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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第三章「ラ・フルト」
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三十八、きっと正しい決断

 先行するエンリコの手振りに気づいたディルクは、鋭い声で命じた。


「止まれ! 全隊停止!」


 徒歩の、それも大部分が酒の入った兵員の速度に合わせた行軍である。急いでいると言っても先頭と指揮者との距離は五十間もない。


 後続に停止を命じたディルクはそのまま馬を進めると、程なく同様に足を止めているエンリコ達に合流した。


 すでに下馬していたエンリコは路傍にしゃがみこみ、背を向けたまま指揮官ディルクを迎えた。彼の右側に中腰で松明を掲げる従士シモーネ、左側には隊付導師に『法術』の手ほどきを受けた療兵のダニエレが同じように座り込んで、どうやら熱心に何かを診ているらしい。


「どうした?」


 ディルクが覗き込むと、エンリコは苦い顔で彼を振り仰ぎ、下を示した。彼らが路傍で囲んでいたのは一匹の犬だった。茶と黒が混ざった毛並みに少し垂れた耳。呼吸は浅い、と言うよりほとんど虫の息と表現するのが適切である。


「ユーリィの犬だ」


 エンリコの様子が神妙な理由にはディルクもすぐに気づいた。尾のやや上辺りに二本の矢が突き立っており、出血しながらその犬はかなりの距離を駆けてきたものと思われた。何とか血だけは止めたが、もう助かりそうにない。ダニエレは頭を振って息を引き取ろうとしている犬の背中から手を離した。


「何事もねえってわけにはいかなかったらしいな」


 エンリコは立ち上がって言った。犬は彼らのさらに先を行くライナー達が連れていたものだ。その犬が一体どんな事情の為か矢を放たれ、目の前で命を落とすことになったのである。良い知らせではないことくらい想像力を働かせなくても理解出来た。


「何が起きてんのか分からねえが、どうも急いだほうが良さそうだぜ。なあ、輜重頭さんよ」


 彼は鞍上に戻り、シモーネに犬の始末を命じて進行方向となる北を睨んだ。今すぐにでも駆け出したい気持ちを抑えながら手綱を取る。しかし、彼らに前進を命じる立場の輜重頭は、未だその場に立ち尽くして従士が犬を埋める様を見つめていた。


「おい、ディルク、聞いてんのかよ? 早く行こうぜ」

「待て、エンリコ」


 制止したきり、ディルクはまた黙って腕を組み、埋葬される犬と血痕の残る間道とを交互に見やる。眉根を寄せ、時折苛立たしげに頭をかく仕草は、どうも何かを考え込んでいる様子だ。


「何だよ? 何を待つんだ? それ馬乗ってちゃ出来ねえようなことか?」

「だからちょっと、待ってくれって、急かされたら頭がまとまらねえ」


 ディルクは両手で髪をかきむしりながら、必死に思考を働かせた。何か引っかかるものがある。だが、それが何なのかはさっぱり見えてこない。


 こんな時、悩ましい問題を大胆に無視出来ないのが彼の損な性分であった。目の前にある一つ一つの事実を、ディルクは頭の中で順序立てて並べ直した。


 ユーリィの犬だ。ライナーが連れてた。それが矢を撃たれてるってことは、つまりこの先には敵がいて、ライナー達は多分交戦している、少なくとも攻撃を受けた、はずだ。連絡用の目印はつけてない。でも、何か伝えることがあったから、こいつを寄越したはずだろう。敵がいることを知らせたかったのか? つまり助けが欲しい、早く来いって、俺達後続を急かすために? ならリコの言うとおりすぐにでも追いかけなきゃならねえ。とにかくそれが命令なら、従うのが俺達の務めだ。


 自然な思考でたどり着いた結論はリコの迅速な判断と行動を支持している。そうだ。急がなければならない。こうしてあれこれ考えている間にも、ライナー達は窮地に追いやられようとしているかも知れないのだから。


 ディルクは下唇を噛んで、もどかしげなエンリコと同様に木々の生い茂る間道を見た。ライナーは足の速い馬だけ連れて二刻は先に出ている。追いつくのに、一体あと何里の距離を走れば足りるのだろう。三里、四里なら二刻と少々。五里、六里なら夜が明ける前に合流出来れば上々と言ったところだろうか。そして無事の合流が果たせたなら、その足ですぐに敵との交戦に突入するわけだ。


 おいおい、冗談だろ? 不安に駆られてディルクは振り返る。宵闇の中から途切れ途切れに聞こえるのは、工兵輜重合わせて二千弱の酔っ払いが、げえげえとえずきながら神の不在を嘆く声だった。


 数刻前には天国を見ていた者も少なくないだろうに、一転して今目の前で待ち受けているのは地獄へと至る道か。ディルクの口から溜め息に混じって笑いが漏れた。それは疲労と絶望とやるせなさから成る小さな、小さな苦笑だった。無事に合流出来たとして、この様で一体どれだけの役に立つって言うんだ。


 自嘲するディルクはその時ふっと思考に掛かる薄い靄が晴れたような感覚を覚えた。ディルクはまた静止した。しかし頭は働き続ける。


「おい、ディルク、いい加減にしろよ! 先行っちまうぞ」


 痺れを切らしたエンリコの声とディルクの頭が改めて結論を出したのは同時だった。ディルクはまさに拍車を入れようとしているエンリコの足をつかんで答えた。


「解散しよう」


「何?」エンリコは言葉の意味が分からず眉根を寄せた。「何て言ったんだ、解散?」


 ディルクはエンリコの足から手を離し、すぐに自身の馬の背に跨って答えた。


「そう、解散だ。まとまって動いてたら目立つ。いったんばらけて、各自の判断でブリアソーレに帰還するんだよ。正直分の悪い賭けだけど、一網打尽にされるよりはましだろう。もちろん、危険を冒してまで白狼隊で働くつもりがないなら、無理してブリアソーレまで来なくてもいい」


 エンリコはなおも理解出来ない様子で尋ねた。


「つまりなんだ、助けに行かねえつもりか、ライナーたちを?」

「そうなるな」


 ディルクは当然とばかりに肯いた。その事も無げな態度には陽気なルオマ人も腹を立てた。声を荒げて輜重頭の速やかに過ぎる変わり身の早さに抗議する。


「待てよ! そいつはちょっと薄情なんじゃねえのか? 大体すぐそこで戦ってる仲間を放って逃げるなんざ、そんなもん敵前逃亡で軍規違反だ。死罪だぜ、死罪」


「俺はこの決定がライナーの意思に反してるとは思ってない。考えてみろよ、リコ。こんな状態の俺達が大急ぎで走って追いついたところで大した戦力にならないことくらい、ライナーが気づいてないはずないだろ?」


 黙るエンリコにディルクは続けた。


「あの犬は、敵がいるから危険だって伝えるために寄越したんだと思う。こっちは何人かを除いてほとんどが徒歩だ。馬の足で強引に振り切れるかもしれないライナー達と違って一度捉まったら敵を追い払わない限り逃げようがない。この酔っ払いどもに不用意に突っ込まれて場を荒らされたらかえって面倒が増える。ならいっそ近づかないようにって、ライナーなら手を打つんじゃないか?」


 問われてエンリコは押し黙った。理屈は理解出来る。あながち的外れな意見とも思えない。だが、それをどうしても承服出来ないのは、この輜重頭とも長い付き合いだからである。


「そりゃあ、お前の予測だろ? どの程度正確なつもりなんだよ」

「分かるか、そんなの」


 ディルクは即座に頭を振り、しかし、すぐに言葉を継いだ。


「でも、勇んで救援に行って、結果乱戦になったとして、この内半数も生き残れるとは思えない。相手の兵力がこっちの半分くらい、ざっくり二個大隊規模程度だったとしても。この読みは正確なもんだって自信があるね」


 エンリコの向ける疑いの視線を真っ直ぐに見返すその目には、自身の出した結論を翻す気はないと言う強い意思が込められていた。


 隊長殿でも副隊長殿でもライナーでもない、優柔不断な難便ディルクの下した決定に従わざるを得ないエンリコは、なお不安な本音を心の内で吐露した。


 ――仮にその読みが正確だったとしても、ライナー達が今、たった二個小隊程度の兵力だけで、待ち伏せていたらしい敵を突破しなきゃならない事実に変わりはねえじゃねえか。


 ディルクの判断は、おそらく間違ってはいない。足手まといの援軍を、ライナーはきっと望まないはずだ。分かってはいるが、ディルクよりも若いだけ、エンリコにはまだまだ感情的な部分で物事を考えるところが大きかった。


「死ぬなよ、ライナー」


 つぶやいて、エンリコは馬首を返した。

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