あわれなものたち Act3
高らかに歌声を響かせながら、黒い涙の人魚はビル風を舞うように泳ぐ。俺はもう、耳を塞ぐことさえ忘れていた。
「こすもくん……!? その曲一体どこで、」
「そんなこと気にしてる場合かよ? ほら、そろそろ効いてくる頃だぜ」
鱗に覆われ、水かきの生えた指が肩の傷を指差す。さっくり切れてしまった制服には、既に黒い血が滲んでいた。出血が……早い。手で強めに押さえているのに、指の間から冷たいものがどんどん溢れて……いや、違う! 量が多すぎる……傷口がひとりでに広がっている!? 俺自身が何かしようとしたわけじゃないのに、身体の方が勝手にラクルイに変化しようとしているんだ!
(集中……集中しろ、俺!)
さもないと、意識を持っていかれる。きっとこれがこすもくんの能力なんだ。耳にすればたちまち発狂するという人魚の歌の伝説は、この世界ではおそらくラクルイになることを意味する。グランギニョールとして風巻さんに訓練を受けた俺なんかならまだしも、普通の人ならひとたまりもなく一気に変身させられて正気を失うだろう。それだけは絶対に避けなくては。
……とはいえ、どうする。決してこすもくんに死んでほしいわけじゃないけど、俺だっていつまでまともに考え事ができるかわからないんだ。うだうだして半端な真似をすると取り返しのつかないことになりかねない。突破口を、突破口を探せ。どこかの神話の人魚の伝説にだって、確かめちゃくちゃ対策して、生きて帰ってきた英雄がいたはずじゃないか。……方法は忘れたけど……!
「——ハ、なんにもできないだろ。あんたも他の大人達と一緒だ。綺麗事ばっかりで結局なんにもしてくれなかった、本当に困ってたボク達を助けてくれなかった奴らと……!」
息継ぎ。次の歌のワンフレーズに熱が宿る。なつめさんが読ませてくれた『カンタレラ』の幼いヤンのイメージが、一瞬、異形に変わり果てた目の前のこすもくんに重なった。
——耳を塞いでやりすごすなんてできない。
俺は、彼の歌を最後まで聞かなくちゃならない。
頭で考えるより先にそう確信して、瞬間、フワフワしていた体の軸が定まった感じがした。たぶん、覚悟が決まったんだ。きっとこの気持ちは狂気じゃない。
ミュージカルの歌は、魂の叫びだ。舞台の世界の住人だって、流石に急には歌わない。彼らは涙の代わりに、止められない思いがメロディになるから歌うのだ。
聴くものの心を震わせ、惑い狂わせる歌声の、本質を見なくちゃいけない。こすもくんはヤンじゃないし、役者でもないけど、何か強い《本物の》気持ちに突き動かされて歌っているのはわかる。俺はまだ、ラクルイやエピファネイアに対するこすもくん個人の気持ちを聞いていない。
(……でも、《俺》相手にそんなこと教えてくれるかな)
警戒心の強い彼のことだ。彼に心を開いて……胸のうちをさらけ出してもらうには、どうすればいいだろう。たぶん、今のこすもくんにとっての俺は「その他大勢」。無数にいる倒さなきゃならない敵のうちの一人でしかない。
……だったら。
たとえば、こすもくんにとっての俺が単なる彼の聴衆じゃなくて——同じ舞台に立つ共演者だったら、どうだ?
「え……だ、誰っ、なんでっ」
みどりちゃんが驚いたようにヘッドホンを外しかけて、あわてて耳を押さえ直す。一種の賭けだったが、その反応を見るにひとまず成功とみていいだろう。
引きずり出せ、彼の怒りを。すくいあげろ、彼の悲しみを。燃え上がらせろ、彼の憎悪を。
何にでもなれる、変われる。俺は役者だ。
「ま、魔女……? そ、それとも、悪魔……こ、この間と、姿が違う……!?」
こすもくんの歌は確か、舞台前半、ヤンの過去の記憶を表現する曲だったはずだ。今でこそ「怪人カンタレラ」と呼ばれる名の知れた吸血鬼ハンターのヤンだが、かつてはその生まれから村の人々に差別され、その日暮らしの貧しい生活を送る無力な少年だった。唯一の心の支えだった妹をさらわれ、なけなしの生きる気力も失いかけたヤン。そこへどこからともなく現れるのが、謎めいた魔女モルガーナだ。
彼女との対話を通じ、やがて光を失ったはずのヤンの瞳に暗い炎が灯る。そして二人はとある契約を交わすのだ。——「この後の人生の全てを吸血鬼への復讐に捧げる。死の瞬間、痛みと苦しみに染まった魂をモルガーナに譲り渡すことを条件に、ヤンは吸血鬼と戦う毒の血を授かる」……。そんな筋書きだったと思う。
正直脚本も曲も完璧に覚えてるわけじゃないけど、無口なヤンが自分の動機を語るシーンはここしかなかったはずだ。全てを失い、血みどろの辛い人生を選択する、たった7歳の少年の悲壮な覚悟。モルガーナは人ならざる身で、それを時に嘲笑うように、時に哀れむように受け止める。
そう、俺は、こすもくんにとってのモルガーナになればいいんだ。
「……変な形。けど、まだ正気みたいだね。これだけボクの歌を聴いてるのに」
俺さえちゃんとしていれば、影はなんにだって形を変えて心強い味方になってくれる。モルガーナは魔女だから、必要なのは空飛ぶ箒。空中を泳ぐこすもくんについていけさえすれば、普段の弓矢のような戦闘能力は要らないと思った。
「うん、すごくきれいな声だ。歌も上手だし、知り合いに君を紹介したら喜んでくれるだろうな」
「嫌味かよ。……ちっ、エルフィみたくいくと思うなよ!」
苛立ったように舌打ちして、歌の姿勢へ。重力のことをなるべく考えないようにしながら、俺は箒をぐるりと旋回させて彼を上へ上へと誘った。人通りは少ない場所だが、昨日のように誰か他人を巻き込んでもいけない。誰の邪魔も入らない場所で、二人で対話がしたかった。
「『生きて殺してやる 俺が、すべての吸血鬼を カンタレラ、この鼓動止めはしないぞ』——!」
歌も、攻撃も止まない。役の感情の昂りにつられるように、鋭い翅やソニックブームのような斬撃が次から次へ飛んでくる。避けつつ上へ上へ誘導……といっても、実質逃げるので手一杯だ。手数とスピードが違いすぎる。
「っ!」
簡単に液状になるローブを翻して、ひらりと躱す。ギリギリだったが、モルガーナの振る舞いのおかげでそうは見えていないようなのが幸いか。視界の隅で、彼がぎりっと歯噛みしたのが見えた。思うように攻めきれなくて、焦り始めているのだ。手は緩んでいないが、ペースは崩れてきている。
戦況は膠着状態。こうい時、モルガーナならどうする。
彼女は老婆にも少女にも、なんにでも姿を変えられる強力な魔女だ。公演本番では劇場のプロジェクションマッピングを使って、虫や猫に変身したように見せる手品のような演出も考えているらしい。
なつめさんが用意した脚本にはほぼ記述がなかったし、話の本筋にもほとんど関係がないワンシーンだ。美術スタッフさんから提案を受け、風巻さんは快くゴーサインを出したらしいが、どうしてそうも快諾したのか訊ねたことがある。
「どうしてって、ないよりあったほうが絶対楽しいじゃん」
「まあ、それはそうかもですけど……そんなことで?」
「そんなこととは随分だな。楽しいの、大事だろ? お客は見なくても死なない『ミュージカル』って娯楽作品を、わざわざ金払って見に来てくれてんだぜ。嬢ちゃんの書いた話にいろんな奴のアイデアを乗っけて、めちゃくちゃ楽しい時間を作るのが、おれの……おれたち夢幻座の仕事なんだから」
意外なくらい「演出家」らしい意見にひとまずその時は納得したが、これを、モルガーナ個人の行動として考えたら?
やらなくていいことを、わざわざやってみせるのだ。魔法を使うのだって多少疲れたりはするだろうに。俺だったらやらない。でもモルガーナはやる。
(つまり——「意味がないことこそが意味」なんだ、彼女にとっては!)
掴みどころなく気ままに翻弄しながら、生かさず、殺さず。積極的に仕掛けるわけでもなく、軽く受け流すだけで、頼まれてもない手品まで披露して見せるのは、モルガーナが「こんなことをしたって絶対に自分は負けない」という絶対の自信を持っているからだ。もちろんそんなもの俺にはないが、仮面があればそういうそぶりくらいはできる。
「まだ君とは直接話してなかったよな。こすもくん、君はどうしてエピファネイアにいるの? 君はしっかりしてるし、歌だって上手だ……わざわざ人を傷つけるようなことをしなくたって、きっと他に暮らしていける方法はあるよ」
「うるさいッ! 知ったようなこと言うな!」
「い、っ…………!」
避けた——はずなのに、衝撃で後ろに吹っ飛ぶ。空中戦をやっててよかった。どうにか箒で踏みとどまって、体勢を立て直す。最初に怪我した肩の痛みが、今になってぶり返してきている。
(挑発……しすぎた、かな)
つくづく慣れないことはするものじゃない。声量もパワーも増している、感情が乗っている証拠だ。そろそろ歌声を聴くのもきつくなってきたけど、これは俺が仕掛けた根比べだ。ここまできて折れるわけにはいかない。こすもくんがこれだけ必死なんだ、俺も本気で向き合わないと。
これくらい、受け止めきれなきゃ脇役失格だ。
「くそっ、……くそっ! なんで攻撃してこないんだよ! どいつもこいつもバカにしやがって! まともにこっちの話聞く気もないくせにいい人ぶってんじゃねーよ!」
「だからいま訊いてるんじゃないか! あれだけ仲間思いな君が、どうしてエピファネイアがしていることをなんとも思わないのか!」
「〜〜〜っ!!」
さすがに余裕で躱すのが難しくなってきて、箒の柄の部分で翅を受け止める。迫力に押し負けないよう、間近に迫った大きな目を、逸らさず見つめ返す。こすもくんはいよいよ怒りを隠そうともせず、尾びれを思いっきり蹴り上げた。
「がッ!?」
「他でもやってけるとか、簡単に、言うなっ! じゃああんたは思いつくのかよっ! 家族も身内もいないボクらみたいな怪物のガキが、ひとりで生きてく方法をさあ!」
(…………!)
至近距離、裏返りそうな声での絶叫だった。やっと少しだけ触れられた彼の本音……偶然なのか、さっきの歌詞の続きが脳裏に浮かぶ。『俺が何を望んだ。妹と、ただ生きていければそれでよかったのに』——。
それじゃあ彼らはまるで、本当に、カンタレラみたいな。
「大人ぶった奴ら、みんなあんたみたいなこと言うけどさぁっ……、結局、ほんとにボクを助けてくれたのは《王さま》だけだった。エルフィも言ったろ、ボクらの味方はエピファネイアだけだ。ほかに理由なんかない、あんたに話してやることなんかない!」
音の衝撃が波のようだった。ローブに見立てた黒い雫が激しく揺れ、びりびりばさばさといったノイズが聴覚を覆っている。なのにこすもくんが、ふぅ、ふぅ、と肩で息をするのが不思議なくらいはっきりと聞こえた。
本心なんだろう。嘘を言っている様子は、ない。
やっぱり人の話はいろいろ聞いてみるものだ。風巻さん達の話だけ聞いていたこれまででは、考えたこともなかった。
(エピファネイアが……ラクルイを助けている、だって?)
確かにちょっと聞いただけでも、やり方に多大な問題がありそうな組織ではある。けれど少なくとも、みどりちゃんやこすもくんが、その在り方や行為で「救われた」と感じていることは事実なのだろう。じゃないと、子どもからこんな言葉は出てこない。
「……そっか。こすもくんは、助けてくれた人たちに恩返しをしたいんだ?」
時間はかかったが、質問には答えてもらえた。できるだけ声音をやわらかくして反芻する。ようやく満足したのかと、こすもくんの強張った体の力が少し弛むのがわかった。
——でも。
——やっと心を砕いて、ここまで話してもらえたんだ。どうせなら、もう一歩奥まで踏み込みたい。
「……でもさ。その恩返しと『人を襲う』って、どうしてもセットじゃなきゃいけないのかな。そこにこだわるのはどうして? 《王さま》やエピファネイアの人たちが、君にそうしろって言ったから?」
「…………!?」
息を飲む音。賢い子だ。たぶん、俺がなにを訊きたいのか彼はもう本能的にわかっている。
「たぶん、違うよね?」
「ッ……! だ、ってぇ……!」
喉がつかえる音がして、歌が……止まった。
こすもくんの、真っ黒い大きな瞳がみるみる潤む。限界までこらえたのだろう、震えるまばたきと共に、玉の雫がふたつ、かさついた鱗の頬へと溢れ出した。
「だって……! おかしいじゃん、こんなのっ! いっつもいっつも、どうしてガマンするのはボク達ばっかなの!? 痛いのもつらいのもしんどいのも、歩いてるだけで凶器向けられんのも、死ぬまで知らなくてすむ奴がいるんだろ!?
なんでだよ、ずるいよ! 何が違うっていうんだよ、ボクらだって好きでこうなったわけじゃないのに!」
ぽすん、と、ブルーグレーの拳で胸のあたりを叩かれた。さっきまでと違って、全然痛くない。
「ふ、ぅう、……うあぁあ……っ!!」
(……やっぱり)
……自分がやっているのがどういうことか、まったくわかっていないわけじゃないんだ。彼は。
「ありがとう。正直に話してくれて」
子どもじみためちゃくちゃな理論だ。けど、こすもくんは間違ったことは何一つ言っていない。そう思えた。
そうだよな。
どんなに凶悪な感情だって、あるものは、あるんだから。
「俺も……君の気持ち、すっごくよくわかるなぁ……」




