あわれなものたち Act1
side:日下部光輝
今、何時だろう。
日付は変わっただろうか。うっかり両親にでも見つかったら、どう頑張っても言い逃れできない時間帯なのは間違いないだろう。
体のあちこちが痛くて、歩くのも億劫だ——俺を指さして、「化け物」と叫んだ岸内の顔が頭から離れない。悔しさとか、悲しみとか、もっとそんな感情を抱いていいのかもしれないけど、何よりも疲れが勝っていた。全部どうでもいいくらい、くたびれてしまった、とても。とにかく今は泥のように眠りたかった。
今の俺はまっすぐ歩けているのか。いや、そもそもちゃんと人間の姿を保てているのかすら分からないまま、家に帰ろうとは思えなかった。帰れるはずがなかった。
結局。
「こういつもいつも……なんだか申し訳ないな」
なつめさんの屋敷に戻ってきてしまった。
挨拶だけしておくつもりで、一応書架に向かう。もう寝ているかもと思ったが、なつめさんはいつものように、一人難しい顔をして鏡と向き合っていた。
「すみません、また帰ってきちゃいました……起きてたんですね。お疲れさまです」
「ふむ、君も。なかなか大変だったようだね」
なつめさんは車椅子を反転させて、入ってきた俺の姿を確認する。珍しい、この人がこっちを労うようなことを言うなんて。意外に思いつつ苦笑していると、
「≪見ていた≫からね。今の君がどんな気分でいるのかくらい、想像もつこうというものさ」
そうか、この割れ鏡。ラクルイの歴史が現在進行形で映るというのが本当なら、さっきの戦いもこの鏡が映していたかもしれないのか。
「よく——耐えてくれたと思う」
ふいに、なつめさんがぽつりと言った。これまた珍しく俺から目を逸らしながら、慎重に言葉を選んで。
「君に対して運命は、一方的な理不尽と苦痛を強いている。
実を言えば、皆君に関しては混乱しているのだよ。あまりにも異例が重なっていて、何が最善なのか見当もつかない。風巻も、えそらも……」
……わたしも。最後に付け足された一言はひどくためらいがちで、何かを恐れているような小さな声だった。
「君をここへ招き入れたことさえ、今となっては本当に正しかったのかどうか」
「そんなこと言わないでください。俺、なつめさんや風巻さんにはすごく助けられてます。あのまま一人で放り出されてたら、それこそどうなっていたか」
明るく言ったつもりだった。しかし、なつめさんは憂鬱そうに首を振る。
「まだ君に話せていないことが、いくつかあるのだ。そう、まず何より」
次の言葉をかき消す形で、突然に扉が開いた。
いつもの彼らしくない、乱暴な音。大股で部屋に踏み込んでくる足取りだって、考えてみればかなり不自然だった。
けれど、俺は。
「風巻さん!」
単純に、彼の姿に安心したんだ。
自分一人で、しかも明確な敵意を持つ相手と戦ったのは初めてだったし、気が緩んだのかもしれない。たぶん、褒めてほしいとか、慰めてほしい気持ちもどこかにあった。そんな俺の隣を、彼は一瞥もせずに素通りしたのだ。
「……え?」
棚の向こうにコートを放り投げ、乱れた髪を翻して出ていこうとする。なつめさんの横を通る時、彼はほとんど振り向かないままにぼそりと呟いた。
「疲れた。寝るから」
硬い表情で頷くなつめさん。どう見ても、異常な雰囲気だった。一気に書架全体がピリピリして、俺はひとり、居ちゃいけない場所に迷い込んだような気分になる。こんな、張り詰めた空気を和らげてくれる人こそ、風巻さんだったはずなのに。
「あ、あの!」
続けて何を言いたかったわけでもない。気づいたら声をかけていた。そこにいるのが本当に彼なのかどうか、不安でたまらなかったから。
風巻さんはようやく俺のほうを向くと、何か言いかけて口ごもった。視線があちこちに彷徨い、何か考えているふうだったのが一瞬。そして、開けっ放しの扉に向かいながら、確かにこんなことを言った。
「お前……お前が何しようが勝手だけど、余計な事だけはすんなよ」
*
「…………」
そんな空気の中まだお屋敷に居座っているのも違う気がするし、仕方なくその日は家に帰ることにした。
どうしたんだろう、風巻さん……。夕方俺が出ていった時と、明らかに様子が違った。何かあったんだろうけど、「余計なことはするな」って言われたし、なんだか俺が気軽に聞いてよさそうな雰囲気じゃない。
よく話すようになってから、前は想像もできなかったような、彼の怖い顔を見ることが増えた。たぶん、風巻さんにもいろいろあるんだろう。実結の件もあるし、ラクルイやなつめさん関連のほかに劇団のこともあるし、次のミュージカルじゃ主役なわけだし。俺なんかに優しくしてくれるからって、甘えすぎはよくない。
なけなしの気力を振り絞って次の日学校へ行ったのだが、岸内は休みだった。
怪我をしていたようなのは心配だが、心のどこかで少しだけ、安心してしまっている自分がいる。冷静になって考えてみれば、彼女は俺が——あの、「黒い化け物」の正体だとは知らないはずなんだけど。
あれだけ恐ろしい目に遭ったんだ、きっとかなりショックだったんだろう。俺だってなんの事前知識もなしにあんな連中に襲われたり、戦いに巻き込まれたりしたら、パニックになっていたに違いない。無理もない、岸内が悪いわけじゃない。わかっているけど、それでも……実結を殺したあいつ、《スカーレット》と同じ化け物として見られるのは、どうしても、心にくる。
「おーい、ボーッとしてどうしたー?」
隣を歩いていた前嶋が俺の目の前でわざとらしく手を振っている。虫を追い払うようにしっしっとやりながら、俺はやっと我に返った。昨夜の事件が嘘だったかのように普通に学校の一日が終わり、放課後。最寄りのバス停に向かって、俺たちと同じ帰宅部の学生がぞろぞろとまばらに歩いている。
「ああ……別に、ちょっと考え事っていうか」
「お前はいっつもそれだよなあ」
実結がいなくなってすぐの時よりはいくらか落ち着いたものの、まだ学校の空気は重い。家業の割に重苦しいのが苦手な前嶋は、それにほとほと嫌気がさしているようだった。
「どいつもこいつも、塞ぎ込むのはほどほどにしとけよな。今ちょっとあの、あれだ、色々あったからどこも変な雰囲気だけど。そのうち絶対なんとか、なるようになるって」
「そうだな、だといいんだけど」
曖昧に笑う。なんにも事情を知らないこいつが、今まで通り普通に接してくれるのは、自分で想像していた以上にありがたいことだった。……もし俺のラクルイの姿を知ったら、前嶋はどんな反応をするんだろう。怯えて引きつった岸内の顔が浮かんで、無理やり頭の中から掻き消した。
……足が止まる。
これは俺の心理的な問題じゃなくて、俺と前嶋は物理的に道を塞がれていた。
中学生……いや、小学生かな? すらっと細身の男の子と、彼の後ろに隠れている気弱そうな小柄の女の子だ。付属校の制服を着ていない子が、この辺りをうろうろしているのは珍しい。
睨みつけるように俺たちを見上げていた男の子が、少しだけ優しい態度になって後ろの女の子に尋ねる。
「こいつらでいいんだよね、エルフィ? どっちがそう?」
「え、え、えっと……ヘアピンの……」
だったら俺のことだが、こっちには全然心当たりがない。エルフィ、っていうのが女の子の名前なんだろうか。どう見ても二人とも日本人だけどな。
「知り合いか?」
「いや、知らない子……。えっと、俺になにか用かな?」
「……こいつが。あんたと話したいんだって」
恥ずかしいのか後ろに引っ込んでしまった「エルフィちゃん」の代わりに、男の子がぶっきらぼうに答えた。彼の態度がこんなじゃなければ、なんだかちょっと出会った時の高嶺さんと実結に似ている。
「おいおいおい日下部、お前モテ期来ちゃってんな〜? こんなちっちゃい子にまさか手ぇ出すなよ〜?」
「うるさい」
こないだので懲りてないのか、前嶋のやつ。お前のジョークのレパートリーはそれしかないのかよ。
いじられた本人より先に、男の子が身構えた。
「っへ、変なことしたら殺す……!」
本気の目だ。手負いの野良猫みたいというか、やけに警戒心の強い子らしい。
「ごめんって、冗談だよ冗談……。大丈夫、このお兄さん凄くイイやつだから。じゃ俺、先に帰るわ。ごゆっくり!」
前嶋がそそくさと逃げてしまったので、俺は改めて二人と向き合うことになる。俺に用があるのは女の子のようだし、怖がられてはいるが、彼女に要件を聞き出さなきゃ始まりそうにない。
驚かせないようにしゃがんで、小さめの声で尋ねてみた。
「えっと……改めて、話って? 君とは俺、いままで話したりしたことない……よね?」
「あ、あ、あるわ!」
思いのほか強めに否定される。近くで顔を見ても声を聞いても、そんな記憶はない、はずだけど。彼女は男の子の背中に顔を押しつけるようにしながら、ぼそぼそ補足した。
「き、昨日の夜……病院の、ち、駐車場で」
「病院……玉響総合病院?」
女の子は何度も頷く。——昨日の夜? 玉響総合病院?
自分でもさっと顔色が変わるのがわかった。昨日その場所で俺が会った人物は片手で数えられる数しかいない。岸内、火ノ迫、雪町さん、それから……それから。
「やっと状況がわかってきたみたいだね」
「……君たちは」
ああ、今頬を伝った季節外れの汗はちゃんと透明だろうか? 男の子はかがんだままの俺にだけ聞こえる声で、鋭く言い放った。
「そう、ボク達は『エピファネイア』。あんたというラクルイを偵察に来た」




