七、傭兵隊長-1
ハインツ・プリッケンを苛立たせているのは村中に漂う腐臭ではなかった。
当地の領主が死体の後始末を怠けたまま勝手におっ死んでしまったために彼らの仕事が予定より増えているためでもなければ、隊の若いのが散々注意したのにも関わらずそこかしこで嘔吐し腐臭に新たな色を添えているためでもない。村で唯一の坊主が死んでしまい犠牲者の死体の処理が滞っているためでもなければ、本格的な夏の到来を控え、いよいよもって主張を増すお天道様のせいでもないのである。
ハインツは馬上で額の汗をぬぐった。人ごみの中に禿頭を見つけて馬首を向ける。
「エティエンヌ!」
荒い語気に禿げ頭がびくりと飛び上がった。両手を天に向けゆっくり振り返る。眉根が寄り上がり下唇を突き出す顔はわかりやすく不平を訴えていた。
「何だよ。まだ何にもしてねぇって」
僧服の背中に隠しているのは奴隷の女のようだった。全体的に痩せ気味だが、女性らしい部位がしっかりと存在を主張している理由は腕にかき抱く赤子のせいだろう。
手ごろな穴さえあれば木の股にだって欲情しそうな男だ。ハインツは渋面を作った。
ともあれこの坊主の女好きは今に始まったことではない。仕事を済ませているのであればその後に何をしていようと文句をつける気はなかった。
「祈りは終わったのか」ハインツが尋ねる。
「村に転がってた貴族の分はな」耳をほじりながらエティエンヌ・ロウは答えた。「道すがら拾ってきたやつら含めて平民はまだ。身元の確認ができないもんでね」
貴族には具足や武器に自身の名を記す習慣がある。従軍するにあたって装備を自弁できないものに貴族を名乗る資格は無いとまでいわれていたからだ。
加えて堅守されていた領主の屋敷は魔人の被害を受けなかったため、この地で奉公する貴族の名を記した台帳が無事だったことも円滑な身元確認の一助となった。照らし合わせれば首から上が行方不明でもその死体の姓名を知ることに不便は無い。
平民の戸籍帳も残されてはいたが、こちらは骸の方に身元を確かめる材料が残されていないため未だ一所にまとめて放置してあるだけというわけだ。
「略式でいい。とっとと済ませて焼いちまえ。臭くてかなわん」同意を示すようにハインツの愛馬が鼻息を吐いた。
「了解、了解」エティエンヌは耳垢を吹き飛ばすと大儀そうに腰を伸ばした。「で、隊長殿はどこに」
御許不明のまま遺体を勝手に焼いたのでは後々遺族から抗議される恐れもある。信徒云十万を誇る聖教会でも世界中の人間から支持されているわけではない。この手の抗議訴訟は日常茶飯事だった。
訴訟沙汰となった場合に備えて自分に代わり責任を取ってくれる人間がいれば僧侶としても気が楽なのである。遺体の処理は聖職者への依頼を以って行われ、依頼した者は善意によって葬送を委託したと、このようなやり取りが存在したことを書面等で提示できればまず法廷で負ける事はない。
つまりエティエンヌが尋ねているのはその責任者の所在だった。
ハインツの眉間に深い皺が刻まれた。「それを俺も探してる」
暑さも腐臭も、もちろん不快だった。が、何より彼を苛立たせるのは一団の長である男がいつものように面倒な仕事をほっぽり出して行方をくらませているためにあった。
「お前なら探せるだろう」
「術を使えって? やだよ。疲れるんだぜあれ」ぶるぶると禿頭を振り、エティエンヌは頭上を指した。「もう昼飯時だし、飯の仕度でもしてたらひょっこり出てくるって」
「ここで飯の仕度なんかするつもりか、お前」
「しかたねぇだろ。火ぃつけたってどうせすぐには臭いなんかとれねえさ」
エティエンヌの答えに馬がぶるぶる首を振った。本当に主人の意をよく理解する馬だ。
ハインツは目眩を覚えた。今夜はこの村に一泊する予定となっていた。死体が山と積まれ、腐臭がこびりついたこの村で。多少面倒でも希望者を募って村の外に野営しようかと一瞬本気で考えた。無駄を不名誉よりも嫌うハインツはすぐさまその甘えを切り捨てたが。
それもこれも無計画な隊長が道中で見つけた死体を片端から荷馬車に積めて運ばせたからだ。その場で埋めるなり焼くなりして処理すればいいものを、あの馬鹿め。
――だって可哀そうだろ、こんなところにぽつんと墓だけ建ってたら。
馬鹿め。隊長の言葉を思い出し、ハインツはまた心中で悪態をついた。
「隊長殿なら、教会の前で死体眺めてたぜ」横合いから声をかけてきたのは場違いに明るい声だった。
「生き残りのガキ連れまわしてあーでもないこーでもないって話し込んでた。まあ半刻くらい前の話だけど」
男は荷馬車から腐臭の漂う遺体を引きずり出し、薪束でも扱うかのように広場に積んでいた。うひょお、くせー、くせー。放り投げているのは死んだ人間だというのに怖じる様子も悼む気配も無い。
男の名はライナー・ランドルフ。まだ若いのに傭兵隊の古株で件の隊長殿とは同郷という古い付き合いだった。
「教会ってのはどっちだ」ハインツはライナーに尋ねた。
「あっち」ライナーは南を指した。
「お前も来い」言うや返事も待たずハインツは馬を進めた。「お前もだ、エティエンヌ!」
徒歩の二人は顔を見合わせて苦笑した。隊長が働かず副隊長のハインツが機嫌を損ねるのはいつものことだった。
その男は教会の扉へと続く階段に腰掛け、手をもてあそんでいた。といっても、もてあそんでいるのは彼自身の手ではない。男性のものと思われるよく肥え太った右の前腕部を、ためつすがめつしながらにやにやと笑っているのだった。
ふーん、ほほー、などと吐息を漏らしながら、取り分け男を魅了するのはその切断面のようだった。正面からじっと見つめていたかと思うと断面を水平に持ち替えて切り口に注目してみる。当然腐敗が始まっているのに気にする様子は無い。傍から見れば完全な異常者だった。
ハインツはそのにやけ顔を目にした瞬間爆発しそうな怒りを覚えたが、何とか抑えて呼びかけた。
「隊長殿、ヴァルター隊長殿!」
男は部下たちの存在に気づき能天気に手を振った。
「おう、どうしたお揃いで」
真っ直ぐに通った鼻梁の下で愉快そうに歯が剥かれた。薄い碧の瞳が日差しを受けて微かに細められる。立ち上がると身の丈は二間近くにもなった。肩幅も広く髪も短い。遠目からでも男にしか見えないが、大きめの双眸に髭の一本も生えていない童顔は雄々しさを知らない少年のようだ。
彼こそ一行の属する傭兵隊の隊長、ヴァルター・ベレ・フォン・エッセンベルク。率いる隊の名を「エッセンベルクの白狼」といった。
ヴァルター・ベレが生を受けたのは今から二十四年前、北東公領ゲルジアの、なかんずく雪深い山の中だった。折りしも時代はジャン二世暴虐王の治世。今もって続く乱世の幕開けと時を同じくして生まれたのである。
母であるアンナ・ベレは何の変哲も無い農家の娘だったが、周囲と比べれば少しばかり見てくれがよかった。そこを近在の領主ヨアヒム・フォン・バレンティンに見初められて妾になり、程なくしてヴァルターが生まれた。いわゆる私生児というやつで、一般的には父親の身分に準ずる生活が期待できそうなものだが、ヨアヒムの子供に関してはその限りではなかった。
理由は彼の正妻であるイザベラ・フォン・ノイラートにあった。熱心な聖教徒として知られていた彼女は愛人や私生児といったものを一切認めなかった。夫が他所で女を抱いていること自体は知っていたが、そのふしだらな行為に神が子供を授けるはずがない、仮に授けたとしてもそれは夫の子供ではないと頑なに信じていた。呪わしい女の呪わしい子供、そんなものはヨアヒムと一切関わりの無いものだと、つまりは黙殺していたのである。
無責任な話だが、ヨアヒムの側も妻のその対応をありがたがった。彼の目的は子供を作ることではなく女を抱くことにあった。生まれた子供を自分の子として扱えば彼の家庭が崩壊してしまう。一度子を孕んだ女の元をヨアヒムが訪ねることはなかったのだ。
そのためヴァルターもまた他の腹違いの兄弟たちと同様に幼少期を母の子、つまり農家の倅として過ごした。父親という存在を知らなかったし興味もなかった。
転機が訪れたのは彼が三歳のころだ。公用で訪れた王都にて、政変に巻き込まれた父ヨアヒムが不慮の死を遂げたのである。悪名高い暴虐王の犠牲者として後世名を挙げられる、まさに不幸な死だった。
フォン・バレンティン家にとって中でも不幸だったのはヨアヒムに同行していた嫡子のリヒャルトまでもが王都で父と運命をともにしまったことだ。イザベラとヨアヒムの間に男子はリヒャルトのみで、それ以外の四人の子供は全て女子。当主の座に空白が生じてしまったのである。
急遽親族、重臣の間で合議の場が設けられた。協議の結果、混乱を収めるためにヨアヒムと血筋の近しい者から代理の当主を立てることに決まった。臨時の形で家名を継いだのはすでに剃髪して久しいヨアヒムの甥ハンスだった。続柄としてはヨアヒムの姉の子供にあたる。
還俗したハンスは形式上イザベラと婚姻し、四人の娘の父親となった。そしてヨアヒムの残した落胤の中から彼女らの伴侶を選びフォン・バレンティン家の次代とすることを決めたのである。
この決定にイザベラは猛反対した。感情だけの理屈ではない。母親が違うとはいえどちらもヨアヒムの子供なのである。近親婚は聖教会の教えをはじめ多くの法で固く禁じられているのだ。
ハンスはイザベラの抗議を退けた。合議の席では未だ男系継承への支持が根強かったし、ハンスをはじめとしてヨアヒムへの敬意を今もって強く抱いている者が家臣団の多数を占めていたのである。
あの子らをヨアヒムの子として扱わなかったのは誰か。問われたイザベラに返す言葉は無かった。
もっとも、ついこの間まで僧籍にあったハンスとて、本気で近親婚を推しているわけではなかった。落胤の中から程よい跡継ぎが見つけられれば何かしらの理由をでっち上げてでもイザベラとその娘たちを家から追い出すというのが合議で出された結論だった。
何故今すぐにでもそうしないかというと、イザベラの生家に理由があった。
イザベラの実家フォン・ノイラート家は古来よりフォン・バレンティン家と反目しあう関係にあった。両家の仲を取り持つために結ばれたヨアヒムとイザベラの婚姻はヨアヒムが健在の間こそうまくいっていたが、片翼たるフォン・バレンティン家の当主が失われた今、再び元の険悪な関係に戻りつつあるのだった。
弔問の使者をよこしたばかりのフォン・ノイラート家では、事実いかにしてフォン・バレンティン家の継承問題に介入しようかという謀議が日夜行われていた。ヨアヒムの私生児だけを立てて後家であるイザベラとその遺児をないがしろにすれば、それを口実に兵を差し向けてくるであろうことは明白だった。
合議で決定されたのは結局のところ時間稼ぎだった。
領主の死という混乱を収め、新たな主を据えるまでの間フォン・ノイラート家と正面からぶつかるような事態は避けたい。そこで後家の機嫌をとりつつ継嗣の養育と臣下の団結に努め、来るべき決戦に備えようというのである。
ハンスの命で集められたヨアヒムの忘れ形見は実に二十二人にも上った。集められたのは男子だけで女子はイザベラへの配慮のため黙殺された(あまり意味は無かったが)。年齢は二、三歳から二十四歳まで。母親の身分も様々で名の知れた貴族家の未亡人もいれば驚くべきことに農奴の娘などもいた。
この数字は未だ忠誠心を忘れない臣下たちからの旧主への評価を若干ながら下げたが、分けても幻滅したのは後家のイザベラだった。彼女がただ一人、夫のみを愛していた間に当の夫は(判明しているだけで)二十二人もの女と関係を持っていたのだ。夫を持つ女なら誰もがイザベラに同情したことだろう。亡き夫の面影を強く残す二十二人の男子を見て、イザベラはもう呪わしいとはいえなかった。
ともかくもハンス・フォン・バレンティンの下に二十二人の従兄弟が集まった。じき四歳になるばかりのヴァルター・ベレもその一人だった。
二十二人の跡継ぎ候補たちはそれぞれが家中の有力者に預けられ徹底した英才教育を施された。中にはすでに職や妻を持って働いていた者もいたが本人や家族の希望もあって脱落者は皆無だった。もしフォン・バレンティン家の名跡という餌をちらつかされれば誰しも夢を見ずにいられようかというものである。
危惧していたフォン・ノイラート家との軋轢もイザベラとの婚姻が生きているため表面化することはなかった。この点ハンスの講じた策は有効に働いたといえる。
後に振り返ったヴァルターは後見の名を借りフォン・エッセンベルクと名乗るようになったこの時期を、人生で一、二を数える楽しい時間だったと語る。野山を駆ければ褒められ、馬に乗っては喜ばれ、家庭教師の講義はどれも新鮮で、独力で本を一冊読破した時はえもいわれぬ高揚を味わった。居城としていたエッセンベルクの城内は彼にとり大層豪勢な遊び場だった。
綻びが生まれたのはヨアヒムの死から十年ほど後のことである。
まず問題となったのは跡継ぎ候補同士の対立であった。
当然といえば当然の事態だった。成功が約束されているのは二十二人の中でもたった一人だけで、選ばれなかった者がどんな扱いをされるのかわかったものではないのだ。多少の禄でももらえれば上々。最悪の場合粛清される恐れだってある。
一度家督を継いだ者にしてみれば、自分と同じく家督を継ぐ権利を有する二十一人の候補者たちは危険な存在でしかないのである。権利という力のそばには必ずそれを悪用しようと企む者が存在する。そこに権利者本人の意思は関係ないのだ。
そうならないために家中の有力者を後見につけたのだが、候補者の意向をそっちのけにして後見人自身が対立を煽るのだから救いようがなかった。
もっとも、彼らの行動には理解できる部分もある。後見についた者の側からしてみれば自身の手で教育した候補が無事跡継ぎに選ばれれば家中での権力を一層高めることにつながるのだ。無私無欲の人は稀にいるからこそ聖人と崇められるのであって我欲を持つこと自体は責められるいわれのない事柄なのである。
後見同士の対立から生まれた候補者同士の対立は、やがて貴族階級を母に持つ候補者を中心とした派閥を形成するようになる。二十二人は三派に分かれ、互いの足を引っ張り合った。
三つ巴の争いは、しかし決定的な衝突を起こすほどには至らなかった。自身がより次代を担うにふさわしいことを現当主に訴え、領内外に喧伝する。要するに家中での力を誇示するための示威行動に終始していた。狭い家の中で相争うことが互いの利益を損ねると、皆がどこかで気づいていたのだ。
この問題にもようやく収束が見えてきたのは、誰が選ばれても互いの立場を尊重する旨の盟約がハンス黙認の下結ばれた空位(ジャン二世暴虐王が誅殺されて以来王位に着く者がいないためこう呼ばれる)十年、ヨアヒムの十回忌が催されるその年だった。
しかしてその年、思わぬ運命のいたずらがフォン・バレンティン家に降りかかった。
現当主夫人、イザベラ・フォン・ノイラートが齢四十五にしてその身に新たな命を宿したのである。
いうまでもなく、父親は前夫の甥であり代理で家督を継いだハンス・フォン・バレンティン。十年の時を経て二人は真実の夫婦となっていたのだった。
翌年無事この世に生を受けた子供は亡き先代に因んでヨアヒムと名付けられた。父と叔父譲りの美貌を持つ男児であった。
綻びの元は継嗣問題につき物の野心から生まれた。即ち、ハンスは自身の子をこそ跡継ぎにと思い始めたのだ。
思い立ったハンスの行動は早かった。生後一年にも満たない内に二十二人の従兄弟を居城に呼び寄せると、腕に抱いた我が子の前にひざまずかせて臣従を誓わせたのである。
二十二人の内二十人は胸中に反感を抱きながらも幼いヨアヒムの前にひざまずいた。ハンスの要求を拒んだ二人がその場で粛清されたからだ。殺された二人の後見人も後日しっかりと粛清する徹底ぶりであった。
ハンスの所業に跡継ぎ候補とその後見人たちはこぞって不満を募らせたが、家中に彼らの味方をするものはいなかった。それどころかこれを機に現当主ハンスへおもねる者が後を絶たなかった。
後見役の栄に浴さなかった彼らにしてみれば当然の行動といえた。後継者の擁立は所詮後見人同士の出世競争である。競争から取り残された彼らにしてみれば誰が次代の担い手になろうが知ったことではないし、どこの家がその後見として幅を利かせるようになっても面白くないのだ。
新生したヨアヒムを立てることは、決まりかけていた出世競争をひっくり返すための、彼らにとっては大変面白い逆転の一手だった。
また、先代ヨアヒムの死後十年という時もハンスにとって都合の良い展開を用意していた。
この十年の間、ハンスは代理とはいえ非常に良い領主だった。フォン・ノイラート家との折衝はそつなくこなし、急な代替わりで混乱する領内の経営に関しても問題なく治めてみせた。戦争ではよく引き際をわきまえ、大敗することなく万事安定した采配を振るった。その統治には先代以来の古参の臣下もこぞって賞賛したものである。
ハンスの賢明な領主ぶりは領内から徐々に先代ヨアヒムの威光を忘れさせていった。次代にはぜひヨアヒムの子供を、という空気を少しずつ変えていったのだ。政治に疎い小作農層などはなぜ跡継ぎ候補が二十二人も存在するのか忘れてしまった者も少なくなかった。
例外的に先代ヨアヒムの血筋を信奉していた一部の老臣(ヨアヒムの守役や近習を担っていた者が多い)もいたが、彼らはこの十年の間に第一線を引いている者が大半だったのですでに問題にはならなかった。
頑なに団結を謳っていた彼らが健在だったなら、ハンスは野心など抱かなかったかもしれない。
ハンス・フォン・バレンティンが果たしていつ頃から宗家の座を狙っていたのかは後世議論の的になっている。実のところ代理領主就任の際ヨアヒムの落胤とイザベラを婚姻させる案もあったのだが、それを強行に反対したのがハンスその人だったのである。このことから、ヨアヒムの死と同時期にはすでに御家乗っ取りを企てていたのではないかとも考えられる。
一説にはヨアヒムとその嫡子リヒャルトの命を奪った王都の政変「紅都の変」にもハンスの関与があるといわれている。巷間に流布する伝承ではイザベラに一目惚れしたハンスが兄を亡き者にするためジャン二世を唆したともいわれているが、いずれも一次資料に乏しく陰謀論の域を出ていない。
「もし生まれた子が女児だったなら、私の従兄弟は今も二十二人だっただろう」
後に彼の側近ベンヤミン・ロッホが主人の述懐をまとめた書物「フォン・バレンティン伯爵記」にはこう記されていた。資料的な信憑性には欠ける(厳密には女子や父方の従兄弟を含めれば二十二人より多くなるため)著作だがハンスの企図がイザベラ懐妊後であることを推す根拠の一つとしてしばしば取り上げられる資料である。
ともあれハンスは自身の野望を公の場で示した。フォン・バレンティン家はハンス支持の方向に傾いていた。
今やフォン・バレンティン家にとっての内憂と化した二十人の元跡継ぎ候補者たちは、事ここに至り初めて兄弟としての意思を統一することに成功した。
つまりは示し合わせて挙兵したのである。
彼らの一斉蜂起は後に「二十二人の義挙」と呼ばれた。急ごしらえされた一枚の軍旗は青地の中央に二十二の白い狼が円を描く形で配された独創的なものだった。飾り気のない一見すれば地味な旗はフォン・バレンティン家の紋ではない。
狼は攻城と包囲殲滅戦を好んだ亡き父ヨアヒム・フォン・バレンティンのあだ名である。いうまでもなく二十二の狼は彼らヨアヒムの私生児たちを表していた。
彼らは自らをフォン・バレンティン家の跡継ぎとは称しなかった。ただヨアヒムの子として、不当に葬られようとしている父の血の所在を世に示さんと願っていた。粛清された二人の異母兄弟と共に、彼らはハンスとフォン・バレンティン家に対してその反旗を翻したのだった。
非情なまでの戦力差があった。白き狼の元に集まったのは彼らを後見する家中の有力貴族、その一部のみだったのだ。
後見役を担いながらハンスに寝返った者は少なくなかった。後嗣教育に手を焼いていた彼らは義挙の企てを聞いてここぞとばかりにハンスの下へと走った。
その戦力比は概算で五倍以上にもなる。故に戦いはすぐにでも決着するものと思われた。
誰もの予想を裏切ったのはまず以って継嗣たちの奮闘ぶりだった。数で劣る狼たちは徹底的に決戦を避け、小回りの利く少数部隊による遊撃戦を展開した。
十年の教育期間が、彼らを一人前の将に育て上げていた。各々の役割と能力をよく理解し、それぞれができ得る最大限の働きをして執拗に相手の士気のみを損耗させた。
加えて、兵員の大多数が貴族で構成されていたという点も戦乱の長期化に影響した。反乱軍の率いる貴族の将兵はただひたすらに名誉だけを望む死兵と化していた。彼らが五倍の敵を相手に互角の戦いを続けられたのはこの士気の違いというものが大きかったといえるだろう。
死んでも名誉を残せる貴族と違って平民は当然死を恐れる。数としては圧倒的だが、平民から徴募された兵の多いハンス側は軍の質だけでかなりの不利をこうむった。
無論理由はそれだけではない。
もう一つの理由はハンス自身の将器だった。ハンスは確かに引き際をよくわきまえた優秀な将であった。戦場において大敗を喫したことがないことも事実である。
しかしその特質は同時に、攻めることが不得意な性質の表れでもある。実際に、ハンスは追撃をかければ敵を殲滅できるといった場面でしばしば軍を引かせた。数ある戦の中では要撃を備えていた敵もいたことだろうが、多くの場合追撃は行う側が有利となる。真に引き際を知る将ならば追撃をかけてから軍の進退を決めてもけして他に劣ることはないだろう。
この点、ハンスの戦才は多少なりとも臣下に買いかぶられていたというわけである。彼の不得手とする部分を補っていたのが此度の相手となる従兄弟たちなのだから、苦戦は当然といえるかもしれない。
さて、これだけでも十分ハンスの苦境を理解できるところだが、何よりハンスの頭を悩ませていた問題は別にあった。
反乱軍を勢いづかせた最後にして最大の理由は、フォン・ノイラート家の存在だった。隣国の支配者フォン・ノイラート家はあろう事か血縁者イザベラの敵である反乱軍を援助していた。無論表立ってのことではないが、戦の当事者であるハンスに気づかれぬはずがない。
彼らの企ては明白だった。即ち弱者を助けることにより戦乱を長引かせ最終的に疲弊した両者を併呑してやろうというのだ。
ハンスも、そして当然反乱軍もそれを理解していた。しかし、だからといって一度抜いた剣を納めることなどできなかった。
ハンスは妥協点を探していた。敵が虎視眈々と彼らの領地を狙っているのだ。身内で争っている場合ではないのだと。
いったいどの口が、という話だがそんな矛盾にも気づけぬほど彼は追い詰められていた。だというのに彼の側から頭を下げることはできない。一度夢に魅せられた者は現実という最も得やすい妥協をどこまでも忌避するのだ。
反乱軍に恭順の選択はなかった。端から彼らの大半は負けることを覚悟していた。ハンスの裏切りから始まったこの戦を、ハンスの口車に乗せられて収めるわけにはいかなかった。
ここにきて初めの二人の首を刎ねてしまったことが強い影響を残していた。ハンスの行動は確かに早かった。早いがゆえに浅慮といわざるを得なかった。
互いの望みが異なる以上、彼らには戦う道しか残されていなかった。