四十三、背に負うて
……父……天より……行う……。
抑揚のない平板な声が遠くに聞こえた。
……終わりの……永遠……復活……。
エイジは霞む視界の中に灰色の毛玉を見た。所々に赤い斑点が目立つそれは、全体を上下に微動させながら低い唸り声を止めない。それに応えるかのように、傍らに鎮座する砂色の塊も空気の抜けるような警告の音を周囲に響かせている。
失いかけていた意識を、エイジは無理やり起こした。意識すると黒釘に貫かれている手足の痛みはいや増した。ほんのわずかに動かしただけで叫び声を上げたくなるほどの激痛が全身を駆け抜ける。
しかしエイジは痛苦の治まらない四肢に力を入れ、歯を食いしばって砂上を這った。“母”とハナがまだ諦めていないのに、自分だけ楽になろうなんてずるいだろ。
砂の上をもがきながら、エイジは必死の思いで言葉を絞り出した。
「我は、友……武器……持たない、ない」
実際の距離はそれほど離れていなかった。こちらを囲むようにして立ち並ぶ黒装束との間合いは十間あまり。決して大きくはない彼の声でも、聞こえていないはずはない。
だが、相手の様子にエイジの訴えが届いているらしい反応はなかった。淡々と、粛々と、ただ続けられる祈りの言葉。彼らの心を動かせるだけの語彙力を持ち合わせていない自分が、エイジはもどかしかった。
「友……聖典、読む……我、は……!」
貧血のためか、治まらない頭痛と耳鳴りが辛い。血の混じった痰が喉に絡まり、息をするのさえ精一杯だ。それでも、エイジは口を閉じるわけにはいかなかった。自分と“母”とハナのために今できることは、もう他にないのだ。
お経のような祈りの声が止まった時、エイジは必死の訴えがついに届いたのだと思った。が、そうではなかった。黒装束の何人かが首と胴の離れた遺体を囲んで十字を切っている。それはエイジと切り結んで倒れた者の亡骸だった。長い祈りはどうやら彼を弔うためのものだったらしい。
「……ハナ、“母”……」
エイジは未だ戦意を保ったままの彼女たちに囁いた。黒い釘の突き立っていない首根っこを指先でそっとつまみ、歩み来る黒装束に飛び掛らないよう“母”の前まで這い進む。痛い思いさせてごめんな。俺のために戦ってくれてありがとう。でも、もういいんだ。
「……逃げろ……ここから」
どんな言葉で伝えたところで、その声が、訴えが、届くはずがない。なんとなればエイジは彼らの仲間を殺めている。どれだけ理屈が正しかろうと、失われた仲間の命に勝る価値はないのだ。事情も道理も全て取り払った彼らの率直な心情は、決してエイジと言う加害者を許さないはずだった。
エイジには理解できた。相手の気持ちも、絶望的な状況も。死にたくなどもちろんなかったが、傭兵として生きたこの二年を振り返ればこんな結末でも受け入れなければならないのだと彼は思った。戦場で何人も殺してきたのだから、いつか誰かに殺される日だって来る。
ただ憐れなのは人間の諍いに巻き込まれて傷つけられた一頭と一匹の獣たちだった。最早死を待つばかりの自分を庇って彼女らまで運命を共にするのではあまりに不憫である。エイジは痛む両手で命令を聞こうとしない彼女たちを必死に押しやった。
「ハナ、“母”を……早く……!」
“母”の傷は深そうだが、ハナの方は立って歩けない程ではない。ハナが咥えて逃げてしまえば、この黒装束の者たちだって物言わぬ獣を執拗に追いかけたりはしないだろう。少なくとも抵抗するよりは望みがある。
しかし、ハナも“母”も唸り声を上げるばかりで一向にそこから動こうとしなかった。エイジはいつになく調子を強めて命じた。
「違う……逃げるんだよ、二人で……!」
馬竜と犬はやはり動かなかった。どころか“母”は憤怒もあらわな形相で近づく黒装束の女に吠え声を浴びせかけた。喉奥で静かに警告音を鳴らしながら、見開いた目を相手に据えるハナは飛び掛るための間合いを計っているようだ。言葉など通じなくとも、これまで命令を間違えたことは一度だってない、どちらも賢く優秀な個体である。それなのに、今の彼女たちにはエイジの声がまるで届いていなかった。
「止せ“母”、ハナも……お願い、だから……いうことを、聞いて、くれ」
でないと、殺されてしまうぞ。咳き込むエイジには言葉が続けられなかったが、続けたところで彼女たちの態度は変わらなかっただろう。
ハナと“母”は確かに同一個体の平均と比べて頭が良い。そして頭が良いからこそ、彼女たちは理解していた。「逃げれば自分たちが助かる」ではなく、「逃げればエイジが助からない」のだと。賢いと言っても人間ほどの知能がない分動物の行動は純粋だった。損得や利害にとらわれない彼女たちの純粋な感情は、エイジを置いて逃げることを決して認めなかった。
エイジの目に熱いものが込み上げた。彼女たちの健気さに胸を打たれ、またその献身に報いることができない自分自身が歯がゆかった。
滲んだ視界を上げれば、黒装束の女が逆手に掲げた短剣は静かに十字を切っていた。額から胸元へ、左肩から右肩へと、聞き取れないほど小さな祈りの言葉を添えられて、未だ朝日の訪れない暗闇の中に十字の軌跡がぼんやりと浮かび上がる。
つかの間の輝きが消えると、女は得物を順手に持ち替え、その剣先をエイジに突きつけた。エイジは苦しげな叫びを止めない“母”を出せる限りの力で押さえつけながら、その短剣の持ち主を睨み続けた。
「我は友……聖典を、読む」
相手の瞳を真っ直ぐ見つめたまま、エイジはサラサン人の言葉で確かに伝えた。すると女はかすかに眉根を寄せ、不機嫌そうな顔で何事かをつぶやいて突きつけていた剣先を下ろした。
直後、エイジの見る世界はぐらりと揺れた。一瞬の明滅の後視界は暗転し、彼の意識はそのまま虚無の彼方へ落ちる。
気を失ったのはほんのわずかな間だった。顎下に鈍痛。口内にはざらざらとした感触。むせ返るような鉄の臭いと、そしてどこか遠く、恐らく実際にはすぐ近い場所でハナと“母”が悲鳴を上げているような音が聞こえる。
起きなきゃ、とエイジは思った。が、体はぴくりとも動いてくれない。疲労と失血が限界に達しているためでもあったが、こうして倒れたままいるほうが楽に死ねるのだと、どうやら本能が理解しているようだった。
エイジはついに抵抗を諦めた。刃を携えた女が止めを刺そうと近づいてくる気配を感じても顔を上げることすら出来なかった。
一際大きな咆哮の後で不意の浮遊感に体を引っ張り上げられた時、エイジはいよいよ自分が死んだのだと思った。噂に聞くほど神秘的な感じはない。相変わらず全身は苦痛に苛まれているし、ぼんやりとした視界の中に肉親や神の使いが迎えに来ている様子もなかった。
彼の目に映っているのはすでに見慣れた感のある砂の波模様だった。息苦しさを伴う規則的な上下動に併せて近づいては遠ざかっていく砂地には、鼻先から垂れ落ちる赤黒い血が跡を残して横切っていった。
天国でも地獄でもないなら、まだ俺は生きているのか。視線を転じたエイジはすぐ傍に見覚えのある丸い背中を見つけた。
「……ペペ?」
呼びかける声はほとんど音になっていなかった。拾い上げた兄弟分を落とすまいと、ペペは必死にエイジの体を鞍の後ろに押さえつけながら片手で器用に手綱を操っていた。
所々に黒い針の突き刺さっているその後姿は、普段なら決して感じない強い安堵感をエイジに抱かせた。緊張の糸が切れた彼の意識はそこでぷつりと落ちた。
ペペはしつこいくらいに何度も背後を振り返り、周囲に目を配った。何度確認しても景色は変わらない。曙光に黄色く染められ始めた砂漠の中に追手らしき姿はなかった。東を見ればかなり遠くになるがちらほらと人里と思しき建物や草木の緑もうかがえる。
気を張り続けていたペペの集中力はようやく緩んだ。全身に急激な疲労を感じ、うっかりして彼は鞍から転げ落ちてしまった。
イフサンとハナ、“母”が足を止め、心配そうに振り返る。特にハナは巻き込まれて落ちたエイジの身を案じてか、抗議するように小さく鳴いた。
ペペは慌てて起き上がり、砂にまみれた兄弟分の体を抱き起こした。弱弱しいが確かに呼吸はしている。
ほっと息を吐いて、ペペはエイジの体をイフサンの鞍に乗せた。呼吸はしているが、それだけだ。なるべく早く手当てをしなければ、きっとエイジは助からない。それくらいのことは彼にも分かった。
――とにかく砂漠を出て、北、そう、北だ。それから……。
ペペは精一杯頭を働かせて考えようとした。しかし妙な倦怠感に邪魔をされて、彼の頭はいつも以上に回らなかった。
――そうか、“鼻”に任せればいいんだ。来た時と同じように、皆の臭いを追ってもえば……。
周囲を見回したペペは、その時初めて彼をエイジの元まで導いてくれた先導役の姿がないことに気づいた。イフサン、ハナ、“母”にエイジと自分。今この場にいるのはそれだけだ。
まさにエイジの延髄へ振り下ろされようとしていた短剣を、すんでのところで止めたのが“鼻”だった。短剣を持つ手に“鼻”が飛び掛り、それによって生じた隙のおかげでペペはエイジを拾い上げて逃げ去ることが出来たのだ。ただ、その後は必死に逃げるばかりで、“鼻”や追手の者たちがどうなったのか、自分がいったいどこに向かっているのかさえ今の彼には分からなかった。
「どうしよう、どうしたら……」
考えに耽るペペは突然砂の壁が眼前へと迫ってくる現状を気に留めなかった。盛大に砂埃を巻き上げて、ペペの全身は前面が半ばほどまで砂中に埋もれた。
ペペはすぐに顔を上げて頭を振った。予期もせぬ出来事に混乱し、大慌てで視界一杯を埋め尽くす砂の山を掻こうともがく。が、意に反して手足は全く自由に動かなかった。
しばらく経ってペペはついに理解した。砂の壁が迫ってきたのではない。不意に弛緩した自分自身が勢いそのまま砂の大地に倒れこんでいたのだと。
イフサンに下げた鼻面で小突かれると、ペペはそれに応えるようにして何とか体を起こした。砂を握り締めながら肘を立て、曲げた膝を体の下に滑り込ませて、ただひざまずく姿勢まで立て直すだけで、身体中からは滝のような汗が流れた。
イフサンの尻尾に支えられてどうにか立ち上がる。が、鐙に足をかけることは、やはりどうやっても出来そうにない。
――どう、するんだっけ……。
朦朧とする頭でペペは考えた。東の空に太陽が輝く。ペペがそちらへ顔を向けると、イフサンは尻尾を彼の背中に回してゆっくりと歩を進め始めた。
「遠いな……遠い……」
一歩、また一歩、ペペは足を前へと運んだ。砂漠の終わりは一向に近づいてこなかった。少なくとも今の彼には、永遠にたどり着けない距離だと思えた。
「ブリアソーレ……みんなもう、帰れてる、かな……」
この距離を遠く感じれば感じるほど、聞く相手のいないペペの独り言は増えていった。そして同時に、一歩を踏み出す足は重くなった。
「ぶっ倒れたお前を運ぶのは……へへ、これで、二回目だな。……覚えてるか、エイジ? あの時は……俺が負ぶってやったんだ……イフサンは……まだ、いなかったから」
話しかけられるエイジからの反応はなかったが、ペペは誰に聞かせるともなく続けた。
「ずっと、砂漠を、走りっぱなしで……ほんというと、置いていこうかって……思ってたんだぜ。……でも、兄貴がいったんだ……そいつを落としたら、殺すって……へへ、怖くて俺、置いていけなかったよ」
ペペは足を止めて俯いた。そのまま激しく咳き込むと、喉奥からこみ上げてきた赤黒い血の塊を足元に吐き出す。
イフサンは振り返り、くず折れそうになる主の体を支えた。
「兄貴を」ペペは声を詰まらせながら続けた。「兄貴を許してやってくれよ、エイジ。……きっと、話せば、分かってくれると、思うんだ。……兄貴は、兄貴は本当は優しくて……仲間を、裏切ったりなんかしない……弟思いの、いい兄貴なんだ。……昔から、昔からそうだったろ……だから」
ペペは再び血を吐いた。エイジからの返事はなかった。
荒く息を吐いたペペは、倒れてしまう前に出せる限りの力で愛馬の尻を押した。
二歩だけ歩いてすぐに振り返ったイフサンは、ハナに促されてようやく主の元を離れた。
――分かったよ、分かったから、ペペ。
名残惜しげに歩いては止まる馬竜の背中で、半覚醒のエイジはペペに答えていた。
――起きてくれよ。イフサンが、寂しがってるじゃないか。
エイジの願いに対するペペの返事ももちろんなかった。砂漠の真ん中に取り残されたペペの大きな体は、やがてこの広大な自然を構成する一部となった。