三十六、恋文の行方
不規則な炎の揺らめきには、見る者の心を無にさせる不思議な力がある。人気のない夜の砂漠の真ん中にぽつりと一つだけ灯る橙色の点の傍で、膝を抱えて座り込んでいるエイジはぼんやりとそんなことを思った。
焚き火を眺めるその顔が浮かないのは、居残ってまで行ったボリスの捜索にあまり進展がなかったことが理由ではない。したためて以来ずっと大事に大事に懐で暖め、そして今となっては手元を離れた、彼が人生で初めて書いた恋文、その行方にこそ大きく関係していた。
砂漠に残ったエイジがまず初めに向かったのはサラサン人の集落だった。恋文のこととは関係なく、この辺りで人を探すなら地元の人間に聞くのが一番効率がいいだろうという、常識的な判断からの行動である。
エイジにボリスの行方を尋ねられたラフィークは即座に明確な答えを返した。
「他を探した方がいい。ボリスは少なくとも今、この砂漠にはいないはずだ」
「えっと、それって」
「確かな話か、と言いたいのだろう? 答えは肯定だよ」エイジの続けそうな疑問を察してラフィークは続けた。「砂漠に余所者が入れば俺の元に報せが来る。何も報せがないということはつまり、今君たち以外の余所者はこの界隈に存在しないということになる。もちろん砂漠は広大だ。我々の感知していないところにガルデニア王国の人間が入り込んでいるという可能性も決して皆無ではないだろう。が、現実の問題として我々の生活圏を除けば人間が容易に立ち入れるような場所は限られているし、そんなところに足を踏み入れたところで冒した危険に見合うだけの何らかの代価が得られるとは、俺は思わない。二百年の昔、我々の先祖がガルデン人の攻撃から逃れ、かろうじて命脈だけを保ちえたのは、逃げ込んだ先であるこの砂漠に、侵略するに足るだけの利益が全くないからだ」
「でも、うっかり迷い込んじゃったってことならあるかも知れないだろ?」
「ない、と断言してもいい。馬竜はそこが安全な場所かどうかも分からないほど愚かな獣ではないよ。俺が知るボリスの最後の消息は、五日ほど前砂漠を出て北に向かったことまでだ」
「……そう、か」
ラフィークの答えにエイジは小さな声で返し、眉間に刻まれた不安そうな皺を一層深くした。ラフィークはそんな彼の頼りなげな肩を優しく叩いて言った。
「そう心配するな。砂漠にいないということはむしろ良い知らせだと俺は思うよ。たった一人で出歩くなら、危険に満ちたこの砂漠より拓けた人里の方がはるかに安全だろう。大方、勝利の余韻に浸って道中を遊び歩いたりでもしている内に気づかず追い抜かれてしまったのではないか? きっとすぐに見つかるさ」
ラフィークは人を呼び、いつまでも立ったままのエイジに椅子を勧めた。
「寝所を用意させよう。今日は泊まっていくのだろう?」
「ああ、ありがとう」
問われたエイジはぎこちない笑顔で答えた。不安が完全になくなったと言うわけではなかったが、それでもラフィークの言葉は張り詰めっぱなしのエイジの気持ちを少しだけ軽くした。ラ・フルトのどこかにいるのなら、確かにまだ安全かも知れない。ラフィークの予想はエイジの抱いた希望的予測とも一致している。もしそれが真実だとしたら今頃ボリスは一足先に砂漠を出たペペたちと合流していたっておかしくないのだ。
一度明るい方向に舵を切ったエイジの思考は萎みかけていた情熱を再燃させた。懐に手を入れたエイジは指先に確かな紙の手触りを感じて目を閉じた。心臓の動きが俄かに早くなり、喉は不意に強い渇きを覚えた。
深く呼吸し、再び目を開いたエイジは、出された水を一息に飲み干して腰を下ろしたばかりの椅子から突然勢い良く立ち上がった。
「ちょ、ちょっと俺、アティファと話してくる」
自然な風を装ってラフィークに告げると、不自然に硬い動作で応接の間を後にする。いつもの倍以上の時間を費やして廊下を歩き、どうにかエイジは屋敷の奥まった場所に位置するアティファの部屋の前で立ち止まった。
扉を前にしたエイジの喉がごくりと唾を飲み下す。今一度胸に手を当てて何度も深呼吸するが、鼓動は一向に静まる気配を見せない。諦めたエイジは、力んだ拳を震わせて、ついに両開きの木戸を叩いた。
「あ、アティファ、あの、エイジだけど、入っても、い、いいかな」
上ずった声の後にはしばしの間が空いた。やがて、扉の奥から女性の声が答えた。
「好きにしろ」
エイジは木戸を押して室内に足を踏み入れた。途端、鼻腔をくすぐるのは、甘く心地の良い香の匂いと、妙な焦げ臭さだった。アティファは部屋の中央、座布団の上に両の腿をぴたりと合わせて膝立ちしていた。手の中にいくらかの紙片を握り、開くと同時に炎に変えては燃えカスを陶製の壷に放っている。焦げ臭さの理由はどうやらこれらしい。
「扉の前で、長いこと何をしていたんだ?」
出し抜けに尋ねられてエイジはびくりと身を強張らせた。部屋の前についてから戸を叩くまでの彼の不審な挙動は、その様子を遠巻きに目撃している家人の反応のせいで室内の彼女にも筒抜けだった。
「いや、そんな、何ってことは」エイジは上ずった早口で答え、追及を逃れるために逆に尋ねた。「そっちは何を?」
アティファは薄い鳶色の瞳でちらりとエイジを一瞥し、すぐにまた作業を再開した。傍らに散らばっている丸まった紙束を二、三取り上げると、びりびりと細かく引き裂いて手の中で燃やしていく。
「見ての通り掃除と片付けだよ。もう後はこれだけだから楽にしててくれ」
「あ、はい」
生返事のエイジは何気なく室内を眺めた。壁一面に設えられた棚には分厚い書物がずらりと並び、それでも収まりきらなかったものが絨毯の上や開いたままの箪笥の引き出しなどそこかしこにうず高く平積みされている。見れば寝台の上にも二、三冊の本が、開いた頁を下にして伏せられていた。
その視線に気づいたのか、アティファは形の良い眉の間に小さな縦皺を作り、書物の山を指差して言った。
「あれはあれできちんと整理されているんだぞ。あそこの山は同胞の年代記、その隣が経典の類で、あっちの山はガルデン人が書いた書物。表題や著者ごとにしっかり分類してあって」
「ああ、いや、分かるよ。疑ってるわけじゃなくて」
珍しく立腹した様子のアティファを、エイジは慌てて制した。体よくあしらわれた感のあるアティファはなお言いたげな視線でエイジを睨んだが、結局はすぐ作業に戻った。掴んだ紙を千切っては燃やし、千切っては燃やし、その動きは心なしか先ほどまでより速く見えた。
そんな様子にエイジはまた尋ねた。
「その、さっきからずっと燃やしてる紙は?」
「このごみがどうかしたのか?」
アティファは細切れにした紙片を面白くもなさそうに掌に乗せ、エイジを見やった。エイジは軽く頭を振り、まだ彼女が手をつけていない方の紙束を指差した。
「まだ、使えるように見えるけど。ほら、何か書き付けたり、ちり紙なんかにも」
そこに積まれている羊皮紙の裏面はいずれも白紙だった。紙もただではないこのご時勢に、不要だからと捨ててしまうのも勿体ない。何とも日本人らしい価値観がエイジの口から素直な疑問を出させた。
それに対して、アティファは掌上の紙くずを燃やすことで答えた。新たに取り上げた紙をびりびりと破くその顔には、先ほどよりもはっきりとした不快感が現れている。
「雑紙なら間に合っている」アティファは焼却作業を続けながら答えた。「差し支えなければ適当に丸めて屑篭へでも放っといておきたいところだが、あまり衆目に晒したくない事情があって、こうして手ずから処分しているわけだ」
「何が書いてあるの?」
エイジは足元の一枚を手に取った。そこに記された、ミミズの這ったような文字の意味は彼には理解出来ない。が、あまり多くの情報が記載されているようには見えなかった。
アティファは彼の手からそれを取り上げて即座に焼き払った。
「さあ? くだらない愛の詩や経典から引用された聖句が三、四節、そんなところだろう。軽く流し見ただけだからあまり詳しくは覚えてない」
アティファがさらりと述べた返答は、たったの一瞬でエイジの思考を停止させた。動揺を隠し切れない視線をあちこちへさ迷わせ、ぱくぱくと口だけは動くが言葉が出てこない。たっぷりと間を空けた後、裏返った声でエイジは尋ねた。
「そ、それってこ、恋文、ってやつじゃ?」
アティファは炎の熱気のためか軽く汗ばむ美貌をつんと逸らして小さな溜息を吐いた。
「十九になったくらいからだな。こういった物を送りつけてくる輩が急に増えて辟易している。十代の半ばには結婚して子供をもうけるのが通例だから、この歳になる女は皆結婚したがっているものだと、勝手に思い込んでいる馬鹿が世の中には多いらしい。相手の気持ちも考えないで何度も何度も、全く迷惑な話だよ」
エイジの心にぐさりと刺さるものがあった。彼は思わず懐に手を当てて、確認するように改めて尋ねた。
「そういうのは、やっぱり、迷惑、なんだ? 嬉しいとか、そういう気持ちは、そのー、まったくって感じで?」
その質問は室内の空気、雰囲気を突如一変させた。「やってしまった」とエイジが後悔するより早く、アティファは氷のように冷め切った目を向けて彼に答えた。
「その気もないのに連日こんなものを渡されて、迷惑じゃないなんて話があると思うのか? 私が見ず知らずの男どもに言い寄られて無邪気にはしゃげるほど、無垢で阿呆で恥知らずな考えなしの馬鹿女だと? 心外だよ、エイジ。お前にそんな風に思われていたなんて」
エイジに弁解する猶予を許さず、アティファは残りの紙束を引っ掴むとぐしゃぐしゃ丸めて両手に包んだ。紙の玉の中心から火が生じ、炎は見る間に勢いを激しくして燃え上がる。
「はっきり言って、こいつらには殺意すら抱いているくらいだ。死んだと聞けば素直に喜べる。神に感謝を述べたっていい。平素祈りもしない私の声を、その神とやらが聞き入れる筋はないだろうが、な!」
アティファはその炎の塊を壷の中に押し込んだ。天井まで届きそうな高さの火柱が断末魔の叫びのようにしばらく燃え続いた後、換気の悪い室内に大量の煙と熱気を残して恋文だったものは跡形もなく消滅した。
咳き込んだアティファは手を払って風を起こした。小さな竜巻は部屋中の煙を一所に集め、彼女が手を振ると同時に蛇のような形となって通気窓から外へ出て行った。派手に燃やして幾分気持ちも晴れたのだろう。満足した様子の彼女は広くなった視界の端で戸に手をかける友人の後姿に遅ればせながら気づいた。
「どこへ行く? 掃除なら終わったぞ」
問われたエイジは半身だけ振り返り、なんともぎこちない笑顔で答えた。
「や、ちょっと、厠へ」
軽く上げた右手で扉を押し、素早く戸外へ身を滑らせると、何事か続けているアティファの声には聞こえない振りをしてエイジは駆け出した。
もちろん彼は催したりなどしていなかった。駆ける足は厠を探しているのではなく、真っ赤な顔は尿意を我慢しているためなどでは当然ない。俺は馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。受け取った相手がどう思うかなんてこれっぽっちも考えずに、何が素直な気持ちを伝えようだ。身勝手に思いのたけを綴って一人盛り上がっていた自分が、あまつさえ少しくらいなら可能性を感じていた自分が、腹立たしいやら恥ずかしいやら。とにかく居たたまれない気持ちは、彼の体をひたすらに動かしていた。
夢中で走り続けてエイジがたどり着いたのは、天井の高い三角屋根の広い空間、その清潔な白壁に沿っていくつも竈が並ぶところを見るに、どうやら厨房のようだった。昼餉からそれほど間もなく、人はまばら。炊事人の多くは一仕事を終えて夕刻までの間各々休憩を取っているようだ。
エイジは未だ残って談笑混じりに片付けなどしている下男たちの目に付かぬようそっと厨房に足を踏み入れ、熾の熱がわずかに残る竈の前に腰を下ろすと懐中から恋文を取り出した。
しばらくの間、なんとも情念のこもった目で見つめたり、はたまた堪らず目を逸らしたりした後、おもむろに両手の指でつまんでぐっと力を入れる。あとは手首を返してしまえば、事もなく真っ二つに出来るはずだ。それを束ねて二度三度と繰り返せば、内容を判読することはきっと誰にも出来なくなるだろう。甘酸っぱい思いの羅列、愛と呼ぶにはあまりに稚拙で、ただ初々しいばかりの感情の爆発は、誰の目にも触れることなく、この世から消滅することだろう。
が、手をかけたまま尚逡巡するエイジは、結局そのままの状態で竈の奥にそれを押し込んでしまった。
この手紙を渡すことは出来ない。魚が嫌いな人間に美味しいからと寿司を勧めるような、犬が苦手な人間に可愛いからと子犬を撫でさせるような行為を、彼女に強要したくはないからだ。それでも一生懸命書いた手紙だ。彼女の手で焼かれることも、自らの手で破り捨ててしまうことも、エイジには認められなかった。挙句に選んだ妥協がこんな逃避であった。
いや、確かに逃避だが、これは仕方がない、やむを得ない撤退、戦術的撤退なのだ。エイジは煮え切らない己の行動を内心で自ら弁護した。負けることが分かってて挑む戦は、だってどう考えても不毛じゃないか。あの状況で手紙なんか渡したらそれこそ明らかな嫌がらせだぞ。むしろあそこで勢いに任せて渡さなかった自分を誉めるべきなんじゃないのか、ここは。
この選択は間違ってない、間違ってなどいないのだ。強く思う自己弁護は、いつしか内省と自己肯定に方向性を変えた。そもそも恋文などという回りくどい手段に頼ったことが間違いだったんだ。素直な気持ちなら直接口で伝えればいい。俺のちんけな文才で考えるどんな文章よりもその方がきっと相手に伝わるはずだ。口説くのなんて簡単だって、ライナーも言ってた。正攻法が一番だって、エンリコも言っていたじゃないか。好きだとたった一言伝えることに、一体なんでびびる必要があるんだ。
一転強気に自身を叱咤するエイジだったが、背筋を伸ばしていっそ堂々と厨房を後にする彼は、この時重要な事実をすっかり忘れていた。そもそもの話をするなら直接伝える勇気がないからそんな回りくどく古典的な手法に頼ったのである、と言う事実を。