三十二、作意ある偶然にして不幸な災難
ヴァルターとヴォルフが予期もせぬ襲撃を受けていたまさにその頃、白狼隊副隊長ハインツはいつもより幾分遅れながら彼の日課を済ませている最中だった。場所は彼が寝泊りする旅籠の近くに設けさせた厩。日課とはハインツ個人が所有し、必要な時に隊内のいずこかへ貸し出している彼の愛馬達十数頭への挨拶だった。
「おやすみ、ワイス。今日もありがとう、シュテルン」
彼が馬に語りかける時の態度は、仲間たちが普段彼に対して抱く人柄とは正反対だった。その様は慈父のようであり、また将来を約束し合った恋人と戯れるようでもあった。
馬たちは家族であり友人であり所有者でもあるハインツの挨拶に、各々の方法で応えた。『法術』の使えないハインツに馬の思考を正確に読み取る術はない。しかし言葉など通じなくとも、彼と彼の愛馬達とは確かに心を通わせ合っていた。ハインツは一日の終わり、このささやかな時間を何よりも大切に思っていたのだった。
故に、もう休んでいる者のことを一切考えない深夜にまで及ぶ馬鹿騒ぎが、どうにも耳障りで仕方なかった。酒が入っていれば寛大な心で無視してやれたかも知れない。だが突然言い渡された残務に追われ一滴も飲めていない彼にはそれが出来なかった。ふつふつと募る怒りは風に乗って聞こえてくる「火事だ!」の一言で限界に達した。
「馬鹿どもめ! 何をやって――」
そのまま怒鳴り込んで行きそうになるハインツの足を止めさせたのは、愛馬のいななきだった。落ち着かない様子でしきりに前脚をかきながら、珍しく高い声を上げるのは一際気位の高い牝馬フィーネである。
やはり彼女らもうるさがっているのだ、と安易に考える素人ではない。ハインツはすぐさまフィーネの元へ駆け、そしてその存在に気づいた。
闇の中、同化するような黒い装束が一つ、二つ、三つ。短いながら鋭利な漆黒の剣を抜いて、今にもそれを振るわんと馬房に迫っている。
「何者だ」
言いざまハインツは抜剣した。答えはない。代わりにフィーネのいななきがさらに高い音を立てて響いた。
周囲の喧騒が一層激しさを増す。剣戟を想起させる高い金属音があちこちから聞こえ始める。夜空に舞い上がる火の粉は黒い装束をより鮮明に照らし出した。
剣を抜いたまま歩を進めるハインツは理解した。全てとは言わずとも、一部確信の持てる事実がある。目の前の黒装束は斬り捨てていい存在のはずだ。
踏み込みからの掬い上げるような一閃は、黒装束には当たらなかった。続く斬り下ろしを見舞う間に、三つの黒い影は三方へ散った。
正面、左方、背後からハインツを囲み、連携して死角を狙おうと言う算段だろう。長剣の間合いから半歩下がって、構える両手の短剣はハインツの首元を切り裂く機を計っている。
そんな彼らにとって続くハインツの動き、分けてもその速さは想定外の出来事だった。ハインツは短く素早い足取りで半歩の間合いを躊躇なく踏み越えると、至近に迫った影の一つに向けて渾身の刺突を繰り出した。
咄嗟に受けようと交差させた短剣の刃は容易く砕け、剣先は黒装束の鳩尾の辺りへ深々と突き刺さる。
ハインツの動きはなお止まらない。聖ジョルジュ兄弟団の教則通りなら柄を捻って撫で斬るところ、ハインツはあえて相手を串刺しにしたまま踏み込んだ足を軸に体を反転させた。
直後、鈍く微かな振動が長剣を通してハインツの手に伝わる。喉奥から逆流する血を吐いて苦痛にあえぐ半死の肉体が盾となって、背後より投擲されていた黒釘からハインツを守ったのだった。
ハインツは正面に回った敵に向かって痙攣する肉の盾を蹴り飛ばすと、間を置かず左の“雄牛”に構えた。そこから繰り出される最高速の突きで、二つ目の影を狙う。
瞬時に間合いを詰め、同時の刺突。だが、彼の剣は虚しく空を突くだけに終わった。
二つの黒い装束は彼が詰めたのより遥かに遠い間合いまで退いていた。意表を突かれたハインツが剣を払って投擲された釘を弾くと、その間にもさらに遠く、短剣など到底届きそうもない距離まで後退する。その動きはすでに撤退へと移行していた。
「待て!」
ハインツが怒鳴るのと二つの影が完全に闇へ同化するのとは同時だった。『魔法』か何かの技術だろうか。目の前にいたはずの黒装束は一瞬にして気配を消してしまった。
衝動的に追いかけようとしたハインツを止めたのはまたも彼の愛馬だった。戦闘の最中にあってもあまり高ぶることのないフィーネが、ハインツを気遣うように低く、小さな声で鳴いている。
「すまない。そんな場合ではなかったな」
ハインツは剣を納め、フィーネの首筋を撫でた。喧騒は止まず、どころか焦げ臭い煙を伴っていよいよ厩の側にまで近づいている。不審者を追おうとする彼を止めたフィーネの判断は確かに正しいはずだ。
ハインツは彼の家族を馬房から出すと、急いで馬具を準備してフィーネに騎乗した。背後に彼女以外の馬達も引き連れながら、目抜き通りを疾駆する。
火元は旅籠からそう遠くない場所にあった。木造の家屋と隣接した小屋から激しい炎が吹き上がっている。火勢に止まる様子はなく、炎は今にもその周囲の家並をも飲み込もうとしているところだった。
しかし、そんな状況にありながら、火元に面した通りでは数人の男達が各々得物を携えて激しい剣戟を演じていた。
先ほど交戦した黒装束の三人組、その一味が相手と誤解していたハインツは、途端こめかみに青筋を立てて怒号を放った。
「何をしている馬鹿どもが! とっとと火を消さんか、火を!」
剣を交える男達の内数人がハインツの存在を認めた。が、その相手をするもう一方は副隊長の命令など意に介した様子もなく長剣を振り続けた。ハインツは剣を抜き、強制的にその諍いを仲裁しようと馬腹を締めた。
「その馬鹿騒ぎを今すぐ止めろと言っている! 命令の分からん愚か者は首を刎ねるぞ!」
「副隊長殿、違うんです!」
答えたのはハインツの到着に反応を示した内の一人だった。彼はなお激しい鍔迫り合いを続けながら叫ぶように続けた。
「こいつら、うちの者じゃありません!」
「何!?」
その発言が事実であることを肯定するように、数本の剣があろうことか副隊長の乗る馬に向けられた。フィーネは咄嗟に前脚を上げてそれをかわし、不届き者の脳天に蹄を叩き落す。それでも避け切れそうにない剣はハインツが切り払うことで何とか凌いだ。が、ハインツの頭はまだ正しく状況を判断出来ないほど混乱していた。
「どう言うことだ!? 何者なんだこいつらは!?」
「分かりませんよ! 火事だと思ったらいきなり湧いてきて、問答無用で斬りかかってきやがった! 火をつけたのもきっとこいつらが」
必死の訴えは途中で途切れた。鍔迫り合いの最中、別の相手に無防備な横腹へ突きを入れられ、彼はそのまま崩れ落ちる。
瞬間、湧き上がる怒りがハインツの頭から余計なものを取り払った。怒りに燃える副隊長は即座に手綱を操り、仲間の命を奪った二人の敵を馬上からの二太刀で斬り伏せる。それだけに止まらず、敵味方入り乱れて未だまとまりのない戦列を、ハインツは叱咤した。
「鬨を上げろ! 聖ジョルジュ! エスパラム!」
「せ、聖ジョルジュ、エスパラム。聖ジョルジュ、エスパラム!」
副隊長の存在に勢いを得た白狼隊士たちは先ほどまでの苦戦と混乱が嘘のような連帯で反撃に転じた。冷静に対処してみれば造作もない相手だった。声を合わせて聖人の加護を求める彼らは、急には同調出来ていない者達を敵と判断して次々に斬り捨てていく。酒のために狂う太刀筋は数で補った。複数名で単独の敵を討ち取る慣れたやり方によって、程なく敵は鏖殺された。
ハインツは最早刃を向ける者がいなくなった一帯を見やって眼下の隊士達に命じた。
「状況を報告しろ。誰か指揮を執っている者はいないのか」
隊士達は互いに視線を交わし合い、もごもごと口ごもる。副隊長の怒声が飛ぶ前に代表して一人が答えた。
「すいません。俺達も何がなんだかよく分からないまま、とにかく襲われたからやり返してた次第でして」
その答えにハインツは舌を打った。転がる死体を数えてみれば敵は十人に満たない少人数だった。この程度を片付けるのにも手間取るほど混乱は深刻なのか。一滴も飲んでいないのに頭痛がする。
と、
「ハインツ、ハインツか?」
聞き覚えのある声にハインツは顔を上げた。しなやかな月毛馬の背に跨って、通りを駆けて来るのはやはり彼らの隊長殿だ。
「ご無事でしたか、隊長殿」
「馬鹿野郎、こっちの台詞だそいつは」ヴァルターは荒く呼吸する愛馬の首を撫でて答えた。「部屋にいねえから攫われでもしたのかと思ったじゃねえか」
ヴァルターは安堵したように大きく息を吐くと真剣な表情でハインツに尋ねた。
「状況は? 何がどうなってんのかさっぱり分からねえ」
「それが、私も異変に気づいたばかりで把握出来ておりません。何者かの襲撃を受けているようですが」
「ッ、やっぱりか」
舌を打ってつぶやくヴァルターに、ハインツは尋ねた。
「やっぱりとは?」
「寝込みを襲われかけたんだよ、妙な連中に」
「妙な連中?」
「黒ずくめの三人組だ。ヴォルフがいなきゃ、危うく殺されるところだったぜ」
ハインツは眉間の皺を一層深くした。ヴァルターの証言する風貌と人数構成は彼の記憶にとっても新しいものだった。
「私も先ほど遭遇しましたが、隊長殿が狙いだたっとは」ハインツは冷や汗と軽い目眩を感じながら頭を振った。「しかし、同じ一味なのか別の勢力なのか定かではありませんが、襲撃を仕掛けているのはそれらとは特徴の異なる者達のようです」
「何?」
ハインツに示されて、ヴァルターは眼下を見た。通りに転がるいくつかの死体は先ほどまでハインツが交戦していた者達である。
ヴァルターはヴィントの背中から降りて、より詳細に検分した。しかし服装はもとより年格好も背格好も、顔立ちまで確認したところでこれと言える特徴は見当たらない、それはなんともまとまりのない死体の群れだった。
「覚えのある顔はありますか?」
「いいや、残念ながら初対面だと思うね」
答えながら、ヴァルターは彼らの得物を手に取った。やはり普通の長剣。どこででも手に入りそうな、どこの軍でも用いられていそうな、いずれも平凡な剣だ。
と、妙な違和感にヴァルターは目をすがめた。未だ燃え盛る炎の明かりを頼りに、鍔元のあたりを改めて観察してみる。目で見て、感触を確かめ、別の一振りを手に取った。それが終わればもう一振り、さらに別の物も確認する。これも、これもそうだ。
その動作が早くなるにつれて内心の焦りは彼の鼓動を急かせた。とうとう敵と思われる男達が持っていた剣全てを検めると、ヴァルターは思わず前のめりに倒れそうになった。いずれの長剣も、所有者の姓名やその属する家門を示す装飾、刻印がことごとく削り潰されているのである。
「こいつら、もしかしてそう言うことかよ」
「何です、隊長殿? 何か気づいたことでも」
下馬したハインツはヴァルターが集めたそれらの長剣を手に取って検めた。もちろんすぐにその共通点に気づいたが、彼には隊長殿が感じる焦りの理由までは分からなかった。ヴァルターは答える代わりに尋ねた。
「議定書の内容、覚えてるか? 条文の一つ目には何て書いてあった」
「来年の初秋までを期限とした、相互の不可侵並びに敵対行動の禁止、ですか?」
即答するハインツには肯きもせず、ヴァルターは足元の骸の一つを軽く蹴り上げる。
「こいつらは十中八九、いや確実にラ・フルト侯家の関係者だろう。だが見てみろ。俺たちにはそれを証明する方法がない」
「現物があるのに、証明出来ないと言うことはないでしょう」
「じゃあ聞くが、どうやるんだ? 普通に戦で討ち取った時みたく敵方の兵務官でも呼びつけて検分させようってか? 素直に答えると思うのか、そいつらが? 認めりゃ莫大な違約金を支払わされることになるのに? 卑怯で下劣で恥知らずで約束を守れない低能だって満天下に喧伝するようなまねを自分からするって?」
ハインツは答えなかった。ヴァルターは続けた。
「端から認めるんだったらこんな工作する必要はねえ。堂々と名乗ってテメェの手柄を自慢して回りゃあいい。だがこいつらはそうしない。何故なら家も名誉も忠義も手柄も、臣下の身分を捨てたこいつらにはもう関係ねえからさ。言っちまえば、これはこいつらの私闘なんだよ。俺たちの中に紛れ込んで騙まし討ちまがいのやり方で暴れたところで、全く困らねえわけだ。誇るものがねえなら恥じる理由だってそりゃねえわな」
「まさか、だから協定の違反にはあたらない、と? ここまであからさまな襲撃を仕掛けておいて」
ハインツの言葉にヴァルターは口角を上げた。愉快なわけではもちろんなかった。
「そう言う理屈なんだろうぜ、奴らとしては」ヴァルターは物言わぬ襲撃者の骸に再び蹴りを入れて続ける。「こいつらは誰かに命じられて暴れてんじゃねえ。たまたまここに居合わせて、たまたま同じ日に火付け強盗することに決めた、もちろんラ・フルト侯なんかとは縁もゆかりもない無関係のならず者。つまりこいつは、俺たちが新しく手に入れた領地で起きた、俺たちの問題ってわけだ。停戦が成ってさあ帰ろうかって矢先にだぜ? 何とも不幸な偶然じゃねえか、なあ、ハインツ」
「馬鹿な! そんな無茶苦茶な理屈、通っていいはずがない」
ハインツは激昂した。それを偶然だと思えるほど、副隊長の頭はめでたくなかった。
「そうだよな。こんな馬鹿な話、通させるわけにはいかねえよな」ヴァルターは肯き、ヴィントの手綱を引き寄せて続けた。「ならまずは敵の規模と状況の把握だ。消火は後回し。最悪街が丸焼けになったって構やしねえ。手分けして全軍の掌握に回るぞ。それから途中手ごろなやつ見つけたら適当にふん縛っとけ。誰でもいいが、絶対死なせるなよ。必ず生かして」
「隊長殿! 隊長殿はおられますか!」
途中で割り込む声がヴァルターの下知を遮った。苛立ちも露わに声の方を見やれば、騎馬の青年が襲歩で通りを駆けてくるところだった。
「ここだ、ここ! 今度は何だよ!?」
隊長殿の存在に気づいた青年は馬を急停止させると、鞍上から飛び降りる勢いで石畳に膝を着いた。
「旗持ち騎士長ヴォルフ殿よりの伝令です! 火事による兵糧と軍馬の被害甚大なれど」
「何だと!?」
今度はハインツの驚愕が伝令の声を遮る。報告の、取り分け後半部分に衝撃を受けている様子のハインツを押しやって、ヴァルターは続きを促した。
「なれど?」
「なれど東側、敵勢後退により混乱収束しつつあり。さしあたり火勢拡大の阻止を最優先として対処する旨、許可願いたし、と」
ヴァルターは苦虫を噛み潰すような表情で頭をかいた。こちらの油断を最大限に利用した遊撃戦こそ敵の狙いだと踏んでいた彼は、実際のところ想定外に統制の取れた攻撃には驚きを禁じえなかった。兵糧、軍馬に被害を与えたら、こちらの態勢が整う前に撤退。人は後回しでも良いと言うその鮮やかな手際に明確な戦術的意図を感じる。機動力と体力を奪っておきながら、今宵の一回きりで戦いが終わることなどないはずだった。
「ヴォルフに伝えろ。もう手遅れかも知れねえがまずは兵糧、それから馬の確保が優先だ。その上で敵も完全に片付いたら消火に移っていい。あとは敵と、応戦出来てる人員の数も分かる範囲で報告。復唱はいらねえ。行け!」
「はッ!」
答えた青年はすぐにまた騎乗すると来た道を引き返した。軽快に鳴る足音を背にして、ヴァルターもヴィントの手綱を取る。そのまま鐙に足をかけた彼は、背後で不意に上がったいななきのために動きを止めた。
振り返れば通りの真ん中に青年と彼を乗せていた馬の巨体が横たわっていた。脳震盪でも起こしたのか、緩慢に起き上がろうとする青年の傍らで、悶える馬蹄が石畳を必死にかいている。
そんな一人と一頭の元に近づく者があった。ヴァルターはその存在に気づいた瞬間剣を抜いて駆け出したが到底間に合わなかった。曲がり角から姿を現した全身甲冑の騎士らしき人物は、悠然と歩み寄って悶える馬の胴体から長剣を引き抜くと、未だ状況を理解していない様子の青年の首元を事もなげに薙いだ。
青年の首は胴から切り離され、ごろりと石畳を転がった。脱力した胴体は、程なく同じ運命を辿るであろう馬の体に寄りかかり、流れる血で石畳を濡らす。ヴァルターはその血溜まりの手前で足を止めた。
だらりと長剣をぶら下げた騎士風情が兜の細隙を彼に向け、尋ねた。
「白狼、ヴァルター・フォン・エッセンベルク殿とお見受けいたします」
若い、それほど年齢を感じさせない男の声だった。自分と同じ、あるいはやや上と言ったところか。いずれにしても育ちは良さそうだとヴァルターは思い、応えた。
「いかにも、俺がヴァルターだ」顎を上げ、寄せる眉根はもちろん不快の表れだ。「人に名を聞いたら自分も名乗るのが騎士の礼儀ってやつだぜ」
「申し訳ない。生憎と小生は名も爵位も捨てた身」
直立したままの男の兜が微かに動いた。目礼をしたのかもしれないが兜の中のことでヴァルターには分からなかった。そのまま自然と両手に持ち直される長剣に合わせて、ヴァルターも剣を下段の“物乞い”に構えた。
全身から殺気を放ちながら、男は続けた。
「故に、今宵は一人の復讐者として、お相手願う!」
靴裏を擦る素早い踏み込みから、男は刺突を繰り出した。
ヴァルターは右手で細長い鍔を倒すように引いて、緩く握る左手を支点にした梃子の原理で長剣を跳ね上げた。
不意に下からの衝撃を受けた男の長剣がわずかに浮き上がる。その隙にヴァルターの体が前進した。男と同じく靴の裏を擦るような摺り足で腕の下に身を潜らせると、前進した勢いのまま長剣の柄頭で男の兜を殴りつける。
衝撃で男は数歩の後退を余儀なくされた。片手の長剣をけん制に振り回しながら、耳を圧する残響音を必死に押さえつける。その間にヴァルターは離れたところからこちらの様子を伺っているらしい副隊長に怒鳴った。
「ハインツ! ここはいいからとっとと行って勤めを果たして来い! ぼやぼやしてるとお前の大好きな馬がもっと死ぬことになるぞ! ああ、あとヴォルフへの伝達も忘れんなよ!」
何か言いたそうにしながらも結局は駆けて行くハインツたちの姿を見送って、ヴァルターは吐息を漏らした。
と、直後に飛び退いて一閃。続けざまに彼を襲ってきた男の剣を弾いて、両者遠間の位置に着地する。
「頑丈じゃねえか。良い具足だな、え?」
余裕のヴァルターに、男は唸るような低い声で尋ねた。
「何故、今の隙に止めを刺さなかった?」
「あれで決まったと思ったからだよ。ちょっと声かけるくらいなら問題ないと思ったもんだが、立ち直んのが早くて驚いてるぜ、正直」
「なるほど、生け捕ることが、目的か」
男は再び剣を両手に持ち直した。剣先を真っ直ぐ夜空へ向け、強く握る柄は顔の右横へ。聖ジョルジュ兄弟団“塔”の構えである。この構えからの重力に味方された斬り下ろしは、同流派の技の中でも最も重い攻撃と言われていた。
男は同じ流派の中段、即ち“農夫”に構えて対峙するヴァルターに向かって一歩を踏み出した。
「舐められた、ものだ!」
叫びざま、短く早い跳躍で一気に間合いを詰める。同時に繰り出す斬撃は常人の目には留まらない速度だ。
受けるヴァルターも常人ではなかった。垂直に立てた裏刃を斬り下ろしの軌道に強くぶつけると、即座に手首を返して甲冑の首元を水平に薙いだ。
鎧を掠める剣先が刹那の火花を散らせる。それでもなお、双方の攻撃は止まらない。ヴァルターはやや倒し気味の“塔”から、名も無き騎士はほとんど中段に近い“物乞い”から、それぞれが衝撃波を伴う程に速く、重い、斬撃と刺突をぶつけ合った。
およそ剣戟とは思えない金属の悲鳴が半町先まで響き渡った。斬り下ろし、斬り上げ、刺突して、薙ぎ払う。間断のない攻撃の連続は、互いの呼気が当たるほどに詰まった間合いの鍔迫り合いにもつれ込むことでようやく止まった。
刃を合わせた状態で、二人はしばし押し合いを続けた。ここからの切り返しはさらに技量が試される。下手に動けば相手に付け入る隙を与えてしまうと、両者ともに理解していた。
と、その膠着状態、先に突破口を見出したのは総身に甲冑を纏った騎士の方だった。体重に具足の重さを加えて載せた剣の圧力に、ヴァルターの全身が疲弊し始めていた。肩よりも上に保たなければならない剣が下がっている。体中をくまなく行き渡っていたマナが、今は四肢にのみ集中されている。呼吸は荒く、鼻や顎の先には玉のような汗の雫まで止めどなく滴っている。
騎士は絶好の機を捉えた。全身のマナを剣と両腕に集めて、力の均衡を一気に崩す。刃を合わせていた相手の長剣は何の抵抗も感じさせることなく騎士の膂力に押し潰される。
――何の抵抗も感じさせることなく。
違和感に、騎士の下半身の動きが遅れた。寝かせた刃に騎士の全力の圧し斬りを滑らせたヴァルターは、前のめる騎士の兜目掛けて長剣の柄頭を振り抜いた。