四十六、報い
体よりも先に意識が覚醒した。痛みを感じる。全身、至るところに。中でも重いのは首筋だ。ほんのわずかに動かそうと試みただけで、二度とそんな気は起きなくなる。手も足も痛みと言う感覚はあるが動かせる気はまるでしない。
エイジは精一杯努力して何とか目蓋を上げた。ぼやけた視界は次第に鮮明になる。蜘蛛の巣の張った天井が見えた。
「お頭?」
声の方に目を動かす。不安げにこちらを覗く少年は、見る見るうちに相好を崩して声を上げた。誰か、来てくれ。お頭が目を覚ました。必死に呼ばわる声にも覚えがある。エイジは張り付くように乾いた喉から少年の名前を絞り出した。
「……ウィル?」
覚醒した意識に思考が追いつく。そうだ。彼は白狼隊長弓第二大隊所属の新米、ウィリアム・ケラー。木桶と手拭いを携えてやって来た尼僧はヴァルターの恋人のイリーナで、少し遅れて表れた顔色の悪い坊主頭は、隊付き導師のエティエンヌだ。
頭が回り始めるに連れて、新たな疑問が次々と湧いてきた。エイジはそれらを口に出そうとした。が、すっかり水分の失われた喉からは苦しげな呼気しか吐き出せなかった。
イリーナがその頭を抱え上げ、口元に湿らせた綿をあてがう。染み出した滴が喉奥に滑り落ちると、エイジはもっと多くの潤いを求めて夢中でそれに吸い付いた。綿は程なく水を掬ったイリーナの手に代わり、ウィルの差し出した椀に代わる。
痛みと刺激で時折むせながらも順調に生気を取り戻していく様子を見て、エティエンヌは疲労の色が濃い相貌を寄せた。
「喋れそうか?」
エイジは軽く痰を切るように喉を鳴らして、小さな声で「ああ」と答えた。
「無理はしなくていいぞ」エティエンヌは肯いて続けた。「手足はどうだ? 痛みは感じるか? 痺れたり、動かないなんてことはねぇか?」
問われてエイジは指を動かしてみた。感覚はある。どちらの手も、親指から小指まで思う通りに曲げることができるようだ。次いで肘を曲げてみる。問題なく手首を返そうとして、エイジは鈍い痛みに顔をしかめた。身を強張らせて折った背中にまた別の痛み。連鎖するように首、太ももと続けて痛みが走った。
苦痛に喘いでいるエイジの肩を軽く叩くと、エティエンヌは安堵の溜め息と共に言った。
「まあひとまずは安心だろう。飯食ってゆっくり休め。とにかく体力を取り戻さなきゃな」次いで、心配そうに顔色を伺っている二人に指示を出す。「麦粥でも持ってきてやんな。細かく刻んだ野菜と一緒に煮込んだやつ」
跳ねるような勢いで立ち上がると、ウィルは給仕場へ飛んでいった。一方のイリーナは、導師の言葉を聞いてもなお不安げな表情をやめられなかった。
「本当に、大丈夫なの? 頭が痛いとか、気持ち悪いとか全然?」
「ないよ、何とも」
目を覚ましてから絶えず感じる頭痛と気だるさをエイジは無視した。取るに足りないもののはずだった。たくさん血を流して、記憶がないくらい長い間意識を失っていたのだから、これくらいの症状は。
「それより」癒えない渇きと痛みに耐えながらも、エイジは細く掠れた声を止めなかった。「状況を、教えてくれ。何がどうなってるんだ? 砂漠で俺、急に襲われて」
限界を迎えた喉が激しい咳で言葉を止めさせる。痛みに耐えている間、エイジの脳内には断片的な記憶が蘇ってきた。死を覚悟するほど追い詰められていたあの時、窮地から救い出してくれたのはいつも見慣れた太い腕だった。
「ペペ」エイジは兄弟分の名を呼んだ。「ペペは、どこにいるんだ? ペペが助けてくれたんだ。ペペのおかげで、俺」
エイジはまた咳き込んだ。胸の奥から強く息が吐き出されるたび、丸めた背中が痙攣する。反射的に視界を滲ませる涙は何も痛苦だけが理由ではない。堪らず閉じた目蓋の裏に、自らの発した問いの答えを彼は見ていたのだ。砂埃を上げて倒れた、自分よりもずっと大きいはずの兄弟分の姿が、少しずつ小さくなっていくその様を。
エティエンヌは黙ってエイジの背中をさすった。咳が収まるまでの間、彼は眉間に一筋皺を刻んだまま、きつく結んだ唇を開かなかった。
エイジは導師の返答を待った。握り締めた拳を震わせて、それでもなお縋りたい気持ちが彼の口も重くさせた。
少ししてエイジの問いに答えたエティエンヌは、やはり首を縦に振ってはくれなかった。
会議のために借り受けた邸宅の広間は立派なものだった。さして栄えた村でもないはずなのに、少なくとも今の白狼隊にとってそこは少々広過ぎた。以前なら席が余るようなことはない十人掛けの長机が、今は半分ほどしか埋まっていないのだから、隊の現況と相まって寂しさばかりが浮き彫りになる。
中央に陣取る副隊長が幹部の生き残りやその代理、時折訪ねてくる連絡兵たちに細々と指示を出している一方で、彼らの頭目は少し離れたところに腰を下ろし、静かに帳面を繰っていた。紐で綴じられた紙の束、その紙面を上から下まで目で追ってはめくり、追ってはめくり。もとより会話の活発な空間ではないが、彼が紙をめくる音だけは何故だか室内に集う者たちの耳に残った。
そんなヴァルターが視線を上げたのは、広間の空気に微かな変化を感じたためだった。
軟膏と血の臭いを伴って現れた弓兵頭は、一人一人確かめるようにその場に並ぶ顔を見回しながら、片足を引き摺るようにして真っ直ぐヴァルターの所に歩を進めた。
「無事で何よりだったな、お互い」
隊長の労いに相手からの返事はない。なおも諦めきれない様子で今一度室内の面々を検めた後、消え入りそうな声でエイジは言った。
「ライナーは」
空気が張り詰めた。エイジがその名を口にした途端、控えめではあってもしきりに交わされていた話し声がぴたりと止んだ。
長く、重苦しい沈黙。
永遠に続くかと思われたその時間は、帳面を長机に投げ出したヴァルターの「死んだよ」と言う乾いた声で終わった。
ヴァルターは苦く微笑んで続けた。
「あの馬鹿、どうも張り切り過ぎちまったらしい。無茶はやっても羽目は外さねえやつだと思ってたんだが、まあ、残念な話だよ」
俯いたエイジの視界に、馴染みのある名前の羅列が見えた。ヴァルターが机に投げ出した紙束は白狼隊の隊員名簿だった。クラウス・クラマー、ヴォルフガング・ザイファルト、ディルク・クニツィア、ヤン・ヴェンツェル、慣れ親しんだ並びの中、副隊長のすぐ下に記載されている名前がエイジの目を釘付けにする。隊長補佐筆頭ライナー・ランドルフの名前には、それを打ち消すための無慈悲な一線が黒い墨によって引かれていた。
「しかし、過ぎちまったことをいくら悔やんだってしょうがねえ。今はとにかく、目の前の問題を片付けなきゃいけねえ時だ」
立ち上がったヴァルターは痛々しい様子のエイジの肩に手をやって続けた。
「とりあえずお前は怪我治せよ。そんなぼろぼろじゃ剣だって握れねえだろ」
戦場から脱して数日、エイジ以外の者たちにとって仲間の死を受け止めるには十分な時間が経過していた。彼らは隊長殿の言葉通り目の前の問題に意識を戻した。悲しみや怒りを闘志に変えて、負け戦の直後だと言うのに士気は決して低くない。
しかし、状況を知らされたばかりのエイジにとっては何もかもが急過ぎる報せだった。ライナーだけではない。ユーリィ、ハンス、アラン、帳面を繰っていくと一目見ただけですぐに顔まで思い出せるような親しい仲間たちの名前が、黒い墨の一筆でいくつも消されている。
エイジは紙をめくる手を早めた。幹部の欄が終わり、騎兵、歩兵の括りが過ぎると、黒い修正跡の目立つ弓兵隊の名が連なる一枚に、彼はとうとう見つけてしまった。
――ペペ・ナイトー。
エイジは一度目を閉じ、一呼吸後に開いて再び紙面と向き合った。焦点の合わない目線が何度もその紙の上を滑る。
何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、文字列をなぞる。
しかし結果は変わらなかった。ライナーと同様、そこに記された彼の兄弟分の名前に引かれた黒い一線は、どれだけ確かめたところで決して消えてはくれなかった。
エイジの瞳に映る世界は瞬く間に色を失くした。墨の黒と紙面の白、それだけが網膜に焼きついて、他の一切はどこか遠くへ行ってしまった。すぐ目の前にいるヴァルターの声も周囲の雑音も、聞き取れないほど遠くに感じた。指先で触れているはずの隊員名簿のざらざらとした感触さえ曖昧で、自分が今膝を伸ばして立てているのかすらエイジには分からなかった。
左胸を抑える。心臓の音がうるさかった。息が、堪らなく苦しかった。
暗く、狭まった視界から、白い紙束が無くなった。机上に投げ出したそれをヴァルターが取り上げた為だった。
エイジの目は無意識にそれを追いかけた。激しい頭痛と耳鳴りの合間に、隊長と若い連絡兵の会話が聞こえてくる。
――長槍三の二の二、第一少隊長のゴーチェ・クーヴは駄目でした。同隊所属の弟が討ち取られるのを見ていたそうです。それから、輜重一の一の三、こちらはおそらく一から三まで全部黒、と思われます。マンス伯領のジャリブード近辺で小隊長以下多数が目撃されています。現時点で確認が取れてるのは……。
告げられた名前を一人一人確認して、ヴァルターは手ずから帳面に墨を入れていく。戦死を遂げた者の名前には横に一線、そして黒と報告された者たちには別の印を。
名簿に付される黒い×印は、エイジにペペの最後を想起させた。彼の兄弟分は訴えていた。避けられそうに無い死と向き合いながら、血と涙で喉を詰まらせながら、ぺぺは最後まで、共に故郷を飛び出した兄貴分の身を案じていたのだ。
エイジはヴァルターの手から名簿を奪い取った。制止の声も聞かず、次々と帳面を繰る。幹部でもない。騎兵でも歩兵でもない。探しているのは先ほど自身を絶望の底に叩き落したのと同じ一枚だ。
「……!」
エイジの手は止まった。ボリス・ナイトーの名は確かにそこにあった。存在を打ち消す線の代わりに×印を付されて。
「エイジ」
ヴァルターはエイジの手から名簿を奪い返して言った。
「休めよ。でなきゃ治るもんも治らねえぞ」
「その、×のやつらは……」
エイジの喉から搾り出すような声が漏れた。印の意味するところについて、今さら尋ねるつもりはなかった。ヴァルターはエイジの言葉の意図を汲み取って答えた。
「報いを受けさせる。しでかしたことに見合った罰がなけりゃ、俺の面子が立たねえからな」
平素と何も変わらない風を装うヴァルターの瞳の奥、滾る炎のような激情はエイジにも見えた。エイジはその激情から目を逸らさずに口を開いた。
「俺もやるよ」
「あ?」
顔をしかめたヴァルターに、エイジは今度こそはっきりと伝える。
「報いを受けさせるんだろ? 裏切り者に。俺も」
不意に胸倉を掴まれてエイジの言葉は途切れた。少し小突いただけで簡単に倒れてしまいそうなほど頼りないエイジを見下ろしたまま、ヴァルターは続けた。
「意味が分かっての発言だろうな、え、弓兵頭よ?」
見下ろしながら、ヴァルターは相手の瞳の中に自身が抱くのと同じ決意を垣間見た。エイジは正面からヴァルターの問いを受け止めて「ああ」と肯き、答えた。
「俺が、ボリスを殺す」