三十五、忠犬たち
ライナーが六芒星の聖堂で一人剣を振り始めて、かれこれ六刻は経とうとしていた。街に着いて早々、彼は本来彼がやるべきだった仕事を全てエンリコやクラウス等に丸投げして、一心不乱に剣を振っていた。座構えから、一歩を踏み出すと同時に抜刀しては、また鞘に戻して座構えを取る。ただこの動作ばかりを六刻も。
深く二度呼吸して、ライナーはまた剣を抜いた。右の膝を立て、やや前傾気味に抜きつけた一刀は空気を切り裂いて数間も離れた燭台の炎を躍らせる。マナの力に導かれた四肢が可能とする刹那の一閃。凡そ常人の目に留まる速さではない、一見すればそれは見事な抜刀だった。が、抜いた本人は全く満足しなかった。
「速くじゃなくて上手く」
ライナーは言い聞かせるようにつぶやいた。それが習い始めのころに教えられた内藤流の基礎となる考え方だった。今の抜刀は確かに早かったかも知れない。しかしそれは力任せに抜いた技術のない動きだった。力んだ動きはどれだけ速かろうと相手に気取られる。握る手に、踏み込む足に、肩にも腰にも呼吸にも、動きの気配、動作の起こりが現れる。そうして振る剣は決して神速にはたどり着けない、到底剣の技術とは呼べないものなのだ。そもそもそんなやり方では抜き身の剣を振り上げて眼前に立つ相手に対抗出来るはずがない。
とにかく動きを消して、上手く剣を抜くんだ。ライナーは今一度構え、今度は一つ一つの動きを意識して剣を抜いた。臍の下に意識した重心を上げれば、尻が上がり、同時に上体は前へ。それを支えるための右足が優しく地面に触れると前傾する勢いに合わせて柄を取る右手が静かに刃を滑らせる。
滑らかだった動作はそこで不意に硬さを見せた。上体が下がり過ぎたのか、動きを消そうとするあまり膝を柔らかく保ち過ぎたためか、抜こうとしていた剣の柄頭が聖堂の床にぶつかってこつんと無様な音を立ててしまったのだ。
ライナーは抜きかけていた剣をまた納めて溜め息を吐いた。どうしてもエイジのように上手く抜けない。珍しく眉間に縦皺を刻んで、どかりと大理石の床に座り込む。何が悪かったんだ? どこを間違えてる? あんなにあっさり、エイジは抜いて見せたのに。
手がかりの見えない難問に眉根を寄せながらも、考えるライナーの口元は笑みを浮かべていた。柔術、剣術、手裏剣に槍、弓、小太刀に棒術まで、エイジに教えられた全ての武術をいずれもつまづくことなく習得してきたライナーにとって、居合は初めての壁だった。座った状態からただ剣を抜くだけの事が、こんなに難しいなんて。試せば試すだけ、抜けば抜くほどに大きく見えてくるその壁は、ライナーの意欲を俄然高まらせた。
気持ちを改めて、ライナーはまた何度目かも分からない座構えを取った。目を閉じれば目蓋の裏に浮かんでくるのは手本とするべきエイジの姿だ。至近距離で直に対峙したその記憶から、どうにかして自身の問題を解決する糸口を見つけ出したい。
始めと終わりは見えている。差異があるとすれば過程以外にはないはずだ。だとしたら何だろう。動きの順序か。身を浮かせてから柄に手をかけるのではなく、柄に手をかけてから身を浮かせる、か。いやいや、そんな小手先の工夫で動きが変わるわけ……。
と、その時不意に響いた物音が集中するライナーの意識を妨げた。重い樫材の扉が苦しそうに悲鳴を上げると、覚えのある声が彼を呼んだ。
「ライナー? ここにいるのか? おーい」
ライナーは舌を打って立ち上がった。不機嫌そうに頭をかいて返事をする。
「いるけど、どうした?」
「探したぜ、まったく」街路の灯火を背にして聖堂の入り口に立ったクラウスは、酒臭い息を吐いて苦笑した。「ちょっと来てくれよ。どうにも要領をえねえ話があって」
宴もたけなわな夜更け、人を払った旅籠の食堂で、ライナーは眠たくなるようなその話を聞かされた。クラウスにエンリコ、ディルクにユーリィと、付き合わされた四つの赤ら顔は一様に不満げである。気分良く飲み食い遊んでいたところを否応もなく呼び出されたのだから無理もない。ただ一つ青白い憂鬱顔のクルピンスキィにしても、寝入りばなを叩き起こされて面白くないのは同じだった。
ぺぺの話が終わると、ライナーは食台に頬杖をついたまま眠そうな目で彼を見た。
「つまりお前の兄貴分がいうにはだ、すでに隊長殿たちはおっ死んでて白狼隊の残党である俺たちもラ・フルトのやつらに狙われてると、そういう事か?」
ペペはばつの悪そうな顔で肯いた。
「どう思うよ?」
クラウスが尋ねると、ライナーは即座に答えた。
「つまんねえ冗談だな」
「冗談なんかじゃ!」ペペは反射的に答えた。が、すぐにその声は小さくしぼんでいった。「ねえよ、たぶん」
彼自身、認めたくないことだった。身内の寝返りを恥じる気持ちもあった。しかし、ペペは兄貴分の話が嘘やでまかせの類であるとは一切思っていなかった。どの程度まで真実なのかはわからないが、少なくともボリスの裏切りだけは否定出来ない事実だと確信していた。
「分かった、分かった」ライナーはがりがりと頭をかいて溜め息を吐いた。「よし、じゃあ仕方ねえから宴会はお開きってことで、今すぐにでも出発するか」
抗議の声が上がるのには、ライナーが答えてから一拍の間があった。
「はぁ? お前、正気かよ」とクラウスは充血した目を見開いた。
「それこそ冗談じゃねえ。俺なんかついさっき飲み始めたばっかりなのに」とエンリコは眉根を寄せてのしかめ面。
「ライナー、そりゃ横暴だと俺も思う」腕を組むディルクは珍しく即座に続けた。「皆すっかりべろべろでまともに歩けるやつだってろくにいねえだろうし、大体急にそんなこと言い出したら士気に関わるぞ。離反者だって出るかも知れない」
一方のライナーはこの場の誰よりも冷静な頭を振って答えた。
「んなこたあ分かってるよ。俺だって隊長殿のことに関しては信じてるわけじゃねえって。ただ、実際敵方と通じてるやつが隊内のそこら中にいたってことは多分間違ってねえと思うし、そいつらが今みたいに油断してる俺たちの状況を見て動き始めてるかも知れねえってのは無視出来る話じゃねえだろ。いうじゃねか、ほら、勝ち戦こそ面頬上げるなって」
「『勝利の後にこそ兜を脱ぐべからず』だろ。聖アルテュールの金言、好きなくせにうろ覚えだよな、お前」
クラウスの指摘を無視してライナーは続けた。
「それに、もしぺぺが聞いた話が本当で、今まさに隊長殿たちがまずい状況に陥ってるんだとしたら、きっと俺らの助けが必要になるはずだぜ。嘘だったらそん時は笑い話にしておしまいってね。とにかくぐだぐだいってないで出発だ出発。お祭り騒ぎはその後でだって出来るんだからよお」
返事を待たずに立ち上がったライナーは不満のぬぐえない様子の一行を見渡して尋ねた。
「ところで、おい、エティはどうした? 呼んだはずだろ」
ライナーの疑問に答えたのは戸外からの悲鳴と笑い声と犬の吠え声だった。高い声で悪罵しながら、戸口を開けて現れたのは丸めた黒い僧服で股間を隠した裸の坊主と、彼の僧服を咥えてまるで罪人を引っ立てるように戸口をくぐらせようとする二匹の犬である。
その様子を目にした途端、白犬隊の面々は酒の酔いも相まって盛大に噴出した。
「何だよ、エティ、その様は」
「何で素っ裸なんだ、お前」
よじれる腹を抱えて転げまわる一同の中、一人冷静なライナーは何事もないように片手を挙げて隊付導師を歓迎した。
「おう、遅かったなエティ。遅刻だぜ」
「っじゃねぇだろッ!」
エティエンヌは激昂した。裸足の踵で床板を踏みつけて、怒りや羞恥や酔いやで真っ赤に茹で上がった顔を、この集団の責任者にして彼を呼びつけたであろう張本人に向けた。
「何なんだよ、急に!? 俺に何の恨みがあるってんだ!?」
「その様子じゃ、ひょっとしてお楽しみの途中だったのか? そりゃ悪かったな」仕事を終えて駆け寄ってきた犬たちの頭を撫でながら、ライナーはちっとも悪びれずに続けた。「悪かったついでに頼みてえことがある。街を出るから支度をするよう皆に伝えな。今すぐに、急ぎで」
「あぁ!?」
怒鳴り返したエティエンヌの耳は、少しの間を置いてライナーの言葉を彼に届けた。もちろん理解の方は全く追いついていなかった。
「いや、何を言ってんだお前はいったい」
「言葉通りの意味だよ」ライナーは呆気に取られて服を着ることも忘れている坊主の肩を軽く叩いて、室内の全員に告げた。
「宴会は即時中止でちょっと延期だ。準備が終わり次第街を出る。とりあえず三手に分かれるぜ。足の速い馬持ちは俺と一緒に先行。のろまは後から可能な限り急いでそのけつを追っかけて来い。エティ、あんたは女どもと一緒に別の道通ってルオマに帰ってくれ」
「何で隊を分けるんだ?」
クラウスが尋ねるとライナーは即座に答えた。
「固まって行ったら時間掛かるし、いざって時足手まといになるからだよ。戦えるやつは俺と先行するんだ。後に残るのは輜重と工兵。襲われたらひとたまりもねえだろ」
「その理屈ならなおのこと女たちを別で行かせる必要はねえんじゃねえか? 輜重と工兵だけでも二千はいるんだぜ。坊主と女だけの旅よりよっぽど安全だろ」
「いや、駄目だね」ライナーは頭を振った。「何事もなければもちろん安全だろうけど、俺たちは今何かあるかも知れねえってことで動いてんだ。大所帯で移動してたら目立つ。敵に目をつけられたら女たちを守る余裕なんかなくなる。ただの娼婦なら別にどうなろうと構わねえが、万が一にでも捕まってもらっちゃ困るんだよ。なんたって俺たちが連れてんのは隊長殿の、『エッセンベルクの白狼』の女なんだからな。こいつが敵の手に渡ったら事だぜ」
クラウスは口を閉じた。皆で行って何かあるかも知れない可能性と、分かれた場合に何か起こるかも知れない可能性、どちらを想定する方がより現実的なのか、酒に侵された彼の頭では容易に判断出来なかった。
「で、行くってどこに?」
杯を干しながら尋ねたのはエンリコだった。食台に空の杯を放ると澱んだ目でライナーを見やる。最早彼を翻意させることは諦めた様子だ。
「そうだな」
ライナーはユーリィに周辺の地図を持ってこさせ、それを食台の上に広げた。アルボンヌでの戦の前より拡張された地図には左上端にルシヨン、下端に現在地のアンマリテルとサラサン人の砂漠が描かれ、東側は多少省略されながらもルオマとの国境までが載っている。ライナーはアンマリテルに置いた指を右上に滑らせながら言った。
「予定なら、落ち合うのはこの辺りだったか。まっすぐ行こうと思ったら山が邪魔だな。といって予定通り北に進んでから東に折れるんじゃ遠回りだ」つぶやくライナーはその指を現在地より北東の辺りで止めた。「なんだ、少し行ったらバルティエ子爵領があるじゃねえか。こいつは都合がいいぜ。あそこなら襲われる心配はねえし多少強引に突っ切っても後で謝りゃ許してもらえんだろ」
ライナーは拍手を打って皆に告げた。
「よし、決めた。まず北東に進んで、バルティエ子爵領に入ったらまっすぐ北だ。何か意見があるやつは?」
問いかけに答える声は上がらなかった。気持ちとしてはもちろん反対以外の意見は無いことだろうが。
「さあ、そうと決まったら急げ急げ。文句たれやがるやつは一発ぶん殴って分隊指揮官殿のお達しだって教えてやんな」
ライナーは満足げに肯いて未だ腰の重そうな連中を急き立てる。と、その服の裾を控えめに引く者があった。
「ライナー、俺は」ペペはその大きな体に似合わない小さな声で言った。「俺はエイジのところに行くよ。心配だし、それに道が変わったことも伝えなきゃいけねえから」
「そうか」
ペペの兄貴分ならエイジにとっても同様に親しい間柄のはずだ。その裏切りを、ペペはエイジにも伝えなければならない。ライナーはペペの肩を叩いて肯いた。
「じゃあ、それは任せるぜ。合流場所はヴィルラン。バルティエ子爵領を北へ抜けた辺りだから、間違えんなよ」
「お、おう」
自信なさげに答えて「ヴィルラン、バルティエ子爵領の北」を繰り返すぺぺに、お気楽気質のライナーも苦笑を禁じえなかった。
「大丈夫なのかよ、本当に」
その様子を見かねてユーリィが助け舟を出した。
「ペペ、“鼻”を連れて行けよ」ユーリィは茶色い垂れ耳の犬の首根っこをほぐしながら続けた。「こいつならエイジに付けた“母”の臭いを追えるし、臭いを追って俺たちを追いかけてくることも出来る。お前らの乗ってるでかいトカゲとの仲も悪くねえし、適任だ」
「あ、ありがとう。助かるよ」
ペペが答えて旅籠を出て行くと、ユーリィに尻の辺りを叩かれた“鼻”もすぐにその後を追った。うんうんと肯いてその後姿を見送ると、ライナーはまだ気だるげに屯している(エティエンヌに至っては何故かまだ服を着ていない)白犬隊の面々に命じた。
「おら、お前らも急げよ。夜明け前にはバルティエ子爵領に入るんだぜ。早く早く」
深い溜め息とまばらな承諾の声が、彼の命令に答えた。
半刻後には、それらと全く同じ嘆息が街の至る所から聞かれることになった。