四十二、飢えたりと雖も
一帯は静まり返っていた。中秋の夜、時折吹く南西からの風が草木を揺らす音以外は、虫の声も夜鳥の羽ばたきも一切聞こえることはない、奇妙な静けさが、その山道一帯に立ち込めていた。
生命の気配がないわけではない。実際道沿いに連なる木々の裏に、岩の陰に、息を潜めた男たちの数百からなる集団が今か今かと憎き仇敵の到来を持ちわびていた。この山に本来住んでいる生き物たちは、殺気をみなぎらせた人間たちの存在に萎縮して、どうやらこれもまた息を潜めているようだった。
ラ・フルト騎士マチュー・ドゥ・ガボ、もとい、元ラ・フルト騎士マチューもそんな男たちの中の一人である。彼は内なる昂ぶりを抑えるためにほんの二寸だけ剣を抜いた。
自ら潰した鍔元の家紋と、月明かりに照らされて映りこむみすぼらしい無精髭が彼の心を冷静にさせる。俺は剣だ。一振りの剣になるんだ。白狼を討ち果たし、皆の無念を晴らすための剣に。
彼は自分の立場を誤解しなかった。復讐。それがエスパラムの侵攻で住む場所をなくし、家族をなくし、仕えるべき主までなくした彼らオートゥリーヴ伯家の残党を戦いへと駆り立てる理由だった。
目的を果たしたとて、こんな闇討ち同然の手段では誰にも誇ることなど出来ない。仇討ち、雪辱、どんな題目を掲げたところで結局はやり遂げた先の充足感さえ得られれば良い、卑賤な戦いである。
だが、そうだとしても、マチューはこの戦いから逃げるわけにはいかなかった。名誉などなくていい。後ろめたさなど一時の感情に過ぎない。戦いに敗れ、何もかも失って、そのままおめおめと生きるくらいなら、卑劣の謗りを受けようと敵を討ち果たしてやる。
齢二十八のマチューはまだ若く才能にも恵まれていた。ラ・フルト侯に仕官を求め、真っ当な方法で手柄を立てれば、主家の再興は彼にとって十分手の届く夢のはずだった。
しかし、彼が短絡な道を選んだのもその若さ故であった。熱しやすい気性は回りくどい方法を嫌った。若者にありがちな自惚れが後先のことを考えさせなかった。自身の欲求に忠実になれば、どんな行動にも迷いはなかった。
と、俄かに色めき立つ周囲の気配に、マチューは顔を上げた。ざわざわと枝葉が揺れ、落葉が踏まれる微かな音が時を合わせるように上がる。声を出すことはもちろん些細な物音でさえみだりに立てるのは禁じられているこの状況下で、それでも反応せざるを得ない理由は一つしかない。
マチューは西側に目を凝らし、静かに鞘を払った。夜闇の中、煌々と照る橙色の点の連なりが彼の目にもはっきりと見える。木々の間に揺らめくその光点は馬蹄の音と共にやはり近づいて来るようだ。
マチューは神に感謝したい思いだった。エスパラム公軍が往路と同じく南のバルティエ子爵領を通るか、南東公領ルオマへの最短距離となる東の山道を選ぶかは分の悪い賭けであった。主力を南に配置したラ・フルト侯の予測はマチューの読みと一致していた。バルティエ子爵(正確にはその留守居役)の寝返りはまだ白狼に知られていないはずだ。順当に行けば奴らは安全と信じる南を通る。しかし万が一の取りもらしを防ぐために手を打たないわけにはいかない。
東にも兵を配置する理屈にはもちろん納得出来るが、実際自分がそちらの担当にまわされるとなると、やはりマチューは不服だった。一時は持ち場を離れて自身の判断で南へ向かおうかとも考えた。密命を受けたとは言え、公的には彼らはラ・フルト侯の臣下でもなんでもないのだ。勝手気ままな行動をしたとしても咎められるいわれはない。
しかしマチューはその衝動を懸命に堪えた。敵が南を通ることだって確実ではない。それに前向きに捉えればこれは好機とも考えられる。相手があの白狼なら、万全を期した要撃でも仕留められるとは限らない。主力の手抜かりでこちらへ逃れてきたところを直々に叩ける、その可能性は低くないはずだった。
予想していたのとは多少異なる状況ではあったが、敵がマチューの待ち構えるこの山道に姿を現したのは、正にそう考えていた矢先のことである。マチューは思わず心中で感謝を述べた。神よ、なんとありがたい。
無言で六芒星を切って西に広がる闇を凝視する。まだ距離はあるが、間違いない。速歩でやって来る騎馬の集団はマチューの眼下に横たわるこの山道を駆けている。彼我の距離は概ね見当がついた。なんとなれば敵はこの闇の中、見つけてくれといわんばかりの数の松明を掲げて長い隊列を組んでいるのだ。正確ではないが蛇行する道のおかげで大体の陣容を知るのも容易だった。最前は二、三千の騎兵が先行し、その後におおよそ同数程度の徒歩兵員が、恐らく二列縦陣で続いている。総数は、五千と言ったところか。
負け知らずの精兵が、随分数を減らしたものだな。マチューはつい上がってしまう口角を下げられなかった。さんざ苦渋を舐めさせられてきたが、それもここまでだ。長剣の柄を握る手に力がこもる。
すると、マチューのいる辺りから一里ほど手前で、松明の明かりが大きく動揺して見えた。同時に上がる喚声。どうやら西寄りに伏せていた味方の一部が血気に逸って仕掛けたものらしい。よどみなかった松明の近づいてくる速度が目に見えて遅くなった。
「ッ、馬鹿共め、早過ぎだ」
マチューは小さくした打ちした。もっと山道に引き入れてから攻撃すればより高い効果が見込めただろうに、これだから寄せ集めは!
ぎりと歯を軋らせて腰を上げる。ともあれ憤っている場合ではない。マチューは決断を迫られた。このまま留まって敵がやって来るのを待つか、持ち場を離れてすでに戦端の開かれた前線に合流するのか。
全体の数において優位に立っていても、各所に伏せている兵員はそう多くない。各個撃破であたられれば数の優位は意味をなさなくなる。少なくとも個々の質では、明らかにこちらが劣っているのだ。しかし敵の目的がこの山道の突破とルオマへの離脱にあるなら多少の犠牲には目を瞑って先を急いでくるだろう。それなら慌てて動くよりここぞと言う機を見計らって伏せて待つ方が確実に急所を突きやすいはずである。
少し悩んで、マチューはとりあえずそのまま前線へ向かうことにした。接敵するまでまだ一里の距離がある。どうするか決めるのは、敵の動向を見極めてからでも遅くはないだろう。とにかく敵を目前にしてじっと待っていることが彼には苦痛だった。
マチューは起伏の多い不安定な山の中を大急ぎで駆け抜けた。剣戟と喊声、怒号と悲鳴の織り成す戦いの旋律は近づくにつれて激しさを増す。炎を掲げた隊列は、すっかり足を止めているように見えた。
焦りから、雑木に足をとられてつまずいた。転びかけるのをすんでのところで踏みとどまり、苛立ち混じりに顔を上げると、西を睨んだマチューはその瞬間思わず目を見開いた。
西の空は赤かった。眩しさに目をすがめてしまうほど、明るい色が夜空の一角を染めている。しかし実際、目をすがめたくなるのは明るさのせいではなかった。風に流されて周囲に広がる白煙、頬を撫でる焦げ臭さを伴った熱気が、乾燥する眼球に潤いを促しているのだった。
彼我の軍勢が衝突したと思われる辺りで、風に煽られて踊り狂っているのは遠目からもはっきり分かるほど大きな炎の塊である。それはマチューの見ている間にも恐ろしい速度で勢いを強めていた。次々辺りに投じられていく松明が枯葉や古木に燃え移り、すぐに仲間を見つけて手を取り合うと、いつしか巨大で禍々しい炎の壁を形成していった。
「馬鹿な……何を、考えている……?」
半里先に炎の壁を眺めながら、マチューは思わずつぶやいた。こんな大火事が起きれば要撃どころではない。現に西側から算を乱して逃げてくる同胞の数は時を追うごとに増えている。が、そんなものは逃げるエスパラム公軍も同様のはずだ。あの燃え盛る炎の中心にいて、一体どのように窮地を脱しようと言うのだ。
マチューはその時、叫び声や足音以外の耳慣れた金属音を聞いた。武器と武器がぶつかり合おう音。この状況でもまだ、誰かが戦っているのだ。近くなればより鮮明に聞こえてくる。馬蹄の響きと鬨の声も混じって、それらの音は徐々に近づいていた。
炎のおかげで視界は良好だった。百間ほど先の山道で、マチューはとうとうその音の正体を目撃した。
戦と忠節の守護聖人に加護を求める騎馬の縦列は、背後で空を覆うように燃え盛っている茜色の壁など見えていないかのように、速歩で山道を駆けていた。軽鎧を着ている者がいる。馬体に汗が滲んでもいる。だが、誰一人として炎にその身を焼かれてはいない。速歩よりも早く駆けようとしている様子もない。
何故、この灼熱の地獄の中を平然と進んで来られる?
足を止めて仔細に観察したマチューはあと五十間に迫る距離で不自然な並びに気づいた。二列縦陣と思われたその隊列には、武装した二名の騎兵の間にやや遅れて走る三列目が存在していた。左右を走る見慣れた装いの軽騎と異なり、騎乗者は武器らしきものを携えていない。喧騒に負けまいと何事か叫びながら、一心不乱に長剣より少し短い棒のようなものを振るっている。
その表情まで認識できる距離まで近づいた時、マチューは騎乗者の役割に気づいた。その青年が松明や槍の代わりに掲げているのは杖だった。しきりに叫んでいるのは守護聖人の加護ではなくマナによる奇跡、『魔法』を行使するための呪文に他ならない。武を以て専らとする典型的な貴族であるマチューには『魔法』に関する知識はあまりないが、この状況のこの場所にいる魔法士が何の意図もない偶然の配置によるものだとは露ほども思わなかった。
瞬間、マチューは駆け出した。敵の急所と思われる存在を認めた今、双方の間合いは二十間にまで詰まっている。最早彼に考える時間はない。
マチューはちょうど張り出すように山道へかかる岩の上に立ち、身を乗り出して山道を覗き込んだ。騎馬の先頭が眼下に差し掛かるまさにその時、彼の足は岩を蹴る。
視界の端に一瞬だけ感じた気配はやはり人間だった。振り返りもせず後背へ突きを繰り出したヴァルターは、穂先に感じる人体の重みにほんの少し歯を軋らせて苛立ちと共にそれを振り払う。ヴィントは一瞬たりとも足を止めない。投げ飛ばされた男のうめき声はすぐに聞こえなくなった。
代わりに左の側背から抗議の声が上がる。
「い、今の、かなり危なく見えたけど!」
ヤンの声は震えていた。眼前を白刃が掠める最前線は彼の本来の持ち場ではない。死を予感させるほど至近に迫る敵の存在は彼に想像を絶する恐怖を体験させたらしい。
顎に滴り落ちる汗を同様に汗まみれの腕で拭いながら、ヴァルターはそんな魔法士長に眉根を寄せて答えた。
「うるせーな、無事だったんだからいいだろうが。それよりテメェ、手ぇ抜いてんじゃねえよ。さっきから暑くて仕方ねえぞ」
抗議の言葉にまさかの文句を返されて、ヤンも声を荒げる。
「全力でやってる! 尻に火がつかないだけましだろ! というか、まずいぞ、この調子だと」
「何が?」
「もう半分もない! 水が!」
ヤンは今まさに空になった皮袋を放り投げた。そして即座に新たなものを鞍から外して杖と共に掲げる。
「水のマナよ、熱を奪え!」
そのまま唱えれば、飲み口から溢れ出た水はたちまち周囲に拡散していった。熱気にあぶられた皮膚を爽やかな涼気が駆け抜ける。
が、心地よい風も感じられるのは一瞬だった。ヴァルターは舌を打った。
「派手にやり過ぎたか」
どこを通るにしろ最終目標ブリアソーレへの帰還が敵方にも知れ渡っている以上、道中に敵が伏せているのは分かっていた。問題は、最速に、且つ最低限の労力のみで如何にしてそれを切り抜けるかである。
ヴァルターは考えた。足を止めず、敵からの攻撃もあまり受けずに済ませられそうな方法、戦わずに敵中を突破する手段、戦いの起き得ない状況の作り方、自分の頭の中の全ての知恵を絞って彼は考えた。
熟慮の末、目を着けたのがこの緑豊かな山道であった。敵が伏せるのにうってつけなこの森なら、火をつけるのだってうってつけのはずだ。食料は最初の襲撃でほとんど焼かれてしまったが、幸い水には大きな被害はなかった。乾いた先から被って走れば、少なくとも何も知らずに待ち受けている敵よりはましな気分で逃げられるだろう。そしてどうせ手に入らないのだからここら一帯の山が丸焼けになろうと一向に構わない。
燃え広がる火を前にした敵の反応はヴァルターの期待した通りのものだった。しかし、西風を受けて盛んになる一方の火勢は彼の予想を少しばかり上回っていた。これで自軍に損害など出してしまっては元も子もない。ヴァルターは滴る汗を拭って告げた。
「仕方ねえ、後続には悪いが少し急ぐぞ。自分でつけた火に焼かれて死んだんじゃ笑い話にもならねえ」
若干の罪悪感が頭をもたげるも、命令を撤回する気はやはりなかった。ついてこれず落伍する者がいるだろう。この混乱で敵に討ち取られる者も、逃亡する者も決して少なくないはずだ。
しかし傭兵とはそう言った生業なのだ。神に祝福されて授かったかけがえのない命を、罰当たりにも商材にして金を稼いでいる。今日や明日に死んだとしてもおかしくはない危険と引き換えに、真っ当に働いたら数年はかかるような大金が得られる、そんな仕事なのだ。
――死ぬような目にだって遭うさ。一度や二度なんて話じゃなく、この仕事を続けてる限りずっとな。
同情はするし責任も感じるが、そのどちらも足を止める理由にはならなかった。命を惜しむなら他にいくらでも安全な生き方があるのに、あえて傭兵の道に進んだのは彼ら自身の選択なのだから。
舞い上がる火の粉が行く先を照らす。火の回りが早いのは何も悪いことばかりではない。東へ帰るのに西からの風なら追い風だ。ヴァルターはあくまで前向きに状況を捉えて、喘ぐヴィントの腹に拍車を入れた。