後ろの正面 Act1
side:日下部光輝
一度登校日を迎えてしまえば、もう夏休みの終わりなんてすぐだ。
残りの一週間は特に何もすることがなく、ずっとだらだらして過ごしてしまっていた。夢幻座のほうも演目が決まったばかりなので、活動といえるほどの活動はあまりない。俺の先輩にあたるスタッフさん達や演出部を交えた打ち合わせや確認が多くて、正直俺の入る余地なんてなさそうだ。
今回のミュージカルでは、徒花はアンサンブル以外に役は入っていないらしい。「いつもはこんな感じだから」と徒花は肩身が狭そうだったが、逆に言えばその分文化祭での演劇発表に力を注げる。あいつの演技を、今度は客席じゃなくて同じ舞台から見ることができる…流石に今日はまだ始業式だから、一緒に練習するようなことはないだろうけど。
前島に勧められた現代語訳付きの『曽根崎心中』の表紙をなんとなくめくろうとした丁度その時、教室のドアが開く音がした。
「…あれ、なんで?グミちゃんは?」
岸内の声に遅れて顔を上げる。確かにドアの前に馴染みの小森先生の姿はない。入ってきたのは二人いるうち、影と髪の薄いことで有名なほうの教頭先生だった。
並ならぬ雰囲気にざわめく俺達2-Cは、彼の口から発せられた言葉にさらに驚くことになる。
「えー、小森先生はだね…先日不審者に襲われそうになったということなので、その時のことについて今緊急の職員会議で話をしてもらっています」
——不審者。
注意書きの中でしか見たことのない単語を間近で聞いて、俺は少しの間動きが止まった。クラスメイト達も皆一様に動揺しきった顔を見合わせている。
「不審者って…なにそれ、初耳なんだけど!それでグミちゃんは大丈夫なの!?」
机を蹴飛ばしそうな勢いで岸内が食ってかかる。教頭先生は、
「だ、大丈夫…なはずですよ、今日も元気に登校しておられましたし……例の事件があったのも、登校日の晩で一週間も前ですから…」
「時間が経ったっていっても……被害者側からしたら気持ち的にどうなの、それ…」
今まで見たこともない岸内の真剣な顔もあいまって、騒然とする教室。小森先生のことも気になったが、まともに話も聞いてもらえずひたすらおろおろする教頭先生も可哀想だ。誰も彼も、こんなことは初めてでどうしていいかわからないのだ。
「すみません教頭先生、先に来ていただいて…」
「グミちゃん!!」
そこへ、当の話題の中心がおもむろに顔を出した。
喜びとも心配ともつかない声をあげる岸内に、小森先生は大丈夫とばかり、ちらっとだけ微笑んでみせた。安心させようとしたのだろうが、逆にそんな些細な仕草が余計に嫌な憶測を煽る。
改めて謝礼か会議の顛末かを簡単に教頭先生に伝え、「さて」と前置きしてこちらに向き直る。
「教頭先生からもうお話は伺ってるみたいね、私のこと」
小森先生は軽い苦笑いをして、何とも言いかねている俺達を申し訳なさそうに見回した。
「見てのとおり、私なら大丈夫よ。確かに一度そういう目には逢ったけれど、たまたま近くにいた知り合いの男の人が助けてくれて…大した怪我もないわ。心配をかけてごめんなさいね」
教頭先生がいそいそと退室していく。教室の中はまだざわついていて、調子のいい連中もいつものような軽口を言ったりはしない。
「不審者注意のお知らせプリントは、終礼のときに渡せると思います。みんなもこれから文化祭の練習なんかで遅くなったら、くれぐれも夜道には気をつけて。最初に襲われたのが私だったから良かったけど…」
「そーゆー事言うからダメなんだよ!グミちゃん危機意識なさすぎ!」
途中で声を張り上げたのはやはり彼女だった。
「……岸内さん?」
「最近は変な奴がいっぱいいるんだから、もうちょっといろいろ警戒しなきゃ!グミちゃんなんかちっちゃいから、多分女子大生かなんかに間違われてヘンタイに目ぇつけられたんだよ、絶っ対!」
「…そうね、ありがとう。これからは私自身も気をつけるわ、岸内さん」
「いい?これからは仕事で遅くなったら、その辺に残ってる男の先生とっ捕まえて送らせればいいんだからねっ!ここの先生達みんな貧弱だけど、女子ひとりよりはよっぽどマシなんだから!」
どっちが先生なんだか分からないくらい偉そうに、でも心から先生を想って一気にまくしたてる岸内。うるさい奴だけど、こういう時真っ先に相手を気遣えるのが彼女のいいところだった。久々に見直したのも束の間、案の定というかなんというか、岸内は最後にこう付け足した。
「そ・れ・と……助けてくれたっていう《知り合いの男の人》のこと、あとでたっっぷり聞かせてもらうよ?」
今日は全体練習はないことになっているけど、俺は自主練をしたいらしい徒花と一緒に夢幻座の稽古場に向かっていた。学校が終わってから練習するとなると帰りは結構に遅くなるみたいだし、今朝の話を聞いたすぐ後じゃ多少心配にもなる。
「小森先生、何ともなかったみたいで良かったね」
「ああ、最初に聞いた時はびっくりしたけどな…。 それにしてもあいつ、切り替え早過ぎるよな」
「岸内さんのこと?ふふ、確かに」
先生にひとしきり説教(?)を終えた後の岸内の暴走はすごかった。先生も根が素直なものだから、助けてくれた知り合いの男の人とやらについての情報は結局おおかた搾り取られてしまったらしい。聞きかじった話によると、高校の時の同級生だったとか。だが質問された時の先生の動揺の仕方が尋常じゃなく、前島曰く「ありゃあ岸内の妄想も今回ばっかりはマジかもしれねぇな」…そんな呑気な話じゃないだろ。助かったとはいえ危険な目に逢ってたっていうのに。
稽古に使う中でも一番小さな部屋を目指して歩きながら、徒花は1月に夢幻座が上演する演目について話をしてくれた。前回の話は全体を通しては明るいものだったけど、今回は全く違うらしい。復讐が一つのテーマになったダークファンタジーって、ミュージカルになるとどんな感じなんだろう。ミュージカルってなんとなく明るいイメージがあったから、あまり想像がつかない。
「徒花はよく、こうやって自主練に来たりとかするのか?」
「うん、それなりにね。
本番が近くなるとほとんどの人が自主練に集まることが多いんだけど、私は下手だから……みんなより早くから練習を始めなくちゃ」
控えめに微笑みながら、でも徒花は当然のようにさらりと言ってのけた。クラスでもそうだけど、こういうところでも彼女は真面目なのだ。
「凄いな……努力家なんだな、お前」
「そんなことないよ。《出来ないからやってる》だけで…何もしないと私、ほんとダメダメで。それにどんなに長い時間練習しても、ちゃんと成果を発揮できるようにならないと意味がないから。…えへへ、この台詞、副座長さんの受け売りなんだけどね」
自信のなさを打ち消すように、徒花は苦笑いをしてみせる。俺は返事の言葉に詰まった。
努力をしても目に見えた成果が出なくて、自分が情けなくなることばかり……それは俺も徒花も同じだ。だけど彼女は迷うことなく頑張り続ける。——プロだから。家族に隠し事をしている後ろめたさに怯えて、逃げるように夢幻座へ通っている俺とは大違いだ。
「なあ。……徒花は、どうして演劇を始めようと思ったんだ?」
ふと、そんな疑問が口をついて出た。特に何か意図したことがあったわけじゃないけど、そういえば気になっていた。徒花はちょっと考え込む素振りをして、同時に歩く速度を落とす。もう稽古場の扉の手前まで来ていた。
俯いていた目が少しずつ前を向くと、懐かしさとか切なさとか、おそらくそんなものがないまぜになったような表情が映る。俺の左側、胸の少し上あたりの空気がかすかに震えた。
「あのね———」
「『——貴女方は実に滑稽だッ!!』」
突然、徒花に被さる形で稽古場の中から声が聞こえてきた。
扉を隔てているのに、迷いなく耳に飛び込んできてずんと腹底に響く声。いつもとは違うけど、この声…
「………お兄ちゃん」
徒花の声は溜息混じりだった。
「『ありもしないものに祈りすがりつく!まさに子羊の群れ、丸々と太った愚かな家畜ッ!!惑いなさい迷いなさい祈りなさい恐れなさい!そうやって流す苦しみの涙がッ!私にとっては極上のスパイスだァ!!』」
高らかな哄笑と長台詞。声とガラス越しに見える背中だけでこれだけ感情が昂っているのがわかるのに、台詞として何を言っているのかがはっきり聞き取れる。さっきの話によると彼の役は神父に化けた暴食の吸血鬼…衣装も着ていないのに、その姿がひとりでに俺の中に形作られていくようだ。
「日下部くん、やっぱりこの部屋やめよっか」
「ちょ、ちょっと待て!何でだ!?」
一人ですたすた歩きはじめた徒花に呆気に取られていると、中にいた高嶺さんが(鏡で見えていたらしい)くるっと振りむいてこちらにやってきた。さっきの演技中とは似ても似つかない慌て声だ。
「だって、ここお兄ちゃんが使うんでしょ。私もアップとかしたいし…」
「だからってなにも部屋を移すことないだろう、私がここを独り占めするわけじゃないんだから」
とりあえず中に入りなさい、と半ば強引に彼は俺たちを練習場に招き入れる。
「自主練…してたんですか?」
俺はついさっき徒花にしたような質問を無意識に彼にぶつけた。
「ああ、そんなところかな。読み稽古はまだ始まっていないんだが、このあたりの台詞をとにかく早く口に出してみたくてずっとうずうずしてたんだ! …家でやると怒られるしな」
「当たり前でしょ!」徒花は呆れたように言う。
「うち住宅街だから、大声出すと外から丸きこえなんだよ?近所の人に会うたびに苦笑いされるの、私たちなんだからね!?」
…そ、そうか。意外と大変なんだな……
「そう怒らないでくれ…どこへ行くんだ?」
徒花は一度置きかけた荷物を持ち直し、くるっと回って扉から退散しようとしていた。そのまま首だけ振りむき、ほんの少し不機嫌そうな顔で、
「分かるでしょ、練習着に着替えてくるの」とだけ答える。そしてまた、ほんの少しの意思表示らしくぱたんと音を立てて扉を閉めていった。
稽古場に残った俺達二人はしばらく同じ顔で突っ立って、どちらからともなく顔を見合わせた。
「……なんだか申し訳ないな。実結の付き添いで来てくれたんだろう?光輝くんは」
あまり見たことのない、困ったような表情。なんだか俺も困ってしまった。俺にも兄さん達が居るからわかるけど、兄弟間でのやりとりなんて他人に見せたいものじゃない。特に多少の確執がある場合なら、なおさら。徒花の態度のことは前から気になっていたが、これじゃあどうにも聞く気になれない。
「そう、ですね。えーっと……」
「高嶺でいい。実結も私も『徒花』なんだ、苗字じゃ紛らわしいからな」
「はあ…じゃあ、高嶺さん。あの……待ってる間、なにか手伝うこととかありますか?」
高嶺さんはしばらく首を捻ったが、やがて
「いや、ただの自主練だからな…。まだ続けるつもりだが、私のことはいないものと思って寛いでくれていて構わないぞ」とさらりと言った。
さっきの長台詞でひとしきり落ち着いたのか、俺に気を遣ってくれたのか。彼は声を張る練習を切り上げ、台本を覚える作業に入るようだった。飲み物を脇に置いて座りなおすと、彼は本のように綴じたそれに一気に集中力を注ぐ。小声で台詞を反芻しながら、立ち稽古をイメージしているのかたまに視線や身体を軽く動かしはじめた。
しばらく見入ってしまっていたが、集中しているみたいだし、あまりじっと凝視するのも失礼だろう。手伝うことはないって言われたけど、することが欲しいな……。俺は何とはなしに自分の鞄をたぐり寄せ、中に手を突っ込んでみた。
授業があったわけじゃないから、いつもと比べると中身は少ない。ふと半端な大きさの本に手が触れる。参考書…じゃないな、これ。引っ張り出してみてようやく納得した。
曽根崎心中。文化祭で実際使うものが渡される前に、少しくらい内容を頭に入れておいたほうがいいだろう。細かい字の前書きっぽい箇所を飛ばし、本編らしきところを飛ばし、とにかくまずは現代語訳のページを探す。
うわ、なんだこれ。とにかく最初の語りがめちゃくちゃ長いんだな…。はじめの章では、寺めぐりをしているらしいヒロイン(でいいのかな?)のお初の美しさが延々と描写されている。というか、お初って遊女だったのか。少し前まで横を歩いていた徒花の顔がふっと浮かび、あわてて首を振ってしまった。
(『——まあ、あれは徳様ではないの。徳様、徳様…』)
お初の最初の台詞はこれだ。分かりやすいな、話はふたりが再開するところから始まるってわけだ。ということは、必然的に次は徳兵衛の——俺の、台詞。
さっきの高嶺さんの言葉が頭に浮かぶ。「早く口に出してみたくてうずうずしてたんだ」……そんなにおもしろいものなのか、台本の台詞を読むのって。
ただの、些細な好奇心。だってどうせそのうちやることになるんだ。したんだ、俺が。
いつかはやるんだから————今、ちょっと、やってみようかな。
「…『おい、長蔵。俺は後から行くから、お前は寺町の久本寺様、長久寺様、上町から武家屋敷を回って、そうして内へお帰り』……」
ほとんど口の中だけで、ぼそぼそと呟いてみる。これだけでなんだか気恥しい。でも、本当に舞台に立つならこんなんじゃ全然駄目だとも思う。夢幻座の人達みたいにはっきり話さないと。
心持ち吸う息の量を増やして、次の台詞に目を通す。
「『徳兵衛もすぐに戻ると言いなさい。
そうだ。忘れずに安土町の紺屋へ寄って、銭を受け取るように。道頓堀へ寄りなさんなよ』…」
全然。まだ文を読んでいるだけだ。まだだ、もっと出来る。根拠もないのに、そう感じる。胸の奥のざらざらとした何かが俺を急かした。よし、次はもっと上手くやろう。息を胸いっぱいに吸い込んで、
「『これ、お初じゃないか!これはどうしたことじゃ』!」
「光輝くん?何を読んでるんだ?」
——危うく叫ぶところだった。高嶺さんが隣まで来ていたことに、全然気づかなかった。とっさに本を閉じると、高嶺さんはさらに顔を寄せてくる。
「…曽根崎心中……?」
「あ、えーっと…文化祭でやるんです。俺、徳兵衛やることになっちゃったんで……」
隠しても仕方がないし。夢幻座の人なら笑われたりする心配もないはずなのに、歯切れは悪くなった。もしかして彼の練習の邪魔をしたかもと怖くなって、ちらりと上目だけで顔色を盗み見る。高嶺さんの表情はしかし、みるみるうちに輝きだした。
「舞台に立つのか!?凄いじゃないか!!」
「凄くはないですよ、他にやりたい奴が居なかったみたいなのでなりゆきで…最終的に立候補したのは俺ですけど」
「きっかけなんて何でもいいのさ、経験はしてみるものだぞ。丁度私も休憩しようとしていたところなんだ、練習に加わっても構わないか?」
「えっ、い、いいんですか!?」
驚いたし恐縮もした。こんな凄い人が俺みたいな初心者の、たかが文化祭の練習に付き合うなんて、それこそ役不足にも程がある。しかし本人はそんなこと気にも留めない様子で、「さっきやっていたのをもう一度見せてくれ」と俺の正面に座りなおした。
「……うーん」
ひととおりさっきのことはやってはみせた。個人的には最初にやったときよりは上手くできたかな、と思ったのだが…終わってしばらくしてからずっとこれだ。
「あの…ダメでした、よね……すいません、こんなんで…」
「いや、違うんだ光輝くん。別に君がダメだったとかそういうのでは全然なくて、…ここからどう良くしていくべきなのかな、と思ってな……」
そう言ってまた唸りはじめる。…失礼なんだけど、この時俺はちょっと拍子抜けしてしまっていた。今まで見てきた副座長さんとか立羽さんが、教える相手に演技をさせた後はすぐ改善点を指摘していたのがずっと頭にあったせいだと思う。てっきり、上手い人ってみんなそうなんだと。
そこまで考えて、いつかの座長さんの話が思い浮かんだ。———上手いっつってもさ、高嶺のってこう…《天才》的なアレじゃん?
「自分から持ちかけておいてなんだが、こういう練習の仕方ってあまり経験がないんだ。昔……それこそ始めたばかりの頃は、よくやっていたけどな。成長するにつれて、その機会がどんどん減っていった。気付いたことと言われたことを《出来るようになるまで》やって、それで出した答えが大体正解だったから」
ほとんどの人が聞けばたちどころに怒りだすか、敬遠するような言葉。でも、それを一番よく理解しているのもおそらく彼自身なのだろう。高嶺さんはいつものきりっと整った眉を下げ、寂しそうに笑った。
「あ…だったら高嶺さん、もし良かったら、いま俺がやったところを見せてくれませんか!?」
無理に明るい声を出したこと、見抜かれただろうか。普段のキラキラした姿以外の彼を知らないから、なんだか見ていられなかった。きょとんとした顔。自分の動揺を隠すみたいに、さっき開いていた本のページを探して彼の目の前へ差し出す。
「私がここを演じればいいのか?」
「見せてもらえたら、どこを直せばいいのか分かるかなって…」
「そう…だな。よし、やってみよう」
ぱん、と手を叩いて、高嶺さんは『曽根崎心中』を取った。その顔はいつもの頼れる先輩然としたもので、俺はひそかに安心した。
俺が開いて見せたページのほか、前のページやかなり後のほうまで念入りに確認している。…おかしいな、さっきやった台詞にそんなに量はなかったはずだけど。その後は一番最初に見せた箇所にページを戻し、集中的に読み込んで。そして納得したように頷いて、《俺に本を返した》。
「———えっ?」
「行くぞ」
短い返事。二度の瞬きで、彼の瞳に宿る光はその色を変えた。
俺から少し離れたところに、まるでずっと歩いていたうちの一瞬を切り取ったかのように左足を前へ。と、ほぼ同時に何かに気が付いてはっとする。笠を直すしぐさをして、分かるか分からないかくらいに頭を下げる。ああそうか、これは「何か」に対しての返事なんだ——そう思った瞬間、彼はつと俺のほうに振りむいた。
「『これ、長蔵』」
ざ、ざ、と二度足を踏んで、完全に俺に向き直る。俺に?…いや、そうじゃない。今の俺は、今《彼》の目の前に居るのは、紛れもなく長蔵なのだ。
「『俺は後から行くから、お前は寺町の久本寺様、長久寺様、上町から武家屋敷を回って、そうして内へお帰り…徳兵衛も、すぐに戻るといいなさい』」
特有の小気味いいリズムですらすらと続いた文言は、最後に付け足した早口でわずかに崩れる。少し視線を上にやって考えたあと、徳兵衛は思いついたように「『そうだ!』」と手を打つ。
「『忘れずに安土町の紺屋へ寄って、銭を受け取るように』」
言ってくるりと踵を返す。少しの間。歩きはじめた肩越しに、もう一度だけ振り返った。片手を挙げ、もう片方は口元に添え、遠ざかっているであろう背中を追って視線をはるかに。悪戯っぽい笑顔を浮かべたら、そのまま大声で
「『道頓堀へ寄りなさんなよーっ!』」
挙げた手を下ろし、口元の手を下ろし、一息。息を吐き終わらないうちに、押さえつけていた衝動を解放する徳兵衛。ばっ、とこちらに足を踏み出すと、花が開くみたいに顔をほころばせる。
確信した。今俺がいる場所に立っているのは、お初だ。
「『これ、お初じゃないか!これは、』」まで言って、視線を泳がせて言葉を探す。とっさに見つけられなかったのか、ひとりでに零れ落ちるのは感嘆だった。「『…どうしたことじゃ!』」
「……すごい」
本に書かれていただけの言葉が人間になる。台詞が高嶺さんによって人格を持ち、こんなにも生きいきと動き出す。こんなことが、…俺は、本当に出来るようになるのか?
「どうだった、何か分かりそうか?」
もう一度高嶺さんが俺の前に座りなおす。俺と高嶺さんで違ったところなんて、多すぎて数えきれない。それでも何か答えたくて、考えを巡らせたそのとき。
扉が開いた。
「……師匠?どうしてここに」
高嶺さんは慌てて立ち上がった。俺もつられて立つ。驚いた顔の俺達を、副座長さんはその場で短く確認した。
「今日は仕事が入ってたんじゃ…」
「もう済ませた。美術班が大道具のことで打ち合わせたかったらしい。今帰るところだったんだが、そこで妹の方に出くわしてな」
不吉な間。俺はとっさに身を竦ませたが、副座長さんが見たのは高嶺さんの方で。
「てめえ、日下部に《やって見せた》だろ」
ゆっくりと、探るように副座長さんは言った。いつもみたいに怒鳴ったりはされていないのに、何故か無性に恐ろしい。彼のことがじゃなく、自分がとんでもないことをしてしまったのに気づかされたような。
「なにか、いけませんでしたか」
「最悪だな」
すぱん、と迷いない返事だった。いよいよ後ろめたくなって、心臓の音がいやに全身に響きはじめる。
「役者に演技を教える時に、実際にやって見せるのは絶対に駄目なんだよ。風巻が脚本の解釈教える時も、俺がてめえらに指導する時も、『こうしろ』っつって見せたことは一回もなかったろうが」
隣ではっと息を呑む音が聞こえた。
「特にてめえみたいに影響力が強い奴は、教える上じゃ素人未満だ。改善案を教えたつもりが、相手の演技を殺すどころか何も考えられなくする羽目になりかねん」
副座長さんは長い溜息をついた。呆れたような、憐れむような目が、愕然とする高嶺さんを静かに見やる。
「新人が入って嬉しいのは分かるがな。分不相応な真似はよせ。
……いつかそのうちまた、取り返しのつかねえ事になるぞ」
「——ッ!!」
びくっ、と高嶺さんの肩が震えた。
大袈裟に思えるほどに見開いた目。服の胸元を片手で握りしめ、何かをこらえるようにぐっと唇を噛む。嘘のはずはない。彼は、何をこんなに怯えてるんだ?
「…光輝くん」
俺を呼ぶ声が微かに震えていた。正面から高嶺さんは真っすぐ俺を見ていたけど、まるで何処かずっと遠くの誰かを見ているようでもあって。
「君の可能性を潰そうとしたわけじゃないんだ……考えもなしに軽薄なことをして、本当にすまなかった」
がばっと音がしそうなほどに勢いよく頭を下げられる。混乱となんだか怖くもなって、俺は裏返りそうな声で叫ぶ。
「そんな、高嶺さんが謝ることなんてないです! あの、俺が頼んだんです、見せてくださいって……考えがなかったのは俺のほうです」
途中からどっちに話してるのか分からなくなってきて、「すみませんでした」と両方に謝罪した。
副座長さんはしばらくして、今度は俺に尋ねる。
「日下部。てめえ、芝居を習いたいのか?
てめえにその気があるなら、俺が文化祭公演が終わるまで研修生扱いで稽古をつけてやる。本当にうちの役者を目指すかどうかは、それが終わったあとに決めりゃあいい。どうだ?」
———思ってもみない話だった。たぶん、こんなのまたとない機会だ…そう思うと俺は自然と頷いていた。
「今日はこれからまた別件があるんで無理だが、次の稽古の時から時間を空けておく。そのつもりで来い…徒花もそれで良いな?」
「はい、それはもちろん!」
高嶺さんも気を取り直して、元気よく返事をしてみせた。
副座長さんが帰ったあと、俺は高嶺さんへ小さく声をかけてみた。
「あの」
「うん?」
「……もし良かったら、また、俺の練習付き合ってくださいね」
高嶺さんは驚いたように顔をあげた。そして、泣き出しそうにも見える笑顔でたった一言、
「…ありがとう」
と呟く。その意味を、俺はとうとう理解することができなかった。