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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第三章「ラ・フルト」
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四十一、呪

 空位二十三年中秋の三日夜半、メオドール市街にて発生したこの戦闘は、撤退を決めてから数度行われた局地戦において白狼隊が戦果らしい戦果を上げた初めての戦いである。


 しかしながら、戦いを終えたばかりの隊内の雰囲気、分けてもヴァルターの表情は暗かった。


 バルティエ子爵の裏切り。それは今のヴァルターにとって最も知りたくない事実だった。戦っては逃げ、逃げては戦い、丸二日にわたってろくに休みもとらず必死の強行軍を続けてきたのも、全ては同盟者であるバルティエ子爵の領地へと逃げ込み、往路と同じ道筋で安全にブリアソーレへと帰る為であった。あと少しの辛抱だと、そう信じればこそ何とか耐えることができた苦労なのである。ここまで来てその労力が全く報われない、どころかこの上さらに過酷な道を進み続けなければならないのだと知らされるのは、やはり痛恨も痛恨、大打撃と感じざるを得なかった。


「生き残りはどれくらいだ?」


 皮袋の水を頭から浴びながら、ヴァルターは尋ねた。血が止まったばかりの傷口に水が沁みるが、構ってなどいられない。


 眉間に深い皺を刻んだハインツは答えた。


「四千七百、いや、援軍を足して八百といったところでしょうか」


 予想はしていても望んではいなかった数字に、ヴァルターも顔をしかめる。


「ひでぇ様だ。国境までまだ十里以上あるってのにこれかよ」


 当初の兵数は八千強だったから損害は少なくとも三千以上。その内何名が逃亡しどれだけが討ち取られたかの割合はヴァルターもハインツも把握出来ていなかった。


「半分も残っただけましでしょう。クラウス達が来なければもう半分も残っていたかどうか。幸い食い扶持が減ったおかげで、今我々は何とか食えていますよ」


 冷淡なハインツの言葉にヴァルターは苦い笑みを浮かべた。


「そいつは本当に幸いなのか?」


「少なくとも生き残った者たちにしてみれば、そうでしょうな」


 最初の襲撃で被った一番の痛手は何と言っても糧食だった。襲撃者の着けた火は街のいくつかに点在させていた兵糧庫のほとんど全てを焼き尽くしてしまっていた。本来なら可能な限りの敵を叩き、安全を確保した上で撤退したかったヴァルターは、気の進まない強行軍でも敢行せざるを得なかったのである。


 燃えてしまったものはしょうがない。足りないなら奪うだけだ。当初そのような考えで行動を開始したヴァルターは、程なく自身の描いた見積もりの甘さを後悔することになった。


 ミラルモンターニュからここメオドールに至るまで、道中にある街や村の尽くは、ヴァルター達が到着した時にはすっかり破壊しつくされていた。家屋の多くは崩れ、井戸と言う井戸は全て埋められ、当然食料も奪われたらしく、食うに困った住人(大半は逃げるだけの体力もない老人や浮浪者)たちの方が、かえって白狼隊に救いを乞う始末。元は自分たちの領地であろうに、その徹底した焦土作戦にはヴァルターも状況を忘れて感心してしまったほどである。


 腹を満たそうにも食がなく、休もうにも屋根すらなく、そんな状態でさらに昼夜を問わず敵の襲撃は止まない。はっきり言って堪ったものではなかった。いくら精鋭揃いの白狼隊でも飢えと疲労には勝てないのだ。


 この作戦の指揮を執ってるやつは相当底意地が悪いな。悔しさ交じりに心中でつぶやくと、人の近づく気配にヴァルターは顔を上げた。見れば濃紺の外套を羽織った若者が、息を切らせて誰かを探しているようだった。揃いの外套は魔法士の目印である。


「隊長殿、隊長殿はおられますか?」

「ここだ、ここ。ここにいるよ」


 ヴァルターが手を上げて呼び止めると、青年は背筋を伸ばして要件を告げた。


「隊長殿、魔法士長殿がお呼びです。すぐに来てくれと」


 困り顔で突然そんなことを言われて、もちろん良い予感など抱けるはずもない。ヴァルターは重い体を引きずるようにして若い魔法士の後をついていった。


 案内されたのは屋根のない平屋の一つだった。有無を言わさず通されたそこで、ヴァルターは思わず息を飲んだ。何があったのかと尋ねる必要はなかった。間口をくぐって室内で仰臥している相手の様子を一目見れば尋常の事態でないことは容易に察せられた。


 粗末な寝台に寝かされているのはヴォルフと思われた。ヴォルフであると、はっきり言い切れないのは、その体の一部が普段見慣れている姿とはあまりに違っているからだった。


 三十貫の隊旗を苦もなく持ち上げて見せた、女の胴よりなお太いとそのたくましさを自慢していた彼の左腕が、肘から先の辺りにかけて見る影もないほど細くなっている。それはおよそ人の腕とは思えない状態だった。色は木炭のように黒ずみ、その表面には所々に爛れのようなものが見受けられる。時折痙攣を起こして微動する様がヴァルターに死んで間もない生物の見せる反射運動を想起させた。以前の姿を知っていれば尚のこと事態の異常性は際立ったが、例えそうでなくても彼の襲われている症状の不気味さと奇怪さは一見するだけで理解出来るはずだった。


「『(のろい)』だね、これは」


 傍らに座り込んで彼を診ていたヤンは告げた。


 『呪』とは、人間を亡き者とするために生み出された性質の悪い『魔法』の一種である。一度それをかけられた者はたちまち精神と肉体の双方に不調を来たし、やがて数日と持たず死に至る。その高い致死性と呪殺された者の死体に見られる残酷性から、事態を憂慮した統一王ルイ一世によってガルデニア王国では全面的な使用が禁じられた危険な技術であった。


 ――これは著しく人道に反した外法であり、人が人に用いてはならない悪魔の業である。


 書物に残る統一王のそんな警句も、『呪』が規制されて久しい当世の人間にしてみれば現実感を伴うものではなく、『呪』と言う単語そのものにしても古いおとぎ話の類で悪い魔女が用いてくる常套手段と言う程度の認識でしかなかったが、実際に目の当たりにして初めて、ヴァルターにはその言葉の意味が理解出来た。


 この『魔法』はかけられた者の本来の姿を、形を、見る影もなく変えてしまう。筋骨隆々の戦士や絶世の美女であっても、この『魔法』に侵されればたちまち勇も美も失われた醜い異形へと成り果ててしまうのだろう。


 あるいは苦しみから、あるいは死への恐怖から、彼らは一様に救いを求めたはずだ。特定の誰かではなく、万物を超越し奇跡を実現し得るであろう神と言う存在に。


 そして彼らは同じ疑問に打ち当たる。『呪』によって醜く損なわれてしまった者たちの魂が、誇りを奪われた者たちの魂が、果たして審判の門を潜れるだろうか。清廉な者のみを受け入れると伝えられる天の国へと至れるのだろうか。


 どれだけ姿かたちが変わっても魂の形は変わらないと、聖職者たちは説くかも知れない。清らかな心を失わなければ、審判の神はきっと門戸を開いてくれるだろうと。


 しかし、このような目に遭わされてなお清らかな魂を持てる人間が一体どれだけいると言うのか。姿かたちですらこんなにも容易く変わってしまうと言うのに、魂までも変えられるわけではないなどと、どうして言い切れるだろう。よしんば死後の救済が約束されていたとしても、現世の苦しみがなくなるわけではないのだ。こんな苦しみを与えた相手や今すぐに救いをもたらしてくれない神に対して、恨みや怒りを一片たりとも抱かずに清い心で祈れる者など、果たしてこの世に存在するものだろうか。


 迷いなく肯けるほどの信心をヴァルターは持ち合わせていなかった。何より実際に『呪』によって苦しめられているヴォルフの姿には、易々と肯いてしまうのを躊躇わせるだけの悲壮感が溢れていた。


 なるほど、蓋しこれは悪魔の業だ。過去の人々に恐れられ、禁じられたはずである。人間を異形へと変えてしまうこの『魔法』は、死後に救われる未来すらも彼らから奪ってしまうのだから。


「左の前腕から指先と上腕にかけて進行している。発症から三日は経ってる、かな。こんな状態でよく今まで戦ってこれたもんだよ。剣だってまともに握れないだろうに」


 ヤンの見立てに間違いはなかった。事実、そのほとんど骨と皮だけになってしまった黒い左腕では枯れ木の枝すら持ち上げることは不可能なはずであり、加えて『呪』の引き起こす幻覚や幻聴によって蝕まれたヴォルフの精神は、すでに意識を保っていられないほどに悪化しているのだった。


 ヤンの言葉で、ヴァルターの脳裏には閃くものがあった。刺客に襲われたあの夜。見慣れない得物だと思っていたが、執拗に投擲されていたあの黒い釘こそが『呪』の込められた武器だったのだ。あの夜からずっと、ヴォルフは一人でこの『呪』の苦しみを抱えながら戦っていたのだ。


「何で言わなかった、ヴォルフ」


 ヴァルターは努めて感情を殺した声で尋ねた。それでもなお詰問する調子になってしまった言葉は混濁していたヴォルフの意識に届いたらしい。彼の守役は血色の悪い顔を何とか主に向けて答えた。


「面目ございません。小生自身、大したことはないだろうと、高をくくっておりましたゆえ。よもや『呪』など受けていようとは思いもせず、全く、不覚でございました」


 いつもとはあまりに違いすぎるその弱々しい声に、ヴァルターはぎりと歯を軋らせた。激発しそうな怒りは『呪』を仕掛けた相手へのものではない。無論その気持ちも多分にあったが、何より腹立たしさをぶつけたいのは、こんな状態になるまで大事な守役の不調に気づけなかった自分自身であった。気心の知れた守役に相談するのを躊躇わせるほど余裕のない自分自身の至らなさであった。


「治せないのか」


 ヴァルターが尋ねると、ヤンは即座に頭を振った。


「僕には、と言うより、現状では無理だ。『解呪』が行えるのなんてうちでもエティエンヌの他に何人いるかってところだろう」


 ヤンの答えに、ヴァルターは失望しなかった。尋ねる前から分かっていたのだ。治せるようなら、彼は隊長を呼びつけたりしない。


 数ある他者を攻撃する種類の『魔法』の中でも、『呪』が取り分け性質の悪さを恐れられていた理由がそれであった。この『魔法』は発明された当初行使した本人にも解くことが出来ないことでその危険性を広く知られるようになったのである。


 不治の病と同義のものが、人の意思によって引き起こせる。これが当時の貴族たちの頭をいかに悩ませたかは最早言うに及ばない。主には戦場で、時には政治権力を争う場所で、『呪』は文字通り必殺の攻撃手段として猛威を振るった。


 もちろん王国は『呪』に関して使用も研究も禁じていたからその事実が表沙汰になることはなかったが、この時期の記録に頻繁に見られる変死の実態は、その八割方がこの悪辣な『魔法』によるものだと後世の史家は推測している。


 しかしながら、誰もがその凶悪な力の前になす術もなかった時代も今は昔。『呪』が世に出てから十年あまりの後、『法術』に長けた聖六芒星教の導師マルティヌスが『解呪の法』を見出すことでその脅威は一旦沈静化された。『解呪の法』は王国の奨励によって瞬く間に世に広まり、程なく『呪』が人々の安寧を脅かす暗澹たる時代は終焉したのである。


 『呪』はこの時から絶対の脅威ではなくなった。「重いが治せないわけではない病」と同程度の存在に、その危険性は落ち着くことになった。


 しかし、治せる病と言っても肝心の『解呪の法』は『呪』と同様に高度な『法術』の一種であり、今の白狼隊の状況では手の施しようがない事実に変わりはない。


 ヴァルターも、ヴォルフも、ヤンも、誰も口を開かなかった。旗持ち騎士長は『呪』を受けた。治せる者はこの場にいない。動かしようのない現実を受け止め、どうするべきかを彼らは考えた。


 ややあって、その重い沈黙を破ったのは「確実ではないけど」と溜め息と共に前置きしたヤンだった。


「もし臓器にまで達していないようなら手がないこともない。すぐに処置すれば命だけなら失わずに済ませられる可能性は高いよ」


「どうするんだ?」

「患部を切除する」


 ヤンはまだ健康的な色合いをしているヴォルフの上腕を指でなぞって続けた。


「このあたりが適当かな。痛みと失血で死んでしまう危険はあるけど、このまま放置するより安全だ」


 一瞬だけ希望を感じたヴァルターは、ヤンの言葉に再び口をつぐむ。簡単に言ってのけるが、その意味するところは馬を駆り武器を振るうことを生業とする騎士にとっては解雇通告に等しいものだった。ましてヴォルフは旗持ちであることを何よりの名誉と誇っている。たとえ命が助かったとしても、高々と旗を掲げるための、自由自在に手綱を操るための腕を失うのでは、騎士としては死んでしまうのと同じなのだ。


 無論ヴァルターは守役に死んで欲しくなどなかった。相手の意向など無視してやれと命じてしまうのだって簡単なはずだった。それを命じられる立場に、彼はある。


 だが、その命令が武人として今ここで死ぬよりずっと過酷な人生をヴォルフに強いることになると、彼は理解していた。


 腕を失くせばもうこれまでのようには戦えなくなる。そうまでして生きることは、きっとヴォルフの本意ではないはずだ。 


 ヴァルターには確信があった。ヴォルフくらいの年齢のゲルジア騎士、名誉を命より重いものと考える彼らの多くは戦いの果てに死ぬことを恐れない。乱世の前の平穏な時代に戦士としての絶頂期を迎えていた彼らにとって、勇敢に戦った結果の死はむしろ最大の名誉とも捉えられている。


 生き恥を晒すくらいならいっそ死を賜りたい。


 ヴォルフなら躊躇わず口にしそうなそんな言葉を、ヴァルターはどうしても聞きたくはないのだった。


 果たして、苦悩するヴァルターを救ったのは守役本人の言葉だった。


「腕一本で拾える命なら安いものですな、若」


 ヴォルフは大儀そうに身を起こし、青白い顔で強いて口角を上げて見せた。


「お手数ですがお願いできますか? なに、小生なら片腕でも旗は持てます。力比べだけは誰にも負けたことがない我が自慢の膂力、よもやお忘れになったわけではございませんな」


 彼の言葉はヴァルターには意外だった。命惜しさに言っているのでは当然ない。ヴァルターに付き従った短くはない傭兵生活が、昔かたぎな彼の価値観に傭兵らしい現実主義を加えたのか、あるいは片腕でも人一倍の働きが出来ると本気で考えているのかも知れない。どちらにせよ、ヴォルフ自らが申し出たおかげでヴァルターの迷いは吹っ切れた。


「分かった」ヴァルターは鞘を払い、ヤンに命じた。「療兵を三人ばかり呼んでくれ。ガタイのいいやつがいいな。他に必要なもんがあるなら、それもすぐに用意しろ」


 肯いたヤンが外に出ると、ヴァルターは続けた。


「望みどおりにしてやるが、その代わり約束しろよヴォルフ。俺の手を煩わせるからには絶対に死ぬんじゃねえ。お前には呆けて干からびるまでうちの旗持ちをやってもらうつもりなんだからな」


「承りました。爺はもとよりそのつもりでおりましたよ」


 ヴォルフは微笑を浮かべて頭を垂れた。まだこのお方の下に仕えていられる。その喜びの前では腕を失うことなど苦にならなかった。


 程なくしてヤンが療兵たちを伴って戻ってきた。説明はすでに済んでいるのだろう。三人はてきぱきとそれぞれの配置につく。一人が足を、一人が右半身を押さえ、残る一人が背後に回って脱力した左腕を荒縄できつく縛り、上腕を持ち上げて水平に支える。ヤンの指示で肘から一寸のあたりに目印を刻めば、後はヴォルフの口に何重にも畳んだ布の束を噛ませて彼らの準備は終わった。


 確認したヤンは左の掌に集めたマナに「燃えろ」と強く念じた。ヤンの集めたマナは彼の命令に忠実に応えた。現れた拳大の燃え盛る炎に鉄製のこてを押し当てると、少し間を置いて、ヤンはヴァルターに肯いて見せる。


 ヴァルターは肯きを返して、長剣を上段に構えた。心の中で三つを数える。


 ――一、二、三!


 振り下ろした長剣の刃は療兵がつけた目印を正確になぞった。水平に保たれていた上腕の印から先が、ぼとりと音を立てて寝台に落ちる。ヴォルフの左腕の残された部分から、切り離された腕だった物から、同じ色の鮮血が迸った。


「止血する。全員、暴れないようにヴォルフを抑えてくれ」


 ヤンの指示でヴァルターを含む四人が手分けしてヴォルフの体に組み付いた。ヤンは血の滴るその切断面にすっかり赤熱した鉄ごてを押し当てた。


 瞬間、ヴォルフは強烈な激痛に身を強張らせた。暴れだしたくなる衝動を必死で抑えるが、それでもなお御しきれない本能が組み付く四人を振り払おうともがく。


 寝台の脚が折れ、壁には穴が空いた。ヤンは暴れまわるヴォルフの左腕に鉄ごてを押しつけるのを止めない。肉と血の焦げる臭いが周囲に充満する。


 やがて疲労のためか、ヴォルフの抵抗も弱くなっていった。永遠のように感じる実際には極短時間の処置によって、ヴォルフの体から流れ出る血は止まった。


「よし、もう大丈夫だろう。後は火傷の処置を頼むよ」


 『法術』での治療を療兵に指示して、ヤンはヴォルフから離れた。安堵に息を吐く間もなく、その視線が注目したのは寝台から転がり落ちた左腕の残骸だった。


 切断され、体から離れた直後は同じように鮮やかな赤い血を流していたその黒い手は、今苦しみあえぐように悶えながらその傷口から赤黒い泥に似た血を吐き出している。半ば凝固した泥のような血を全て吐き出すと、腕だったものはようやく動きを止め、やがて血色を失っただけの人間の手と同じ見た目に戻った。


 ヤンが吐き出されたその泥血を未だ熱の残るこてで突いてみると、それは蛭のような動きでのたうち回った。どうやらこれが『呪』の症状を引き起こす大本らしい。


 一瞬だけ学術的興味が頭をもたげたヤンだったが、情況を鑑みてその探究心は封印することにした。マナを集めた指先を弾くように擦り合わせる。生じた炎は瞬く間に泥のような色の血の塊へと燃え移り、それは容易く消し炭へ変わった。


 あんなに凶悪な『魔法』が、存外あっけないものだ。若干の未練から、つま先で『呪』の残骸を小突くヤン。


 と、


「ヤン」


 突然呼ばれて、ヤンは顔を上げた。いつの間にか背後に立っていたヴァルターが何事かと彼の足元を覗き込んでいる。


「いや、違うんだよ。ちゃんと処分出来たか気になって」


「何をうろたえてんだ?」怪訝な顔で聞き流したヴァルターはあごをしゃくって戸口を示した。「何でもいいけどちょっと来いよ。相談がある」


 ヤンは眉根を寄せてヴァルターを見上げた。その露骨な表情にヴァルターは苦笑した。


「そう嫌そうな顔すんなって。悪い話じゃねえから」

「良い話でもないんだろ? そんな顔してるよ」

「良い話さ。少なくともお前とお前の部下に限って言えば、この上なく」


 ヴァルターは先立って屋外へ出た。仕方なくヤンもその後を追った。


 歩きながら、ヴァルターは話し始めた。


「ヴォルフの意識が戻り次第出発しようと思ってる」


 ヤンは何も応えなかった。反論はない。ここで立ち止まっている間にも白狼隊を囲む敵は数を増やし、飢えは兵員を蝕むのだ。ヴォルフだけでなく今は隊内全体が休息を必要としている状況ではあるが、やはりあまり長く留まるわけにはいかなかった。


 ヴァルターは続けた。


「それで、逃げるにあたって、ちょっと魔法士の連中に一働きしてもらいたくてな。安心していいぜ。お前らの配置は隊列の中で一番安全な場所だ。しっかり勤めを果たしてくれたら、まず死ぬような危険はねえし、それに無事ブリアソーレまで帰れたら特別手当だって弾んでやる」


 口角を上げて振り返るヴァルターに、ヤンは溜め息を吐いた。


「そんな空手形で喜べるほど無垢な人間じゃないよ」


 うんざりとしてしまうのは無理からぬことだった。隊長殿がこういう事を言い出す時は大抵無茶をやらされるのだと、彼は経験則から理解していた。


 しかし、文句をたれながらもヤンは肯いた。


「けどやるさ、子供だましだろうがなんだろうが、僕に出来る限りのことなら何だって」


 少なくとも彼自身にはこの窮地を脱する手立てはない。そして過去の似たような状況で隊長殿の指示を忠実に守ってきたからこそ今も白狼隊は生き延びられている、その事実を教えてくれているのも、やはり経験知なのだ。


 結局のところヤンには話の続きを聞いてみる以外に選択肢はなかった。


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