プロローグ
剣道場に響く奇声は、すでにして日常だった。
なんとなれば暦は五月。四月に入部したばかりの一年生達も、防具をつけ盛んに掛け声を発するその姿は、今や立派な剣士のそれなのである。技術としてはまだまだ稚拙、しかしながら勝利への欲求は元立ちを務める上級生らと比べてなんら劣るところがない。
初々しい後輩達の打ち込みを、内藤英二は微笑ましげに見つめていた。
一畳ほど隔てたこちら側は団体戦形式の試合稽古の真っ最中である。にもかかわらずよそ見をする余裕があるのは現在試合中の先鋒米本が絶好調の三人抜きを決め、今まさに相手チームの副将をあと一本のところまで追い詰めているためだ。次期部長候補と目されるこの二年生は新年度が始まって益々その地力を高めている。この調子ならレギュラーへの選抜もそう難くはないだろう。
「なんか面白いもんでも見えんのか」
話しかけてきたのは隣に座る中堅の小橋だ。英二と同じ三年生だが指導者の評価は英二より高い。もう少しまじめに取り組む姿勢があれば部を預かる立場に据えられてもおかしくないほどの実力者である。
「俺は剣道やる女は射程外だね。きついったらないぜ、性格がさ」
英二は苦笑した。
「そんなん見てないって。つーかこの前まで女は趣味が合うほうが良いって言ってなかったっけ? 上手くいってないんだ、二年のあの子とは?」
「バカ指差すな、とっくに別れたよ。もちろん俺が振ったんだけどな」
げんなりした顔で小橋は英二の肩に置いた手に体重を預けてきた。溜め息交じりにこぼれる愚痴は聞いてもいないのに止めどない。
「ホント嫌んなるぜ。休みの日に顔合わせても剣道の話しかしてこねぇし、どっか行きたい所あるかって聞いたら武道具店だぜ? 小売店って言うの? 初めて見たわあんなの。剣道の道具しか売ってねーの。で、店冷やかし終わってようやくサシになったと思ったらまた剣道トークですよ。先輩は面狙いが分かりやす過ぎますー、体力無いからって速攻で決めようとしてませんかー、日々の練習の成果がここぞって言うときに出るんですよー、って大きなお世話だっつーの」
「熱心でいい子じゃん。お前のことも良く見てるし」
「うるせーよ。どんだけ剣道上手かろうが関係ねーんだって。大事なのはやっぱ女としての魅力よ。こう、なんて言うの? 可愛くて、やわらかそうで、思わず抱きしめちまいたくなるような、さあ」
「そんなもんかね。俺は好きだけどな、剣道やってる女の子」
「はあ? お前誰か狙ってんの? やめとけってマジで。ろくなもんじゃねーよ」
がくがくと肩を揺さぶられながら、英二は遠くで新人への指導を行う白い袴を見ていた。
ぴたりと正眼に構えられた竹刀は一年のたどたどしい牽制に対してほんのわずかにも剣先を動かさない。ただ足運びのみで相手の攻撃を軽くいなす様は風にたゆたう花のようだ。何よりその美しさを際立たせているのは真っ直ぐに伸びた背筋からなる姿勢の良さだった。一年の無理な打ち込みを受けても地面に対して垂直を保つその立ち姿は、言いようも無く美しかった。
「百合原か」
英二の視線の先に気づき、小橋はふん、と軽く鼻で笑った。
「やめとけやめとけ、ありゃあ俺らには高嶺の花だ。気持ちはよ~く分かるけどな」
百合原真菜は校内でも屈指の有名人だった。父親は日本を支える大企業の社長。母親はかつて一世を風靡した世界的大女優。容姿端麗、成績優秀でおまけに性格まで良いとくる。そんな彼女を慕うものは数知れず、無謀にも思いを伝えて玉砕した少年達の死屍累々は校内全体の実に四割を超えると言う。これは軍隊ならば普通に全滅の数字である。何を隠そうこの小橋もまた、無残に散っていった若者の一人なのだった。
「高嶺の花かどうかは置いといてさ、あの構え、見てて綺麗だと思わない? 始めてまだ一年なのに、やっぱ百合原さんすごいよ」
「だからなんだよ。構えが綺麗だと興奮すんのか? そういうフェチかお前?」
呆れた英二が反論しようとすると、
「次鋒内藤、集中しろお前の番だぞ!」
監督の怒声が飛んだ。試合場を見ればいつの間にか副将を降していた米本が続く大将戦であっさり二本を取られ敗北しているところだった。英二は慌てて防具をつけ小走りで開始位置へと進む。
「頑張れよ英二。仇は取ってやるからな」
背後で小橋の冷やかし兼激励が聞こえる。彼の目算では英二の敗北は決定済みらしい。面に覆われた頭をかき、二歩進んで向かいに立つ相手の大将に礼。さらに三歩進んで中央の開始線で止まり、蹲踞。表情はよく見えないがすさまじい気迫が英二の頬を緩ませた。
(さすが部長。姿勢にぶれが無いな)
良い緊張感に軽く身震いする。向かいで構える相手チームの大将は現部長の蒲生である。勢いづく米本をストレートで降し、そのまま今度は逆五人抜きを決めようと言うのか。みなぎる闘志が対戦者のみならず英二の後ろに控える小橋らをも威嚇している。
「始めッ!」
主審を務める監督が開始の合図を出した。両者ゆっくり立ち上がり、直後、
「セェアァラァァァー!」
蒲生がなんとも聞き取れない気合を発した。奇声には奇声で、英二も応える。
「ハァー!」
挨拶が終わったのか、早速蒲生の剣先が英二の竹刀をはじいた。英二は下がりながらも正眼を崩さない。そのまま等距離を保ちつつ、両者は試合場の端へと場所を移した。あと二歩下がれば場外になる。英二はようやく足を止めた。蒲生の足も止まり、両者は自然睨みあう。
「シェアラァッ!」
蒲生の威嚇。しかし英二は動じない。じっと相手を見据え、次にどう動いてくるかを考える。
面に打つぞ、面に打つぞ。守らなくて良いのか?
蒲生の心の声が聞こえる。細かく上下に揺れる竹刀は、おそらくフェイント。面に来ると見せかけて、それを受けるために上げた篭手か胴にカウンターを入れる算段だろう。
(本命は篭手、かな。だったら)
英二はおもむろに竹刀を下げた。体幹に肩を溶かし込み、軽く前傾して剣先が指すのは蒲生の足元。下段の構えだ。それもまれに試合で見られるものより大分竹刀が下がっている。となれば当然面は無防備。
反射的に蒲生は踏み込んだ。
「メェェェーアッ!」
竹刀が弾ける。蒲生の面は届かなかった。踏み込みと同時に英二が前進し、有効打突部位を外したのだ。のみならず、英二の竹刀もしっかり間に合っていた。英二にしてみれば、面に来ると分かる竹刀を防ぐのはそう難しいことではない。交差する竹刀は必然鍔を合わせた。
しかし、防がれた蒲生はすぐに頭を切り替えた。土俵際での鍔迫り合いなら断然自分に分がある。もう退けない英二の体力を奪い、頃合を見て引き面、あるいは英二の側から場外に逃げるのを待つのも有りだろう。
「キィェェェェ!」
さあ、どうする。問い詰めるような奇声に英二は思わず片目を閉じた。
集中する。相手の重心と圧を掛ける筋肉の動きに。蒲生とは身長差がある。十五を前にしてすでに百八十近い長身を誇る蒲生の圧し切るような腕力に、加えて体重が乗れば、体格でも腕力でも劣る英二に逃れる術は無い。
しかしそれは単純な力比べで競った場合の話である。英二は面の中で軽く笑むと、不意に膝の力を抜いて重心を落とした。
驚いたのは蒲生だ。全力を以って切り結んでいた相手の存在が、突然ふっと消えたのである。前のめりに体勢を崩しながら、蒲生はすぐさま視界から消えていく英二の影を追った。
右手に逃れた英二の構えは脇。真っ直ぐ踏み込めばその剣先で蒲生を斬るのは容易である。対して、前傾する蒲生の剣先は勢いそのままに床を指す。面はさらけ出され、体勢も悪い。
危機感が瞬時に蒲生の体を動かした。即座に上がった竹刀は本能的にがら空きとなった面を守る。とっさの判断として、それは見事な動きだった。しかし同時に敗着の一手でもあった。
なんとなれば単純な話である。両腕を上げれば必然今度は胴の方ががら空きになるのだ。それを見逃す英二ではなかった。沈み込むように体を進め右脇に構えた竹刀を全身の力で振り抜く。
乾いた音が場内に響いた。誰が見ても明らかなほど見事な胴打ちだ。すぐさま体を返して残心も怠らない。高々とガッツポーズを掲げたいところだが、それも我慢した。
しかし、主審の旗は上がらなかった。副審を務める二年生も同様に首を振る。
「ックテェェェァァァー!」
体勢を立て直した蒲生が呆ける英二の篭手を打った。主審、副審の旗が上がり蒲生の一本が宣言される。
「あ……」
その時に至ってようやく、英二は有効が認められない理由に気づいた。
「内藤、声出せ、声ぇ!」
真剣での立会いならば議論の余地も無く英二の勝利である。しかしこれは剣道なのだ。剣道のルールに則れば、英二の繰り出した、適正な姿勢で刃筋も正しい残心ある見事な胴打ちは、残念ながら認められない。集中のあまり、英二は気勢を忘れていたのだった。
結局、その後あっさり二本目を取られ、小橋の予告どおり英二は敗北した。
「お前らさぁ、何で呼ばれたか分かってる?」
剣道部監督の村沢は溜め息交じりに問うた。
「まあ、何となく」と英二は答え、
「いやーさっぱりっす」と小橋はうそぶく。
どちらも期待していた返事ではなかったらしい。こめかみの辺りをひくつかせながら村沢はまず英二を見た。
「声、何度も注意したよな」
「はい、聞こえてました」
「ちゃんと意識してやってんのか」
「すいません。やっぱ癖みたいなもんで、集中すると黙っちゃうんですよね。掛かり稽古とかなら意識して声出していけるんですけど、試合となるとどうしても」
「構えは、まあ今回は一旦置いとくとして、足、踵着けるなって言ったよな、何度も。なんとかならんか」
「すいません。それも癖で」
アハハと屈託無く笑う英二を見て、村沢はふぅと溜め息。がりがりと頭をかいて、
「癖、なぁ。それは何度も聞いたけどさぁ」
内藤流合気柔術並びに武芸八般。無形文化財に指定されているこの武術の伝承が英二の家の生業である。そんな家に生まれた者の務めで、多分に漏れず英二も幼少より修練を積んでいた。床にぴたりと両足をつける。立会いの最中八双、下段、脇など、剣道ではあまり見られないような構えを見せるといった不自然な挙動は全てそこに由来するものだ。
自ら癖と称するその動きが原因で、英二は蒲生のような実力者からは「やりにくい相手」と名指しされることもあるが、習い始めの一年生にまで負けることもしばしばあった。小橋が曰くするところの「運ゲー」は英二との立会いを評価するのに最も適した言葉として部内では知られている。
村沢の頭痛の種がそこにあった。実力的にはレギュラーに入れても申し分ないはずなのだが、どうにも安定感が無く中々踏ん切りがつかない。家庭の事情もあるだろうに無理やり矯正するわけにもいかず、さてどうしたものかと頭を悩ませていると、
《村沢さん》《ちょっと》
頭に響く声が水を入れた。見れば入り口のあたりにスーツ姿の女性が一人所在無さげに立っている。学校の事務員だ。
道場というものに気を使っているのか、事務員は入り口付近に立ったまま、今度は大きな肉声で用件を伝えた。
「三年一組の内藤君いますか? 内藤英二君」
村沢に目で示されて英二は手を上げる。
「履修登録の期限が迫ってます。明日から月曜までメンテナンスで端末室には入れなくなるので、今日中に登録を済ませておいて下さい」
「はい」と大きく返事をし、監督をうかがう。
村沢は苦い表情のまま、「いいよ」と促した。言いたい事はもう言った。英二の扱いがどうなるかは最早英二次第なのだ。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」英二は駆け足で道場を出て行く。
「おつかれっすー」小橋も続いて英二を追う。
「待てコラ」
即座に小橋の首根っこを掴み、村沢は口角を上げた。小橋には英二のような特殊な事情は無い。その代わり英二以上に言いたいことが山ほどある。
「監督~、俺も履修登録まだなんすよ~。行かせてくださいよ~」
悪びれもしなければ恐れてもいない無邪気な笑顔で小橋は村沢を見上げた。
「お前は家でもできるんだろうが。この際だからみっちり話し合おうか小橋君」
「え~勘弁してくださいよ~だるいっすよ~」
懲りないなあいつも。英二は軽く道場を一瞥し心の中でつぶやいた。
部活動が終わり、武具の点検と通用口以外の戸締りも済んで、静まり返る道場には二人だけが残った。
「じゃあ、はじめよっか」
面を手に持つ百合原真菜が、綺麗に整った笑顔で英二を見る。
「ああ」英二は肯いて、面をつけた。篭手の具合を確認し、竹刀を構え、開始線のあたりで正眼に構える。
見れば百合原の準備も終わっていた。構えは同じく正眼。その立ち姿はやはり美しい。
「行くよ」
「どうぞ」
瞬間、百合原の気勢が場内に鳴り響いた。
「ツァァァアァー!」
超音波のような高音。あの美人からそれが飛び出しているのかと思うと、英二は少しおかしくなった。しかし、気を緩めたのは一瞬だ。改めて英二は相手の構えをうかがう。
足はしきりに前後しているが、ぴたりと据えられた剣先は微動だにしない。蒲生のような牽制が飛んでこないのは男女の筋力差を警戒しているためか。身長は大して英二と変わらないが、篭手と胴着の間、わずかに見えるその両腕は、やはり明らかに細い。確かに力比べなら工夫せずとも英二の圧勝だろう。
とは言え、掛かり手である百合原の側から動かなければ練習にならない。掛かり稽古において元立ちに望まれるのは堅守のみである。
と、百合原の剣先が微かに下がった。同時に動く。
「ッテェェェァァー!」
狙い通りの正確な篭手。だが、真っ直ぐすぎる攻撃は防ぐこともまた容易だった。鍔に阻まれたその打突は篭手まで届かない。竹刀をはじかれ、後退した百合原はすぐさま果敢に突進した。
「ンメェェェーッ!」
しかしそれも無謀な突撃だ。待ち構えていた英二の上段が当然の様に面を守る。
「ダァァッ!」
ならばと、すかさず引き胴。しかし竹刀は空を切った。面を受けた直後に英二が二歩も下がっていたのだ。
いつもどおりの鉄壁に、面の下で百合原が苦笑した。
百合原真菜が戸締りで一緒になった男子を居残り練習に誘うのは有名な話であった。当初こそ、彼女とお近づきになりたい下心に衝き動かされた少年達がこぞって当番の座を争ったものだが、ことが有名になるにつれ、次第にそんな物好きはいなくなった。
理由は彼女の本気っぷりにあった。稽古内容は主に掛かり稽古。そして男子に任されるのは決まって元立ち、つまり攻撃を一方的に受ける側のほうである。女子とは言え、男子顔負けの高身長から繰り出される正確無比な打突の連続は、受ける者の体力と気力を瞬く間に削り、居残り練習に付き合わされた男子はほぼ例外なく足腰が立たなくなるまで打ち込まれまくった。
それなら攻守交替を申し入れればいいだろう。そう考える者がいないでもなかったが、あの百合原に「お願い」と言われてしまうと、どうしてもノーと言えない男の性が彼らにはあった。
また、仮に攻守を変えたとしても、あの百合原相手に打ち込んでいけるのかと問われれば首を横に振らざるを得ない。あざの一つ、こぶの一つでも百合原真菜の体に作れば、お近づきどころの話ではなくなるのだ。
いつしか、百合原との戸締り当番はその仕事の内容以上に損な役回りとして忌避されるようになっていた。
そこへいくと、英二の存在は数少ない例外の一人と言えた。堅守とカウンターを得意とする英二は、百合原による鬼のような猛攻をただ受け続けることに苦を感じていなかった。巧みにさばき、受け流しながら百合原の美しい構えを眺めているうちに、いつも攻め疲れた百合原の方が先に音をあげるのである。
やはり今日も決着は同様だった。荒く息を吐く百合原が竹刀を納め、へたり込むように床に膝をつける。
「ふぅー、やっぱすごいね内藤君。また一本も取れなかったか」
英二も竹刀を納め、面を外した。汗ばんではいるが呼吸にさしたる乱れは無い。
「百合原さんもすごいよ。構えに疲れが全然出てない。いつまで続くんだって不安になった」
口元に手を当てて、百合原は上品な笑いを漏らした。
「ふふ、ごめんね。いつも遅くまで」
面を外して露わになるのは薄桃色に上気した頬だった。こめかみから流れ落ちる玉の汗が頬の丸みをすべり、あご下を通って胸元に消えていく。汗に濡れたうなじには乱れた後れ毛がいびつな溝を刻むように張り付いていてどうにも艶っぽい。
「いや、そんな、別に大丈夫だけど」
英二は思わず赤面した。しかし目はそらさなかった。赤い顔も今なら稽古のせいにしてしまえる。これくらいの役得なら罰は当たらないだろう。
「でも、本当に悪いよ。何かお礼しないとね」
英二の視線には気づいていないらしい。百合原は無造作に手ぬぐいを取って更なる色気を振りまく。
堪らず英二は背を向けた。いそいそと篭手を外して片付けをはじめる。これ以上は理性が持たない。耳の先まで赤くしておきながら押し倒すことも口説くこともできないところ、少年はやはり少年だった。
「アハハ、お礼か。飯でもおごってくれるの?」
「安いね内藤君。そんなのでいいんだ」
「安いか」そう言えば金持ちだったなと今更思い出す。なるほど、百合原の家の財力なら食事を一回振舞うくらい造作も無いことだろう。英二はごくりと生唾を飲み込んだ。隙を招いたのは百合原だ。多少高いものでも構わないと本人が言っているのだ。
踏み込め。踏み込め!
本能に従って、英二は一気に間合いを詰めた。
「じゃあデートでもしますか。近所に竹刀とか取り扱ってる店があるらしいんだけど、よかったら次の日曜あたり」
不意を打つ英二の一言に、瞬間百合原は声を上げて笑いだした。手で隠しきれないほど大きく口を開け、腹がよじれるとはまさにこのことだろう。品は無いが今度は年相応の可愛らしさがある。おそらく脈は無いだろうに、英二は肩越しに盗み見たその笑顔を憎めなかった。
「お、面白いね、内藤君。初めて言われた、そんなこと……っく、ふふ」
「そりゃどうも」
一本入った。しかし、英二の打突はまたしても無効だった。理由はさしずめ姿勢の乱れと言ったところか。いや、気勢も足りなかった。有効打突部位も外していたかもしれない。
駄目だな今日は。勝てそうも無い。英二は心の内で嘆息した。
ひとしきり笑い終えて百合原は目じりをぬぐった。これだけ楽しんでもらえたのはせめてもの救いである。手ぬぐいを外し、胴紐に手をかけたところで、英二の背後に座る少女は溜め息とともにつぶやいた。
「良いよ」
「ん?」
「今度の日曜でしょ? 予定ないし」
紐がぽとりと床に落ちた。小さな音なのに、それは奇妙なほど空間に響いた。
たっぷりと間を開けて振り返る。
「……マジっすか?」
百合原は再び汗に濡れた黒髪を手ぬぐいでまとめていた。腰まで届く長髪を手品のように布の中に収めると薄い唇で笑みを作る。
「ただし、一つだけ条件ね」
面をかぶり、篭手をつけ、左手に竹刀を提げて試合場の端へ行く。境界線をまたいで中央に向き直るとそこは開始線までおおよそ五歩の距離だ。すでにして表情は見えない。だがその意図と覚悟の程は容易に理解できる。
「一本勝負。もし私に勝ったら日曜はデート。負けたら日曜も付き合ってね、稽古」
ぐらっ、と英二の知覚する世界が揺れる。重力は突然その役割を放棄し、明るいはずの照明は自分と、対峙する白い袴のみに降り注いでいる。
日曜はデート。デート。デート。デート。
英二は判然としない意識のまま防具を付け直した。二歩進んで礼。三歩進んで竹刀を抜き蹲踞。習慣が彼の体を自動で動かす。
デート。デート。デート。
脳内に「デート」の三文字が延々と反響する。耳鳴りのようなそれに終わりは無い。
向かいに立つ白い袴がひどく遠くに見えた。
いまだ肌寒さの残る風が、河川敷を駆け抜けていた。時刻は午後八時ごろ。今時分はどこの家庭も夕食を終え一家団欒に勤しんでいることだろう。ためか、遊歩道にも堤防を上がった車道にも目立った人影は無い。
もっとも、周囲に誰がいたところで彼には関係のないことだ。
ホップ、ステップ、ジャンプ、からの二回転半ひねり。着地と同時にぐっと力をため、今度は転がる玉のように歩道を駆ける。走り疲れれば足は自然緩慢になるが、決して止まることは無く、独特のリズムで地面をこする。タッ、タタッ、タッ、タタッ、と軽快に響くその足音は今日び見ることも珍しいスキップによるものである。鼻歌交じりに小躍りしながら帰宅の途へとつくこの少年こそ、誰あろう英二であった。
百合原との勝負に英二は負けた。正眼に構えた真正面から面を打たれる、まさに完敗だった。にもかかわらずご機嫌なのは当の百合原からもたらされた提案のためだった。
「せっかくの日曜に一日中稽古ってのも味気ないからね」
午後は自由時間にします。百合原はそう言って組んだ両手を腰の後ろに回した。
「内藤君が誘ったんだから、ちゃんと楽しめるようなプランを用意すること」
遠くから見れば美人系の百合原が、長い黒髪をふわりと弾ませいたずらな笑みを浮かべて英二を覗き込む姿はたまらなく可愛かった。
その瞬間、いや、もっと前からだろう。英二の世界には百合原真菜しかいなくなった。彼女を見れば鼓動が勝手に早鐘を打ち、彼女の澄んだソプラノだけが英二の鼓膜を震わせる。用もないのに話しかけたくなるが、何かを言おうと思うたび、からからに渇いた喉が張り付いて何の音も出せなくなる。仕方なく英二の口はあいまいな微笑で彼女に答えた。口が笑むと、呼気と共にこみ上げてくるのは「えへへ」というだらしない笑いだ。
何のことは無い、内藤英二は恋をしていた。金曜の夜、二日後に待つ人生最高の一日を夢想して、英二は少女のように舞い上がっていた。うら寂しい河川敷の遊歩道を駆け回りながら、英二の心は成層圏を越えるほど高く遠くに旅立っていたのだ。
「たっだいまー!」
いつものペースより大分遅く、英二は玄関の敷居を跨いだ。照明も無く、いやに静かな廊下。いつもの英二なら何かしら不審に思ったことだろう。
蓋し恋は盲目だった。乱雑に靴を脱ぎ捨て、上がり框に防具一式を置いたところで、不意の閃光が英二を撃った。直後に英二は脱力する。廊下にしたたか頭を打ち付けた頃、英二の意識はすでに彼方だった。