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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第三章「ラ・フルト」
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四十五、貸し借り

 遠く視線の先に見える地平線、空の青とも田園の土色とも異なる灰色の連なりこそ、彼らが求めてやまないこの逃避行の終着点である。


 安堵と歓呼は同時に起こった。疲労困憊の白狼隊士たちは、未だ遠くにそびえ立つ「ルオマの壁」を目指して殺到した。


「走れ走れ走れぇ!」


 ヴァルターは鞍乗で皆を急かした。隊列も陣形も関係ない。ここまで来たら後の四里か五里はもうひたすらに駆け抜けるだけだ。運と体力がなければ脱落し、どちらもぎりぎり足りているなら何とか逃げ切ることができるだろう。自分が前者にならないことを祈りながら、ヴァルターはやつれたヴィントになおも労働を強いた。


 最早隠す素振りもないラ・フルト侯の軍勢が彼らの眼前に立ちはだかる。藍色のりんご、三本剣、交差鎌、馬、三日月……。騎馬槍を突き出し長柄の矛槍を切り払って、ヴァルターは目に付く家紋を片端から脳裏に刻み込んだ。どこの誰だか知らねえが覚えたぞ。絶対後悔させてやるから覚悟しとけこの野郎ども。


 心の内で激情を燃やしながらも、冷静な状況分析を忘れない。横に広く展開する陣容は少なく見積もっても八千以上。戦力差、個々の状態、見通しの良過ぎるこの平原、どれを取ってもまともな戦になる要素は皆無。ならやはり、無理を承知で押し通るしかない。止まれば包囲されてなぶり殺しになるだけだ。包囲が厚くなる前に全力で一点に絞って突き抜ける。


 ヴァルター達は駆け続けた。一里を行く間に僚友が一人減り、二人減り、それでもなお止まらない決死の進撃には、圧倒的優勢にあるラ・フルト侯軍もその意気を阻喪せざるを得なかった。


 その心理的間隙を突いて、ヴァルター率いる先頭集団はとうとうブリアソーレへと通じるオリヴェノスク国境関の目の前までたどり着いた。が、彼らの足はそこで止まった。


「おい! 何呆けてやがんだ!? 跳ね橋を下ろして関を開けろ! 仲間が帰ってきたのが見えねぇのか!」


 間にジニョー川を挟んだ対岸から、ヴァルターは怒声を上げた。驚いた鳥が飛び立つほどの大音声でも、関所は反応を示さない。誰も詰めていないとは思えなかった。壁上には幾つもの旗がはためいており、歩廊の狭間からは怯えの混じった視線を向ける人間の気配が十や二十では足りないのである。


 しかし、ヴァルターの怒声は、少なくとも命令としては彼らに届いていないようだった。すぐ目の前にルオマとの国境を眺めながら、時間だけが無為に過ぎていく。


「どこの馬鹿だ当直やってやがんのは!? ジーノか? サンドロか? 誰でもいいからとっとと橋を」

「た、隊長殿、隊長殿!」

「あぁ!? 何だよ!?」

「妙ですよ、何か……おかしい……」


 苛立ちも露わに返すヴァルターは、クラウスの示す先を見て彼の言わんとしていることに気づいた。


 壁上に並ぶ旗は、いずれも同じ生地、同じ紋様だった。いつもならそこには三種類の異なる旗が掲げられているはずなのに、エスパラム公家の赤地に黄帯も白狼隊の青地旗もまったく見受けられない。風にあおられて誇らしげになびいているのは、緑黄色赤の中央に大鷲をあしらったルオマ公家の旗印だけなのだ。


「……冗、談じゃねえぞ……そんな話……!」


 ヴァルターは静かに声を震わせた。そして、すぐにまた張り上げた声を石組みの壁にぶつけた。


「正気かお前ら!? こんな時に!?」


 壁の上からの返事はなかった。ただヴァルターの声だけが空しく辺りに木霊した。


 握り締める騎馬槍の鉄製の柄がぐにゃりと歪んだ。


「っのクソがッ!」


 ヴァルターは使い物にならなくなったそれを対岸の壁に投げつけ、天を仰いだ。壁面に深々と騎馬槍を突き刺されても、やはり状況は変わらない。壁に背を向けたヴァルターは近づいてくる足音の方へ向き直った。


「隊長殿、まだ、こんなところで何を?」


 殿を任されていたハインツは困惑した表情で頬に垂れる血を拭った。ここで時間を浪費させられている間に最後尾まで追いついてしまった。ラ・フルト侯軍はまだ態勢を整えられていないらしい。関さえ開いていればまだしもましな状態でブリアソーレに帰れたものを、考えるだけ怒りは募る。


 詮無い怒りをぐっと堪えて、ヴァルターは簡潔に答えた。


「関は開かねえ。軍監の野郎やりやがった。別口から逃げねえ限り今日が俺たちの命日になる」


 さしものハインツも言葉を失った。が、たっぷり二度ほど大きく息を吐くと、見たくもない現実へと副隊長は目を向けた。


「別口、とは?」


 二人は睨むように西方を仰ぎ見た。一度ばらけた軍勢が再び終結しつつある。改めて確認しても一万弱。向かって右側にその大半は集められているようだ。


「可能なら北へ抜けてえところだが、さすがに奴らも馬鹿じゃねえな」


 向かって右側、北方向を突破できればラ・ピュセル侯の管轄となる北都ダオステかサン・タルテュール大伯領へ落ち延びられるかも知れない。領外へと逃げてしまえばラ・フルト侯軍とてしつこく追いかけることはできないはずである。


 対して南は一見すれば手薄で、こちらの方が容易な離脱が可能に思えるが、その実は茨の道だった。ルオマ南部はラ・フルト侯家に属するバルティエ子爵の支配地。仮にそれを切り抜けたとしてもその先には“この世の果て”があるのみなのだ。


 ただこの場を脱したいだけなら南でも良いだろうが、その後の状況まで考えるなら取るべきは北の一択だ。希望があるなら、困難でもやるしかない。ヴァルターは極常識的な判断で馬首を北へ向けようとした。


 しかし、その時不意に、彼は地面のなくなる感覚に襲われた。


「隊長殿!」


 すんでのところで鐙から鉄靴を放す。片膝に土をつけて顔を上げると、砂埃を上げて横たわる自身の愛馬が見えた。


 下馬したハインツが転倒したヴィントに駆け寄る。ヴァルターもすぐ後を追って突然倒れた愛馬の傍に腰を下ろした。


「ハインツ、ヴィントは……?」


 ハインツは荒い呼吸を続けるヴィントの首筋に手を当て、つぶさにその体を調べた。割れた蹄、血と汗にまみれた鬣、関節を無視して暴れまわる前肢の一本を見ると、やがて彼は目を伏せた。


「……これは……もう、無理だ」


 消え入りそうな声で告げ、ハインツはヴァルターに懇願した。


「隊長殿、お願いします。早く楽にしてやりませんと、ヴィントが気の毒です」

「……ああ、分かった」


 ヴァルターは肯いて剣を抜いた。鋭利な刃を首筋へとあてがう刹那、ほんの一瞬だけ閉じた目蓋には、共に駆け抜けたいくつもの戦場が浮かんでは消えていく。虚ろな目で未だ幻の野を駆けようともがくヴィントの、すっかり汚れてしまった鬣を優しく撫で、彼は愛馬の最後の労を労った。


「悪かったな、無茶ばかりさせちまって。後で必ず弔いに来るから、今はこれで許してくれ、ヴィント」


 剣を握る手に力を込めると、ヴァルターは体重をかけて一息にそれを押し込んだ。ヴィントの首は自らの胴から溢れた血溜まりの中に落ち、その足は程なく空をかくのを止めた。


 ハインツは静かに六芒星を切り、ぼろ切れのようになった袖なし外套で痛ましい友の遺体を覆った。


「替え馬を、用意させます」


 ことさらに平板な声でハインツは言った。ヴァルターは服で血を拭き取りながら頭を振って答えた。


「いや、いい。俺は徒歩で行く」


 思わぬ答えにハインツは眉根を寄せた。


「いや、しかし、それではあの軍勢を突破するのは」

「無理だろうな。だから北へ抜けるのも止める。目指すは南だ。罠張ってやがる可能性も捨てきれねえが、もしそうじゃなけりゃ馬鹿正直に敵の多い方を選ぶより突破すんのはずっと楽だろう」


 ハインツは少し考えたがすぐに解答を諦めて尋ねた。


「南へ抜けて、それからどうなさるので?」


「ここらよりマシな場所を見つけて迎え撃つんだよ。仮にだが、“果て”と壁に背中を預ければ、敵は北と西の二方向に絞れる。この平原で四方を囲まれるよりはよっぽどやりやすいはずだ。そこで粘りに粘ってラ・ピュセル侯あたりが仲裁に来てくれれば上々。それが厳しけりゃ機を窺って砂漠へ逃げ込み、エイジのダチのサラサン人に泣きつくのも良し。いよいよって時には降伏するしかねえが、その選択肢は多分やつらが認めちゃくれねえだろうからなしだな」


「やはり替えの馬を用意します」ハインツは頭を振って溜め息を吐いた。「北へ抜けましょう。なりふり構わなければダオステ辺りまでなら」


「いらねえって言っただろ」副隊長の進言をきっぱりと退けてヴァルターは続けた。「ヴィントですら駄目だったんだぜ、ハインツ。人も馬も、とっくに限界を超えてんだ。乱戦の中切り抜けてダオステまで行く余力なんかとてもじゃねえけど残ってねえよ」


「それは南へ逃げたところで同じでしょう」

「同じじゃねえさ。少なくとも、走らなくていい分は楽だろ」


 ハインツはやはり極度の疲労のために回らない頭でどうにかヴァルターの案を受け入れなくても済む方法を考えた。が、彼らを追い詰めている敵方の方にはそんな暇を与える気はないらしい。すっかり態勢を立て直した様子の敵勢は、にじるようにゆっくりと彼我の間を詰めて来る。


「ほら、うだうだやってる時間が惜しいぜ。とっとと行けよ、お前が先頭だ。今度の殿は俺がやってやるから」


 ヴァルターは軽く長剣を素振りしながら急かすようにあごをしゃくった。なるほど相変わらず南が薄いのなら、そちらへ抜けるのは確かに今しかないのだ。


 ハインツは鐙に足をかけた。鞍上へ上がる際の気分がこんなに重いのは、彼の人生で初めての経験だった。





 北側に堅陣を構えるラ・フルト侯軍にとって、こちらには見向きもせず南へ逃げて行こうとする白狼一党の動きは正に意表をつく行動だった。


 思わずその背中へ追撃を掛けようと考えたマンス伯ラザールは、しかしすぐに衝動を抑えた。焦る必要はない。南などへ逃げてもやがて行き詰まることは明白ではないか。じっくり追い詰めていたぶってやればよいのだ。あまりあっさりと片をつけてしまっては、雪辱を期する将兵の士気を挫いてしまいかねないのだから。


 状況は彼に勝利を確信させていた。彼だけではない。マンス伯麾下のラ・フルト侯軍は将校から一兵卒にいたるまで誰も敗北を想像しなかった。規則正しく足並みを揃えて追いかけながら、その得物を憎き白狼の血で染める様ばかりを頭の中に思い描いていたのである。


 その陣中にあって唯一の例外は後にシャロン伯と呼ばれることになる現大鷲城主フレデリク・ドゥ・シャロンであった。


 オリヴェノスク国境関から三里ほど下った辺りでマンス伯を中心とする対白狼連合と落ち合った彼は、誰よりも手柄を焦っていた。領内での要撃は想定していたほどの戦果を上げられなかった。真っ先に討ち取られているものと思われた白狼ヴァルターは未だ存命中でしかもすぐ目の前に国境を臨める所まで逃げおおせている。これで万が一にでも白狼を捕り逃せば正騎士叙任の話は立ち消えになるかも知れない。そうでなくとも彼らエスパラム公軍はフレデリクらがラ・フルト侯家に対して働いた不忠行為の生ける証人である。


 ――逃がすわけには行かない。絶対に。


 熱意の差がフレデリクと彼の手勢五百騎を南下するラ・フルト侯軍の最前にまで押し進めさせた。


 疲弊した徒歩と壮健な馬。速さの違いによって程なく両者は互いを視認する距離まで近づいた。


「隊長殿、騎馬二百以上、距離近いです!」


 殿の後衛を任せたデヴィッドの報告で、ヴァルターは即座に足を止めて指示を出した。


「全員固まれ! “いがぐり”で迎え撃つ!」


 号令一下、百名ほどの殿隊が半分に分かれ、それぞれで密集陣形を組んだ。ヴァルターの率いる第一小隊が前、クラウスの第二がそのやや左後方に下がって穂先を北へ向ける。いずれも騎馬槍や旗竿に長剣を縛り付けただけの不恰好な得物ではあるが、五十も集まれば容易な突破は阻めるはずだ。


 対するフレデリクは遠目にその小さな針山を確認するや、すぐさま手綱を繰って馬首を右方向へ修正した。速度は襲歩のまま、足の遅そうな殿を無視して針の間合いから大きく迂回し、なおも南進する。目指す総大将自らがまさか殿を務めていようとは、彼は思いもしなかった。


 「まずいな」とヴァルターはつぶやいた。このまま本隊の後背まで突っ走られたら殿も形無しだ。


「デヴィッド、狙えるか?」


「やってはみますが」


 言いながら針の壁の後ろから彼が放った矢は敵の先頭集団の一人に命中する。が、落馬させた相手は指揮官ではなかった。ラ・フルト侯軍は一向に止まらず、ついに彼らの眼前を横切ろうとしていた。


 舌打ちしたヴァルターは針の間から飛び出して大声で彼らに呼ばわった。


「どこ行くつもりだよ間抜けども! 白狼ヴァルターはここにいるぜ! そんな大勢でやって来て、やりあう前からびびってんのか?」


 耳を疑ったフレデリクは大きく左に急旋回して馬を止めると、すぐに自身の目もまた疑うことになった。密集陣から躍り出て高々と騎馬槍を掲げる偉丈夫は、確かに彼の記憶する白狼ことヴァルター・フォン・エッセンベルクその人なのである。


「突撃しろ! 戦功第一の栄誉はあそこにあるぞ!」


 フレデリクは反射的に叫んで馬腹を蹴った。麾下の五百も併せて突撃する。


 ヴァルターは慌てて陣の中に駆け込んだ。仲間たちの恨みがましい視線を無視して騎馬槍を構える。


「何てことしてくれてんだよ、隊長殿!」

「うるせぇな! ほっとくわけにもいかねえだろ! いいから構えろ槍を!」


 まとまりはないが数だけは多い騎兵の集団が白狼隊を圧迫した。有利不利を考える者はいなかった。この百人の中のただ一人を討ち取ってしまえば最高の名声を我が物に出来るのだ。


 二度の突撃で効果を得られなかったフレデリクは、今一度間合いを取って三度目の単騎突撃を敢行した。


 目敏(めざと)くそれを見つけたデヴィッドは指揮官と思われるその騎士に標的を絞って矢を放った。


 一射目、(やじり)は相手の兜を滑った。


 二射目は相手の払った騎馬槍がいとも容易くそれを弾いた。


 ならばと狙いを変えた三射目にデヴィッドが放った矢は、手綱を握る左手の人差し指と親指が作る小さな輪の中に吸い込まれるようにして飛び込んだ。


 手綱と左掌を突き破られ、騎士は上体を大きく動揺させる。が、その勢いは止まらなかった。重量に速度を加えた馬の巨体が、一人、二人と立ちはだかる者たちを薙ぎ倒していく。


「隊長殿!」


 デヴィッドの叫びでヴァルターもその存在に気づいた。


 ずっとそれだけを見据えてきたフレデリクの騎馬槍は、ヴァルターが防御姿勢を整えるのよりほんの少しだけ速く相手に届いた。


 一人の騎士が密集する長槍の中を駆け抜け、突き飛ばされた男は派手に地面を転がった。馬から引き摺り下ろされてもなお手柄を諦めようとしなかったラ・フルト騎士たちは血と土にまみれたその男に群がり、白狼隊の長槍はそれを阻むために前進する。


「起きてください! 隊長殿!」


 ヴァルターは無数に突き出される長い柄の下で身を起こした。激痛のために上手く動かない右の肩から先を引きずりながら地面を這い、何とか左手で騎馬槍を掴むと群がる騎士たちの足元を渾身の力で払う。


 叫び声を上げて崩れ落ちる騎士たちは、続けざまに繰り出された槍の連打ですぐに叫び声すら上げられなくなった。


 片手での操作に苦戦しつつも、どうにか乗馬を反転させることに成功したフレデリクは、仲間に助け起こされる白狼の後姿を遠間から認めて確信を抱いた。あと一度か二度、突撃を仕掛けられれば崩せる。自分とてそう何度も仕掛けられる状態ではないが、白狼と言う精神的支柱が折れかけている今の奴らになら決して及ばぬと言うことはないはずだ。


 フレデリクは大きく息を吸い、乱れがちな彼の手勢に呼びかけた。


「機を合わせて一斉に突撃する! 共に殊勲を立てたい者がいるなら鬨を上げろ! 聖ブロワ、ラ・フルト、フレデリク・ドゥ・シャロン!」


 すぐに彼の周りの数騎が顔を見合わせて唱和した。すると一人、また一人と声が続き、程なく一体となった大合唱が混戦状態の戦場に響き渡る。


 聖ブロワ、ラ・フルト、フレデリク・ドゥ・シャロン!


 聖ブロワ、ラ・フルト、フレデリク・ドゥ・シャロン!


 鬨の声が高まるにつれ、フレデリクはいよいよ勝利を目前のものと見た。もう一度だ。次の合唱と同時に仕掛けよう。昂揚に酔ったフレデリクは一斉突撃の機を心の中で計った。加護を求めるのは力と勇気の守護聖人。次いで宣言するのは忠誠を誓う主家の名前。そして最後に告げるべきは、この戦いを勝利に導いた騎士の名前なのだ。


 ――さあ続け! 我と共に!


 アンゲラン・ドゥ・バルティエ!


 拍車を入れようとしていたフレデリクは、すんでのところで止まった。面頬の下に苛立つ顔を隠しながら、周囲を見回す。誰だ? 今、大事なところを間違えた馬鹿者がいるぞ。


 しかし、あにはからんや彼の手勢も彼と同様の困惑を呈していた。誰が間違えた、と犯人を捜している様子はフレデリクと全く変わるところがない。そんな中で、鬨の声はなお止まらない。


 聖ブロワ、ラ・フルト、アンゲラン・ドゥ・バルティエ!


 次第に近づいてくる声の出所に、フレデリク達もようやく気づいた。南方から砂塵を巻き上げてやって来るのは二千を超える騎兵の集団だった。


「バルティエ子爵が参られた」


 フレデリクの名を唱和していた騎士たちは喜びに顔をほころばせて鬨の声の最後の部分を変えた。


 聖ブロワ、ラ・フルト、アンゲラン・ドゥ・バルティエ!


 止めの一撃をくれてやるまでもない。この戦力差を見れば、奴らの方から命乞いをしてくるさ。そして戦功第一は最初に敵を追い詰めた俺たちのものだ。面頬を上げて騎馬槍を掲げる、その表情には締まりがない。唯一人、フレデリクだけは面頬を下ろしたまま、ばつが悪そうに数歩馬を下がらせていた。


 止まない鬨の声と甲高い指笛に歓迎されながら、やがて二千の軍勢の最前に進み出た騎士は声を張り上げた。


「静まれぇい! 双方武器を収めよ。この戦はルオマ公領南都総督アンゲラン・ドゥ・バルティエが預からせてもらう」


 一転、静寂が周辺一帯に訪れた。ヴァルターらエスパラム公軍はもちろん、フレデリクの率いる四百余の手勢もその言葉の意味を解せず押し黙り、徐々に口を出る率直な疑問がざわざわと辺りに溢れていった。


 部下たちの視線に背中を押され、フレデリクも前に進み出る。三十間余りの間を空けて、彼は二千の勢力を率いる薄い金色の具足の騎士に語りかけた。


「その言葉が何を意味するのか、お分かりですか?」

「無論だ」


 騎士は即答した。フレデリクは少し間を空けて尋ねた。


「あなたは、ラ・フルトの騎士でしょう。違うのですか?」


「いかにも私はラ・フルト侯家に仕える騎士だ。ラ・フルト侯閣下の御ために身命を捧げ、そのためにこそ剣を振ると誓っている。故に騎士として、主君が道を違えたと思った時には身を挺してそれを正さねばならない」


「道を違えるとは、どう言う意味です」


「エスパラム公軍とは停戦を結んだ由、すでに聞き及んでいる。然るにその約定を反故にし、戦う意思のなくなった相手を執拗に追い回す卿らの振る舞いは騎士道に反する卑劣な行為だ」


 薄金の騎士は対面するフレデリクを真っ直ぐに見据え、その後ろに居並ぶ彼の手勢にも聞こえるように高めた声で続けた。


「聖アルテュールの騎士道は説いている。騎士は正義と善の味方たるべし。悪と不正に屈するべからず。非道な手段で勝利を得たとして、それに何の栄誉がある? そんなものを誰に誇れると言うのだ? もしそれを命じているのがラ・フルト侯閣下なのだとしたら、騎士道に殉ずる身の上として正さぬわけにはいかん」


 フレデリクは嘆息した。このお方はこう言うお方なのだ。騎士であることに何よりも誇りを持っている。それこそが己の正道と信じ、他の生き方を認めない。ルオマへ発った時だってそうだった。弟の仇を討つと大義を掲げて馬を駆る姿に迷いや躊躇いは一切なかった。ただ高潔なのだ。時勢にそぐわぬほどに。


「ならば、致し方ありませんな」


 面頬の下で目を閉じたフレデリクは騎馬槍を振って合図を出した。一度で飲み込めなかったらしい部下たちに「引くぞ」の声で再度命じる。変わらぬ混乱の最中にある騎士たちは、それでも少しずつ馬首を返していく。


 負傷した手で乗馬の首を叩き彼らに続こうとするフレデリクの横顔に、今度はアンゲランが尋ねた。


「卿の方には、何か私に言うべきことはないのか?」


 手を止めたフレデリクは少し悩んで面頬を上げた。旧主の目を正面から受け止め、問いに答える。


「大鷲城と、それを取り巻く街や村、森や山や川も全て、小生にとって生まれ育ったかけがえのない場所です。決してないがしろには致しません。身命を賭して守り抜いてゆきます。これまで長きに渡り、お世話になりました」


 軽く頭を下げ、面頬を下ろすと、フレデリクは馬首を返した。軽快に足を運ぶ鹿毛馬は、もう振り返ることも止まることもなかった。


 去っていくラ・フルト騎士たちを半信半疑で眺めやりながら、ヴァルターはまだ恐る恐ると言った様子で薄金の騎士に歩み寄った。


「久しいな、白狼」


 親しみなどまるで感じさせない声でアンゲランは言った。


「どうも」ヴァルターは答え、次いで尋ねた。「どう言うつもりかは分からねえけど、俺たちの味方ってことで、いいんですよね?」


「慈善でしたのではない。これで借りは返したぞ」

「借り?」

「二年前、不埒な農民どもに占拠されたレノーヴァを落とすのに兵を借りただろう」


 あったかなそんなこと、とヴァルターは思ったが、口には出さなかった。頭を振って思考を切り替えると、彼は改めて礼を述べた。


「いや、とにかく助かりましたよ。俺の首を取る千載一遇の好機を、あんたのおかげで奴らは逃したらしいや」


 冗談めかしたヴァルターの言葉にアンゲランは眉一つ動かさない。義理で助けはしたものの、彼の人間性はヴァルターのような輩を好まないらしかった。


 一方、反りが合わないことには当然気づいていながら、ヴァルターは敢えて親しげに続けた。


「ところで、借りを返したついでに今度は貸しを作る気はありませんか? 必ず返しますよ。俺だってガキの頃から聖アルテュールを読んできたんだ。誠実たれ。寛大たれ。いかなる時も恩あれば報いる事忘るべからず。耳にたこができるくらい聞かされたもんだ」


 陽気に舌を回す傭兵上がりを見て、こう言うところが気に障るのだとアンゲランは思ったが、一応話だけは聞いてやることにしていた。弱者を慈しむ事もまた、彼の愛読書「騎士道教書」に説かれている訓戒の一つなのだ。


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