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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第三章「ラ・フルト」
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三十九、一分の閃き

 投げつけた土くれが吸い込まれるように兜の細隙へ入った。堪らず(ひる)む騎士の腋下を、ライナーの素早い剣先が一瞬で貫く。


 突いて即座に払った剣は横合いからの斬撃をすんでのところで受けた。流れるような動きで手首を返したライナーは、いなすのと同時に踏み込んで剣の柄頭を相手の面頬に叩きつけた。


 ぐらり、と大きく後ろに仰け反る騎士の体を踏み台にして、ライナーは跳躍する。思わぬ動きに、周りを囲んでいた者達は誰一人反応出来ない。自身を見上げるその顔面の一つを踏みつけてさらに跳躍。ライナーはあっと言う間に樹上へ逃れた。


 木々の間に群れる無数の甲冑を見下ろして、ライナーは大きく息を吐いた。バルティエ子爵領の森の中、突如攻撃を仕掛けてきた謎の一団とこんな大立ち回りを演じ始めて、はや三刻は経っているだろうか。


 流石にもう十分かな、ライナーは溜め息と共にそう思った。どうやら後続を指揮するディルクは過たず判断してくれたらしい。これだけ時間を稼げば先に行かせたクラウス達も何とか追手を振り切れることだろう。何より、そろそろ百に届こうとする首級を数えて、さしもの彼も疲労が否めない。


 ライナーは肩口で頬に滴る汗と返り血を拭って愛用の騎士刀を払った。殿(しんがり)としての務めは果たした。後はこの先にこれより規模の大きい待ち伏せがいないことを祈りながら、眼下の敵の包囲を潜り抜けて無事脱出するのみである。


 ぐっと膝を曲げ、ライナーは再び大きく跳躍した。地上では頭上高くに逃れた怨敵のために弓兵たちが慌しく射撃の準備に入ろうとしているところだった。留まっていてはいい的になる。木から木へ、猿の様な身のこなしで、まずは弓の射程から逃れなければ。


 遮蔽物が多く月明かりもろくに届かないこの森の中では、狙いをつけるのも容易ではないはずだ。風を切る(やじり)は彼が通過点にした木の幹に突き刺さった。その間にもライナーは止まらない。彼に向けられた罵声はすぐに遠くなっていく。


 それでも、鉄の擦れ合う耳障りな音がいくつも眼下で彼を追いかけた。たった一人にいいようにかく乱されてまんまと逃げられたのでは、なるほど騎士の誇りに傷がつくと言うわけだ。一個小隊より少ない。徒歩の壮士が四十、三十、と言ったところか。もう半分くらいまで減ったら遊んでやるかな。


 脱出など不可能だと、常人ならまず間違いなく絶望するような状況下にあっても、当のライナーには危機感などまるでなかった。大将が殿なんてどうかしてるとクラウスには諌められたものだが、結果を見ればやはりこれは彼以外には勤まらない仕事だった。命の勘定を別にすれば他にもやれる奴はいたかも知れねえけど、死なずにこなせるのは精鋭揃いの白狼隊でも俺くらいのもんだ。


 不遜に自負するライナーは、慣れた動きで次の枝へと飛び移ろうとする刹那、枝を踏みつけていた足が突然空を蹴る感覚に思わず声を上げた。


「あれ?」


 視界は急激に高度を下げる。平衡(へいこう)を失った体は、跳躍しようとしていた勢いのまま、空中でぐるりと向きを変えた。葉と葉の間で遠ざかる漆黒の夜空を眺めながら、ライナーは苔むした土と低木の中に落下した。


 一瞬の失神と、それを妨げる鈍痛。激しく咳き込みながらも、ライナーは手放さなかった剣で周囲を薙いだ。


 刃は舞い散る木の葉と小枝以外の何者も切り裂かなかった。深い森が幸いしてか、追跡する騎士たちは突然樹上から姿を消した彼を見つけられてはいないようだ。少し離れたところで枝葉の中に剣や槍を突っ込んでこちらを捜索しているらしい物音が聞こえる。


 ――格好悪いどじ踏んじまったな。


 なるべく気配を殺したまま、何とか息を整える。足場にした枝が細かったのか、あるいは調子に乗って踏み外してしまっただけか、いずれにしても緊張感に欠ける失態だった。


 ひとまず、ここを離れよう。立ち上がろうと膝に手を置いた時、ライナーは異変に気づいた。


 ずきずきと、しつこい痛みが右の足首に残っている。骨に異常があるのとは違う。触れることも動かすこともしていないのに痛みは治まらない。


 痛いはずである。そこにはいつの間にか黒い釘のようなものが突き刺さっていた。


 いや、いつの間にか、ではないはずだった。恐らくは、今しがた足を踏み外した原因もこの黒釘なのだ。逃げるのに集中するあまり痛みに対して鈍感になっていたのか、ライナーは攻撃されていることにも気づかないまま枝を蹴ろうとし、その実平常ではなかった彼の身体が何てことはない跳躍を失敗させたのである。


 ライナーは一息にその黒釘を抜いて周囲の気配に意識を集中させた。彼を探しているのであろう騎士たちの物音は、見当はずれな所からあまり近づいてきていない。この釘を打ってきたのはあいつらじゃないはずだ。落ちた時の反応も薄かったし、今のまとまりのない探し方には獲物に逃げられたかも知れない奴らの焦りが窺える。そもそも狙って攻撃が当てられるような距離にあいつらはいなかった。


 ――だとしたら、一体誰が?


 自問するライナーは凝らした視界の中にその答えを見つけた。感覚を研ぎ澄ました彼の目は十間余り先で夜闇の一部が動く瞬間を見逃さなかった。


 実際に動いていたのは闇ではない。頭からつま先まで、宵闇と同じ色合いの外套に身を包んだ、それはどうやら人のようだった。


 足音も立てずに近づきながら、その人影は三日月型に湾曲した刀身を持つ短い片刃剣を携えた右手で、ゆっくりと十字を切った。


 額から胸へ下ろされ、続けて左肩から右肩へと、その手が移動する正にその時、不用意に間合いへ踏み込んだ相手を、ライナーは正眼から右半身を踏み出しての一刀で斬り上げた。


 高い金属音が響き、黒装束は半歩後退する。不意の初撃を受けられて思わず目を見開いたライナーは、しかしすぐに左半身へと体を入れ替え逃れる相手の正中に続けざまの二撃目を振り下ろした。


 再び上がる耳をつんざく様な高音。木々の間にこだまするそれに、ライナーは舌打ちした。二度も斬りつけて仕留められなかったこと、派手な音を響かせてしまったこと、双方に対する苛立ちだった。


 案の定、鉄と鉄のぶつかり合う耳障りな響きは少し離れた追手たちの耳にも届いたものらしい。荒く周囲を探し回っていた気配は、音の出所を聞き漏らすまいとしているかのごとくしんと静まり返っている。


 長引かせるのはまずい。ライナーは最小限の動きで確実に相手の息の根を止めるため、鍔を競り合ったまま大胆な攻勢に転じた。交差された短剣を圧し斬るように上から押さえ込みながら、前へ出した左膝に掛かっている力を不意に抜く。


 突然脱力した体は、何の予備動作もなく彼の全体重を受ける黒装束の両腕に担わせた。相手の緊張が、擦れ合う剣の刃を通してライナーに伝わる。圧し斬られまいと踏ん張り、瞬時に妙な気配を察知して地面を蹴る。素早い反応。やはり手練れだ。が、それでも武術の前では遅過ぎる。


 前傾したライナーの体は飛び下がろうとする相手の右側に倒れ込んだ。同時に追随していた右足が、本当に倒れてしまう前にしっかりと大地を踏んで体重を支える。


 左半身から右半身の踏み出し。それでも直前まで倒れかけていた勢いは殺せない。否、殺す必要はないのだ。ライナーはその余る勢いを利用して再度左の半身へと体を入れ替え、その動きを追いかけるようにして剣は右前方を薙いだ。


 感触はあった。剣は闇と同じ色の装いに隠れて存在もおぼろげだった相手の体のどこかには届いている。しかしその手応えは浅い。これでは到底、仕留め切れているはずがない。


 一瞬の判断でライナーは逃れる相手に向かってもう一歩を踏み込み、更なる一撃を加えようと剣を振り下ろした。


「っ……ぅ!」


 これまで滑らかな線のみを描いていたライナーの剣筋が、その時突然乱れた。原因は不可解な息苦しさだった。ライナーは図らずも泳がせてしまった剣を下ろしてその場にくずおれ、激しく咳き込んだ。


 さすった喉元に覚えのある感触がある。痛みに耐えてそれを引き抜くと、やはりそれはつい先ほど知らぬ間に足を貫いていた黒い釘と同じものだった。


「……この、野郎……!」


 血の混じった痰を吐き、ライナーは怒りに任せて高めたマナを爆発させた。強く大地を踏みしめ一息に間合いを詰めると、片手に振り上げた騎士刀で一閃、二閃。


 しかし攻撃はいずれも黒装束には掠りもしなかった。どころか後退と同時に繰り出された黒釘にやられてまた新しい傷をこさえさせられた。急所をかばった左腕に二本。すぐに引き抜いて、ライナーは腹立たしさに相手をにらみつける。


 なお腹立たしいのは、一連のやり取りが自分の位置を追手の連中に知らせてしまっているらしいことだった。気配はもうすぐそこまで近づいていた。場所の見当くらいはつけられているのか、あるいはすでに包囲を終えている可能性だって十分に考えられる。今すぐ目の前の黒装束を片付けても、この疲弊した状態で捕捉されずに追手を振り切るのは難しいはずだ。


 ライナーは深く息を吐いて頭を振った。いけねえ、いけねえ。俺としたことが、ついかっとなって雑な真似をしちまったぜ。


 痛みは彼に冷静な判断力を取り戻させ、そして同時に決断を促した。大層しんどそうだが仕方ねえ。まとめて相手になってやるか。


 音を立てるのも厭わずに痰を切ると、ライナーは不敵に微笑んで左手を鞘に添えた。


「面白ぇ曲芸じゃねえか。そんなところに仕込んでたら、そりゃとっさに避けるのは難しいわな」


 頬を指すライナーの言葉に、相手は反応を示さない。冷静さを欠いていたとは言えライナーにはその黒釘がどこから放たれるのかが見えていた。後退の刹那、短い呼気に押されたその黒釘は面を覆う布の下から吐き出されるようにして彼を襲ったのだ。


 全く器用な芸当だとライナーは思う。が、種が割れてしまえば大した脅威でもない。


「おかげさんでちょっと気づいたこともあったし、お返しに、こっちも見せてやるよ」


 言うと、ライナーは軽く剣を払い、おもむろにその先端を鞘口へ運んだ。静かに呼吸を整えながら刀身を鞘へ納め、やがて鍔と口とが触れ合うとその場にゆっくり腰を下ろす。


「習いたてのとっておきだ。腰抜かすぜ、きっと」


 ライナーは座構えを取った。尻を畳んだ左足に乗せ、軽く曲げた右の足は前へ、左手は鞘口に添え、右手は膝頭の上にゆるく握っておく。一見して、いや、大抵の者から見れば、それは全く戦いに臨もうと言う姿勢ではなかった。実際このような状況下でこれまで一度も成功したことのない居合の技を披露しようなどと言うのは無謀以外の何ものでもない。


 しかし、ライナーは信じて疑わなかった。今なら抜ける。そしてこの技なら仕損じることはない。絶対に。


 なんとなれば居合には武術の全てが込められていた。静から動へ、無から有へ、一瞬の間に転じ、生じる技術は、すでにして人知の及ぶ領域ではないのだ。隊長殿でも見切れなかった。俺でも捉えられなかった。例え神でも避けられないなら、この世にこの技を防げる人間などいるはずがないのだ。故にこそ、内藤流はその絶技を神速と称しているのだから。


 罠を警戒しているのか、黒装束はしばしの間そこに立ち尽くしていた。が、やがて一歩、二歩と足を進めだすと、迷いのない歩調で間を詰めてくる。


 五間、四間半。まだまだ。ライナーは座したまま機を計った。


 三間半、三間。あと半歩。一瞬が永遠のように長く感じられる。それでも、ライナーは微動だにしない。


 黒装束の足が二間半の間合いに踏み込む。同時にライナーの剣は鍔元を離れた。重心が前傾し腰が上がる。下に引き抜く剣は軽やかに鞘を滑り、音はおろか動きの気配すら消したまま半ばほどまで顕わになった。


 ライナーの前傾によって両者の間合いは一間半まで近づいた。歩みを止めない黒装束はまだ自身の窮地に気づいていない。


 ――取った!


 ライナーは心中で快哉を叫んだ。右半身に近い前傾姿勢。刀身が鞘から完全に離れるまであと三寸あまり。これまで幾度となく試行してきた一人稽古ではこの三寸が抜けなかった。が、今この時、ライナーの術技はその先へ進もうとしている。


 違いはほんの些細なものだ。鞘に添えられた左手を体の向きに合わせて後ろへ下げる。内藤流が教えるところの「鞘の送り」を意識した、たったそれだけの動作を加えれば、抜きかけていた剣の先は自然と鞘口を離れた。


 眼前一間。黒装束が足を止めた。ライナーが返した右手首によってすぐ目の前に突然立てられた白刃の存在にようやく気づいたのだ。


 受けるべきか退くべきか、どれほどの手練れであっても判断するのに一瞬の間を要する。そしてその一瞬などと言う時間は、神速を至上の目標とする技術にとって止まっているのと同じだった。抜きつけた一刀に左手を添えて、ライナーは黒装束の正中に太刀を下ろした。


 肉を裂き骨を断つ刃の感触。直後、黒装束は一瞬で五間も後ろに飛び退いていた。ライナーの後太刀とほとんど同時に跳躍したのだろう。あの間合いで致命傷を避け得たのだから確かに相手も常人ではない。しかし、黒装束に出来たのはそれだけだった。


 濃い血の臭いが辺りに充満していた。臭いの元はライナーの足元に転がる、短剣を持ったままの腕だった。咄嗟の後退で正中から両断される事態は何とか避けられたが、黒装束がこうむったものは重傷だった。受けそびれて断ち切られた左腕に、左の眼窩から脇腹にかけてを一直線に結ぶ刀傷。最早戦いを続けられる状態でないのは明らかだ。


 居合を見事に成功させたライナーは、興奮のためか激しくなる一方の動悸を深呼吸で落ち着け、静かな所作で納刀する段になってようやく、相手が未だ逃げも隠れもしていないことに気づいた。


「まだやろうってのか? 逃げたほうがいいんじゃねえかと俺は思うけどね。こっちとしちゃあ無理に追いかけるつもりもねえし」


 率直な忠告にも、黒装束は微動だにしない。はだけた覆面の下から褐色の肌と整った童顔が無表情にライナーを見つめている。左腕の名残と体側に走る赤い直線とからは、いつの間にか血が止まっていた。


 ライナーは軽く吐息を漏らして再び剣の鞘に左手を添えた。


 ――逃げないってんならもう一度だ。


 つい先ほどの成功体験を、忘れてしまわない内に頭の中で繰り返す。「抜く」って言う一つの動作のために、全身を働かせる必要があったんだ。右手も右足も、左手も左足も、腰も尻も背中も重心も全部が居合には必要だったんだ。どれか一つでも手を抜いたら、技は完成しない。退きながら斬る動きも、何度も体を入れ替える型も、みんな全部の動きを同時にこなすための訓練ってわけだ。なるほど、エイジ、こいつは確かに精髄だぜ。


 今一度座構えを取りながら、ライナーの心は躍っていた。むしろ昂ぶったまま一向に落ち着く気配を見せなかった。


 ――さあ来やがれ。今度こそ真っ二つだ。


 意気込むライナーはそのまま相手の動きを待つ。ところが、黒装束は五間の間合いから近づいてこない。膠着したにらみ合いが続く中、別の場所から聞こえる物音が徐々に距離を近づけて来た。


 ――まずい。このままだと。


 多数の追手が追いついて乱戦になる。そうなれば手負いと言えどあれほどの使い手だ。面倒なことにならないはずがない。


 ライナーは思わず腰を上げた。


 瞬間、破裂しそうなほどに激しく脈を打ったのは彼の心臓だった。


 何とか立ち上がりはしたが、数歩よろけてすぐにライナーは倒れこんでしまった。視界は突然水没したかのようにぼやけていった。自身の激しい鼓動のために、他のあらゆる音は遠く感じた。肺を締め付けるような熱が喉奥からこみ上げる。吐き出したのは拳大の赤黒い血の塊だった。


 何が起きているのか、ライナーには理解出来なかった。身体のどこを意識しても随意には動かなかった。立たなければいけない。立って、戦わなければいけない。それなのに、ライナーは悔しさと、そして心残りに歯を噛み締めた。


 ――ようやく、抜けたのにな。


 ぼやけた視界の中で、黒い革靴が歩みを進めてくるのが見えていた。重傷を負っている割に乱れた様子もなく、例え耳が正常でもきっと限りなく無音に近いであろうと思われる、とても静かな足取りだった。


 そう、確かに静かだ。静かなのだが、音を消すためにどれだけ気を配ろうと、その歩き方は日常の延長にある普通の歩き方でしかない。そのまま歩き続けても決して神速へと至ることはないと、ライナーにはそれが分かっていた。


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