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落涙 -ラクルイ-  作者: らめだす
第一幕 ようこそ劇場へ
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幕間②

 持つべきものは友人だ…と思ったことを率直に言えば、友人は明らかに機嫌を損ねるので、徒花高嶺はその感想を黙って胸に留め置くことにした。

 ミーティング終了後の脚本の読み合わせは案外早く終わった。折角なのでその足で大学に来てみたものの、運の悪いことに丁度講義が終わったところだったのである。先に来ていた友人もとい曲淵に泣きついてみたところ、不満たらたらながらもノートを貸してくれた。図ったようなタイミングで講義を受け損ねた不運も、それだけですっかり忘れてしまえるところが、彼の長所であり短所でもあった。

 自分でも気づかないうちに歌っていた鼻歌を、ふと止める。少し遅れて足を止め、大学図書館の利用カードを探す。ここの蔵書は量も多いが質も非常に高く、学生と大学が招いた来校者にしか解放されていない。

 入口のカードスキャンに手間取り、まったく最近はどこもかしこも機械だと老人めいたことを考えた。大体彼自身がここまで機械に疎くなければ、曲淵のノートもコピーを取ればいいだけの話。わざわざ普段使わない図書館に来てまでノートを書き写すこともなかったのである。

 バーコードの読み込みに連動して自動ドアが開けば、入ってすぐの場所には雑誌のコーナーが存在する。あまり学生が求めるような流行りのものはないので皆素通りしがちだが、高嶺はふと棚に目を留めた。

 この間の演目についての記事が載った演劇雑誌だ。こちらの界隈では著名な雑誌だが、どちらかといえば特定のファン向けで一般人が読むものではない。おそらく夢幻座の———分かりやすく言えば彼の記事を目当てに買われたものだろう。その雑誌を、誰かが迷いもなく手に取った。

 純朴で人の良さそうな好青年である。目次で探すのは、やはり夢幻座の特集ページ。見開きで写真の載っている箇所まで辿り着くと、インタビューから専門家の講評に至るまで熱心に読みふけっている。小脇に抱えていた別の本が落ちそうになり、あわてて持ち直した拍子に、青年はようやく高嶺の存在に気付いたらしかった。

 反射的に身構える高嶺に対し、向けられたのは人懐こそうな微笑。彼を見たのはこれが初めてのはずなのに、何処かで会ったような雰囲気に、高嶺は一気にこの青年への興味を強めた。

「徒花君、だよね」

 雑誌を置いて、青年は改めて高嶺のほうへ向き直る。図書館内だということを考慮してか、控えめに発せられた声は実に落ち着いている。

「ああ」

 歩み寄りながら頷くと、相手もこちらへと一歩踏み込んでくる。そして、

「俺の名前は日下部灯栄。弟の光輝が、いつもお世話になってます」

 そんな台詞とともに、茶目っ気たっぷりに握手を求める手を差し出した。


「灯栄くんはこの図書館、よく使うのか?」

 その後二人は奥にあるオープンスペースの端に並んで座り、それぞれの作業を始めた。とは言ってもやるべきことよりお互いへの興味が勝って、両者ともまったく手は動いていなかったが。

「実を言うと、俺がこの大学を志望したのってこの図書館が目当てなんだよね。ほら、このあたりの地域でここまで立派なのがある大学って、ここくらいしかないでしょ。使わなきゃ損だよ、徒花君も」

 灯栄は円形に並べられた本棚をぐるりと見渡して、「…でも」と若干不服そうに続ける。

「俺が本当に探してた本は、ここにも無いみたいなんだけどね。しょうがないか、ほとんど幻みたいなものだし」

「本当に探してた本……どんな内容のものなんだ?」

 自然な流れで放った質問に、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの笑顔が答えた。

「徒花君はさ、《ラクルイ》って都市伝説は聞いたことない?」

 高嶺が素直に「ないな」と答えると、灯栄はどこからともなく紙とシャープペンを取り出した。図示するつもりらしく、慣れた様子で紙の上に、落涙、と文字を走らせる。

「伝説の名称としてはこう。出てくる怪物の名前は、これをそのまま読んでラクルイ。

都市伝説とはいうけど歴史は古くて、渡来人が来たのと同じくらいの時期に中国大陸から渡ってきたっていう説がいちばん有力かな。それが今まで、ずーっと細々と話が伝わってるんだ。

大雑把なたとえで言えば河童とか鬼みたいなものだけど、ラクルイはそういうのよりずっと実在する可能性が高いって言われてる。実は現在でもどこかに集落みたいなものを作って、ひっそり暮らしているっていう噂もあるくらい。

落涙の話は怪物そのものの話だけじゃなくて、怪物たちの中だけに伝わる神話みたいなものもあるみたいなんだけど……俺が探してるのは、その本さ。ほんとにあるのかどうかすら怪しいらしいけどね…」

 途端に饒舌になった灯栄の話を、高嶺はにこにこしながら聞いていた。好きなものについて話をしている人の顔は輝いていて、昔から好きだ。

「それで、そのラクルイっていうのはどんな悪さをするんだ?」

「それが普段は人間にそっくりで、普通に人間と一緒に暮らしてるんだって。

だけど感情が制御できなくなると——例えばものすごく怒ったり、ものすごく悲しいことがあったりかな。そんなことになると、怪物の本性を現す。この世のものとは思えないくらいの叫び声を上げて、手がつけられないくらい暴れまわるんだ。そうなったらもう誰にも止められない…しかもそいつに襲われた人間は、命を落とすかラクルイになるかしちゃうらしいよ。あとは知らない間にラクルイと関わってて、気が付かないうちに自分もラクルイになってたとかいうことも……どうだい、怖いだろう?」

 真剣な顔で凄むように言われ、高嶺もついには笑い出してしまった。

「怖いだろうって、君はそんな話をずいぶん楽しそうにするんだな」

 そんな様子を見て灯栄もすぐに表情を緩める。

「昔からこういうの好きなんだよねえ。お化けの話とか怪奇現象とか、あとは推理小説も好き」

「それって一緒にしていいものなのか?」

「こんなこと言っちゃあれだけど、なんていうか、謎ならなんでもいいんだよね。よく分かんないことについて、ずーっとひたすら考えてるのが好きなんだ。明確な答えがないのが分かってても、よく考えたら分かるようになってるのもそれはそれで一興……。変かな」

「あ、それなら少し分かる気がする。悩み事は苦手だが、考え事は好きだ…私ももらった役についてとか、台詞をどう言えば伝わりやすくなるかとか、考え出すと止まらなくなる」

「他のことがなんにも手につかなくなるくらい?」

「そうそう!」

 二人は同時に吹き出した。それがおかしくて、また笑う。

 しばらくしてから灯栄はふっと息をつき、

「……光輝はさ。そっちではどんな感じ?」

おもむろに問いかけた。

「光輝くんは…そうだな。スタッフとして、なんとか作業を覚えていこうとすごく勉強熱心だ。

ただ、まだどことなく色々と遠慮気味なところがある。性格もあるのかもしれないが…」

「…そうだね」

灯栄が傍に積んだ本を見やる。どこか遠くを見るような目に宿る光は優しかった。

「うちさ、父さんが開業医なんだ。

俺たちには上にもう一人兄貴がいるんだけどね。兄貴は頭がいいし、俺はこんなだし、クリニックを継ぐのが兄貴だってことはもう大体決まってる。——って言っても両親は、暁兄が生まれる前の時点で『子供を医者にしよう』とは決めてたみたいなんだけど。

ただでさえ長男だし、失敗はできないって、父さんも母さんも相当気を張ってたみたい。暁兄は物心ついた頃からめちゃくちゃ勉強させられて、その反動で光輝は末っ子なのに全然甘やかしてもらえてなくて。

三兄弟って、一番上と一番下が似るっていうでしょ?多分うちもそうなんだよね…暁兄、ほんとに真面目な人だから。光輝も頑張ってはいるのに、何にせよ今は目に見える結果が出てなくて、すごく焦ってる」

 高嶺はただ押し黙って話を聞いていた。まるで自分のことのように神妙な面持ちで考え込んでいるので、流石の灯栄も心配になるほどだった。

「光輝くんが、そんなことを…」

「だけどその光輝が、夢幻座の話をする時は本当に楽しそうなんだ。今まで何をしても控え目だったり、つまらなそうにしてたのに、だよ。

すぐに結果に表れるものじゃなくたって、夢中になれる何かができるのはいいことさ。俺はだから、夢幻座に関してのことはぜひ応援したいと思ってる。兄としてはね……なんちゃって!」

 おどけたように言うと、高嶺もようやく笑顔を見せる。

「ああ。その考えには私も賛成だ!」

 和やかに緩んだ空気の境、灯栄がふと掛け時計を見ると利用予定時間を過ぎそうになっていた。彼自身の決めていたスケジュールが乱れるのは構わなくても、ここの司書が時間にうるさいのは身をもって知っている。

「さて、俺はそろそろ行かないと…ごめんね、なんか俺ばっかり喋っちゃってたけど」

「いや。君があんまり面白そうに喋るから私も楽しかったぞ」

「そんなこと言ってくれる人なかなか居ないや。ありがとう、また話そうね!」

 軽く手を振ってゆっくりと去っていく灯栄の背に、高嶺も同じように返した。「私もそろそろ戻るか」と独りごち、手元をまとめ直す。すっかり爽やかな気分になった彼は、当然ながら曲淵から借りたノートのことなどきれいさっぱり忘れていた。



side:小森つぐみ


 まだまだ残暑は続いているけれど、少しずつ日は短くなってきたらしい。先程職員室の窓から見た景色は薄く青味がかった宵の装いだったのに、外に出ると既に夜が帳を下ろし始めていた。

 同じくらいの時間に残りの仕事を終えた先生が車で送っていこうかと言って下さったの、断らなければよかったかもしれない。でも、これはこれでいいか。お盆休みぶりに来た道だ、歩いて帰るのも悪くない。私はそう判断した。

 この学校へ来てもう4年になるのかと、ふと感慨深くなった。どちらかといえば前に勤めていたところより、この学校の方が私の性に合っている気がしている。真面目に勉学に励む姿勢はもちろん、今度の文化祭のように行事や生徒主体の活動も活発なところがいい。

 私の担任しているクラスも、なんとか文化祭へ向けた第一歩を踏み出したばかり。演目はまさかの「曽根崎心中」、主演は結局、あらためて現役劇団員のふたりに決まった。

 ——それにしても、今日の徒花さんの状況はちょっぴり羨ましい。「相手が俺じゃ、嫌か……?」なんて。日下部くん、分かっててやってるんだとしたら、恐ろしいけど。こんなことばかり考えてるから、岸内さんにからかわれるのね。

 生徒達も皆良い子ばかりで……決して、前の学校の子達がそうでなかったという訳では、ないのだが。

 私が一人暮らししているマンションは、学校のある玉響区から少し外れた場所に建っている。一時期は子供が多かったらしいのだけど、最近ではその子達もすっかり大きくなって、かつての賑やかさも影をひそめている。去りし日々の名残ともいえるこの寂れ気味の公園は、私がよくお世話になっている近道のひとつだ。

 血色の悪い電灯がちかちかと、冷たく遊具を照らしだす。———後ろのブランコが、きい、と僅かに音を立てた。

 夜の公園で聴くブランコの音なんて、あんまり気分の良いものじゃない…そんな呑気な感想を抱いたのも束の間、私はもう一つ別の音に気がついた。

 誰かの、足音。

 ぶわ、と身体中から嫌な汗が噴き出す。心臓がやかましく鳴り、反対にがちがちに固まった足を動かす速度を無理矢理早めた。ずっとだ。この人、ずっと私についてきている。ただ通る道が同じだけかと思っていたけれど、そんな悠長な話ではない。たった今確信した。私の歩く速さに合わせている。ブランコの音で立ち止まったときは遅く、そして今、焦る私の早足を真似るように。

 広い公園の真ん中あたりにまで差し掛かる。いつの間にか手提げ鞄を胸に抱き締め、早足には今にも走り出さんばかりの速度になっていた。それでも後ろの足音は全く遅れずについてくる。気を抜けば今にも地べたにへたり込み歳を忘れて泣き出しそうだった。それを辛うじて堪え、またこの緊張感に堪え切れなくなって、私は意を決して足を止めた。

 どうかたちの悪い悪戯でありますように。見知った顔がにやりと笑って、私は気が抜けて脱力した後怒ってその人を追いかけまわして、それで終わりますように。そして鞄を抱いたまま一気に振り返り、

「だっ………誰ですか!?」


瞬間、夜空が反転した。


 私の身体は私以外のものの重さによってぐらりと揺れた。叫ぼうとした途端大きな手に口を塞がれ、私の頭はとうとうパニックになる。誰かの手から漏れるくぐもった声で喚きながらひたすら手足をばたつかせて暴れ、いよいよ後ろの誰かもろとも回転をかけて倒れそうになった、そのとき。

「落ち着いて」

 深い男性の声と、同時に視界を掠めるシルバーグレイの長髪。既視感、遅れてほのかな懐かしさ。

 そして———薄雲が晴れるように、その後の一瞬、倒れる私の眼に映ったものは。

「いっ……いやあああああああああああああ!!!!」

 その声も響くことはなかった。口元を手で覆われているのに加え、少し先に地面へと倒れ込んだ男性の胸にしかと抱き止められ、悲鳴の出口と共に視界も一時的に遮られる。

「静かに。人が来るとおれも手がつけられない」

 彼は緊張をはらんだ早口で囁くように言った。訳も分からぬままに、無我夢中でその胸元に突っ伏す。

「はぁッ…はぁッ……!」

 ほんの一瞬だった。なのに、いや、だからこそか、脳裏に焼きついて離れない。何、あれは。怖い。恐い。おぞましい。気持ち悪い。ヒトじゃない。あれは、歪な何か、ヒトの形をした、

「ば、バケモノ———」

「危ない!!」

 男性が鋭く言ったかと思うと、私の身体は真横に吹き飛んだ。彼は動けない私を抱えたまま跳び、後から地響きと、ジャキンと何かが切れるような音が追いかけてくる。

「大丈夫、怪我はない?」

 真正面から抱きかかえられたままの私と漸く目を合わせ、彼はやはり早口で尋ねた。やっぱりそうだ、私は彼を知っている。しかしその安堵を合わせても次々襲い来る恐怖を中和できるはずがなく、あれほど出したかった声が今度は全く出ない。その代わりのように溢れ出した涙をどうすることも出来ないまま、私はやっとのことで頷いた。

「…走って逃げられそう?」

 首を横に振る。

「そっか、なら………、ッ!!」

 突然彼が顔をしかめた。——後ろだ。怖くて顔は上げられないけれど、影の動きで悟る。脚か背中かそのあたりを鋏のようなモノで斬り裂かれ、彼はぎりりと歯を食いしばった。

「……おれは、平気だからッ…この後ろに居な、小森ちゃん。逃げられそうならすぐ逃げろ、このことは誰にも、っ言うな…!」

 ……見ていられなかった。私にそんなことを言っている間にも、後ろのバケモノは彼を攻撃し続けている。——違う。本当に狙われているのは私。そんな、彼が、私のせいで。

 やめて、と叫ぶ事すら叶わない。私は残るわずかな気力でただただ首を横に振り続けた。

「……逃げられそうにねーなら、せめて…」

 彼はそんな私に困ったように弱々しく微笑み、遊具の裏からひらりと傷だらけの背を返す。そして続けた最後の一言は、涼風の如く夜の空気を掠めた。

「———目、閉じといた方が良いぜ?」


「……線状に拭われた落涙(ラクルイ)の跡。エピファネイア…《王》の傘下だな、あんた。はっ、ずいぶん派手にやってくれたじゃん?

まあいいや、ありがと。お陰で《自分でやる手間》が省けた…」

 そのあたりまで、だっただろうか。私が自分の耳で、確かに聞き取ることができていたのは。

 私の精神状態のせいもあったのか、その後はあまり…というか、全く何も聞こえなくなってしまった。仮に何か聞こえたとしても何のことだか理解できないか、さらに恐怖を煽られただろうことを考えると、この方が良かったのかもしれないけれど。兎に角その時の私は、ぎゅっと目を閉じて震えているので精一杯だった。

 そうしてどれくらいの時間が経ったのかは分からない。ただ、

「終わったぜ。これでもう大丈夫だ」

 彼のその言葉を聞いてやっと、ピアノ線のように張り詰めていた私の周りの空気が解けてゆくのを感じることができた。

 おそるおそる外を覗くと、確かにそこにはもう何もなかった。静かな夜。さっきまでのことはすべて悪夢なんだと諭すような、怖いくらいに優しい暗闇。景色までだんまりを決め込んだ静寂。

「よい、しょっ…と。小森ちゃん、家どっち?」

 突然彼が私を抱き上げた。これが当然といった顔で、彼は私をお姫様抱っこにしたまま歩き出そうとする。すっかり気の抜けていた私も流石に慌てた。

「えっ、あの!私自分で……!」

「まだ腰抜けてるくせに」

 …図星。かなり不本意ながら、私の幼児体型はそのまま彼の広い胸に収まり続けることとなってしまった。こんな恰好、生徒たちが見たらなんて言うか…!彼はそんな葛藤などお構いなしにすたすたと歩き続ける。仕方がないので悶々としながらも小声で道案内をしたが、心臓は鳴りっぱなしだった。

 最初に私をかばった時の背中の傷はどうなったのか———あれだけ斬られていれば、平気なはずがないのだがと、後になってから考えれば心配になる。けれどこの時は自分の今の状況のことで頭がいっぱいで、そんな当たり前のことすら想像する余裕がなかった。

「ここで合ってる?マンション」

 歩いている間は案内のほか終始無言だった。久々に聞いた彼の声が到着を告げるもので、少し驚く。

「…ええ。あの、何と言ったらいいか……ありがとう、本当に」

 言いたいことは沢山あったが、まず最初に伝えるべきことはこれだと思った。細い見た目のわりに力強い腕の中から、改めて彼を見上げる。

「いいよ、どうせやらなきゃなんなかったし。

小森ちゃんがなんともなくて良かったけど…これからはこんな夜道、一人でうろつくのはやめとけな。第一ふつーに危ねーかんな?女のコがこんな時間に一人とか」

「う…うん。ごめんなさい……

あ、私もう本当に大丈夫だから。ごめんね、お…運ばせちゃって」

 いつの間にかちゃんと体に力が入るようになっていた。「そっか、どういたしまして」と彼は微笑んで、私を足からゆっくりと地面に下ろした。

「ちょっ……センセイ!?アナタこんな時間に何やってるの!早く部屋入んなさい部屋!!」

「あ…ルナさん?」

 私のいるマンションで近くの部屋に住んでいる方。空いていた窓から私の姿を見つけるや否や、思い切り目を見開いて(暗いから見えてはいないけど、おそらくだ)こちらに叫んだ。

「ちょっとそこで待ってなさい、今すぐアタシがそっち向かうから!」

「え、そんなのいいですよ!ルナさーん!?」

 慌てて叫び返したがルナさんのほうは既に聞いておらず、もう窓辺から姿を消していた。本当にこっちに来るんだ…と申し訳なく思った後、ふと振り返って、

「あの!」

 ———彼の名前を呼ぼうとした、のだが。

「…居ない……?」

 広がっていたのは先程遊具の穴から見た、真夜中の静けさだけ。

 呆然とする私の耳には、鉄製の階段を大急ぎで降りてくるルナさんの足音だけが響いていた。

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