三十、愛の伝道師による指南
撤収の準備は即日始められた。長きの逗留を強いられていた輜重、工兵の面々は、「もう砂漠はこりごりだ」と言わんばかりの勤勉さで陣払いの作業を急いだ。午後の太陽はまだ高い。すぐに出発すれば日が落ちる前に砂漠を抜けられるはずだった。
彼らの勤勉ぶりは指揮官ライナーの存在を必要としなかった。工兵連中はプンスキが、輜重その他はディルクが、それぞれに的確な指示を出し、滞ることのない仕事は二刻と掛からない見込みである。おかげで暇と体力を持て余していたライナーは、同じような状態の仲間たちとのん気な水遊びに興じていた。
木剣一振りと騎士刀を腰に帯びたエイジが彼の元にやって来たのは、そんな折だった。
「よ、お前もどうだ、エイジ。冷たくて気持ちいいぜ」
気さくに話しかけるライナーに頭を振って、エイジは尋ねた。
「少しいいか?」
木剣を見ればライナーにはすぐ察しがついた。「おう」と答えて泉から上がり、濡れた体を拭う手間も惜しんでエイジの後に続く。
二人は喧騒から少し離れたところでいつものように向かい合った。いつもと違うのはエイジの得物が真剣であること。そして対峙する二人の位置関係だった。
「じゃあ、上段に構えて、こっちの構えが終わったら自由に斬りこんでいいから」
ライナーに木剣を渡したエイジは、そう言って彼の眼前、二歩の間合いに腰を下ろした。
「よし、どうぞ」
「どうぞって、お前」
ライナーが戸惑うのも無理はない。ライナーは抜いた剣をすでに構えて立っている。対してエイジはその間合いに居ながら、相手を見るでもなく、鞘に納めた剣の柄に手を掛けることすらもなく、ただ座しているのだ。この状態で自由に斬り込んだところで、エイジに取れる手などない。ライナーは常識的にそう判断した。
しかしエイジは中空を見据えたまま答えた。
「心配してくれてるようだけど、この状況、どっちかと言えば不利なのはライナーの方だよ」
エイジの言葉はライナーに不意の既視感を抱かせた。似たような光景を見たことがある。確かにあの時も、勝ちを収めたのはエイジだった。
抜き身で構えてる方が不利? 柄に手を掛けてすらいないのに? そんなことあり得るのか? この状況を覆す方法をエイジは知ってるのか?
気遣いは好奇心に取って代わられた。上段に構えられていたライナーの剣は、いつもの素振りと同様力みも起こりもない動作で、座すエイジの脳天を目掛けて振り下ろされた。
その木剣がエイジの頭を割らなかったのは、彼が寸前で剣を止める気遣いを見せたためではない。狙い済まされていたはずのエイジの頭が、彼の視野から忽然と消えていたためだった。
戸惑うライナーの視界は代わりに別のものを映していた。超至近距離で、突如として眉間に突き立てられた一振りの騎士刀。彼が戸惑う間に、エイジが鞘を送った左手を柄に添えれば、内藤流居合術「北辰之太刀」は完成だった。
「本来なら、ここで正中斬り」エイジは刀を鞘に納めて立ち上がった。「居合の型は普通一人稽古で、相手に受けてもらったりしないんだ。だから今のはちょっとした遊びみたいなものなんだけど、俺も初めて習う時師匠に目の前で技を見せてもらって、それで興味持ったから、どうかと思って」
ライナーは目を瞬いた。今の一瞬の間に、一体何が起こったのか、理解が追いついていないようだった。
ややあって、ライナーは漏らすようにつぶやいた。
「……すげぇ」
口にした後で感情が追いつく。見る見るうちに、ライナーの目は少年のように輝いて、体は意味もなく飛び跳ねようとし始めた。
「すげえ! すげえよ、エイジ! 何だ今の、手品か!? 全然見えなかったぜ! 何であんなことが出来んだ!?」
そのはしゃぎ様はエイジも引くほどだった。ライナーはなお感動冷めやらぬ様子でしきりに「すげえ」を連発した。
「すげえぞ、そうか。あの時隊長殿もこれをやられてあーなったわけだな。納得だよ、納得。こりゃすげえ技だ」
「喜んでもらえたみたいで良かったよ。居合って地味だしあんまり実戦的に見えないから、学ぼうって人が少ないから」
「とんでもねえ! 大発明だぜこいつは。剣を抜く動きすら見えなく出来るってことは、これを完璧に習得すればもう抜いちまってる剣の動きはもっと消せるってことじゃねえか。そりゃ神速なわけだぜ。速いとか遅いとか、そんな話をしてんじゃねえんだ。普通の目じゃどうしたって追えない、理屈の違う動きを極めてんだもんな!」
その言葉には、今度はエイジが胸を打たれた。
「本当に、すごいな」
「そうだよな! すげえよな!」
エイジは微かに頭を振った。本当にすごいのは君だ、ライナー。たった一度技を見ただけで、居合の持つ本質的な価値に気づくなんて。もし祖父や兄が知れば、きっとエイジと同じように感動したことだろう。エイジは今この一番弟子が、自分より遥か高みの階梯へ足をかけたことを理解した。
「ライナー、これ、俺の予備で悪いんだけど」
エイジは腰の革帯から騎士刀を外してライナーに手渡した。
「お、くれんのか?」
「ああ」エイジは肯いて続けた。「普通の長剣だと抜く時とか納める時にしっくりこないからね。それがあれば一人で稽古も出来るし」
「うほぉー! やったぜー! ありがとな、エイジ、いや先生」
興奮続きのライナーはしばらくの間もらったばかりの騎士刀を抱いて喜びに舞い踊った。
エイジは苦笑しながらその様子を眺め、しかしすぐに真剣な表情で切り出した。
「ライナー、頼みがあるんだ」
その顔を一目見て、別働隊の責任者は浮かれた気分を忘れた。
「何だよ?」
「砂漠に残ってボリスを探したい。別行動を許してくれないか」
エイジの願いに、ライナーの眉が上がる。
「……なるほどね。それでこの騎士刀ってわけだ」
もらったばかりの騎士刀に目を落として、ライナーはつぶやいた。これがあれば一人で居合の稽古を積むのにも支障はなくなる。エイジが、忙しい(と思われた)時間の合間を縫って突然ライナーに居合の技を見せたのは、それが理由だった。
「まあ、いいぜ。どうせ後は帰るだけだし危ねえこともねえだろう」
「ありがとう」
あっさりと下りた許可に胸をなで下ろすエイジ。それが面白くなかったのか、ライナーは意地の悪い笑みで「ただし」と付け加えた。
「ただし、一個だけ条件だ。例の恋文、もう書いたんだろ?」
一転、怪訝な表情でエイジは答える。
「……一応書いたけど、それが何?」
「それ、ちゃんと相手に渡せよ。なんだかんだ理由つけて結局渡さないってのはなしだぜ」
エイジはすぐに言葉を返せなかった。初めは言葉の意味が、次いで相手の意図が、さっぱり分からないのだった。
「……何だよそれ……何の意味が……?」
と、口答えするエイジの声を掻き消す無遠慮な声量で、横合いからずかずかと話題に割り込む者があった。
「おいおいおい何だ、俺をお呼びか、え?」
黒い僧服に汗の乾かない禿げ頭、エイジより幾分背の低い中年の導師は隊の相談役にして女番のエティエンヌだ。何故だか嬉々とした表情でライナーとエイジを交互に見る。
「誰もお呼びじゃない。仕事に戻れよ、エティエンヌ」
エイジはあからさまな不快感を示して導師に告げた。ところがそれを言われた当の本人には全く意に介する様子がなかった。
「誤魔化すなって、確かに聞いたぜ。今誰か恋文って言ったろ。もらったのか? 渡す方か? どっちでもいいから見せてみろよ。この愛の伝道師エティエンヌがどんなもんか判断してやっから」
たった一語を耳ざとく聞きつけて、ずいぶん遠くからやって来たものだ。あまりの地獄耳に呆れたエイジは拒絶の言葉を忘れてしまった。
代わって答えたのはライナーである。
「俺じゃねえよ、エイジが渡すんだと。サラサン人の女に」
「ライナー!」
エイジは思わず声を荒げてライナーを睨んだ。
抗議されるライナーにも、もちろんエイジの言い分は分かる。が、彼は邪気のない顔を横に振って諭すように答えた。
「折角だから見てもらえよ、エイジ。愛の伝道師は自称だけど、その禿げが経験豊富で女にモテるのは確かだぜ」
ライナーは何もいたずら心だけで恋文を渡せなどと言っているのではなかった。友人として、彼の恋が成就することを本心から願っていた。その結果がどうなろうとネタにするつもりではあったが、とにかく童貞故か奥手に過ぎるエイジの背中を押してやりたい気持ちは確かだった。
そんなライナーの思うところ全てが伝わったわけではなかったが、自信がないことも助言を受けたいと思っていることも、エイジにとっての事実ではあった。結局エイジは不承不承ながら大事にしたためた人生初の恋文を自称「愛の伝道師」に開示した。
悪魔のように邪悪な笑みでそれを受け取ったエティエンヌは、はばかる気のない声で早速内容を音読しだした。
「えーなになに、拝啓、親愛なる我が友人にして大恩の君、アティファ様。日毎早まる日の入りに時の移ろいを甚く感じ候。秋の深まり候間に御身の不順等御座無く候哉。小生の私見を申し候はば、古来より四季の変わり目は心身に不順の来す先例の甚だ多く之有り候……」
気が進まないながらも、エイジは胸を弾ませてエティエンヌが読み終えるのを待った。
初め高らかだったエティエンヌの声は、文章を追う内に小さく、弱くなり、やがて全文を検めると彼は静かに目と口を閉じた。眉間には深い皺が刻まれ、口角は上がっているのか下がっているのか分からない、複雑な形をしている。
沈黙に耐えられなくなって、エイジは尋ねた。
「どう、だった?」
エティエンヌはエイジに手紙を返し、逆に尋ねた。
「なあ、エイジよ、これはまじめに書いたものなんだよな?」
「も、もちろん」と肯くエイジ。視界の隅で顔を背けたライナーが肩を震わせているように見えるが気にしてはいられない。
エティエンヌは緊張するエイジの両肩に手を置いて、とても真剣な表情で答えた。
「よし分かった。エイジ、悪いことは言わねえから、そいつは今すぐ破り捨てて新しいのを書け。愛の伝道師から言えるのはそれだけだ」
「えぇ!? なっ」
何でと続けようとした直後、ライナーが盛大に噴き出した。よっぽど可笑しかったのだろう。立っていられなくなって地面に手を付き、苦しそうに腹を抱えながら大笑いしている。
エイジは重ねて尋ねた。
「何が駄目だって言うんだ? どこがおかしかった? 教えてくれよエティ」
「全部駄目だし全部おかしいよ」エティエンヌは禿頭を振り振り続けた。「受け取る相手の身になって考えてみろ。こんな手紙もらったってどうしていいかわかんねえって。お前この女のこと口説くつもりで書いてんだよな? 伝えたいことは要するに好きだって気持ちだろ? けどそんなもんお前一つも伝わんねえからな、この手紙じゃあ」
「くっ……」
エイジは早くも言いくるめられそうになった。が、すぐに反論する。
「それは言い過ぎじゃないか? 少なくとも、好意は伝わるように書いたつもりだぞ、俺としては」
「なら聞くが、面と向かって『貴君を御慕い申し上げ候』なんて言われてお前はキュンとくるのか?」
「……く、くるよ……きますよキュンと」
「ただ簡潔に『好き』って言われるのとどっちの方が嬉しい? どっちの方が相手に伝わりやすいと思うね?」
エイジは沈黙した。答えるまでも無い問いだった。
そのまま何故だか自然に正座してしまったエイジに、エティエンヌは髪の無い頭をかいて続けた。
「こう言う古めかしい文体を好む女だってそりゃいるだろうし、こんな感じの書き方でも相手の心に訴えかける情感たっぷりの手紙を書けるやつだっているとは思うんだけど、お前のは全然違うんだよ。何と言うか、照れがあるんだよなあ、お前の文には」
「……照れ、ですか」
「もっと直接な感じで、好きだ! 愛してる! 君が欲しい! 抱きしめたい! って書きゃいいだろうに」
「そ、そんな、はしたない」
「あぁん? はしたなくて何が悪いってんだ。思いが通じたらいくらだってはしたないことするつもりなんだろうが」
エイジは反論しようと口を開いた。しかし自分と正直に向き合えば全く否定出来る話でもなかった。確かに、そんな欲求が無いと言えばそれは嘘になるのだ。
と言って全面的に肯定するのにも抵抗がある。自身の純粋なものと信じる好意が、全て性欲に由来するものだなどとはどうしても思いたくない。
結局は声を発しないまま再び口をつぐむしかなかった。
その反応を見て、エティエンヌはエイジの抱える問題に思い当たった。
「お前ひょっとして、相手に気持ちを伝えることが恥ずかしいことだとでも思ってんじゃねえだろうな?」
エイジは眉根を寄せ、頭を振った。突然何を言い出すのかと、少し怪訝な感じすらある。
「そんなことはないよ」
エティエンヌは重ねて尋ねた。
「好きなんだよな、その女のことが?」
「ああ」
「じゃあ、その女と手を繋げたら嬉しいだろ?」
「それは、まあ、そうだね」
「抱き締めたいとも思うかい?」
「それは……うん」
「つまり行く行くはヤりたいわけだな?」
「そっ!」一瞬高く上がった声は次第に勢いをなくしていく。「……んな、こと」
言ったきりエイジは黙った。エティエンヌは急かさなかった。やがてエイジは弱弱しく漏らした。
「……どうして皆そう言う、飛躍した結論にばっかり結び付けようとするんだ。純粋な恋だってあるだろ。ただ相手の幸せを願いたいだけの清廉な思いだってさ」
「どうしてそう言う結論が不純で不潔なもんだって思うんだ?」
エティエンヌは正座するエイジに目線を合わせて続けた。
「飛躍なんかしてねえさ。実際、好きだって伝えることは遠回しにヤりてえって伝えることと同じだ。けど、だからって何も恥じるようなことじゃねえだろう。腹が減ったら飯を食いたいし、眠くなったら寝たい。好きになった女とヤりたいって思うのは、それとは違って当たり前でも許されるものでもない。そこまではいかないにしても、何かあまりよろしくない、やましい気持ちだってお前は考えてるわけか?」
エイジの沈黙は肯定と同じだった。エティエンヌの指摘は彼の心理そのものをずばりと言い当てていたのだ。
エティエンヌは、この男にしては珍しく、聖職者然とした態度で説いた。
「俺も童貞の頃は同じことで思い悩んだもんだぜ。ありゃあ十代の前半、まじめでいたいけな神学生だった時分だな。女のことを思いながら自分を慰めて、何度己の罪深さを嘆いたか知れねえ。テメェの勝手な欲を満たすために気安く女を口説いてた学友を口汚く罵ったことだってある。だが、色々経験して、いつか世の理ってやつに気づいてからは悩むこともなくなった」
「世の……理?」
「そうさ。なべて生き物は欲を持ってるもんだ。食うことも寝ることもヤることもそう、ああしたいこうしたいって雑多な思いも同じ、欲望ってのは俺たちが、いや、あらゆる生き物が生まれ持つ自然な機能ってやつなんだよ。清廉でありたいって気持ちも、どうしようもなくヤりたいって気持ちも、間違ってなんかいねえし否定する必要もねえ。何故って、そいつらはどっちもお前の本能が求めた自然で純粋な感情なんだからな。結局、生きるってことはあらゆる欲望に苛まれ続けることなんだよ、エイジ。それこそが俺の見つけた世の理、きっと永遠不変の真理ってやつだ」
「……真理」
我知らず繰り返すエイジの心にピンと閃くものがあった。本能の赴くままに抱き締めたい。肌と肌で直接ぬくもりを感じていたい。彼がなるべく見ないようにしてきたそのあまりに動物的で卑しい欲求は、エティエンヌの言葉通り、何もやましくなどない、自然の欲求なのではないか。
額に入れ、箱にしまい、手を触れないようにして大切に見守りたいと言う感情と、望むまま思うまま両腕に抱いてめちゃくちゃにしたいと言う欲望との同居を認めるなら、善と悪とを併せ持つのが人間であるとするアティファの主張をすんなりと受け入れることが出来る。
なるほど、エイジはアティファに恋をしている。並々ならぬ好意を抱いているし、それは愛情にすら昇華していると言って良い。故にこそ傷つけるようなまねはしたくないと思うし、故にこそ肉欲の対象として見ている、下世話な表現をすればヤりたいと思っているのだ。
彼女を大切にしたい。彼女とヤりたい。相反する二つの思いは、結局彼女への好意と言う同じ土台の上に成り立っている。双方は同じくらいに強い欲求であり、きっと片方が高まるにつれてもう片方も激しさを増す、どちらが欠けても成り立たない相関の関係にあるはずだ。
世にあまねく恋慕の感情が全て同じ構造の中で成り立つものなら、それは即ち、他の誰でもない自分自身が善でもあり悪でもある、全く中庸の存在なのだと言うことを証明しているようではないか。
やはり君は正しかった。この気付きを、エイジはアティファに教えたかった。どちらかじゃない、まして善だけの存在なんかじゃなかったんだ。善も悪もある、それが俺と言う人間だったんだ。
「ありがとう、エティエンヌ。あんたは確かに、愛の伝道師だ」
エイジは決意した。素直な気持ちを、アティファに伝えよう。受け入れてもらえなかったとしても構わない。今度こそ偽りのない文章で、飾らない表現で、君が好きだと伝えるのだ。下心があっていい。やらしい気持ちだって抱いてもいいのだ。誰かを好きになると言うことは、その美しさ尊さを礼賛されておきながら、反面欲望にまみれた醜い行為までを否定することなど決して出来ないものなのだから。その矛盾した性質こそが人間を含めたあらゆる生物にとって自然なあり方、不変の真理なのだと、エティエンヌは言うのだから。
自分一人で出した結論ならここまで強い決意も自信も抱けなかったことだろう。愛の伝道師が太鼓判を押してくれるのだから、最早エイジに迷いはなかった。