡はなかった。
「なぁに、またなの?」
気だるげに目蓋をこするエリーズは、汗にまみれたボリスの体を優しく撫でた。
「また怖い夢を見たのね、男爵様。大丈夫よ、あたしが傍にいるから」
エリーズの言葉は何らボリスの心を慰めなかった。全身汗だくで呼吸も乱れているのに、ボリスの体はかたかたと小さく震えだした。
「寒いわ。窓閉めましょう、ね」
エリーズは薄い綿織りの掛け布を羽織って寝台を下りた。しかし、露台へ繋がる大きな窓に向けた足はぴたりと止まる。
「だ、誰?」
吹き込む風に煽られた窓掛けの影に、何かいる。思わず声を上げたエリーズはすぐに寝台の上へ戻り、ボリスの背後に身を隠した。
はためく窓掛けを潜って現れたのは、暗色の袖なし外套に身を包んだ黒髪黒瞳の青年だった。静かな動作で抜き出した片刃の白刃が、偶然にも似たような形の月の光に照らされて煌めく。それはボリスが何度も夢に見た騎士刀であった。
恐怖に耐えかねたエリーズが悲鳴を上げて飛び出した。青年は助けを求めながら裸で逃げていく女に一瞥もくれず、暗い瞳でボリスを見据えた。
「……エイジ」
名を呼ばれても反応はない。眉一つ動かさずに、エイジは黙ってボリスを見続けた。
対照的にボリスの表情はよく変わった。初め驚愕で見開いていた目は、一度だけ気まずそうに伏せられると、嗜虐の色が濃い笑みを伴ってエイジに向けられる。
「生きて、やがったとはな。へ、ラ・フルトのやつらも案外詰めが甘いもんだ」
「ペペは死んだよ」
エイジの言葉に、ボリスはまた目を見開いた。分かっていた、覚悟していた出来事のはずなのに、いざ明確な事実としてそれが伝えられると、彼は言い知れぬ寂しさで胸を締め付けられた。
ペペはもういないのだ。いつも自分の後をついて回った、あの世話の焼ける弟分は、もう。
ボリスの中で何かが壊れた。いや、本当は、ずっと前からそれは壊れていた。酒や出世話や女や金、見目の良い誘惑を見つける度に自分をごまかして、ボリスは長い間その事実から目を逸らしてきたのだ。
「へへ、そうか、そうかよ、ペペがね」
乾いた笑いが口から出る。嬉しいわけでも楽しいわけでもない、ただおかしかった。貴族になった、何だって手に入るとはしゃいでみても、何一つとして満たされた気はしない。どころかベルガ村の奴隷だった時には確かにあったものが失われている。そんな自分自身がひどく滑稽に思えた。
エリーズが落としていった掛け布を腰元で縛る。望むもの全てが手に入るはずだったのに、装いは奴隷の時分とさして変わらないのが皮肉だった。
ボリスは寝台の下に忍ばせていた長剣に手を伸ばした。手探りで柄を捜し当てると、勢いよく抜き放ってその先端をエイジに突きつける。
「なら、お前も同じ所に行けよ! あいつが寂しくねぇようにな!」
言うやボリスは飛び掛った。大振りに掲げた長剣を渾身の力で叩きつける。
ボリスの刃は漆喰の壁に亀裂を入れただけだった。半身を退いてかわしたエイジは即座に体を入れ替えて脇構えからの斬り上げに転じていた。その刃は壁に半ばほど剣をめり込ませて身動きが取れなくなったボリスの右腕を苦もなく切断する。
ボリスは悲鳴を上げてへたり込んだ。右腕を押さえながらのたうち回り、血潮は部屋のあちこちに飛び散った。自らの血で滑る床を張って逃げ、なお抗おうと枕元に立てかけてあった短剣を握る。
口で鞘を払って露わになった切先は、すぐさまエイジに向けられた。
エイジは斬り上げた剣を上段に保ったまま逃げたボリスとの間を詰め、小刻みに震えるその左手首を一刀のもとに斬り捨てた。
短剣を握り締めたままの手がぽろりと床に落ちる。ボリスは再度悲鳴を上げようとした。が、痛ましい声の代わりに口から出たのは斬られた左手から迸るのよりもっと多くの血だった。上段からの斬り下ろしの直後、そのままさらに一歩踏み込んでの一突きが、彼の鳩尾に大きな穴を穿っていたのだ。
エイジが突き入れた剣を抜くと、ボリスは背を折り、前のめりに倒れた。すぐ鼻先に広がる赤は、時を追うごとに大きくなっていく。激痛はいつの間にか治まっていた。
「立派な屋敷だな」エイジは剣を一振りしてこびりついた血を払った。「これが、お前の望みか。ペペや皆を捨ててまで、欲しかったものなのか」
ボリスは血溜まりに頬を着けながら力ない笑みを浮かべて答えた。
「馬鹿言え、俺は、シャット男爵の、私生児だぞ。こんなもんは、仮住まいだよ。いずれ俺は、シャット男爵領を継ぐんだ。俺の領地、俺の城を持つんだ。他の何とだって比べられるかって」
こんな状態なのに笑いがこみ上げてくる。いや、こんな様だからこそ、ボリスは笑えるのだ。口を出る何から何まで馬鹿馬鹿しくて、もうどうにも仕様がなかった。
「ペペも、あいつも馬鹿だよな。黙って俺に着いてくりゃ、いい目にだってあえたのに。死んだりなんか」
ボリスは口を閉じた。エイジは少しの間そのまま待ったが、やがて屋敷の外から人声が聞こえるようになると彼の肩をつかんで体を仰向けさせた。
しばらく天井をさ迷った虚ろな目は、静かにこちらを見下ろす黒い瞳を見つけて止まる。
瞬間、聞こえないほど小さかった呼吸は浅く短いものに変わった。苦しげに顔を歪め、細められた目の両端からは澄んだ色の涙がじわりと滲み出てくる。
気の強い子供が堪りかねてするような嗚咽だった。ボリスは血と涙で喉を詰まらせながら言った。
「エイジ、すまねぇ。……俺が、悪かった。俺が、悪かったよ。……許してくれよ」
弱い呼吸と、少量の血と共に、途切れ途切れ吐き出されるボリスの声は小さかった。それでも、確かにエイジの耳にそれは届いた。
「ああ」エイジは剣を納めて肯いた。「許すよ」
すまねぇ、すまねぇ、許してくれ、許してくれ。何度も繰り返すボリスの傍らに腰を下ろして、エイジもまた繰り返した。
「許すよ、ボリス。俺はお前を」
ペペが言ったから、兄貴を許してやってくれと、最後の最後まで強く願っていたから、エイジはボリスを許すことにした。ボリスの行為で迷惑をこうむった仲間たちは怒るだろうが、その責は全て今生きている自分が負うべきものなのだとエイジは思う。
法や掟が定めるのは現世に暮らす人々の罪や罰だけだ。死んだ人間を裁くのは自分たち生者の領分ではない。
今ボリスの罪は神に裁きを委ねられようとしている。死んでしまえば、その者の罪を問うことはこの世界の誰にも出来ないはずだ。だからエイジは伝えてやりたかった。神も魂も天の国も、どれ一つとして信じていない自分の言葉では、何の救いにだってなりはしないだろうけど、どうしても今のボリスに伝えてやりたいと思った。
他の誰が許さなくても、俺はお前の罪を許す、と。